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2011年3月の記事

2011.03.31

長谷川家と林叟院(2)

こブログに先行し、2002年12月から、鬼平のホーム・ペイジを立ち上げた。
(このブログを立ち上げてから6年間、まったく更新していない)

そのとき、〔居眠り隠居〕さんとおっしゃる上毛あたりにお住まいとおぼしい鬼平ファンの方から、こんなコメントがついた。


貴名HP、一鬼平ファンとして興味深く、楽しく、心躍らせ、ワクワクしながら拝見しました。

ところで、長谷川家の出自について、ちょっと気になるところがありましたので、差出がましいとは存じましたが一筆啓上致しました。
私もこの事について研究中なのです。


「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し、今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった。
長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、[奮戦して討死す。年三十七]とものの本にある。
この長谷川正長の次男に、伊兵衛宣次という人があり、これが、長谷川平蔵の先祖ということになる。
伊兵衛宣次から八代の当主が、長谷川平蔵宣以だ」

以上、文庫巻3「あとがきに代えて」からですが、千葉琢穂著『藤原氏族系図第2巻秀郷流』の下河邉氏族――長谷川氏の項によると、正長が討死を遂げたのは長篠の合戦ではなく、三方原合戦ですね。
そのほかの記述はすべて符合しています。

下河辺氏族について
天慶の乱(10世紀中ごろ)で平将門を討ち取り、室町期のお伽草子『俵藤太物語』の主人公として、龍王の頼みを聞き大ムカデを退治した伝説的な英雄、藤原秀郷より八代、太田太夫行政の子たちがそれぞれ成人し、兄政光は下野国小山に居を定め、小山・結城の祖となります。

弟四郎行光は天仁2年(1111)、源義綱反逆の時、その鎮圧の軍功によって、下総国葛飾郡下河邉庄に地頭として住し、家号を下河邉と定めました。下河辺氏発祥の起源です。下河辺氏の初代をこの行光にするか、次の義行にするか、『尊卑分脈』でも分かれますが、本題とは関係がないので、省略します。

ちなみに、この下河辺庄を現在の地名で現せば茨城、埼玉県史などによると古河、五霞、総和、松伏、栗橋、庄和、杉戸、吉川、春日部、岩槻、越ヶ谷、三郷、野田など茨城、埼玉、千葉3県に係る、幅10キロ長さ50キロにも及ぶ地域であったようです。

二代行義はまたの名を清親、藤三郎、四郎、恒清坊と号し、源三位頼政とともに平氏打倒のために戦い、『平家物語』では藤三郎清親、平治物語では藤三郎行吉の名で活躍ぶりが描かれています。

宇治川の戦いに敗れた後、僧形となり荼毘にふした頼政の遺灰を笈に隠し身を潜めますが、子の行平が頼朝によって元のごとく下河辺庄司を安堵されたので古河に帰還、息子を別当に古河城内に頼政明神を建立しました。

三代下霜河辺庄司次郎行平は鎌倉幕府草創期、頼朝の側近中の側近として活躍しました。

頼朝は「日本無双の弓の名手」とたたえ、「頼家君の御弓の師」に任命。

ついには「下河辺庄司行平が事、将軍家ことに芳情を施さるるのあまり、子孫において永く門葉に準ずべきの旨、今日御書を下さると云々」(『吾妻鏡』建久611月6日)という最高の栄に浴した、知る人ぞ知る武将。

『吾妻鏡』には 100箇所ほど行平に関する記述があり、その弟たちには次のような人たちがいます。(略)

忠義、武勇の四郎政儀は頼朝の寵愛をえ、河越重頼の女を娶り、後継の男子にも恵まれ常州南郡惣地頭職としてその前途は洋々、順風満帆と思われていました。

この頃、頼朝と義経兄弟の仲が微妙になります。

頼朝は「義経が馬鹿なことをするのも独り身だから。妻帯すれば変わるだろう。どこぞに良い姫はいないか」

白羽の矢がたったのが河越重頼の郷姫、つまり四郎政義の妻の妹です。

兄弟仲が日毎に険悪化しているのを知っている重頼や政義はいやな予感に襲われたことでしょう。

しかし最高権力者の意に逆らうことは出来ず、「河越太郎重頼の息女上洛す。源廷尉に相嫁せんがためなり。これ武衛の仰せによって、兼日に約諾せしむと云々。重頼が家の子2人、郎従30餘輩、これに従ひ首途すと云々」(元歴元年〔1184〕9月14日の条)ということになったが、果たせるかな、郷姫輿入れから1年後、
「・…今日河越重頼が所領等収公せらる。これ義経の縁者たるによってなり。・…また下河邉四郎政義、同じく所領等を召し放たる。重頼の婿たるが故なり」(文治元年〔1185〕11月12日の条)

まさに悪夢は現実のものとなったのでした。重頼は斬られ、政義は石岡以南の広大な領地を取り上げられ、その身は兄行平の許にお預けとなり、その領地は行平の子が相続しました。

政義はいわば、義経処分という大義名分の犠牲になったのではないでしょうか。

しかし政義ほどの武士ですから、やがてまた『吾妻鏡』に名が出てきます。

文治3年(1187)11月11日には頼朝の上洛に先立って、朝廷への貢馬が3頭進発しますが、政義はその使者として京に向かいます。

建久元年(1190)11月7日、入洛した頼朝に従い先陣畠山重忠の随兵3番手として行列に加わっています。同2年正月3日小山朝政が頼朝に飯を献じたおり、御剣は下河邉行平、御弓箭は小山宗政、沓は同朝光、鷲羽は下河辺政義、砂金は朝政自らが奉持して御坐の前に置いた、とあります。

同年8月18日頼朝の新造の御厩に、下河辺行平らから贈られた16頭の馬を、政義ら5人の武士が試乗、将軍にご覧にいれました。

同3年6月13日、頼朝が新造御堂の現場に来ます。

畠山重忠、下河辺政義、城四郎、工藤小次郎ら梁棟を引く。
その力は力士数十人の如きで見る者を驚かした・…。

まだまだありますが、割愛します。

下河辺政義は復権したと見て間違いはないでしょう。

その後正義は益戸姓を名乗り、かつての領地常陸国南郡方面に出て活躍したものと考えられます。

南郡惣地頭職時代は志築(茨城県千代田町)に館や山城を築いたといわれ、益戸となってから千代田町と八郷町の境界線上にある権現山に、半田砦を築いたようですが、浅学の身、詳しいことはよく分かりません。

ところで、下河辺政義には3人の子がいたようです。

○行幹(三郎兵衛尉)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門尉)――行助(和泉守)――顕助(下野守)

○政平(左衛門・小河次郎)――能忠(七郎)――義廣(七郎・左衛門尉)

○時員(野木・野本乃登守)―ー行時(二郎)――時光(同二郎)――貞光(乃登守)――朝行(四郎左衛門)
(『尊卑文脈』)

○行幹(益戸二郎兵衛尉、母河越重頼女)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門)――行助(和泉守)――顕助(四郎左衛門尉・下野守・従五位)

○政平(小川二郎左衛門)――朝平(小太郎)――景政(高原四郎)――能忠(小川七郎)――義廣(七郎左衛門尉)

○時貞(野本能登守、行高・従五位下)――行時(二郎)――貞光(能登守)――朝行(四郎左衛門)
(『群書類従完成会編』)

2書を比べると、長男行幹流についてはほぼ相違無し。次男政平流については尊卑文脈の政平と能忠の間に朝平、景政が入り、三男時貞流については群書類従系の行時と貞光の間に時光を加えれば、2書はまったく同一となる。両書とも 800年以前を書いた書としてはかなり正確な、信憑性の高いものと考えてもよいのではないでしょうか。

問題は、先生がお書きになられた「先祖書」の冒頭部分です。

「大織冠釜足より八代鎮守府将軍秀郷九代の後裔下川部四郎、実名知らず」とあるのは、明らかに下河邉四郎政義のことであると断定してもほぼ間違いないのではないでしょうか。

「『寛政呈譜』に下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣、大和国長谷川に住す。これにより長谷川を称す」(藤原氏族系図 第2巻 秀郷流)

とあるのも政平までは間違いのない所だと考えられます。

しかし、肝心の三代後に初めて長谷川を名乗った、という次郎左衛門政宣の名が見当たりません。

尊卑文脈は、その編纂後のことは記載される筈も無く、下河辺系図もその分流を数代にわたって綿密に書き込むなどということはないのが当たり前です。

先生のご指摘の『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』は不勉強でまだ見ておりませんが、これらの先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません。

幕臣が幕府に提出する先祖書を偽ったり、故意に粉飾するなどそんな不謹慎な真似はある筈もなく、当時の武士は他家がどのような家系であるかぐらいのことは知っており、従って虚偽の系図を提出する余地はないと思われます。

下河辺氏は『吾妻鏡』にも数多く書かれており、『吾妻鏡』をいちばんよく読んだ日本人・徳川家康は、当然のことながら藤原秀郷や下河辺行平の故実にも明るかったと考えられます。

ですから、家康から何代かたってはいても、出自に関して虚偽の申し立てはしていない。
ただ年号や何代目かなどの細かい点については、あまりにも古く、かつ家譜の正確な記録を持たないために、若干正確さに欠ける点がある、と見るのが妥当ではないでしょうか。

先に引用した、下河辺四郎政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣が、始めて大和に住み長谷川を称したというが、この年代もはっきりしません。

そこで同時代に生きた兄行平の四代の後裔はいつ頃生きたかを調べてみると、文永年間(1264~75)です。次に名前が出るのが、長谷川家の初代とされている、駿河国で今川義元に仕えた長谷川藤九郎正長。

主君義元が永禄3年(1560)桶狭間で敗死後、徳川に仕え元亀3年(1570)三方ヶ原の戦で戦死、時に37歳。

およそ1270~1560の間が空白期間となっているのです。

この空白期間を埋めるものが、先生お調べの「駿国雑記」ではないかと考えられます。

また、正長から以後の系図は先生ご提示の「寛政重修家譜」が他本とも一致しているようです。

「末葉下野国住人結城判官頼政三男、小川次郎政平長男小川次郎左衛門正宣長男 始 藤九郎一、元祖  本国生国 駿河 長谷川紀伊守正長」をどのように読めばよいのか、判断に迷うところです。

「末葉下野国住人結城判官頼政三男」どこから、なぜ、この語句が出たのかさっぱりわかりません。

下河邉氏の出自で述べましたが、下河邉の兄が小山であります。小山氏から中沼、結城が出ていますので、下河邉と結城とはかなり近い関係にあります。

そんなことと関係があるのでしょうか。

小川政平は、下河邉四郎政義の次男、それから数代の後裔・政宣が大和に移り住み長谷川を名乗るようになった。

さらにその後、その子孫藤九郎正長が駿河に移り住み、駿河長谷川家を興した、これが平蔵家の本家であると考えたいのですが、いかがでしょう?。

老人の頭でいろいろ考えますと、ますます糸が複雑に絡みあってしまい、解けなくなってしまいまいそうです。


これに対してのレス。


いやぁ、〔居眠り隠居〕さんどころか、現役顔負けの碩学ぶりです。

ご指摘のとおり、「下野国住人結城頼政」は、たしかに下川辺の系図のどこにも見あたりませんね。

寛政譜』の 160年ほど前にまとめられた『寛永系図伝』の長谷川家の項は、藤九郎から始まっています。

「藤九郎 のち紀伊守と号す。駿州小川に生る。のち田中に居住す。今川義元没落ののち、東照大権現につかえたてまつる。元亀3年(1572)12月22日、遠州三方原の戦場におひて討死。37歳。法名存法」

寛政譜』にある「秀郷流」は記されていません。それで推察できるのは、『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂です。

居眠りご隠居さん02月27日(木)のコメントで、ご隠居は、文庫巻3の池波さんの「あとがき」をお引きになりました。

「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。
義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった」

そして、「『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』のために提出した先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません」とおっしゃいました。きのう、静岡県立図書館で史料をさがしてて、おどろくべき史料を見つけました。


静岡大学の教育学部長・小和田哲男さんの著書『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)がそれです。
小和田さんは『寛政譜』の、

「下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣」

につき、「今川氏重臣長谷川氏の系譜的考察」の章で、政義とその次男の政平の時代は鎌倉時代の人物だから、三代目の次郎左衛門政宣は鎌倉末期か南北朝初頭に生きていたことになる、と疑問を呈したあと、

「近年になって、静岡市瀬名の中川和男家から長谷川家にかかわる古文書が数点発見され、長谷川家の系譜について新しい事実が明らかになった」と、出現した「長谷川・中川家記録写」から、政平から政宣までの 200年間の空白を埋めています。

その詳細はあらために別の機会にご紹介するとしましてご隠居へのレスに、「『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂」と書いた全文を、いそぎ削除させていただきます。

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2011.03.30

長谷川家と林叟院

(えい)さん。まず、大叔母どののご機嫌を伺ってくる。話はそれからだ」
納戸町の従兄(いとこ)・長谷川栄三郎正満(まさみつ 37歳 4070石)からの呼びだしで、下城の帰りに同家を訪ねた平蔵(へいぞう 36歳)は、断り、離れの病室に於紀乃(きの 82歳)を見舞った。

紀乃は、当家の先々代・讃岐守正誠(まさざね 亨年69歳)の正室で、夫が逝ってから27年も余生している。
この大叔母には、平蔵は頭があがらない。
20代の部屋住みのころ、於紀乃をたぶらかし、甲府までの路銀をせしめたことがあった。

