安永6年(1777)の平蔵宣以(2)
「じつは、当方から時刻を指定させていただきながら、突然の来客がありまして。そろそろ終わるころとおもいます、申しわけにありませぬが、しばらくのご容赦を---」
筆頭与力・高遠(たかとう)弥太夫(やちたゆう 58歳)が、さほど申しわけなさそうな表情もしないで謝り、部屋を出ていった。
火盗改メ・本役のお頭の土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の役宅(屋敷)の控えの間である。
【参照】2010年8月4日~[先手・弓の2番手組頭の謎] (1) (2)
同心見習いらしい若者が茶と煙草盆をさしいれてきた。
「煙草は不調法で---」
平蔵(へいぞう 32歳)が断ると、不思議なものを見るような目つきをし、煙草盆は引きさげた。
帯刀守直があらわれるあいだ、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 59歳 150俵)がとどけてけてきた土屋家についてのあれこれを反芻した。
【参照】2008年9月29日~[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)] (1) (2)
2009年1月6日[明和6年(1769)の銕三郎] (6)
2010年8月4日[安永6年(1777)の平蔵宣以] (1)
帯刀守直は、使番から43歳の若さで先手・弓組の組頭へ抜擢された。
先手の組頭は、すごろくでいうと、番方(ばんかた)の[あがり]か、そのひと目前といわれている。
もちろん、土屋守直や奈良奉行へ転じた菅沼藤十郎定亨(さだゆき 45歳=発令時 2025石)のように40歳代で任じられると、前途は洋々といえた。
【ちゅうすけ注】亡父・宣雄は48歳で拝命し、54歳で京都西町奉行へ栄転した。
平蔵宣以(のぶため)が抜擢されたのは、これから9年後の、41歳での辞令で、とりわけて早かった。
【参照】2008,年11月10日~[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (8)
守直は、21歳で書院番士であった亡父の遺跡を継いだ。
翌年、西丸の書院番入りしたが、10年近く塩漬けののち、使番にとりたてられ、ここでも11年間、次の席を待った。
この風聞は、書院番士のときのことか使番であった時期のことかは、定かでないのだが---、
土屋家の近隣に、老中首座・松平右近将監武元(たけちか)のむすめが嫁いでいた大名の藩邸があった---という。
松平豊後守忠泰(ただやす 享年27歳 桑名藩つながり)か、松平和泉守乗完(のりさだ 西尾藩主)か、安藤対馬守信成(のぶなり 磐城平藩主)なのか。
ただ、飯田町あたりには上記の藩の上屋敷や中屋敷は見あたらない。
他の姫の嫁ぎ先かもしれないが、まあ、とにかく、藩邸に火見櫓があり、むすめに会いに行くたびに、武元侯は櫓にのぼって市中を見おろした。
眼下には、土屋家の庭馬場があった。
と、下帯一つの武士(?)が馬を乗りこなしているのが目にはいった。
素裸なので、武士がどうかは見分けられなかったろう。
その馬術のみごとさに、氏素性をたしかめると、屋敷の主・帯刀守直であり、祖は、武田信玄の使番12人中の1人であったことがわかり、それが出世の糸口になったと伝わる。
老中・武元の習癖をのみこんでの守直の異態てあったことはいうまでもない。
武田軍の使番なら、戦場を馬で疾駆するのは当然であろう。
土屋家が徳川方に誓詞をさしだしたときの武田時代の職は、近習とあった。
名門といえる。
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コメント
おう、今朝は土屋帯力のエピソード。
こういうエピソードが入るから、真実味がますのです。
ところで、このエピソードの出所はヒミツでっしょうな?
投稿: 左衛門佐 | 2010.08.07 04:52
>左衛門佐 さん
土屋帯力守直の挿話も、確かに史料から拾ったものです。
このブログは、長谷川平蔵宣以とその周辺の史料をたくさん使っています。
とくに、実名で登場させている幕臣の場合には、子孫の方々もいらっしゃいましょう。あまり突飛なことは書けません。
そのあたりが苦しいユエンでもあります。
投稿: ちゅうすけ | 2010.08.07 07:04
>tsuko さん
平蔵の気くばりは、父親ゆずりとおもいます。
[平蔵宣雄の『論語』学習](1)(2)
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_1fbd.html
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2007/05/post_1b78.html
にもリポートしましたが、無祢(むね)は武家の^---それもかなり備中・松山藩でかなり上級だった藩士---のち浪人---の娘でしたから、平蔵宣雄をかなり躾けたようです。
その影響は、銕三郎にもおよんだとみています。
投稿: ちゅうすけ | 2010.08.08 12:35