〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(4)
「〔釜川(かまがわ〕の元締の下で、小頭を勤めさせていただいとりやす、〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)でやす。ごあんないさせていただき、うれしゅうござえやす」
常八がきちんとあいさつしているのに、旅籠〔喜佐見(きざみ)屋〕の亭主がたまらず割りこんだ。
「兄さん、もしかして、塩谷(しおや)の越畑村の---?」
「へえ。さいで---こちらさんは塩谷の喜佐見村にご縁のある家、と前から承知しておりやした」
平蔵が笑い、
「故郷ばなしは、今夜、呑みながらゆっくりやることにし、とりあえず、元締さんへのごあいさつを急ごう」
「さいでした。ごあんないいたしやす」
曲師(まげし)町の横手の材木屋が、城下の盛り場の元締・〔釜川〕の藤兵衛(とうべえ 40歳)の表の顔であった。
藤兵衛は、長身に引きしまった筋肉をつけた精悍さを、温和な笑顔で隠しいた。
平蔵が包みをさしだいすと、
「いただけませんや。兄貴分の〔音羽(おとわ)の元締の顔をつぶしやす。お直しくだせえ」
2度3度、包みの押したり戻したりの末、平蔵は脇へずらし、
「お言葉に甘え、お頼みごとを述べさせていただきます」
西丸の若年寄・鳥居伊賀守忠意(ただおき 61歳 下野国壬生藩主 3万石)の城下の壬生寺(にんしょうじ)の身代り地蔵の木像が、何者かに盗まれた。
寺は、150年ほどむかし、日光西街道でもあり、慈覚大師のご生誕の地ということで、日光山輪王寺の門跡(もんぜき)・天真親王の声がかりで、幕府がそのころの藩主・三浦氏に下命、飯塚から太子堂を移して祀ったという経緯があった。
その本尊が盗まれたとあっては、現藩主・鳥居伊賀侯は幕府に対して顔向けができない。
「そういうわけで、拙に依頼がきました」
「長谷川さまは、目黒・行人坂の大火事の放火犯を、みごと、逮捕なさったとか---」
「いえ、それは亡父・備中守宣雄(のぶお)です」
「なんでも、〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 47歳)元締が助(すけ)っ人をなすったと、関東一円の元締衆がうらやましがっておりやす」
(この世界の噂の伝播は、広がりも早い)
【参照】2009年7月2日~[目黒・行人坂の大火と長谷川組] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
「〔愛宕下〕の元締には、ほんとうによくやっていただきました」
「こんど、壬生寺のことは、手前に助っ人を---。なんなりと申しつけてやってくだせえ」
小頭の〔越畑〕の常八のほかに、壬生の生まれの〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)をつけるから、こきつかってくれといったあと、
「この仕事がめでたく終着しましたら、お荷物ですが、〔越畑〕の常平を江戸へお連れいただき、宇都宮ても[化粧(けわい)読みうり]が出せるように仕込んでいただきたい」
常八ともども、頭をさげた。
(なるほど。〔釜川〕の元締は、高崎の〔九蔵屋〕の九蔵(くぞう 30がらみ)元締とは、だいぶに器量がちがう)
「元締。下野(しもつけ)、常陸(ひたち)の主だった元締衆に、身代り地蔵像の売りものがでたら、買いとっておいてほしいと、回状をおまわしていただけますか?」
「売り人のことは---?」
「拙は、捕り方ではありませぬ。地蔵像が大師堂へ戻れば、幕府への鳥居伊賀侯の面目はたちましょう」
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コメント
音羽の元締の紹介状ですべてがうまく行くのは、損得をはなれた義理の世界のようにおもいますが、やはり、貸し借りがあるんですね。当然ですね。
ただ、貸し借りがお金でなく、別の意味での利得なんですね。
投稿: tomo | 2010.09.28 06:38
>Ttomo さん
きのうの左衛門佐 さんのコメントへのレスにも書きましたが、史実の長谷川平蔵を調べていけばいくほど、情報というものについての心構えが尋常ではなかった人におもえてきます。
香具師の元締たちとの交流も、そういう情報ルートの活用だったとみています。その返礼としての〔化粧(けわわい)読みうり〕を考案しました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.28 12:28