参照】200827~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] (1) () (3) (4) (5) (6) (7) (8) 

この旅が奇縁となり、久栄(ひさえ 16歳=当時)と知りあえたし、いまは忠実な従者として仕えてくれている松造(よしぞう 17歳=当時)ともかかわりができた。
あの旅がきっかけとなり、お(りょう 享年33)とも奇妙な、ヰタ・セクスアリスもふくめて武田軍学の一端に触れることができた。

参照】2008年10月5日~[納戸町の老叔母・於紀乃] () () (

銕三郎(てつさぶろう)です」
襖の外から名乗った。
老叔母は、平蔵をいまだに子どもあつかいしてい、呼び名も(てつ)であった。

出てきたのは妹の与詩(よし 24歳)で、
「ご隠居は、お寝(や)すみです。お起こししますか?」
「いや。いい」

離婚されてからの与詩は、於紀乃の話し相手兼世話掛りをしていた。

参照】2010年1月5日~[・与詩(よし)の離婚] () (

(てつ)兄上は、何刻(なにどき)までおとどまりでございますか?」
「六ッ半(午後7時)には失礼しようとおもっておる」
「それまでにお目覚めになりましたら、お報らせいたします」


栄三郎正満は4070石という大身ながら、まで役についていず、たまにある寄合の集まりに顔をだすだけであった。
「だから、役に就いていない今こそ、小川(こがわ 現・焼津市)へ参り、林叟院(りんそういん)の法永どのの法会をやってえおきたい」
現世では法栄で、仏となってからは法永であった。

法栄とは、長谷川家の祖の一人で、今川家の重臣として小川城に居しながら、貿易なども手びろくおこない、長者と呼ばれていた。

司馬遼太郎さん『箱根の坂』には、伊勢新九郎(のちの北条早雲)の依頼で、塩買坂で横死した今川義忠(享年41歳)の遺児・龍王丸(6歳)を匿(かくま)ったとある。

14歳の銕三郎時代に田中城(現・藤枝市)を訪ね、ついてに小川の坂本まで足を延ばし、林叟院の法永夫妻の墓に詣でた。

曹洞宗の名刹・林叟院の住持は、
「江戸から、ようもようも---」
と感嘆しながら、三島でお芙佐(ふさ 25歳)よって初体験をすませた銕三郎の気のせいか、その眸に不浄の身で---といった光りがあった。 

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(

010長谷川家の祖 | | コメント (2)

2011.03.29

ちゅうすけのひとり言(69)

大岡政談 1・2』(東洋文庫 1984.07.10 12.10)に収録されている話のうち、実話は「天一坊」「白子屋お熊」「直助権兵兵衛」の3件---が編者の辻 達さんの指摘である。

2_130_2鬼平ファン、池波小説好きとしては、「雲切仁左衛門」も加えたいところだが、辻さんは嘉永のころの芝居がタネであろうと。

火盗改メが登場する事件としては「煙草屋喜八」が、当時の人情と貞節ぶりをうかがわせるので、ざっと端ょって粗筋(あらすじ)だけを紹介してみよう。

下総国古河(こが 現・茨城県古河市)に大きな穀物問屋があった。
江戸表にも出店(でだな)13軒も置くほどで、主人の名は吉右衛門、19歳の一人息子が吉之助。

この吉之助を、世間を知るためにと、江戸の両国横山町の出店へやったところが、新吉原〔玉屋』の遊女・初瀬留(はせとめ)とねんごろになり、注ぎこんだ金が2800両(3億4,800j万円)。

そのことを知った父親は、吉之助を勘当してしまった。
生活の術(すべ)を知らない吉之助は、無一文の身では恋しい初瀬留に会うこともできないと、両国橋から身投げしようとしたところへ通りかかったのが座敷でなじみになっていた幇間(たいこもち)・五七であった。

吉之助から事情をきき、責任の一端は自分にもあるとわが家へ連れ帰り、「初瀬留もぞっこんで、噂ばかりしている」と告げた。

ある日、五七が吉之助とともに浅草寺へ詣でたところ、声をかけてきた男があった。
かつて古河の店で年季勤めをしていた喜八で、恩返しに自分が世話をするからと引きとったはいいが、麻布原町で女房とともにやっているささやかな煙草店には、吉之助分の布団もない。

女房・お梅(うめ 23歳)が自分が前借りで中働き奉公に出、質入れしている抱巻(かいまき)布団を請けだそうと提案した。
お梅の奉公口は、麻布我善坊(かぜんぼう)谷の先手組組屋敷の火盗改メ方与力・笠原粂之進宅で、前借2両(32万円)。
その金をもって布団の請けだしにいった喜八は、別の下質の者が渡した80両を質店の亭主がこともなげに手文庫へしまうのを見てしまった。
(あるところにはあるのが金だ)

ちゅうすけ註】麻布我善坊谷に組屋敷があった先手組というと、鉄砲(つつ)組の第7の組と、第8の組である。
事件が大岡越中守の裁きであったということを信じると、享保年間に7か8の組で火盗改メをした組頭をさがしたら、


第7の組では、
享和9年(1724)9月11日任  杉浦八郎五郎勝照
同10年2月7日       解

第8の組
   なし

政談』では火盗改メは奥田主膳とあるが史実には該当者はいない。

その夜、喜八がくだんの質店へ金を盗みにはいったところ、先客の大泥棒に行きあってしまった。
その大泥棒が喜八の事情を聞き、恩義に篤いこころざしを誉(め)で、「女房をとりもどせ」と盗んできた80両をくれたはいいが、台所に付け火をして逃げ去った。

出火が仇(あだ)となった。
火盗改メが組の与力・同心を20人ばかり引き連れてかけつけてきたのである。
組下の一人がまごまごしている喜八の袖をつかみ、
「曲者ッ」
喜八はふところの出刃包丁で片袖を切って逃げおうせた。

が、残した袖が手がかりとなり、喜八は召しとらえられた。
「しめた」とほくそえんだのは、器量よしのお菊に野心をいだいていた与力・笠原粂之進である。
「お前の亭主は獄門だから、おれのいうことをきけ」
と言い寄ったが、お菊は喜八に貞節を誓っていて承知しない。

手ごめにしてもとおもいつめている主人・粂之進に愛惣をつかした中間・七助が、粂之進が組頭についての見廻りの留守にお菊を逃がし、自分も牛込へ去った。

お菊から事情を聞いた家主(いえぬし)平兵衛は義侠心をだし、速駕篭をのりついで古河へ。
事情をきいた穀物問屋・吉右衛門は気を変え、
「いかほど金がかかろうと、吉之助の恩人を救わねば---」
江戸へかけつけ、大岡越前に再審を願い出た。

書きわすれていたが、喜八の家には、吉之助恋しの初瀬留が新吉原を抜け出してころがりこんでいた。

喜八が処刑されるとの風聞を耳にしたかの大盗人・〔田子(たご)〕の伊兵衛が、自分が真犯人と自首して出てはきた。
大岡裁きのやりなおしとなり、中間・七助の証言もあり、笠原粂之進の職権を笠にきた横恋慕もばれ打ち首。
もちろん喜八は釈放、〔田子〕の伊兵衛はかずかずの盗みがあるが、喜八を助けるための自首は殊勝なりと島送り。

吉右衛門は、喜八夫婦に穀物の大店をもたせ、家主・平兵衛と幇間・五八にはそれぞれ300両(5400万円)を贈り、初瀬留は800両(1億2400万円)の身請け金を払っては吉之助の嫁に迎えたこといいうまでもない。

それはともかく、大岡越前守忠相は一審で誤審をしたからといさぎよく(?)、老中へ辞表を提出したが、もちろん慰留されて留任している。

こう書いてしまうと味もそっけもないが、その場その場での各人の台詞を想像すると物語がふくらんでこよう。
一例をあげると、大岡越前の辞表提出に驚いた将軍・吉宗(よしむね)の言葉。
゛汝、かならず早まることなかれ。いまだその者刑罰に行なわざれば再応取り調べ、この後しても出精相励むべし」

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2011.03.28

ちゅうすけのひとり言(68)

時代が前後するが、平蔵(へいぞう)の次男・銕五郎(てつごろう)が一族の長谷川栄三郎正満(まさみつ 4070石)の養子となり、正満と後室とにあいだに生まれたむすめを室としたことは、(67)に記した。

正満の後室は、大岡越前守忠相(ただすけ 享年75歳 1万石)の孫むすめであることも明かした。
もっとも、銕五郎あらため久三郎正以(まさため)が華燭の典をあげたときはおろか、孫むすめが正満の後室となったときにも、越前守忠相はすでに没していた。

没してはいたが、名奉行としての高名は、語りつがれていた。

名声は、平蔵が火盗改メとして業績をあげるにつれ、江戸庶民あいだで「今大岡」という呼び名が冠されたことが庶誌に記されている。


_100参照】2006年07月27日[「今大岡」とはやされたが]

上のコンテンツを書いた5年前、買って読んだはずの大石慎三郎さん『大岡越前守忠相』(岩波新書 1974.4.22)が書庫でみつからなかったので、同じ大石さんの好著『江戸転換期の群像』(東京新聞出版局 1982.04.23)を紹介した。

大石さんの大岡観は、紀州藩主から将軍となり幕政改革に手をつけた吉宗に、普請奉行としての実績で町奉行に41歳で抜擢され、その職に19年の長期にわたって在職し、享保の改革の推進者の一人として活躍、その後も寺社奉行の職にあった能吏としての人物像である。


1_100辻 達也さんが編みかつ詳細な考究を付した『大岡政談 1・2』(東洋文庫 1984.07.10 & 12.10)に、明察や頓知、人情や条理の大岡裁きとして流布しているものの多くは、支那の裁判もの---『棠陰比事(とういんひじ)』の換骨奪胎と、大岡越前守以外の町奉行たちの裁決が借りられたものであると明かされている。

さらには、語りの中身を『平家物語』などから裁きものへ移していっていた講談師たちが、語りを書本(かきほん)として貸本屋へわたしたことで、庶民の興味の一つが公事(くじ 裁判)へ向いたであろうと推察されている。

もちろん、庶民が裁判の公平と情状酌量を求めるのは、洋の東西、時の古今を問わない基底の心情であるから、名裁判官として大岡越前守の虚像が、庶民のあいだに形成されていったのも不思議ではない。

大石さん主導のシンポジウムを記録した『江戸時代と近代化』(筑摩書房 1986.11.10)の「柔軟だった江戸の行政と人材登用」の章で大石さんは「一事両様から一事一様に」との項目で゛、

現在の政治は、法律の体系があり、その法に基づいて積んだ:経験、つまり判例がある。法と判例が政治の運営上の大きな柱になっているのですが、江戸初期の段階までは法律と判例は、本来の政治にとってしむしろ有害であるという考え方を幕府ししていました。

儒教に反するとの考えに基づいていた。
しかし、商業の発展により、一物一価の考え方がひろまった。
法律の解釈にもそれが及んだというのである。
儒教的な政治はもう無理だと感じていた吉宗は、

よるぺき法規範がなければいけないと考えた---そのためにはまず今までの残っている法令の編纂をする必要がかるというので、法律の編纂事業に力をいれます。現在の残っている『御触書集成』というのは吉宗のそういう考えに基づいて編纂された幕府の基本法です。

ちゅうすけの弁解】『御触書集成』(岩波書店 1934~)は全冊そろえて所有し、適宜、参照していたのに、3月11日の東日本地震で書斎の書棚が倒壊し、蔵書が散乱、いまだに整理がすすんでいないていたらく。申しわけないが、この書籍についての紹介は、歳月をあらためてということにさせてください。

「一事一様」は、法の適用面からいえば合理的であるが、庶民感覚では「一事両様」のほうが人情が入る余地がある。
大岡裁きがつくりものとしても、庶民が買っているのは大岡越前守の人情味のある裁きであったろう。

長谷川平蔵が「今大岡」と当時の江戸市民から讃えられたのも、人情味のある裁き---一事両様の使い方の巧みさによっていたようにおもうのだが。

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2011.03.27

ちゅうすけのひとり言(67)

天明元年(1981)10月に生まれた次男は、銕五郎(てつごろう)と名づけられた。

さすがに、嫡子・辰蔵(たつぞう 13歳)に気をつかい、平蔵(へいぞう)宣以(のぶため)の幼名の銕三郎(てつさぶろう)とはつけなかった。

次男であるから、長男の辰蔵が順当に育てば、養子に出なければ、一生、辰蔵の厄介者としてくらさなければならない。

養子がきまったのは、父の平蔵(へいぞう)が歿する前年---寛政6年(1794)あたりと推察している。
銕五郎(てつごろう)が14歳、養父の長谷川栄三郎正満(まさみつ 4070石)が50歳で、後妻が産んだ男子が10歳で早世したときであった。

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(長谷川一族の系図)

正満長谷川家は、一族の3家の中では飛びぬけて高禄であった。

長谷川3家とは、すでに記した本家---火盗改メで後年は先手・弓の2の組頭であった太郎兵衛正直(まさなお 1450石)の祖・彦九郎正成(まさなり)、平蔵が遺跡相続をしたときに小普請組の支配であった久三郎正脩(まさむろ)と紹介したが、この家の祖・久三郎正吉(まさよし)は、11歳で出仕し、家光に寵愛されたか、4070石と納戸町に2500坪を上まわる屋敷と千駄ヶ谷に2万坪もの下屋敷地を拝領していた。

