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2010.10.08

鳥居丹波守忠意(ただおき)(2)

11月(陰暦)の初旬の八ッ(午後3時)、平蔵(へいぞう 32歳)は、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)と〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)を伴い、江戸城の西丸下、少老(しょうろう 若年寄)・鳥居伊賀守忠意(ただおき 61歳)の役宅の門をくぐった。

宇都宮の香具師(やし)の元締・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 40歳)に声をかけたが、江戸で〔化粧(けわい)読みうり〕の手管(てくだ)を習っている常八を代人にしてほしいとの飛脚便にしたがった。

平蔵が出仕している西丸・書院番4の組からは、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)が、番頭(ばんがしら)・水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 55歳 3500石)の代理として、すでに参じているはずであった。

接見の間へ案内されてみると、火盗改メからは、組頭(くみがしら)・土屋帯刀守直(ものなお 44歳 1000石)は所用ということで、次席与力の高遠(たかとう)弥大夫(やたゆう 58歳 180石)がきて、牟礼与頭の下座にいた。

平蔵はその隣りに坐り、〔音羽〕の元締と〔越畑〕の常八は、とりあえず縁側に座した。

あらわれた鳥居伊賀守は、縁側の2人に気軽に、
「今日は、おぬしたちが主客である。もっと、前へすすまれよ」

紹介が終わると、
「〔越畑(こえはた)〕の常八と申したかな。わざわざ宇都宮からの出府、大儀であった」
「ありがたいお言葉を賜りやしたが、じつぁ、ひと月ほど前から、お江戸で学んでおりやす」

「ほう? なにを学んでおるかの?」
視線を受けとめた平蔵が、
「〔化粧読みうり〕と申す、いささか、下賤(げせん)のものを---」

音羽〕の重右衛門が、脇の包みから取りだし、用人に1枚、<牟礼与頭と高遠与力にもそれぞれ配った。

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(佐山半七丸『都風俗化粧伝』東洋文庫より)

伊賀守はふところから鼻眼鏡を取りだし、〔読みうり〕をうんと遠ざけ、
「なになに---円き顔を、長く見する化粧(つくりがお)の図。
髻(わげ)を小さめに結うほうがさまになります。
鬢(びん)の生えさがりはみじかめに---」
驚いたな。これでは、おなごどもの化粧(けわい)が一様(いちよう)になってしまうではないか。〔音羽〕うじの案かの?」

重右衛門平蔵を覗(うかが)ってから、
長谷川さまの発起(ほっき)でございます」

「於佐都(さと)と於千加(ちか)を呼べ」
用人に命じたあと、平蔵へ、
「お披露目枠代あっての〔化粧読みうり〕と見たが---」

「御意。ではありますが、元は別の狙いから考案したしました」
「別の狙い---?」

亡父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が手がける京の禁裏役人の不正の手がかりの助(たすけ)に、将を射んとおもわば、まず、馬を射よの兵法.どおりに、御所役人の女房やむすめを釣るためにと考えました」
「釣れたかの?」
「みごとにしくじりました」
「功を山村信濃守 良旺 たかあきら 49歳=安永6年 500石)にさらわれた---」
「御意」
山村信濃守は、長谷川備中守が病死した後任の京都西町奉行である。


参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] (1) (2) (3) (4
2009年8月24日~[化粧指南師のお勝] () () () () (5) () () () (

2009年9月8日~[ちゅうすけのひとり言] (37) (38) (39
2009年9月23日[『幕末の宮廷』因幡薬師
2009年2月4日[『翁草』 鳶魚翁のネタ本?]

平蔵がひととおりの説明を終えたところへ、2人の侍女が廊下にかしこまった。
佐都は30代、於千加は20歳ごろと見た。
どちらもはっきりした丸顔であった。
「これを読んでみよ」
伊賀守から用人へわたった〔化粧読みうり〕に目を走らせた於佐都の顔に、みるみる血がのぼった。
千加は息をはずませ、肩が大きく上下しはじめた。

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