〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(3)
「それでは高井さま。明日、七ッ(午後4時)に、壬生城下・通町の本陣〔蓬莱屋〕でお会いしましょう」
「つつがないご道中を---」
日光街道を下石橋の辻で左にとって壬生城下へじかに行くのは、火盗改メ・土屋組の同心・高井半蔵(はんぞう 38歳)と供の小者であった。
平蔵(へいぞう 32歳)と数年来の供・松造(まつぞう 26歳)は、そのまま日光街道を宇都宮城下へ向かう。
下石橋から宇都宮は3里(12km)ちょっとの距離。
3日前に江戸を発(た)ち、粕壁(かすかべ)宿、小山(おやま)宿へ泊まり、今朝五ッ(午前8時)に本陣を出た。
下石橋の辻までほぼ4里(16km)。
高井半蔵とは、本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 69歳 1450石余)が、先手・弓の7番手の組頭をしていたころからの顔なじみであった。
【参照】2008年3月5日[明和2年(1765)の銕三郎] (2)
平蔵が、西丸・若年寄の鳥居伊賀守忠意(ただおき 61歳 下野国壬生藩主 3万石)の依頼で壬生へ探索へ行くことになったとき、高井同心が古くからのなじみということで、同伴を申し出たのである。
宇都宮城下では、池上町の本陣・脇本陣を横目にみながら左折、材木町のふつうの旅籠〔喜佐見(きざみ)屋〕次郎兵衛方を選んだのは、平蔵の生来の勘ばたらきといえよう。
荷物をおき、松造を曲師(まげし)町の元締・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 40歳)のところへ訪門(おとない)の許諾をとりにやっているまに、宿主の次郎兵衛に訊いた。
「この町内の観専寺裏に住んでおる十手持ちの瀬兵衛(せべえ 30すぎ)という者のところへ、この結び文をとどけてもらいたい」
【参照】2010年2月24日[日光への旅] (3)
2010年3月24日[竹節(ちくせつ)人参] (5)
瀬兵衛は町内でも顔とみえ、とたんに亭主の態度が変わった。
「本陣へお泊りになるはずのところ、わざわざ当宿をお選びいただいたのは、そういうわけでございましたか?」
「これ、ご亭主。そういうわけとは、どういうわけかな?」
「おとぼけくださいましても、手前の目には、江戸の火盗改メのお役人さまがお忍びで、曲師町の虚無僧寺・松岩寺へ押し入った賊のおしらべでございましょう?」
「洩らしてもらっては迷惑がこの旅籠におよぶやもしれないから、われらのことは、厳に伏せておいてもらいたい」
「かしこまりましてございます」
「ところで、ここの屋号の由来は---?」
「手前が、塩谷郡(しおやこおり)の喜佐見村の生まれでごさいまして---」
「喜佐見村というのは---?」
「宇都宮のご城下から北へ6里(24km)ほどの山間(やまあい)の郷(さと)でして---」
「おもしろそうだな。今夜でも、酒を相手をしてもらいながら、聞かせてもらいたい」
亭主の次郎兵衛が張りきってさがっていったのと入りちがいに、松造が、
「〔釜川〕の元締さんは、〔音羽(おとわ)の元締さんからの飛脚便で、今日か明日かとお待ちになっておいでだったそうで、殿さまさえお疲れでなければ、すぐにもお越しを、とのことでございました」
宿の〔喜佐見〕の門口には、〔釜川〕の小頭のひとり・〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)が控えていた。
〔音羽〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)の顔は、高崎ばかりでなく、関東の北の端の宇都宮まできいていた。
【参照】2010年8月29日[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] (3)
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コメント
香具師の情報ルートを利用しながら、盗賊の情報ルートを試していく平蔵の情報収集力と操作力は、小説の鬼平よりも現代的といえますな。
投稿: 左衛門佐 | 2010.09.27 05:30
ぼくは、長谷川平蔵のことを、江戸時代の武士としては、情報収集、伝播、操作の名人と捉えています。
そのためにの手段、ルートなどをどうしていたかを、事件ごとに考えています。
それを認めていただき、うれしいです。
こんご、家康の情報収集、情報操作の手段が研究できればともおもっていますが、余命かたりません。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.27 07:07