3家の祖は、徳川勢として三方ヶ原で戦死した紀伊(きの)守正長(まさなが 享年37歳)の遺児であった。

父・正長が戦死したしき、長男の正成は8歳、次男・宣次(まさつぐ 平蔵長谷川家の祖)は7歳、正吉は5歳であった。

長男の正成は13歳(天正4年 1576)で家康に呼びだされたが、次男・宣次はなぜか17歳(天正10 1582)と遅れた。

3児とも母親が異なっていたようにも推察しているのだが---。

すでに記したことの復習になるが、長谷川家は大和の初瀬(はつせ)から駿河の小川(こがわ)湊(現・静岡県焼津市のうち)に定着し、今川の重臣として栄え、法栄長者とよばれた富豪もあらわれた。

参照】2006年5月23日~[長谷川正以の養父

家禄4070石といえば、大身である。
一族関係者のだれもが、その養子を狙っていたろう。
正以(まさため)がそこの養子になれたのには、平蔵の実力が大いにものをいったとおもう。

とともに、正満のむすめ婿として年齢的に合致していたこともあったろう
正満は、なぜか一生、役に就かなかったが、後妻にはあの大岡越前守忠相(ただすけ 享年76歳 1万石)の孫むすめを娶っていた。

正以が妻としたのは、その孫むすめが生んだ子であった。
前途が約束されていたのは明らかであった。


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(長谷川宣以・正以親子の個人譜)

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2011.03.26

長谷川銕五郎の誕生(3)

母・(たえ 58歳)へ帰着のあいさつとともに紅花染めの肌着を贈り、
松造(よしぞう 30歳)に商っている店を教えられましたゆえ、いつにても買い足せます」
「ぜいたくは、なりませぬぞ」
亡夫・備中守宣雄(享年55歳)の口移しの家訓であった。

平蔵(へいぞう 36歳)は承った態(てい)で退去した。

着替え、松造を供に、和泉橋通りの大橋家久栄(ひさえ 29歳)を見舞った。
門前で、松造を返した。

松造・お(くめ 40歳)の住いは大橋家から東へ6丁(650m)ばかりであった。
陽の暮れが早くなっていたから、御厩河岸の渡し仕舞い舟もそれにあわせてい、おとお(つう 13歳)がやっている〔三文(さんもん)茶房〕は、仕舞い舟の客が絶えると店を閉めていた。

「殿のお帰りをお迎えせず、申しわけございませぬでした。道中、恙(つつが)のう---?」
「うむ」
「お用命のほうも、ご無事に---?」
「万端---な。それより、辰蔵(たつぞう 12歳)が、弟ができたと喜んでいた」
「私も、男のお子で、安堵いたしました。4人目なので軽くてすみました」

紅花染めりの肌着を見せ、
「お婆どのに、ぜいたくは、ならぬ---と叱られた」
苦しげに微笑した久栄の手をにぎり返し、脇の赤ん坊の頬を指でつつき、辞去したが、和泉橋詰の船宿で、仙台堀の亀久橋へ向かわせた。

藤ノ棚の家の戸を、それが合図になっている、2叩きずつ3度打つと、驚き顔の里貴(りき 37歳)が戸をあけた。
すでに寝着で、半纏をひっかけているだけであった。

「抱きたりないのでな」
「うれしい---でも、奥方さまは?」
「実家へ帰っておる」
「私のことが---?」
「そうではない」
「はい」

それ以上のことは訊かないのが里貴の賢いところであった。
訊いたところで、立場がどうかなるものではない。
平蔵も、産まれた銕五郎(てつごろう)のことは話さなかった。
話せば、里貴が苦しむだけである。

里貴は、亡夫との6年間に身籠らなかったし、平蔵との5年のあいだにもその気配はなかった。


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2011.03.25

長谷川銕五郎の誕生(2)

今戸橋南ぎわには、新吉原がえりの遊び客目あての船宿がずらりと並んでいたが、こころえている小浪(こなみ  43歳)は、口の堅い老練な舟頭を指定した。

里貴(りき 37歳)は、旅支度を解き、ふつうの町着姿に戻したが、平蔵はそのままであった。
御厩河岸の舟着きで自分だけ降り、乗ったままの里貴の舟が、行き交う舟の群れのあいだに消えるまで見送った。

(くめ 40歳)とお(つう 13歳)の母子でやっている〔三文(さんもん)茶亭〕へ入ると松造(よしぞう 30歳)が旅姿で待っていた。
「よく、こっちだとわかったな」
「蕨宿(わらびしゅく)あたりから舟でお帰りなら、ここだとおもいました」
「さすが、われが分身---」

が茶を給仕し、
「おこころづくし、ありがとうございました」
袷(あわせ)の袖口をまくり、薄桃色の襦袢(じゅばん)の袖をちらりと見せ、
「お父(と)っつぁんが見立てたそうですね。寒さにむかい、紅花染め肌着だと、暖かくて助かります」
も寄ってき、礼を述べた。
どうやら、渡した2分(8万円)で購ったらしい。

〔三文(さんもん)茶亭〕を蔵前通りへ出たところで、
「どこで求めた?」

雷門前の〔天童屋〕だが、産地で襦袢にまで仕立てたものものをじかに仕入れているため、京から下(くだ)ってくるものの半値であったと、松造が打ちあけた。

「引きかえし、母上(56歳)、奥(29歳)、於(はつ 9歳)、於清(きよ 7歳)、間もなく生まれるややの分を求めよう」

5品でも1両(16万円)で2分なにがしかの釣りがきた。
「手前は、2枚ずつ買ってやりました」
「これは土産である。武士が武具でないものを買っていてはおかしい。あとで屋敷へとどけさせてくれ」
「いえ。手前が持ちます」

歩きながら、紅花染めでのことで、久しぶりに、本所・緑町2丁目の料亭〔古都舞喜(ことぶき)楼〕の盗難事件で、天童育ちの座敷女中お(とめ 32歳=当時)が、賊の一人がくず花で染めた手巾をつかっていたことを覚えていたことから、〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへえ)の身許がわれたことをおもいだしていた。

参照】2008年4月18日~[十如是(じゅうにょぜ)] () (

そのころ20歳であった銕三郎(てつさぶろう)は、おと再会し、躰がむすばれた---というより、おあらため、30おんなのおから、どこをどう愛撫すれぱいいかを実技で伝授された。
それは、高杉道場で:剣の秘技を会得するよりも、楽しかった。

参照】2008年8月9日~[〔菊川〕の仲居・お松]  (8) (
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲]  () (2) (3) (4) (5) (6) (7)

とのあいだは、2年近くつづいたろうか、ふいっと姿を消した。
探す手がかりもないままに、それきりになった。
いってみれば、性の恩人であり、青春のまぼろしであった。

まぼろししといえば、お(りょう 享年33歳)も、そうであったのかもしれない。
立役のおが、銕三郎を初めての男として受け容(い)れた。
(あれは、性の迷路だったかも---)

「殿。辰蔵(たつぞう 12歳)さま、於さまがお出迎えなさっておられます」
松造の声に、追憶からわれに返った。

「奥の姿が見あたらぬが---?」

理由(わけ)は、辰蔵の説明で、すぐにわかった。
「父上。辰蔵に、11歳齢下の弟ができました」
「いつのことだ---?」
「5日前でございまいす」
佐千(さち 34歳)や里貴と寝ている日でなかったことが、久栄(ひさえ 29歳)への、せめてもの言い訳か)

久栄は、産み月になると、実家の大橋家へ帰った。
しかし、こんどは、平蔵が与板へ旅立ってすぐ、実家へ移った。
産んでから、1ヶ月は実家で養生するしきたりであった。

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2011.03.24

長谷川銕五郎の誕生(1)

「舟は返しました。明日は、銕(てつ)さまと並んで、江戸まで、歩いて戻ります」
裸のままで、互いのものをまさぐりながら、里貴(りき 37歳)が承諾を求めた。

「足ごしらえはしてきたのか?」
「ご心配なく。これでも紀州の貴志村から東海道を歩きとおしたのです」
「そうであった。だが、里貴は34歳であった」

参照】2010年11月11日~[茶寮〔季四〕の店開き] () () () () () (

「それだけ婆ぁになったとおっしゃりたいのですか?」
「なにが婆ぁなものか。里貴はますます感度が磨がれ、愉悦が深くくなっておる」
「おなごの頂上は45歳といいます。ややの惧(おそ)れがなくなったら、愉悦の出事(でごと 交合)になるとか」

里貴が足を入れ、少ない茂みを平蔵の太腿にすりつけた。
乳首に指をみちびく。
改めて、乳児にふくませたことのない、小さな乳首を感じた。
(お(りょう 享年33歳)も、貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)の乳首も小さかったな)
さすがに、芙佐(ふさ 25歳=当時)や阿記(あき 21歳=当時)の記憶はかすんでいた。
それだけ長く、平蔵里貴の躰になじみ、官能のすみずみまで探っているということかもしれない。

「頂上までに里貴は、8年あるな」
「おなごは骨になるまで、このことを求めるそうです」
「骨になるまでか---」
「わが身のことながら、恐ろしいことです。さいわい、さまのほうがお若いから、骨になるまで喜ばせていただけましょう」

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(北斎『嘉能会之故真通』)

やはり、朝起きは遅かったが、里貴がこころづけをはずんでいたから、妙な顔はしなかった。


戸田の渡しで渡船するとき、人目の中で里貴平蔵におおっぴらに手を借り、気持ちも躰も満ちた。
平蔵の耳に、
「感じてきました」
「えっ---? あ、そうか」
「気持ちだけで、潤ってくるのです」

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(戸田川渡口 羽黒権現宮 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

板橋の手前で里貴が立ち止まった。
「このさきに、えんきり榎があります。縁起でもありません。回り道しましょう」
「駕篭の舁き手や馬子たちがいいふらしている迷信だが、気になるなら、回り道しよう」
そういう戯言(たわごと)が、里貴には嬉しかった。

蕨宿のような離れ部屋がありそうもなかったから、板橋の旅籠は素通りした。

江戸へのとば口、白山権現社下の、けいせいが久保に、小じんまりした宿屋が見つかった。
八ッ(午後3時)前であったが投宿することにした。

江戸の旅籠には風呂がない。
湯道具を宿で借り、軽装で銭湯へ出かけた。
混浴であるが、入浴'客はまばらであった。

浴槽に並んで浸かり、手をつないだ。
「行水の季節は過ぎましたから---」
里貴が口を寄せてささやいた。

背中を流しあった。
女客は、薄暗い浴室でも青みがかって透き通るほどに白い里貴の肌をうらやましがった。
2人いた老人は、いまさらながらの好色気分がおきはしたが、それもすぐに泡のようにしぼんた。
里貴平蔵との混浴が誇らしさいっぱいで、夜の前戯となっていた。


翌朝も、起きだしは遅かった。
目ざめ、側(かわや)から戻って横になると、どちらからともなく、肌を求めた。

白山権現社へ詣でるために、石段をのぼる里貴の腰が重そうで、平蔵がおもわず押した。
「齢ですねえ」
眉をしかめた里貴に、
「いくらなんでも、朝方のは余分であったかな」
「そのことではなく、男坂の石段のことです」

白山権現社では、旗桜樹の前で、
「花の季節にごいっしょできればいいのですが---」
つぶやいたが、平蔵は返さなかった。
(かわいそうだが、人目にはたてない)

中山道を:避け、根津権現社の裏から今戸へ抜け、料亭〔銀波楼}で昼餉を頼んだ。
女将の小浪(こなみ 43歳)が、
「お揃いの旅支度で、どちらからのお帰りでございますか?」
「どうして、帰りだとわかる?」
里貴さまの、満ちたりたお顔でわかりますよ」
里貴が手の甲を頬にあてた。
「冗談でございますよ。およろしければ、奥の間にお布団を延べさせましょうか?」
千浪里貴は、以心伝心の仲であった。

「それより、藤ノ棚まで、舟を頼みたい」


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2011.03.23

与板への旅(19)

「木挽町(こびきちょう)の殿が、与板侯と内室さまをお招きになったのですよ」
早めの夕餉(ゆうげ)の場で、ゆ文字をはずした浴衣姿に片立て膝の里貴(りき 37歳)が、向いの平蔵(へいぞう 36歳)に酒を注ぎながら告げた。

〔木挽町の殿〕とは、老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 63歳 相良藩主 4万7000石)がことである。
与板侯は、解説するまでもなく、井伊兵部少輔直朗(なおあきら 35歳 西丸若年寄 越後・与板藩主 2万石)、その内室は意次の四女で於(さと 31歳)。
内室の名は、田沼家がまだ本郷・弓町にあったころに側室が生んだので、本郷にあやかってつけられた。
直朗とのあいだに一男一女をもうけたが、万千代(まんちよ)は早逝していた。

(そうか、それで、先刻、湯殿で〔備前屋〕の名をあげたな)

妬(や)きごころからと勘ぐり、対抗心をたしなめるつもりで、おもわず言わでもがな佐千(さち 34歳)のことを洩らしてしまったのは、勇み足であった。

しかし、平蔵のためによかれと、意次に、与板侯夫妻を〔季四〕に招くように算段したのは、木挽町の中屋敷の侍女・佳慈(かじ 31歳)に働きかけたのであろう。

「淫らな打ちあけ話をするからこそ、おんな同士はこころがひらかれるのです」
佳慈はいったが、こんどはどんな寝屋話をしたことやら。
(まさか、背向け騎上位のことまでは洩らしておるまいな)

