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2008.11.11

宣雄の同僚・先手組頭(2)

「おことは、たしか、西丸・書院番は、岡部伊賀守どのの組であったの」
3年前、明和2年(1765)4月某日、長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳=当時)が先手弓の8番手の組頭に昇格したとき、小石川七軒町(現・文京区千石1丁目)の屋敷へ、弓組の1番手組頭・松平源五郎乗道(のりみち 71歳=当時 300俵)へ挨拶の品を持参したときの言葉であった。

参照】2007年5月10日[岡部伊賀守長皓(http://onihei.cocolog 
nifty.com/edo/2007/05/post_5f1d.html)

なにしろ相手は、ふたまわりも年長の大先輩であったし、少禄とはいえ、大給(おぎゅう)松平の流れを組む滝脇(たきわき)松平の一族である。

参考】大給松平 http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira_015.htm
滝脇松平 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC

しかも、いつも口を一文字にむすび、眉間に深いしわをつくっていた仁であった。

いっぽうの宣雄は、亡従兄・宣尹(のぶただ 享年35])を後継しての初出仕であったから、その西丸・書院番時代は、すれちがえは目礼するだけのあいだからでしかなかった。

参照】2007421~[寛政重修諸家譜] (17) (18)
2007年5月2日[『柳営補任(ぶにん)』の誤植

20年ぶりに合間見えてての第一声が、唐突な、
「おことは、たしか、西丸・書院番は、岡部伊賀守どのの組であったの」
であったのには、宣雄は、
「はい」
と応えたきり、しばらく二の句がつげなかった。

源五郎乗道は、いってみれば、徳川家の目付のような人であったと思いいたったからである。
先手の組頭としても、源五郎は、そのときが13年めであった。
宣雄は、徳川官僚組織のこわさを、そのときにも、つくづく、おもいしった。
松平を名乗る少禄の幕臣の中には、源五郎乗道のような役目を仰せつかっている者が少なくないとみる。

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(先手・弓の1番手組頭 松平源五郎乗道[個人譜])

[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

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