一橋家(3)
吉宗は、後継将軍の予備候補筋として田安家と一橋家をたてるとき、役職者は幕府から出向させることとした。
綱吉と家宣が、将軍職についたときに、大量の家臣を幕臣にした例を忌避したかったのであろう。
とはいえ、自分に随行してきて家人(けにん)となった紀州藩士は、多くを小納戸や小姓などの側近にふりむけてはいる。
享保20年(1735)9月1日、一橋家の始祖・宣尹(のぶただ 幼名・小太郎)の伝役(もりやく)につけた2人のうち、小納戸から引きあげた山本越中守茂明(しげあきら 56歳 300石)も、出身は紀州藩・小十人頭(300石)であった。
家人となっても、家禄は300石のままで、吉宗の小納戸役を19年間務めた。
伝役となり、やっと1000石に加増された。
我慢強い性格であったのであろう。
伝役が家老と職名を変えたのは、宣尹が10万石の領地を下賜された延享3年(1746)で、このときから、役料が幕府から1000俵、一橋家から1000俵の計2000俵が供されることになった。
ただし、山本茂明は家老の役料がきまる5年前の寛保元年(1741)に62歳で、もう一人の伝役・先手頭からの建部(たけべ)甚右衛門広次(ひろつぐ 63歳 800石)は7年前の元文4年(1739)に卒しているから、この役職は受けていない。
が、一橋家の伝役は3000石高であったから、両者とも家禄は1000石にあがってい、足高(たしだか)2000石をうけていたろうから、実収入はさして差はなかった。
さて、山本家だが、『寛政譜』にあるとおり、三河国のどこかで、室(むろ)を称していたらしいが、分家かなにかのとき、山本に改めた。
身上がはっきりしているのは、頑固、武勇の将・本田百助信俊(のぶとし)に属していた弥三郎茂成(しげなり)からである。
のち、茂成は家康の長男・岡崎三郎信康に配され、信康が切腹させられるはめになると、家康の麾下に復することを潔しとしなかったというから、茂成も三河武士らしい一徹者であったといえる。
茂成の次男と孫が紀伊家に任え、その4代目が茂明である。
伝役という役目がら、家政と外交のほとんどが課されていた上、茂明のもうひとつの仕事は、吉宗の人柄を伝えることであったろう。
たとえば、紀伊家の三男として吉宗は将軍・綱吉から、越前の丹生(にう)に3万石の封地が与えられたが、実収は5000石がやっとの土地であった。
津波による被災者がでたとき、急遽、仮屋を設け、衣服・食糧を与え、
「天災によって弱者となったものは乞食ではないのだ。ねんごろに救いの手をつくせ」
上の者は倹約に意をつくし、しもじもをいつくしむという例で、治世者のこころえを話したのである。
こんなことも話した。
近習の少年が宿直(とのい)の夜、外出して夜明けに戻った。
監督者が懲罰に付すべきだと憤怒していたのを知った吉宗は、左右の衆を遠ざけてからその監督者を呼び、
「その小姓は、日ごろ、武芸に励んでいるそうだな? 弓などは名人級とか聞いたが---」
「はい。身をいれて修練しております」
「では、こんどのことは許してやれ。世に全徳の者というのはなかなかいないものだ。一失あれば一得もあるのが人というものである。一善があれば一過はゆるすべきであろう。その少年のやったことは聞かなかったことにし、以後、宿直をしないようにいましめるだけですましてやれ」
同じ年ごろだったときの祖父・吉宗の人柄を伝えるかずかずの逸話を、宣尹がどう受け止めたかがわかる記録は目にしていない。
徒労であったかもしれない。
(山本越中守茂明の個人譜)
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