参照】2011年2月24日[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (10

おんなに恥をかかすものではないと決めている平蔵は、相手がその気を示したら、うけ容(い)れてきた。
佐千も求めてきた。
しかし、そのことを里貴にいっても、素直には認めてはくれまい。

与板侯のところで進めていた、冷害に強い稲の交配はどうなったか、聞いたかな?」
久しぶりに会ったときの性的な昂ぶりがおさまり、床入りまでは平静でいるようにうかがえたので、訊いてみた。
「あら、(てつ)さまは、現地へいらっしゃったのではなかったのですか? 藩の陣屋とか郡奉行にはお会いならないで、ずっと、〔備前屋〕の後家さまとべったりだったのでございますか?」

「われの役目は、盗賊たちを与板領内から追いだすことであった。そのために動いていた」
「しばらく抱いていただけなかったので、つい、こころにもない愚痴を洩らしてしまいました。こころではなく、躰が洩らしたのです。さまを待ちこがれていたこの躰に免じて、お許しください」

手招きすると、膳を移し、寄ってき、骨がないみたいによくしなる躰をあずけた。

互いの躰の匂いをたしかめあってから、手早く食事を終え、酒のお代わりをいいつけ、布団へ入った。

「どれほど待ちわびていたか、お確かめください」
「先日、茶寮のほうを2夜も空(あ)けて、大事なかったのか?」
「2夜が3夜になっても大事ありません」


参照】2011年3月5日~[与板への旅] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18

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2011.03.22

与板への旅(18)

高崎の本陣を朝発(だ)ちし、10里(40km)近くをこなして、6泊目は深谷宿の本陣・〔近江屋〕彦右衛門方。

11月2日 深谷宿を朝発ちする前、平蔵(へうぞう 36歳)は、佐千(さち 34歳)がくれた2分(8万円)を懐紙に包み、
松造(よしぞう)。長旅、苦労であった。わ;れは、蕨宿で2日ほど静養してから屋敷へもどる。おぬしは、蕨からそのままお(くめ 40歳)のもとへ帰り、長いあいだひとり寝をさせたうめあわせをたっぷりしてやれ。ただし、2日目の八ッ(午後3時)ごろ、われがおぬしの家へ寄ったら、いまの旅支度で屋敷へ連れだってきてくれ。これは、お(つう 13歳)への土産代だ」

主従は、その日の七ッ半(午後2時)に、蕨宿の本通り、旅籠・〔林〕源兵衛方の前で別れた。
平蔵が門口に立つと、番頭が飛びでてき、
「お連れさまが、1刻(2時間)も前にお着きになり、お待ちかねでございますよ」
小女に、すずぎの水を---と叱りつけた。
里貴(りき 37歳)がこころ遣いをはずんだにちがいない。

離れの手前で、大声で、
「奥方さま。お着きでございます」

里貴が笑顔であらわれた。
平蔵がうなずき返し、部屋へ入った。
うしろ手で襖をしめるや、飛びかってき、口を吸い、腰をすりつけた。

「もういや。待つ苦しみは、もう、いや」
涙声であった。

「道中羽織と袴を脱ぐまで待ってくれ」
里貴が手をのばし、羽織を脱がせ、袴の結び目をほどいた。

着物の前をまさくり、平蔵のものを掌でつかむ。
たちまち、起立した。
「迷子にならなかったでしょうね」
里貴を待ちかねて、このとおりだ」
「お布団、敷きますか?」
「まだ、陽が高い。それに、湯を浴びたい」
「いっしょに浴びます」
「宿の者がわらうぞ」

わざとらしい足音がし、
「ごめんください。お茶をお持ちしました」
里貴が細くあけ、受けとり、湯のことを訊いた。

「すぐ焚きつけますから、小半刻(30分)ばかりお待ちください」

そのあいだに、どうしていいかわからなくなった里貴は、平蔵の胸元をひらいて乳房を吸ったり、股に手を入れたり、落ち着かなかった。
しまいには、片方立て膝をして裾を割り、平蔵の手をみずからの秘所へみちびいた。
「あの寝衣、持ってきました。着替えますか?」
「すぐにでも抱きたいのは、われも同じ気分だが、夜は長いし、2人きりなのだ。落ち着きなさい」
「もう、躰中に火がついたみたいに熱くなってきていて、おさまらないんです。ほら---」
袖をまくり、淡い桜色に色づいた腕をみせた。

気がついたように、部屋のすみにおかれた道中荷物をほどき、きれいにたたまれた下帯の上におかれた使いずみのものを鼻で臭(にお)いをたしかめ、
「いまお召しのもお外しくださいな。風呂で洗います」
「湯殿で外せばいいだろう」
「それもそうですね」
笑った。
男の下帯を洗うという些細なことで、世話を焼きながらともに生きていることを実感したがっていた。

平蔵が湯殿へ去ると、里貴は浴衣に着替え、下にゆ文字をつけ、下帯を手に脱ぎ場へきた。
平蔵が浸かっている脇から湯をくみとり、躰を脱ぎ場においたまま、手は洗い場にだして下帯をもみながら、
「与板の〔備前屋〕さんには、きれいな女中がいましたか?」
とっさに両掌に湯をくみ、顔に流し、
「きれいな女中はいなかったが、美人の後家の女主人がいた」
「お幾つの後家さまでした---?」
「13歳の男の子と10歳の女児のいたから、30を2つ3つ、でたというところかな」

「この下帯についていたのは、その後家さまの、あの匂いでございますね?」
「そんなはずはない---」
「でも、いまお外しのとでは、匂いがちがいます」
里貴は、妬(や)きごころをださないから、いいおんなだとおもってきたが---」
「匂いのこと、うそでした。はしたないことを申しあげました。お許しくださいませ」


参照】2011年3月5日~[与市へのたび] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (19) 

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2011.03.21

与板への旅(17)

翌日。
佐千(さち 34歳)は、供の女中と下僕にものをいいつける豪商〔備前屋〕の気丈な女主人に戻っていた。

昨夜、平蔵(へいぞう 36歳)に甘えきり、快感にひたり、性をむさぼりつくしていた同じおんなとは見えなかった。
(おんなは変わり身が速い)

船会所が設(お)かれている西福寺の西詰、柿川に架かっている常盤橋下で小舟に乗り、そのまま信濃川へ出、ちょっと川下の渡舟場で帆船に乗り換え、与板までくだる。
来るときもその帆船で遡(さかのぼった。

平蔵は、さりげなく常盤橋の橋げたにもたれ、別れの視線を投げた。
舟上の佐千も、従者に気づかれないように、胸の前においた腕の指を折って応じた。
(こんどの旅は、天女が天ノ河(あまのかわ)を舟で会いにくるような、妙な旅だな)
平蔵は苦笑し、橋を離れた。


旅館〔ますや〕四郎兵衛方を松造(よしぞう 30歳)とともに引きはらったのは、五ッ半(午前9時)であった。
勘定をいうと、番頭が、
「〔備前屋〕さんからいただいております」

支払いといえば、昨夜の〔たちばな〕で先払いした分を、有無をいわさず、2分(8万円)押しつけられた。
先払いしたのは1分で、帰るときに〔たちばな〕から2朱(2万円)返された。

さらに、六ッ(午前6時)に〔たちばな〕を出るとき、佐千が餞別といって2両(32万円)包んだものをよした。

「朝発(だ)ちがこんな時刻になってしまったから、泊まりは越後川口でよいか?」
「そういたしましょう」

松造は、平蔵の朝帰りのことは口にしなかった。
ただ、女房・お(くめ 40歳)に一刻も早く会いたがっていることは、態度で察しがついた。

長岡城下から越後川口までは三国街道をr5里6丁(21km)。
日暮れ前に着けるはずであった。
本陣・〔中村屋〕藤太郎方に入ったのも、なにかの因縁であったろうか。


翌日は、早発(はやだ)ちし、五日町で昼餉(ひるげ)を摂(と)り、湯沢の本陣・〔村松屋〕助右衛門方へ投宿した。

3泊目は、大事をとり、三国峠の手前、浅貝宿の本陣・高野源左衛門方に泊まった。

4泊目も大事をとり、中山峠の手前の中山宿の問屋・徳右衛門方に宿を頼んだ。

中山宿から高崎城下まで、ざっと9里(36km)強。
5泊目は高崎の本陣・〔大黒屋〕九兵衛方。

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(三国街道 越後川口から高崎 青蛙房『五街道細見}』付録図)


参照】2011年3月5日~[与市へのたび] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (18) (19) 


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2011.03.20

与板への旅(16)

「湯をあびるか?」
案内されてきた佐千(さち 34歳)に訊いた。

「〔ますや〕さんに着いてすぐに遣いましたが、長谷川さまとごいっ---」
「ここでは初瀬(はつせ)だ」
「そうでしたね。さまとごいっしょなら、うれしい。もいちど、温まりましょう」

料理がはこばれ、屏風の向こうには派手な布団がすでに延べられていたが、湯殿へむかった。
こういう家らしく、湯桶は長方形の板風呂で、2人が向いあって浸かると、脚がお互いの秘部にとどく寸法になっていた。

足の指を動かしているうちに、気が高まってきたのか、股に乗り、抱きついてきた。
顔の前にきた乳頭を吸い、舌でころがせた。
与板で、八ッ口から手がはいったときにも、太いなと感じたが、こうして湯殿の灯の明かりでみると、2児と亡夫に吸わせた分、色合いも濃かった。

松造(よしぞう 30歳)が女房・お(くめ 40歳)の女躰のことを、練れきり、どこからでも火が燃えあがるといっていたが、佐千の、この太く、そしていまは堅く佇立してきた乳房も発火ヶ所の一つなんだろうな)

おんながかすかにあえぎ声をもらし、腰をつよく推しつけはじめた。

佐千。酒が待っている」
「ええ」
「次に漬かったときに、な」

佐千が、辛口〔城山(じょうざん)〕の小徳利を風呂敷に包んで持参していた。
「雪がないから、燗をさせますか?」
「いや、持ち込みは嫌われるし、徳利に書かれた文字で、身許が割れないでもない。このままの冷やでよい」

裏の柿川の生簀(いけす))に入れている信濃川の鯉の洗いが主皿であった。
差しつ差されつしながらも、佐千はため息まじりに愚痴を吐きつづけた。

「昨日は2年ぶりに、おんなとして生き返りました。まだまだ、おんながつづけられるとうれしゅうなりました」
「しかし、今宵かぎりでお別れだ」
「また、来越してくださるのでしょう---?」
「役についている幕臣の身に、そのような自由はない」
「私が江戸へ出向きます」
「室がいるのでな」
「お休みの日だってありますでしょう?」
佐千。その話は、もうやめよう」
「はい。今夜も、おんなによみがえらせてください」

寝床でも、同じような会話がくりかえされた。
佐千をおんなにしてくれる男は、いくらでもいるであろうに---」
「私の躰や、〔備前屋〕の財産目当ての男などには、目もくれません」
「われは---そうではないと?」
「私から、それとなくお誘いしたのに、2夜ともお逃げになりました」
「〔備前屋〕の稼ぎのからくりには興味はある---が、〔備前屋〕の亭主には興味もないし、なる気もない」
「ほら、下こごろがまったくないお人に、初めて出会いました。だから、さまなら、私を救ってくださると信じたのです」
「越後と江戸は、遠すぎる」
「こんなに近い。ぴったり重なっています」
「ふ---舌ごころだぞ」
「いい---」


佐千が枕もとの鈴をふり、寝着の前をあわせ、小粒をひねり、襖の外で声をかけた女中に、
「湯は、使えますか?」
「ええ。どうぞ---」
すばやくにぎらせ、平蔵を呼んだ。

湯枠の中では、股に尻から乗り、平蔵の両手をとって乳房にあてた。
もまれているうちに気が満ち、平蔵のものをみちびき挿(い)れ、乳房にあった手の中指を、茂みの敏感な部位に触れさせた。

「動くな。奥でじっと感じていよ」
「わかります。ぴくついています」
佐千のも、なめくじのようにうごめいておる」

仰向き、唇をさしだす。
片方の腕で首をささえてやり、舌をからませた。

「力が萎(な)え、沈みそう---」
(そういえば、18年前、佐記は、流れに身をまかせるのが法悦といっていた。

参照】2008年4月3日{〔初鹿野(はじかの)〕の音松] () 

佐千も、平蔵に尻から責められ、白い肌を紅(くれない)に燃えあがらせ、おんなを満喫していた。


参照】2011年3月5日~[与市へのたび] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (17) (18) (19) 

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2011.03.19

与板への旅(15)

翌朝。
〔備前屋〕本店の者たちが、陣屋へあいさつに行く平蔵(へいぞう 36歳)主従を見送る中、女主人の佐千(さち 34歳)が手ごろな酒徳利に紙片をつけて手渡し、
長谷川さま。〔ますや〕の場所でございます。七ッ(午後4時)には、お待ちしています」
ささやいた。

藤太郎(とうたろう 13歳)は、陣屋から信濃川の渡舟場までつきそってき、平蔵へ黒い小石を手わたし
「雪が解けたら、江戸へ上ります。これは黒川の川原の石です。お持ちくだ゜さい」
舟が対岸へ着くまくまで左岸で手をふっていた。

昨夜は、母・佐千に許され、盃に盛ったざらめ雪にかけた辛口酒〔城山(じょうざん)〕を何杯呑んだろう。
はやばやと酔いつぷれ、寝床でのびた。
さすがに若さと酒造りの家の子である、朝には宿酔(ふつかよい)もしていなかった。

