平蔵の土竜(もぐら)叩き(9)
「しまった」
おもわずっぶやいてしまった。
ことが果て、あおむけに余韻を反芻しながらお互いの芝生をもてあそんでいたときであったから、里貴(りき 37歳の指が止まった。
「どうか、しましたか?」
横向きになおって訊かれた。
「いや。そのことではなく、吉田(藤七 とうしち 40歳)同心がかかえている土竜(もぐら)のことだ」
平蔵(へいぞう 36歳)のいいわけに、
「こんなときにまで、捕り物のことをかんがえていらっしゃったんですか? おかしな銕(てつ)さま」
「そのときには里貴のことしか、かんがえてはいない。だが゜、終ると、男には仕事がつきまとう」
「おんなは果ててからでも、また、高潮がくるんです。あっ、きた」
上にのり、だきしめ、顔を平蔵の横につけたまま、躰が痙攣しはじめた。
平蔵も腕を脊と尻にあて、おさまるのを待った。
躰を清め、裸のままの里貴に見送られ、小名木(おなぎ)川の南土手へ、寺々と大名家の下屋敷のあいだの暗い道をとりながら、
(われながら、不覚であった)
これは、土竜叩きへのつぶやきではなく、閏事のすぐあとに、あのようなつぶやきをつい洩らしてしまい、里貴の興をそいだことへの痛恨であった。
こんご、そのことを行なっているとき、里貴がおもいだして高まりを減じはしまいか、と案じた。
最高頂に達してくれてこそ、男としての甲斐があるというもの。
そのこととは別に、〔三ッ目屋〕甚兵衛を訊問したあと、すぐに小伝馬町の牢獄へ帰しておくように指示しておくべきではあった。
【参照】2011年1月1日~[〔三ッ目屋〕甚兵衛] (2) (3)
あのままにしておいた甚兵衛に、牢番の悦三(えつぞう 35歳)が訊問の仔細をたしかめたかもしれないではないか。
{初鹿野(はじかの)〕の音松(おとまつ)や〔舟形(ふながた)〕の宗平(そうへい)ばかりでなく、お貞(てい 40すぎ)の名までだしてしまった。
お貞がひそんでいた目黒の盗人宿から消えたのは、悦三から警報の連絡(つなぎ)があったからにちがいない。
いまなら、そうだと断言できる。
明日、さっそくに松造(よしぞう 30歳)を勘定奉行所の山田銀四郎善行(よしゆき 39歳)のしところへやり、羽前国最上郡(もがみこおり)舟形村と堀内村の遠近を訊かせよう。
山田勘定見習とは、〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵(いさぞう 26,7歳=当時)かかわりでつながった。
【参照】2010年11月30日~[勘定見習・山田銀四郎善行] (1) (2) (3) (4)
松造が聞いてきたところによると、舟形村と本堀内村は、最上川をはさんで1里(4km)ちょっとしか離れていなかった。
(最上川をはさんで赤○舟形村と本堀内村 明治20年ごろの地図)
これで悦三は、〔初鹿野〕側が送りこんだ土竜の疑いが濃くなった。
(さて、これをどう処置したものか?)
【参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
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コメント
このブログのすばらしいところは、日本中の地図が、高速道路はおろか、鉄道もまだ敷かれて居なかった時代---つまりは、江戸時にもっとも近い形で示されることもその一つです。
きょうの地図もそう。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.02.02 06:24
参謀本部が明治20年から制作した20万分の1を所有しているのです。
現存の日本全図では、もっとも江戸時代に近く、しかも正確な地図とおもいます。
大きくて場所をとりますが、手放せません。
投稿: ちゅうすけ | 2011.02.02 10:41