ちゅうすけのひとり言(65)
将軍・家治(いえはる 45歳)の世嗣となる養子選びの重任をまかされたのは、次の3人であったことはすでに記した。
天明元年(1781)4月15日の『徳川実紀』---。
・老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳 相良藩主 3万7000石)
・若年寄・酒井石見守忠休(ただよし 78歳 出羽・松山藩主 2万5000石)
・留守居・依田豊前守政次(まさつぐ 80歳 1100石)
辻達也さんは『一橋徳川家文書』に、同家の家老職の一人であった田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)の手になる、4月1日付の以下の秘密手記が含まれていると明かしている。
(表紙)、
安永十年(1781)四月朔日より
(同年四月十三日 年号 天明ト改元)
できるだけ、現代文に直して書き写す。
一、 今日、月次のお礼があり、(一橋当主・治済 はるさだ 31歳)のご登城もあったので、自分も本丸へ出仕したところ、(側衆・稲葉)越中守(正明 まさあきら 59歳 7000石)が内々のことと前置きし、この夏(4~6月)の内に豊千代さまをご養君にとの仰せがあろうから、心得ておくようにと。
で、このことは、民部卿(治済)さまへ申しあげてよろしいか、また病気休養中の同役(一橋家家老)の(水谷 みずのや)但馬守(勝富 かつみち 55歳 1700石)へ打ち明けてもよろしいかと伺がったところ、民部卿どのはすでにご承知であるが、御三家ほかの内諾をお手配なさっていよう。
(先任の)但馬守へは通じておきますが、そのほか伺いなどのことは熟慮の上で手くぱりしますと、とりあえず申しあげておいた。
一、稲葉越中守がお訊きなったのは、連れ人の件で、本丸側の評議では、お召し連れになることはないとのことであったが、ご幼年のことでもあり、一人も側の者をお連れにならないというのでは心細くおおもいになろうかと、いうと、女中向きはお召し連れになってもかまわないが、表向きの士はご無用とお考えおかれたいといわれた。
さらに、この件の中心人物は、(そなたの伯父・老中の)主殿頭(意次 おきつぐ 64歳 相良藩主)であるから、今日にでも伺った上で、諸事のお指図をお受けになるようにとのことであった。
(中略)
一、今日、民部卿さまへお会いしたとき、お気になさっていたのは、もし、豊千代さまのご生母---岩本内膳正(正利 まさとし 58歳 300俵)の息女であるお秀(ひで)の方が、民部卿さまのご実母・善修院(細田氏)よりも格が上になってしまっては体面もよくないから、お秀の方も江戸城へ移ってしまうのがよいと仰せになられた。(後略)
この文書の4月1日というのがどうも信じがたい。
というのは、田沼意次たちに、世嗣選定の任が発令されたのは、『実紀』は4月18日と記していたからである。
4月1日説をとると、すでに内定していたものに、衆議の形をとるためのものであったことなる。
いや、それはいいとして、治済が、お秀の方の格が、実母・細田氏よりも上になるという、下世話に近いことのほうを憂慮しているところがおもしろい。
【参照】2010年3月15日~[一橋家] (1) (2) (3) (4)
2007年11月27日~[一橋治済] (1) (2) (3)
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コメント
田沼意次と誠致、そして一橋治済との複雑な関係がようやく、のみこめるようになりました。
投稿: tomo | 2011.02.13 15:05