藤太郎が眠るとすぐ、佐千は湯殿で躰を清め、浴衣を羽織っただけのまま居室の布団の中で平蔵を待っていた。

信濃川左岸から右岸へは渡し舟に乗った。
佐千からにぎらされた紙片を舟中でひらいてみた。

長岡城の大手門からまっすぐに西へのびた筋に〔大手どおり〕と記し、それに十字に交差させた道筋の北側の左側に黒丸をおき、〔表(おもて)三之町〕と入れ、旅館〔ますや四郎べえ〕。

〔備前屋〕となにかのかかわりがあり、自由がきくのであろう、昨日の夕刻に使いをだしたといっていた。


右岸の舟着きから長岡城下までは2里30丁(11km)。
長岡から江戸は76里(304km)。
譜代・牧野家がつくりあげた城下町であった。

いまの藩主はこの春、奏者番に任じられた牧野駿河守忠精(ただきよ 22歳 7万4000石)で、英邁の風聞が高い。

〔ますや四郎兵衛〕方に旅装を解くと、松造(よしぞう 30歳)を長岡城中の盗賊奉行・稲垣主膳(しゅぜん 40歳)のところへ、幕府・火盗改メの(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳)の添え状をを持たせ、訪問の応否を訊かせにやった。

平蔵は着流しでぶらりと出、寺がかたまっている渡里(わたり)町の花屋の中から老婆をえらび、花を買い、過分の金子をにぎらせ、男女が密会できる気のきいた宿を聞き出した。

「そら、お武家さん、そこの願浄寺さんの横手に、〔橘(たちばな)〕と、小さな雪洞(ぼんぼり)を掲げたお家がそれさ。懐の暖かい大店の後家さんたちが使っているってことだによ」

訪ねると、昼間から女中がいそがしげに働いていた。
庭に面した離れを六ッ(午後6時)から一夜ということで先払いをすませ、花を部屋へ飾っておくように頼んだ。

稲垣盗賊奉行はお待ちしているとの返答であった。
衣服を改めて参上した。

稲垣奉行は、家老の家につながる仁で、たあいもない自慢話を長々としゃぺったすえ、
「明和9年(1772)の大火では、西ノ久保の上屋敷も愛宕下の中屋敷も類焼し、再建に難儀をしての」
そのときに放火犯を挙げた長谷川備中守宣雄(のぶお)の名は、ついにでなかった。
与板藩に何用できたかも訊かれなかった。

明日の夕餉(ゆうげ)をともにするつもりでいた平蔵であったが、無駄だとおもった。
「盗賊お奉行はお2人とお聞きしておりましたが---」
「激務ゆえ、1ヶ月交替で当番しておっての」
うれしそうに応じた。

帰ると、
「〔備前屋〕さんがお着きになっておられます」
番頭が告げた。

「噂になると、佐千どのの風評に傷がつくから、夜は口実をもうけ、知人のところへ話しに行く。もしかしたら、そちらで泊まるやもしれないと、従者、旅館へことわり、願浄寺さんの横手の〔橘(たちばな)〕へ、初瀬(はつせ)を訪ねて六ッ(午後6時)にお越しあれ」
略図つきの文を松蔵にとどけさせた。

江戸の里貴(りき 37歳)あて、問屋場で飛脚をたてた。
「8日後の11月2日の七ッ(午後4時)には、蕨宿の本町通りの旅籠〔林〕源兵衛方に着いていよう」

(こんなこととは、もう縁切りにしなくてはな---)
胸のうちでのそのつぶやきが、佐千とのことなのか里貴とのことなのかは、ちゅうすけには分別がつかない。


参照】2011年3月5日~[与市へのたび] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (16) (17) (18) (19) 


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2011.03.18

与板への旅(14)

長谷川さま。藤太郎(とうたろう 13歳)の母として、お礼をいわせてくださいませ」
平蔵(へいぞう 36歳)の手を両掌ではさんだ佐千(さち 34歳)は、その手をわが胸へあてた。

着物の上からでも、胸のふくらみが伝わってきたが、
藤太郎どのに、どのようなよいことをしたかな?」
とぼけた。

「〔備前屋〕の全財産を積んでも購(あがな)えないような気位をお与えくださいました」

片掌を放した佐千は、平蔵の手を八ッ口へ押しこんだ。
平蔵の指が、おんなの肌にとどいた。
乳房のふもとであった、
着物の上から、佐千が胸元に達していた手を圧し、
「一人前の男として遇してくだされたと、藤太郎は天にものぼるほどに誇りにしております」

佐千が上半身をよじったので、平蔵の指が乳頭に達してしまった。
堅く突起していた。
3児にふくませた久栄(ひさえ 29歳)のと同じように、太くもあった。
(2児をそだてたのだからな。とうぜんだ)
児をなしていない里貴(りき 37歳)のそれになじみすぎていた。

この乳首でそだった子の一人が、いま、話題にのぼっていた。
自然に指が動いた。

「あれしきのことを、藤太郎どのは、それほどに喜んでくれていたか」
長谷川さまと秘密を守る堅い約定をしたから、私にも洩らせないと申し、得意になっております」

さらに躰を移した。
平蔵の指が右の乳房へ触れた。

「私とも秘密をおつくりくださいませ」
「------」
「ここでなら、洩れませぬ」
上躰をあずけ、左腕を抱くようにまわしてきた。

唇が平蔵の耳朶を噛み、押し倒した。
かすかに、襦袢が裂ける音をたてた。

唇が重なった。

「待たれよ。袴を脱(と)る」
「うれしい」
藤太郎どのに知れると、軽蔑---いや、憎まれよう」
「知れるはずはありません。私も秘密を守ります」

袴を脱ぎ、足首だけを炬燵の布団に入れ、仰向けに寝た。
待ちかねていた佐千が裾をひらき、下帯の前あてをはずした。
平蔵のものが興きあがっているのを、いとおしげに唇で愛(め)で、幾度もため息を吐き、うめいた。

鳥の鋭い啼き声がした。
「百舌(もず)です。冬場の餌をあさっているのです」

「こんなふうに---2年ぶり」
「亭主どのは---?」
「病臥(ふせ)ったきりで逝きました」

横に寝た佐千の秘所へ指が触れた。
充分すぎるほど潤っていた。

まさぐりながら、
「守りきればいいものを---」
「そのつもりでおりました。でも、長谷川さまにお会いした瞬間、守りきれないと悟りました」
「あの下帯で、か?」
「いいえ。湯殿でお裸を目にして、あのお腕に抱かれてみたいと---」

腰が動いたとたん、指がすべりこみ、おんながうめいた。


2人とも、着物をつけたままであったから、終っても、ちょっと身づくろいをなおすまでのことであったが、佐千のほうは帯をむすんでいるので、横たわるしかなかった。
平蔵も向きあった。

「守っていた操(みさお)を破り、後悔していないか?」
「とんでもございません。うれしゅうございました。長谷川さまのなによりのお宝を、存分に受けとめさせていただきました」
「ややができるかもしれないぞ」
「かまいません。私は、ここの主人でございます。藤太郎も、長谷川さまからの弟と知れば、よろこびましょう」
「そうであってほしい」
指は、お互いものをなぶっていた。
もよおしてきそうであった。

「ただ、こころのこりは、肌と肌が触れ合えなかったことでございます。今宵、藤太郎の代わりにおそばで眠りとうございます」
紅潮してきていた。
平蔵の指が中で這っていたのである。

「今夜、藤太郎が眠りこんだら、この部屋へお渡りになってくださいませんか?」
藤太郎が目覚めるかもしれないぞ」
「お酒(ささ)で眠らせましょう」


参照】2011年3月5日~[与市へのたび] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.17

与板への旅(13)

米穀商も兼ねている廻船問屋〔大坂屋〕七兵衛(しちべえ)方へ賊が押し入ったのは、一昨年の秋であった。

〔大坂屋〕は〔備前屋〕から半丁(550m)も離れていない北新町に米穀の小売りの店を番頭にまかせていた。
2年前の事件のことは、番頭の半右衛門(はんえもん 50歳)が応対した。

「このあたりでは、裏にまで塀をまわしているところはございません」
無防備に近いといってよかった。
賊は、やすやすと裏から侵入できた。

「商いは、ほとんど節季ばらいですから、現金はあまり置いておりません。貯まれば河岸場の本店へ運びますから、奪われたのは10両(160万円)ちょっとでございました」

(さすがに豪商の番頭だ。10l両の盗難をこともなげにいう。しかし、お定書(さだめがき)には、10l両盗めば打ち首の刑としっていように---)

平蔵(へいぞう 36歳)は、そんなおもいは毛ほども面にみせず、
「賊の首領の言葉づかいで気がついたことがあったら教えてほしい」
きっかけをあたえられて半右衛門は、
「そういわれますと、長岡弁を無理に江戸ふうに直しているように感じました」
廻船問屋で鍛えられており、藩の外のことにも通じているところを示した。

陣屋からきつく申しわたされていたのであろう、、午餐(ごさん)は、店の者とおなじで肩身がせまいがと断りながら海魚の干物を添えたのをだした。

お茶になり、
「番頭どの。打ち合わせがあるから、伴の者と2人きりにしてくれ」
去らせた。

松造(よしぞう 30歳)へ声をひそめ、
「なに。わざわざ話しあうことなど、ありはしない。しかし、〔馬越(まごし)〕の仁兵衛一味を人別をもたせてこの里からおっ払い、戻ってはこれないだけの噂のしかけはできたのだ。だが、さも、密議でも凝らしているiようにみせかけ、噂の火をあおるのだよ」

合点した松造もささやいた。
「いつまで逗留なさいますか?」
「お(くめ 40歳)の肌が恋しくなったか?」
「ご冗談を---」
「あんまり簡単にすませてしまうと、与板侯井伊兵部少輔直朗 なおあきら 35歳 藩主 2万石)が路用が少なかったから手を抜いたとおひがみになろう。あと2日の我慢だ」
「承知いたしました」

午後は、小間物店と絹綿織物所から事情を聞いた。

{備前屋〕へ戻ると、番頭の伍兵衛(ごへえ 43歳)が、平蔵を通り土間の端へ導き、
「ご主人が、お待ちかねでございます。ご案内したします」
「客間ではないのか?」
「いいえ、こ主人のお部屋です」

先代が寝ついているという離れの西、平蔵が寝泊りしている客間からは見えない位置に佐千(さち 34歳)の居室があった。

「お戻りになりました」
襖の外から告げ、番頭は引き返していった。

「どうぞ、お入りくださいませ」
内からのすすめにしたがい、襖をあけた。
使いこまれた趣味のいい家具と、なまめいた色あいの布団をかけた櫓炬燵(やぐらこたつ)が目にはいった。
佐千は炬燵に膝をいれていた。

部屋には、記憶にある香りがただよっていた。
田沼意次(おきつぐ 64歳 老中)の木挽町(こびきちょう)の中屋敷の侍女・於佳慈(かじ 31歳)の部屋を満たしていたのとおなじような、男ごころを誘う香りであった。

参照】2011年2月23日[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (

「冷たい風が入ります。襖をおしめになり、足を入れてお暖まりくださいませ」
左手の布団をめくり、いざなった。

平蔵が座につくと、
「今宵は、松造さまは河岸場の店のほうでございましょうね?」
「いや、それが------」
「そうなさってくださいませ」
松造がいてはお困りのわけでも---?」
藤太郎(とうたろう 13歳)が、長谷川さまのお隣で眠りたいと申しております」

「さようか。では、松造にそう申しつけよう。ところで佐千どの。明朝、陣屋へうかかがい委細を述べ、長岡でいくつか探索をすることにあいなった」
「お発(た)ちになるということでございますか?」
「さよう」
「あいわかりましてございます。では、今宵はお別れの酒盛りをいたしましょう」

そして、腰を動かしてにじり寄り、平蔵の手をとった。


参照】2011年3月5日~[与市への旅] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 


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2011.03.16

与板への旅(12)

八ッ(午後3時)に部屋へきたのは、8人だった。
佐千(さち 34歳)と息子・藤太郎(とうたろう 13歳)と妹・紀和(きわ 10歳)。
表の手代と小僧が一人ずつに、奥の女中が2人と下僕。

おもったより人数が少ないのは、狭い陣屋町なので通いの者が多いことと、河岸場の店や質屋、醸造場のほうに分散して寝泊りしているからであった。

「離れに臥(ふせ)っております父は、躰の自由がままなりませんので---」
佐千がいいわけをした。

それぞれの話をあわせると、賊は4人、裏山側の築山の庭を抜け、雨戸を1枚はずして侵入した、
女中が気がついたときには抜き身をつきつけられており、声も出なかったという。

こういうときのために、おとりの金庫に用意してあった32両(512万円)を手代がわたすと、みんなを縛りあげて去った。

(32両を5人でわけたら1人5両(80万円)ずつで、首領が12両(192万円)。江戸までの泊まり賃と揚げ代にはお釣がこよう)
平蔵(へいぞう 36歳)は腹の中で暗算した。
「おとりの金子をあらかじめ用意しておくという工夫は---?」

返事はなかったが、夕餉(ゆうげ)の席で、女中を引き下がらせたあと、佐千が打ちあけた。
「工夫をおもいついたのは私です。信濃川の氾濫、;冷害のほどこし米、藩からのご用金をいいつかったとおもえば、あれくらいのものですめば「御(おん)」の字でございます。使用人たちには聞かされませんが---」

