安永6年(1777)の平蔵宣以(4)
「書院で、閑談でも過ごしていかれよ」
火盗改メ・本役の土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)が誘(いざな)った。
「ご好意に甘えさせていただきます」
守直は、煙草盆を引きよせ、煙管に火をうつした。
煙草盆の灰おとしに炭火がしこまれているらしい。
「召されるのであれば、煙管をお貸し申すが---」
「不調法でございまして---」
平蔵(へいぞう 32歳)は、亡父・宣雄(のぶお 享年55)が喫煙をゆるさなかったことは打ちあけなかった。
柳営では火事を忌避して禁煙になっており、勤務中に隠れて吸うのは見ぐるしいから---というのが理由であった。
そのことを、いま、煙管をくわえている守直に打ちあけるのは礼を失することになる。
「組頭さまにお教えいただきたいことがございます。お声は、いかにしてお整えになりましたか?」
「信玄公の麾下(きか)にあって使番を勤めていた祖から伝来の声の使い方、鍛え方があり、声変わりする前の幼少のおりから、朝夕、声を発して鍛えさせられる。寒気のきびしい冬は、喉が乾きすぎててひりひりしたものでな」
「お教え、ありがとうございました」
「煙草は、声には毒薬じゃがな。どうにもな---。そのことより---」
帯刀守直は、去年、日光山ご参詣の目付の任に就いていたとき、宇都宮の宿で老中・田沼主殿頭意次(おきつく 59歳)侯から聞いたことだが、その前年に、日光道中ぞいの麦畑の畝(うね)づくりを、往還路に対して直横ならびにしつらえるように進言なさったのが平蔵と知り、ほとほと、感じ入っていた告げた。
【参照】2010年6月12日[麦畑の畝(うね)]
2010年6月24日~[遥かなり、貴志の村] (6) (7)
この話には、同席していた高遠(たかとう)筆頭与力(58歳)のほうが驚き、あらためて、平蔵を見なにおした。
(これで、これからの探索しごとが、少しはやりやすくなるかな)
平蔵は、お返しに、土屋守直の裸馬のことをもちだした。
「右近将監さまが、櫓(やぐら)にお昇りになる癖がおりになることを、いかにして、お見ぬきになったのですか? おさしつかえなければ、後学のためにお洩らしいただけませぬか?」
大きく笑った守直は、
「さしたることではない。館林侯が隣家におわたりになることはしっておったから、僕(しもべ)に小金をにぎらせ、お癖と日時を洩らさせただけのこと」
得意の面相が、しばらくつづいた。
「ところで、私ごととしてお訊き申すのだが、本日、わが手札を下賜した香具師(やし)の元締たちのうちで、われの味方になってくれるのは---?」
「はっ---」
(ついに、土屋守直どの本音(ほんね)が出たな)
しばらく考えるふりを装いながら、どういえば効果的かを、平蔵は、考えた。
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コメント
武田信玄のお使番といえば、戦場での伝令ですね。
ケイタイやe-mailのなかった時代です、合図や命令伝達は、ほら貝、太鼓、旗、そして騎馬伝令などでしたでしょう。
戦乱のなかでの命令伝達は、よく透る声でないと困るでしょう。
その訓練法を質問した平蔵は、さすがに心得ていますね。
投稿: hasshuu | 2010.08.09 06:05
平蔵の街道への麦畑の畝の直角づくりの案、田沼意次はよほどに嬉しかったらしいことがうかがえます。
それも、銕三郎時代から目をかけていた青年のアイデアということで、自分の眼識もきいていた証明だから、嬉しさも数倍でしょう。
アイデアは、それを認めて採用してくれる上の者がいてこそ、生きてくるものでもありますから。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.08.09 06:17
>hassuu さん
ようこそ。
30年も前ですが、某デパートの集まりで、長門裕之さんと対談したことがあったんです。
そのとき、美術大学の講師をしていまして、教壇でよく透る声を願望していたので、俳優さんとしての発声法を訊いてみたんです。そしたら子役時代から練習させられたと答えられたので、お使番の家もきっとそうだろうと推察しました。
教壇では、顎を下げ気味に話せば低音で透声になることは実行していましたが。
それと、陸軍幼年学校で毎晩、号令調整というのをやらされました。隊長として、部下全員に聞こえるようにとの訓練でした。
このこともヒントになりました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.08.09 07:02
>文くばり丈太 さん
おっしゃるとおりです。
上役は、下にアイデアの豊かな部下がいれば、うるさがらないで、その案を検討してみる寛容な態度が必要でしょう。
たいていのアイデアは、上役によって葬りさられる運命にありますから。
武田信玄は、自分から先には軍略案を示さなかったそうですね。将たちにいわせ、熟してから、さも、将たちが出した案のようにもちあげて決めたと。
投稿: ちゅうすけ | 2010.08.09 07:20