藤次郎の難事(3)
「藤次郎(とうじろう)、いたな」
宿直明け日の服務を終えた七ッ(午後4時)過ぎの下城の途次、新大橋西詰の菅沼(7000石)邸である。
じつは、2年前に元服し、由緒ある新八郎(しんぱちろう)の名を相続、烏帽子名は定前(さだとき)を称していたが、2人きりのときの平蔵(へいぞう 33歳)は、親しみをこめ、ことさらに幼名で呼びかけていた。
【参考】宮城谷昌光『風は山河より』(新潮文庫)
新八郎(16歳)は、大柄の躰を平蔵の前にかしこまった。
去年の春先から声変わりがはじまり、みるみる背丈が伸びた。
どうかすると、平蔵とどっこいどっこいであった。
鬚もうっすらと目につくようになっていたが、母親似のととのった面立ちには、童顔の面影がいくらかのこっている。
道場で竹尾先生が心配しておられるようだと告げると、
「いま、困っていて、剣のほうにも身が入らないのです」
正直に告白した。
「困る---?」
しばらく伏し目でいたが、少年時代の素直さがよみがえったか、
「放してくれないのです」
「しかし、藤次郎は16歳、18も齢が離れていては、傍目(はため)には、親子であろう」
大きくひらいた目で瞶(みつ)め、
「先生は、だれかとお間違えになっておられます」
こんどは、平蔵のほうがきょとんとなった。
「佐和(さわ 34歳)ではないのか?」
「伯父貴のお下がりは抱きません」
(「伯父貴のお下がり」というが、父御(ご)のお下がりに初穂をつまれたくせに---)
気分を立て直し、
「相手は---?」
しばらく唇を咬み、返答を拒んだ。
「放してくれない---というが、金か?」
「ちがいます」
「相手がわからなければ、助けてやることができない」
新八郎には、初見(しょけん)がせまっている。
7000石の大身は、幕臣の中でもほんの数家しかない。
とうぜん、目が集まる。
身辺は清くしておかねばならない。
「家臣や知行地の領民のことも考えてみよ。実の兄とおもい、打ちあけよ」
それでも、しばらく沈黙していたが、
「母者こそ、家臣や領民のことに思いを及ぼさなければなりません」
平蔵は、つまった。
新八郎の母・於津弥の誘いをはぐらかすため、悦楽の別の道を教えたからであった。
「ご内室さま---?」
若松町の竹尾道場からの帰り、柳原堤で遣いにでていた小間使いのお菊(きく 20歳)に出会った。
道場で、半年後輩に3本のうちの1本をとられてむしゃくしゃしていたため、お菊を柳森稲荷の茶店で、問責した。
「菅沼家のためにならぬと、責めました」
「お菊を---」
「そうしたら、お菊は、母者が放してくださらないと泣きました」
泣きやまないし、はた目にもつくので、泣きやむのを待とうと、稲荷の隣の出合宿に部屋をとった。
膝へ伏せてきた。
新八郎の下腹もたちまち応じ、抱いてしまった。
涙で化粧が落ちたので、暗くなるまで表を歩けないといわれれ、つい、長居になった。
(16歳という若さでは、たちまち、回復したろう)
新八郎はいわなかったが、於津弥の受け役をやっていたお菊が、初めて生(な)まの男を許したときのことは、立役(たちやく)のお竜(おりょう 享年33歳)を失ったお勝(かつ 31歳)と初めて合わせたときの言葉で推測がつく。
【参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] (1) (2) (3)
いや、平蔵が思い出をたぐったのは、29歳のお竜との最初のことであったろう。
銕三郎(てつさぶろう)は、23歳であった。
【参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] (7) (8) (9)
その夜、藤次郎の寝所へ、寝衣のまま忍んできたのも、20歳のむすめとすれば、とうぜんのたしかめであった。
「ご内室さまと違い、藤次郎とでは、ややができる」
「寝所や出合茶屋で重ねているうちに、そのとおりになりました」
「いま、どれほどだ?」
「2ヶ月---とか」
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