「たいした肝の大さで---江戸だと、裏長屋の一家の3年分の費えです」
同席していた松造(よしぞう 30歳)が感嘆した。

「ここでは、5年はもちます」
佐千は、こともなけげ応じた。

酒は初手から、ざらめになった氷室の雪に辛口の{城山(じょうざん)〕で始まった。
今宵は、佐千も自分の盃をいいつけて相伴していたが、酔いがまわりきる前に、
佐千どの。じつは、松造と打ちあわせがあるので、食事がおわったら、松造の床も延べていただきたい」
佐千のまなじりが動いたが、さりげなく、
「あと、いかほど、ご滞在いただけましょうか?」

「さよう。被害にあっておる〔大坂屋〕など数軒をまわるから、あと2日はお世話になろう」
佐千が安堵し、盃を干した。


参照】2011年3月5日~[与市へのたび] () () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.15

与板への旅(11)

藤太郎どの。さきほど住職どの話しあったこと、それからそこの稲荷町の茶店の爺ィやiに訊いたことは、誰にも洩らしてはならぬ。母者にも、だ」
「はい、洩らしません」


平蔵(へいぞう 36歳)と藤太郎(とうたろう 13歳)は、塩ノ入(いり)峠への辻まで戻ってきていた。
脇差から小柄(こづか)を抜き、藤太郎に柄(つか)をもたせ、
「武士は、約定をたがえないというとき、小柄で太刀の刀身を打つ」
脇差の鯉口をきり、刀身を示した。
「さ、打て」

この作法に、藤太郎は興奮した。
長谷川さまは、私を武士あつかいなさってくださいますか?」
「ご先祖は備前の武将であったと聞いておる。さすれば、藤太郎どのにもその血が伝わっておるはず---」

長谷川さまは、剣術はお強いのでございますか?」
「江戸ではもっとも達人と尊敬をしていた師から免許をさずかったが、試してみたことはない」
「尊敬します」

稲荷町の茶店の爺ィやにすこしばかり用があるからといいふくめて藤太郎を先に帰した。
その後ろ姿に目をやり、
(純朴に育った13歳だな。引きかえ、屋敷の小間使い頭の佐和(さわ 32歳)に13歳で初穂をつまれた菅沼藤次郎はやはり都会の子だな)

参照】2010721~[藤次郎の初体験] () () () () () () 

辰蔵の初体験がいつになるかは、いまはかんがえないことにした。

「先刻聞いた、{阿弥陀(あみだ)屋」の亭主を呼び出してもらいたい。江戸の火盗改メだと告げてくれ」
爺ィやとしか聞かされていなかったので、名前で呼びかけられなかった。
平蔵とすると、めったにない手ぬかりといえた。
人は、名前を呼ばれることでこころをひらく。

火盗改メといわれ、爺ィやは目を丸くし、飛び出していった。

「{阿弥陀(あみだ)屋」の主(あるじ)でございますが---」
あらわれたのは、50すぎのふくよかなおんなであった。
「女将どのか。江戸の火盗改メの手伝いをしている長谷川と申す」
「はい---」
「馬越村の仁兵衛がなじみであろう?」
「それがどうか---?」

「きょうより先、仁兵衛は与板領に入り次第、たちまち捕縛される。女将の店に迷惑がかかっては気の毒ゆえ、前もって告げておく」
「------」
おんなは、容易には信じなかった。

「いまごろ、光源寺の老住職が仁兵衛のところへ走っているであろうよ」
このひと言で女将の顔色が変わった。


【参照】201135~[与市へのたび] () () () () () () ()  (9)  ((10)) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.14

与板への旅(10)

藤太郎)と並んで歩くと、向うからくる里人が、丁寧にお辞儀をした。
はじめは武家に対する里人の慣(ならわ)しとおもい返礼したが、すぐに〔備前屋〕の将来の主(あるじ)である藤太郎へのあいさつとわかった。

藤太郎どのは偉いのだな」
「私への尊敬ではありません。〔備前屋〕の金倉へ頭を下げているのです」
「悟っておる---」
「ご先祖が、飢饉のときに米麦をふるまったり、田畑を質にとってやったりしているのです」
藤太郎どのもそうするつもりかな---?」
「もちろんです。そうしなければ里人がいなくなり、〔備前屋〕もやっていけなくなります。里人あっての〔備前屋〕です」
「えらい! ところで、お茶をのませてくれる店はないかな?」

〔備前屋〕から馬越村までは10丁(1km強)だが、左は昨夜樹々がうなった山裾で、右は先へいって信濃川へ合流する黒川であった。

「馬越村は、与板村と同じ三嶋郡(さんとうこおり)ですぐそこですが、牧野駿河守忠利 ただとし 29歳 7万4000石)さまのご領内で、私の顔がききません。塩ノ入(いり)峠への辻の稲荷町の爺ィの茶店なら---」

爺ィは、藤太郎が8歳まで〔備前屋〕で下僕をしていたが、父・藤左衛門(とうざえもん 享年40歳)が店の権利を買ってやったのだという。

「坊んちさま---」
爺ィは、もう涙目になっていた。
「江戸からお見えになった長谷川さまとおっしゃる---」
「いや、おかまいなく---ひとつ、聞かせてもらいたい。このあたりで、若い男が遊ぶとすれば---」

爺ィが藤太郎を気にしながら、平蔵の耳にささやいた。
「渡船場に近い原町に、そういうおんなをおいとる店---〔阿弥陀(あみだ)屋〕ってバチあたりな屋号をつけやがって---」
「かたじけない」

馬越村のとっかかりの光源寺へ平蔵は躊躇しないで入っていき、訪(おとな)いを乞うた。

60歳を越えている住職は、江戸から火盗改メの手の者とのふれこみできた平蔵に、考え考え応えた。

まとめて記すと、馬越村の檀家は30戸に欠ける。
仁兵衛の名をだすと、
「やっぱり、な」
「なにが、やっぱり---かな?」
「盗賊改メのお役人がわざわざ越後くんだりまで見えたからには、仁兵衛は他国で盗人をしておるのでしょう。母親は、仁兵衛は出稼ぎにいっておると村人にいっておるようじゃが---」
「人別(にんべつ)は、ご坊が---」
「墓があるでのう。それに盆と彼岸のお布施もきちんともらっておるしの」

「じつは拙が参ったのは、与板侯井伊兵部少輔直朗 なおあきら 35歳 与板藩主 2万石)のご依頼でな。こんご、昼夜を問わず、与板領内で見かけ次第、捕縛することになった」


【参照】201135~[与市へのたび] () () () () () () ()  (9)  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.13

与板への旅(9)

あくる朝。
宿泊していた黒川左岸の河岸場店のからやってきた松造(よしぞう 30歳)と簡単な朝食を摂りおえたのを見はからっていたように、番頭の伍兵衛(ごへえ 43歳)があいさつにはいってきた。

「出雲崎湊の店へ出向いており、昨夜戻りまして、ご挨拶がおくれました。ご不自由はございませんでしたか?」
「番頭さんは、この屋敷にお住まいで---?」
「いいえ。1丁(100m強)ほど南の舟戸町から通わさせていただいております」

おだやかな風貌だが、芯はしたたかな商売人の風情がにじんでいる伍兵衛に、
「それでは、昨年の秋に襲われたときに、この屋敷にいたものを、八ッ(午後3時)にこの部屋へ集めておくように---」

伍兵衛が退去するのを見すまし、
松造、昨夜、河岸場の店のほうに、変なことはなかったか?」
「変なことと申されますと---?」
「遅くに出入りした者はいなかったか?」
「2度ほど、くぐり戸が開いたような---」
「お主(ぬし)は、河岸場の店へ戻り、出入した者の用件を訊きだしておいてくれ」
「殿は---?」
「ここの嫡子・藤太郎の案内で、馬越村へ行ってくる」

出ていった松造と入れ替わりに入ってきた佐千(さち 34歳)は、髪型を変えていた。
「今朝のそのお髪(ぐし)は---?」
「しのぶ髷(まげ)というのだそうです。都(みやこ)で流行(はや)っているとか---」
胸元からだした折った紙をひらき、示した。

〔都板[化粧(けわい)指南読みうり〕で、しのぶ髪を結ったおんなの絵は、まぎれもなく北川冬斎の筆であった。
この板の主題は、「面高(おもだか)の顔をさらに引きたてる法」。

(〔佐阿弥(さあや)〕の角兵衛(かくべえ 40なかばすぎ))どんも〔彦十(ひこじゅう 46歳)も、なかなかにやるではないか)
最新の板行らしく、江戸へはまだとどいていなかった。
 
参照】2009年8月15日[与力・浦部源六郎] (
2009年8月25日[化粧(けわい)指南師のお勝] () () (4
 
ついとへ寄りそった佐千の髪から、その気をそそる麝香(じゃこう)系の香油が強く匂った。

「その髪型、お似合いだ」
「仮(かりそめ)であっても、そのお言葉、うれしゅうございます」
(そういえば、22年前、芙佐(ふさ 25歳)も、おれのものを自分へみちびき入れながら、「仮(かりそめ)の母者」といったなあ)

参照】2007年6月17日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

平蔵(へいぞう 36歳)は、顔が熱くなってきているのを悟られないように、
藤太郎どのは支度ができたかな?」
「張り切って、表でお待ちしております。それから、長谷川さま---」
またふところへ手を入れ、とりだしたのは昨日の平蔵の下帯であった。
湯のしがほどこされ、きちんと畳まれていたのを受けとると、佐千の肌で暖められていたことがわかった。

「手数をかけ、申しわけない」
長谷川さまの匂いがついておりました」
嫣然と瞶(み)ている30おんなの、濃厚な息吹きを感じた。

藤太郎を待たしては悪い」
あわてた平蔵は、おもわず下帯をたもとに入れそうになった。


参照】201135~[与市への旅] () () () () () () ()   ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.12

与板への旅(8)

(拒めるか。いや、拒めまい。与板侯の笑いものになりそうだ)
布団の中で、平蔵(へいぞう 36歳)は、われにもなく躰を硬くし、薄目でうかがっていた。

ふすまの開き口に立っていたのは、寝衣の襟元を乱した佐千(さち 34歳)であった。
白い乳房がこぼれきっていた。

佐千は、踏みだそうか、とどまろうか、逡巡していた。
また、樹々が風に鳴った。

その音が、佐千を正気にもどしたらしい。
ため息がもれ、襖が閉まった。

(助かった)
平蔵の実感であった。
苦笑しながら、これまでに抱いたおんなの数を指を折っていた。
久栄(ひさえ 27歳)をいれると、10指にあまったが、しっかりと触感がよみがえったのは、なんと、14歳のときの初体験をさせてくれた芙佐(ふさ 25歳)と、6夜前に2夜をすごしばかり、透きとおるほどの肌を胸元から淡い桜色に染めやまなかった里貴(りき 37歳)であった。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] 

(抱きあっているときは、たしかにそこに入り、力み、燃え、襞の粘りまで実感していたのに、いまとなっては虚妄のようだ)

明宵、裸身の佐千が横に入り、脚をからませてきたら、拒めまい。
与板藩の役人に申しで、宿を変えてもらうか。

それでは佐千、ひいては〔備前屋〕に恥をかかすことになろう。
そのことは、西丸・若年寄の井伊侯兵部少輔直朗 なおあきら 35歳 与板藩主 2万石)の耳にでも入れば---。
そのことより藤太郎(とうたろう 13歳)が噂をしれば、こころに大きな傷をもとう。
(困った)

(待て)
藩の依頼で泊めた客人の何人かに、佐千が今夜のような所作におよんでいたら、とっくに領内の噂になっていたろう。
(すると、おれのどこかから、おんなに弱い匂いがにじみでていたことになる。蕨宿で2夜をすごした里貴の秘所の香気がどこかにのこっていたか?)

おもいいたり、おもわず、起きあがった。
与板への冬の訪(おとな)いは、さすがに早い。
夜気の冷気に身ぶるいし、布団をかぶった。

(佐千が脱ぎ場からもちさった下帯は、もしかしたら、蕨宿を発(た)つ朝に着したものかもしれない。
あの夜は、明け方まで里貴と睦んでいた。
そのまま、下帯をつけた。

もちろん、次の次の宿で洗いはしたが、早発ちだったから洗いが足りなかった---それで、佐千の鼻が嗅ぎとった---。
(馬鹿も休み休みにしろ。そんな詮索のために与板くんだりまできたのではあるまい)

報じているちゅうすけのほうが、あきれている。
独りよがりもいい加減にしてくれ、平蔵どん。
それが、お前さんの悪いくせなんだよ。
捕り物に徹しなって。


【参照】201135~[与市への旅] () () () () () () ((9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 


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2011.03.11

与板への旅(7)

新しいちろりに銚子をのせた佐千(さち 34歳)は、男の子をしたがえていた。

「息子の藤太郎(とうたろう 13歳)でございます。走りづかいにお役て立てくださいませ」
「おう、立派な男子(おのこ)よ。拙が嫡子(ちゃくし)・辰蔵(たつぞう)も藤太郎どのより1歳下の12歳でな」
「お子さまはお一人でございますか?」
「いや。下に女児(じょじ)が2人---。女将どののところは---?」
藤太郎と3つ違いの妹がおります」
(子どもの話題も、母親の琴線をつまびくのではなかったか?)

辛口の〔城山(じょうざん)〕が注がれた。
「美禄(びろく)とは、まさにこのこと」
「そのお言葉を杜氏(とうじ)たちにも聞かせてやりとうございます」

平蔵(へいぞう 36歳)が、つい、もらした。
「この美禄を雪中で愉しみたかった」
「なんとおおせられました?」
「冷やで味わいたいといったのです」
「燗でなく---?」
「これほどの美酒なれば---」
藤ノ棚の里貴(りき 37歳)の部屋での、みだらな装いで酌み交わす冷や酒をおもいだしたのであった。

佐千が微笑み、藤太郎にいいつけた。
「下働きのだれかに、氷室(ひむろ)から〔城山〕の徳利を取ってこさせなさい」

藤太郎が去ると、
「氷室とは---?」
「冬の雪をどっさり貯め込んだ穴倉でございます。ことしの新雪まで、ざらめのようになって残っております」
「さすが、雪国、よい思い出になりそうだ」
長谷川さまの与板でのよい思い出になれば、佐千もうれしゅうございます」
(ぬかった。また、禁句を口にしたようだ)

総朱塗の木盃をすすめると、2注ぎ目を求められた。
「お強い---」
「酒づくりどころの女将でございますゆえ---」
嫣然(えんぜん)と微笑んだ。

「家つきの---?」
「はい。わがままな性悪(しょうわる)おんなに育ちました。おほ、ほほほ」

「すると、亡夫どのは---」
と訊きはじめたところで、藤太郎が小さな徳利を手にしてあらわれ、
「大徳利は氷室へもどしたけど、足りなかったら、また移すからって---」
どうやら佐千の酒の質(たち)は、酒が酒を求めるという型であるらしい。

藤太郎。もすこし気をきかせ---氷室のざらめを小鉢にとり、新しい木盃ももってきなさい」
藤太郎があわてて退きさがると、
「あのように気がきかなくては、〔備前屋〕の身代(しんだい)がもつか、心配でございます」

銚子にのこっていた〔城山〕の燗酒を自分であけた。
酒づくりの家に育ったのであれば、酒に親しんでも、呑まれることはあるまい。

(木盃に盛ったざらめ雪にそそいだ〔城山)は、たしかに美妙であった)
膳が下げられ、延べられた布団の中で、明日の段どりを案じながら、佐千がだるそうに話した〔備前屋〕江口家の家史を反芻していた。

遠祖が備前国・宇喜多家の臣であったことが屋号となった。
関ヶ原のあと浪人となり、越後へながれてき、知識をかわれて与板村で割元をつとめ、米の大坂廻送で財をなした。

「じつは、醸造と質屋のもうけが大きいのです」
酔ってきていた佐千は、去らせた善太郎が嫁をもらうまで、あと7年間は勤めなければ---といいながら、内情を打ちあけた。
「どちらも、人の弱身につけこんだような商売でございます」

裏山の樹々が風にごうーと鳴りはじめたとき、襖が音もなく滑った。
低めた灯芯の弱い明かりに人影がうつった。


【参照】201135~[与市への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.10

与板への旅(6)

与板では、南新町の〔備前屋〕善左衛門方が滞在を引き受けると、江戸家老格の西堀治右衛門(じえもん 53歳)から指示をうけていた。

領内には商人旅籠しかなく、
長谷川うじを遇するには、あまりに粗末です。豪商の〔備前屋〕なら、それなりのもてなしをいたしましょう。何日でも、ごゆりとお過ごしください。被害を受けた店の一つでもありますから、長谷川うじがご逗留とあれば、襲ってくることもありますまい」

〔備前屋〕は、間口は5間だが奥行きが深い豪邸でもあった。

藩からの手配がゆきとどいていたらしく、奥の裏庭に面した客間があてられていた。
廻船問屋だが酒づくりもしているこの地方の名家であった。

すすめられた風呂で元結をほどいて髪を洗っていると、
「気がつきませんでした。髪結いを呼んでおきます」

振りむくと、30代半ばとおもえる優雅なおんなが脱ぎ場からのぞいていた。
「忝(かたじけな)い。長旅で汚れがひどく、苦慮しておったところです」

「お召し替えは、こちらにお揃えしておきました。洗い物はお預かりいたします」

躰を拭き、脱ぎ場へでてみると、一式、それに新品の下帯までおいてあった。
皺だらけの下帯をもっていかれたのは、いささか恥ずかしかったが、まさか、声の主が〔備前屋〕の若女将とまでは気がまわらなかった。

髪結いが髷をととのえ、月代(つきやき)と剃り、鬚をあたりおわったので払おうとしたら、
「女将さんからいただいております」
それでもまだ、おもいがいたらなかった。

黒漆塗りの懸盤膳に配した夕餉(ゆうげ)が運ばれたところで、脱ぎ場の女性(にょしょう)が召使いにちろりに銚子を持たせてあらわれ、
「〔備前屋〕江口善左衛門の女将・佐千(さち 34歳)と申します。このたびは、遠路はるばるのお運び、お疲れでございましょう。お一つ、お口よごしをお受けくださいませ」
平蔵が総朱漆の木盃に酒を注いだ。

「女将と申されたか---?」
「店主の夫を去年逝かせました。先代は数年前から躰が不自由、息子はまだ13歳で家業を継ぐわけにはまいりませんので、おんなだてらに、せんかたなく、番頭たちに支えられて家業をまもっております」

木盃を盃洗で清め、
「返杯を---」
銚子をとってすすめた。
(こんなごたいそうな酒器でなく、里貴(りき 37歳)のところでやるように、片口で茶碗酒のほうが気がおけないのだが---)

「うちで醸造(つく)っております酒の〔黒川〕は、お口にあいましたか? 深秋でなく、春先ですと新酒をおめしあがっていただけるのですが---」
「いや。甘露(かんろ)です」

「甘口でよろしかったのでしょうか? 辛口の〔城山(しろやま)というのも醸造(つく)っております」
「黒に、白か---できすぎ」
佐千が笑いころげだ。
笑うと、切れ長の目尻が下がり、とたんに色気がこぼれる。
そのことを佐千もこころえていた。

「あの、〔しろやま〕はお城の山と書きます。〔じょうざん〕と読むのがほんとうなのですが---」
「女将の名を〔させん〕と読むようなものですかな」
「あら---与板ことばですと、否(いいえ)になります」
「失言。明日の夕餉には、その〔じょうざん〕を賞味させいただこうか?」
「今宵にも---」
「え---?」
「あの---〔じょうざん〕のご賞味のことでございますが---」
目元を赤らめた佐千が、あわてていいわけした。
(いかん! 男とおんなのあいだは、ちょっとした言葉の行きちがいでひょんなことになってしまうものだ。ましてや佐千は、熟れきった後家だ。拙は旅の身。[賞味]という言葉の誤解をなんとか、打ち消しておかぬと---)

佐千のほうもそう判じたのであろう、
「〔じょうざん〕のお燗をいいつけてまいります」

ゆっくりと立ったが、足はこびがいささかぎこちなくなっていた。


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2011.03.09

与板への旅(5)

2夜目のあくる朝は、昨朝よりも、起きだしがもっと遅くなった。
宿のほうが心配してか、女中が戸の向こうから、
「お食事は、何刻(なんどき)にしますかね?」

「いま、何刻だ---?」
「五ッ半(9時)をまわっています」
「半刻(1時間)あとに、髪結いを呼んでくれ」

いいつけた平蔵(へいぞう 36歳)に、裸身の里貴(りき 37歳)がかぶさってきた。
しばらくそのまま抱いておき、
「宿の者があきれておる。帰りにもここで落ちあうのだから---な」
「お帰りのときにも、2夜くださいませ」
「〔季四〕のほうは大丈夫か?」

髪を結いなおした里貴を、荒川まで見送った。
若いむすめのようにいつまでも手をふっている里貴が見えなくなるまで土手に立ってい、夕刻、上尾(あげび)宿の本陣・〔井上〕五郎右衛門方に着いてみると、松造(よしぞう 30歳)が待っていた。

江戸から上尾は9里4丁(37km)、蕨宿からは4里24丁(18.5km)であった。

「何刻に発(た)ってきた?」
「六ッ半(7時)発(だ)ちさせていただきました」
「お(くめ 40歳)がよく、放してくれたな」
「2日も休みをいただきましたから。それより、お(つう 13歳)が;耳ざとくなりまして---齢ごろのおんなの子はむずかしゅうございます」
「そんな齢になったか--」
「お(かつ 40歳)さんのところへ髪を結ってもらいに行っているあいだだけが、おが声をだせる時刻です」
「苦労するな」

(そういえば、13のころのおまさも、久栄(ひさえ 17歳=当時)との仲を妬(や)いていたような---)

夕餉(ゆうげ)をともにし、酒をすすめてやりながら、
「音羽の〔鳥越屋〕の〔吉兵衛〕のほうは、その後、なにか分かったか?」

「驚きました。越後の三嶋郡(さんとうこおり)に鳥越って里がございましてね。そこは長岡藩のご領内ですが、与板まで6里(24km)と離れておりません。黒川を使えば与板まて1刻(2時間)もかからないそうです」
「どっちが川下だ?}
「与板ということでした」

「〔鳥越屋}の吉兵衛は、前々代が熊谷宿からでてきて娼家を開いたが、熊谷でも最上郡(もがみこうり)の鳥越出のが2代ほど娼家でかせいだと、〔音羽〕の元締に語ったということだったが、そうか、越後にも鳥越村があったか。こういう知識となると、番方(ばんかた 武官系)はからっきしだな」

参照】2011年2月4日[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (11

平蔵は盃を伏せ、
松造。明日からは、天気さえもてば、1日10里(40hm)をこなしたい。いささか気になることが出来(しゅったい)いたした」
「お気なになることと申されますと---?」

「本郷追分の〔越後屋〕倉蔵(くらぞう)が、速飛脚で与板の〔馬越まごし)〕の仁兵衛(にへえ 40歳前後か)へ火盗改メの手がまわったことを報じたかもしれないのだ。受けた〔仁兵衛は、あわをくって姿を消すかもしれない。消える前に釘をさしておきたい」
「かしこまりました。明日は早発(だ)ちにいたしましょう」
{深谷、高崎をすどおりし、須川、三俣、六日町、川口と5泊でいきたい」

いいながらも、里貴と飽きることなくつづけた蕨宿での営みのあれこれを後悔していないわがままに、内心、あきれていた。

そのおもいは、松造も同じであった。
40おんなおの快楽への執着の深さを、この2日間にあらためておもいしらされていた。


【参照】201135~[与市への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.08

与板への旅(4)

「与板侯(井伊兵部少輔直朗 なおあきら 35歳 2万石)さまからのおことずかりものでございます」
同朋(どうぼう 茶坊主)がわたしてくれた奉書の中身は、予想どおり、与板藩・江戸詰家老格の西堀治右衛門(じえもん 53歳)からのもので、陣屋のある町並みの冨家が襲われた年月日が記されていた。

それによると、(旧暦)10月が5年つづきであった。
(旅の足代かせぎだな)
平蔵(へいぞう 36歳)は直感した。

とともに、いまから与板藩の領内に出向いて防げるかどうか、ぎりぎりのところ、と観念した。

退出口の書院門で、松造(よしぞう 30歳)が、
「〔箱根屋〕の親方が、鍛冶橋の黒舟でお待ちです」

たしかに、源七(げんしち 49歳)が船頭・辰五郎(たつごろう 51歳)の舟で待っていた。
平蔵松造が乗ると、
「さきほどいったところへ---」

大川をすこしばかり遡行し、石川島と佃島のあいだの入り堀にもやるまで、源七はほとんど口をきかなかった。
こころえた辰五郎松造をうながして陸(おか)へあがり、どこかへ消えると、懐から金包みを2つ、舟桁へ置き、
「越後へお出張(でば)りとか---」
「そういう仕儀になった」
「これは、お餞別。こちらは、〔読みうり〕の板元料の長谷川さまのおとり分です」
いつもの源七に似合わない改まった口調をとりつづけた。

「助かる」
「お里貴(りき 37歳)さまから、蕨宿までの舟行きを頼まれました」
「陸路だと4里半(18km)ちょっとで、おんな足だと半日では無理だ」
「舟で、大川、荒川を遡れば、帆にうける風ぐあい次第では1刻半(3時間)も要しますまい。しかし、お断りいたしました」

「なぜだ---?」
長谷川さまとお里貴さまのあいだがらをとやかく申すのではございません。男がべつにおんなをもつのは甲斐性というものです。しかも、お2人は、男と男の友情に似ていると、つねからほほえましくおもってきておりました。お里貴さまは、長谷川さまによかれの一念で、ことをお取りはからっておいでです。並みのおなごにはできないことです」
「それほど分かっていてくれて---」

「はい。お里貴さまを、うちの黒舟で蕨宿へお運びしては、奥方さまの前へ出られなくなリます」
「無謀であったかな---」
「いいえ。〔丸太橋(まるたぱし)の元締助役(すけやく)の雄太(ゆうた 44歳)どんへお申しつけになれば、ぬかりなく手くばりいたしましょう。蕨宿からのお帰りもお待ちしてお送りしますでしょう」
「心配をかけた。すまぬ」


けっきょく平蔵里貴は、蕨宿の本町通りの旅籠〔林〕源兵衛方で落ちあい、離れで2夜をすごした。
里貴を乗せてきた2人の舟頭は、別の旅籠に宿をとっていた。

遅く起きた昼間は、蕨城址や金亀山極楽寺の十一面観音などをふざけあいながら巡視した。
江戸とは違った地方(じかた)の、のどかだがどこかものさびしい景色が2人を子どもに返した。

極楽寺の山門をくぐるとき、里貴がつぶやき、小舌を出した。
「ゆうべは、お蔭さまで3度、極楽へ連れて行っていただきました」
「今宵は阿修羅になるかもな」
「帰りも舟ですから、髷(まげ)がくずれても気になりません。ご存分に乱れさせてくださいませ」


参照】2011,年3月5日~[与市への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.07

与板への旅(3)

高井同心どのはお手すきでしょうか?」
平蔵(へいぞう 36歳)が脇屋清助(きよよし 53歳)に尋ねた。

高井半蔵(はんぞう 42歳)とは、3年前に〔戸祭とまつり)〕の九助(くすけ 20代後半)の件で、いっしょに本郷・森川追分片町の旅籠〔越後屋〕をおどしたことがあった。

けさ、松造(よしぞう 30歳)を〔越後屋〕へまわらせたばかりだであったが、牢番・悦三(えつぞう 35歳)から〔馬越まごし)〕の仁兵衛(にへえ 30すぎ)の名前を聞いたからには、亭主・倉蔵(くらぞう)をじきじきに洗ってみたくなった。

さいわい、高井同心が在勤していたので、同行してもらった。
半蔵とすれば、平蔵の糾問ぶりに立ちあえるということで、本郷追分までの1里半(6km)の往復など、苦でもなかった。

3年前の2人が揃ってあらわれたことで、倉蔵は覚悟をきめたようであった。

「越後・三嶋郡(さんとうこおり)の仁兵衛という客のことできた」
「へえ---」
「暮坪(くれつぼ)郷の伊佐蔵いさぞう)といっしょではあるまいな」
「ちがいますです。仁兵衛さんの隣村の岩方(いわかた)の丹次(たんじ)さんと、いつもごいっしょです」

「泊まる季節は、秋のおわりと春の中ごろではないのか?」
「さようでございます」
「両人のここ4年ばかりの宿帳の写しをつくってくれ」

加賀藩邸の先、菊坂のとっかかりの酒亭〔矢車屋〕で休んでいるから小半刻(30分)あとにとどけるように、といいつけた。

盃をかたむけながら、高井同心が訊いた。
「どうして、秋おそくと春の中ごろとお差しになりました?」
「いや。あてずっぽうでしたが、うまくはまりました」
「しかし---」
「なに、雪の季節に盗みに入ると、足跡から足がつくから、そのあいだは、雪のないところへ稼ぎにでてくると推量したのです」
「うーむ」

勘定は平蔵がもった。
高井どの。ご足料がわりですから、もたせてください」

その足で〔季四〕に顔をだし、旅立ちは5日後だから、店を留守にする手配をしておくように伝えた。
ついでに、蕨宿の本町通りの旅籠〔林〕源兵衛方に飛脚便で奥の離れを抑えておくようにいった。
〔越後屋〕にすすめられた旅籠であった。

幕臣の旅亭は本陣がきまりで、町人の宿をとってはいけなかったったが、本陣に里貴(りき 37歳)づれで宿泊するわけにはいかない。


参照】201135~[与市への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

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2011.03.06

与板への旅(2)

「矢板藩のことで、(にえ)さまに伺いたいことがありますので、早じまいをお願いいたします」
与(くみ 組)頭(がしら)・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳 800俵)は、昨日のきょうである、気前よく通用状をしたためてくれた。

火盗改メの本役・贄 越前守正寿(まさとし 41歳 300石)の屋敷は、九段坂下の俎板(まないた)橋西詰にあった。

顔見知りの門番に、筆頭与力・脇屋清助(きよよし 53歳)に案内を乞うと、小者を走らせてくれた。
脇玄関に顔をみせた脇屋筆頭に、牢番の悦三(えつぞう 35歳)に会いたいと告げると、
「また、なにか---?」
心配顔になったので、
「いえ。別の用向きです」

さいわい、悦三は当番で牢番小屋にいた。
「教えてほしいことが出来(しゅったい)した」
「なんなりと---」

悦三は、いまでは、音羽の〔鳥越屋〕の私娼だったお(こう 28歳)と所帯をもっていた。
 
参照】2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13

「越後生まれの盗賊をしっていたら教えてくれ」
「------」
口ごもり、目をそらせた。

口を開くのを待った。

しばらく待ったが、悦三は目を宙に泳がせていた。

悦三。お前に、密告(いぬ)になれといっているのではない。気がむかねば、それもよし、だ」
長谷川さま。どうなさろうというのですか?」
「矢板に、奇妙な賊がいてな。その賊に、警告を発するのだ」
「警告を---?」
「そうだ。矢板のご藩主・井伊侯(飛騨守直朗 ただあきら 35歳 2万石)が西丸の少老(若年寄)にお就きになった。その手前、これまでのように賊をのさばらせてはおけないとおこころをお決めになった。こちらのご前にお頼みになるやもしれない---」

「---あいわかりました。捕らえるのではございませんな」
「誓って---」

「〔馬越まごし)} の仁兵衛(にへえ)というお方がおられます。いちどだけ、〔舟形ふながた)〕のといっしのところに立ちあったことがございます」
「〔馬越〕だな」
「はい。矢板のご領内に近い土地(ところ)の郷名(さとな)でございます」
「礼をいう」
「とんでもごいません」

「も一つ。、おに訊いてみてくれ---いや、これはよそう。せっかく足をぬいたのだ」
「------」
悦三がふかぶかと頭をさげた。

「いいってことよ。〔鳥越屋〕の吉兵衛をたたけば、わかることだ」


参照】201135~[与市への旅] () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 


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2011.03.05

与板への旅(1)

「板橋、桶川、本庄、渋川、須川、三俣、六日町、川口、長岡城下まで76里29丁(ほぼ307km)。長岡から与板まで3里(12km)。往還は参勤なみに18日間、陣屋での調べが10日で片付けば御(おん)の字でございましょう」
「ほとんど、ひと月の出張(でば)りであるな」
牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳)は、里貴(りき 37歳)の酌のほうに気がいっており、平蔵(へいぞう 36歳)の言辞はうわのそらであった。

「お出かけでございますか---?」
「いま、申したとおり、与板藩の陣屋まで、な」
「やはり、捕り物で---?」
里貴の双眸(りょうめ)は、なかば吊りあがっているが、牟礼与頭ば気づかない。

長谷川うじを見こんでの、少老・与板侯井伊兵部少輔直朗 なおあきら 35歳 2万石)のお声がかりでの」
その与頭へ、
牟礼さま。長谷川さまは直参のお旗本でございます。それを、井伊さまかなにか存じませんが、諸侯がご用をいいつけてよろしいのでございましょうか?」
里貴がいいはなった。

その剣幕に、さすがに牟礼与頭も気がついた。
「なるほど、女将どのの申し分にも一理あるな。これは、火盗改メからの依頼という形をとったほうがよさそうだ」

里貴が、ぷいと立っていった。
「なにが気にさわったのかな?」
「なに、新しい酒をいいつけにいったのでしょう」

厠をよそおって帳場をのぞき、里貴の肩を引き寄せ、
「蕨(わらび)での一泊をつきあえるではないか---」
「あら。ほんとうですか?」
「もう一泊、上尾(あげお)で泊まっていい」

たちまち、機嫌がなおり、いそいそと座敷へもどった。
松造(よしぞう 30歳)が、40おんなの女房・お(くめ )は躰のどこもかしこも発火点だといっていたが、里貴もそろそろ、その齢だな)

牛込築土下五軒町の屋敷へ帰る牟礼与頭を黒舟まで見送り、船頭の辰五郎(たつごろう 51歳)に、
「江戸川ぞいの小日向馬場のあたりで舟着き場をみつくろうように---」
途中で牟礼老人が居眠りをしても無事に着けるようにいいきかせた。


そのあと、藤ノ棚の部屋で、
「蕨宿へ帰りつく日時も飛脚便で報らせるから、店を休んでもよければ、宿で待っていてくれ」
「行きもお帰りも、朝までごいっしょできるんですね。夢みたい」


翌日、登城してから松造(よしぞう 30歳)を本郷・森川追分片町の旅籠〔越後屋〕へやり、亭主の倉蔵(くらぞう)に宿帳をださせ、この数年間、〔強矢すねや)〕の伊佐蔵(いさぞう)と暮坪(くれつぼ)村近辺の者の宿泊日時をしらべさせた。

参照】2010年10月27日[〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)] (


参照】2011年3月5日~[与板への旅] () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 


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2011.03.04

西丸の重役(5)

西丸老中のご用部屋を下がり、書院番士の詰め所へ戻るとすく、同朋(どうぼう 茶坊主)が、別の伝言をつたえてきた。

下城のとき、向柳原七曲がりの与板藩(新潟県長岡市与板町)上屋敷へ立ち寄られたい---との、若年寄・井伊兵部少輔直朗(なおあきら 35歳 与板藩主 2万石)からの依頼であった。

(そういえば先刻の老中の用部屋にいた同年配の重役が兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)侯であったか。ひと言もお発しにならなかったから、つい、失礼つかまつった。お詫びに参上せずんばなるまい)

退出時刻((八ッ半 午後3時すぎ)のちょっと前に、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳 800俵)があらわれ、
「おことに同伴するように、与板少老さまからのお言いつけでな」
「それは勿体ないことでございます。用ずみのあとは、〔季四〕ででも、ご高説をおうかがいいたしとう---」
「おお、そのこと、そのこと---」

平蔵(へいぞう 36歳)は、松造(よしぞう 30歳)に、〔黒舟〕根宿(ねやど)店の女将・お(きん 37歳)に、七ッ半前(5時前)に神田川の万和泉橋下へ屋根舟を待たせておくこと、〔季四〕の女将には、牟礼与頭と七ッ半すぎに世話をかけることを前触れさせた。

そのころ、与板藩邸は外神田・七曲がり西端にあった。
(西丸の若年寄となって数寄屋門内に役宅)
兵部少輔直朗を西丸・若年寄に起用したのに関連し、それまでの本領・与板は陣屋であったが、築城の許しがおり、直朗は城主格として遇されることになった。
奏者番時代の口跡がよほどに明晰であったのであろうか。

藩邸の門番は、牟礼平蔵の来訪を待っていたように、邸内へ導いた。

表の客間で、家老格の西堀治右衛門(じえもん 53歳)が待ちうけていた。
ほどなく、直朗が着流しで出座した。
西陽の明るい部屋でまぢかに対座すると、齢より若く見えた。

「きょうの若君への捕り物ばなし、ほとほと、感服であった。じつは---」
西堀治右衛門をうながした。

領内、とりわけ陣屋のある与板の質商とか米穀商などに、ここ数年、押しいっている賊がいる。
町奉行所を置くほどの規模でもなく、手がまわらない。
押し入りがあって警戒を強めていると、動静がぴたりと途絶える。
まことにもって始末におえない。

「ついては、ご老中の鳥居丹波守忠意 ただおき 65歳 壬生藩主 3万石)さま、番頭の水谷(みずのや)出羽守勝久 かつひさ 59歳 3500石)どののお許しもえておるのだが、出張って賊を捕らえてはもらえまいか。旅費は小藩ゆえたっぷりというわけにはいかないが---」

番頭から指示をうけていたらしく、牟礼与頭は、平蔵に向かってうなずいた。
与板侯はお若い。辰蔵まで幕閣としてお目をかけていただけよう)
平伏して承知し、西堀家老格に、その賊が押しいった店の名、日時を書きそろえてとどけてほしいと頼み、酒肴の申し出を丁重に断わり、牟礼をうながして辞去した。

和泉橋下には、顔なじみの船頭・辰五郎(たつごろう 52歳)が屋根舟をもやっていた。


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(井伊兵部少輔直朗の個人譜)


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2011.03.03

西丸の重役(4)

長谷川さま、参じられました」
同朋(どうぼう 茶坊主)の接声(せっせい)に、
「まいれ」
応じが返った。

中から板戸が開かれ、平蔵(へいぞう 36歳)がうかがうと、なんと、上座に豊千代(とよちよ 9歳)がいた。
いや、平蔵は、少年の衣服から豊千代だとおもった。

西丸・老中の鳥居丹波守忠意(ただおき 65歳 壬生藩主 3万石)が下座に着座していたからである。
部屋には、番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 59歳 3500石)もはるか下座にひかえいいた。

「近う」
声の主には、どことなく田沼意次(おきつぐ 63歳 本城老中)の面(おも)ざしをしのばせるものを感じたから、小姓組番頭格で御側に仕えることになった田沼能登守意致(おきむね 41歳 800石)と推察した。

「若君が、壬生寺(にんしょうじ)の一件にいたくご興味をそそられての。その者から捕り物の仔細をおききになりたいとの仰せじゃ」

平蔵がかしこまっていると、豊千代がだれに入れ知恵されたのか、
長谷川の父者は、目黒・行人坂の火付けも縛ったそうな---」
ませた口ぶりであった。

恐縮の態(てい)で平伏した平蔵に、
「座興である。かまわぬから、気楽に話してさしあげよ」
田沼能登守がうながした。

壬生寺の件は、あまりに簡単すぎて若君の興もそそるまいからと、目顔でおんながからんでいたと能登守に暗示をおくり、宇都宮の大谷寺の釈迦像の台座の盗難解決の件に替えた。

参照】2010年10月16日~[寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを)] () () () (
2010年10月20日~[〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)] () () () (4) () () () (

「その大谷寺の洞窟は、日光山へ参詣のおりに目にできようかな?」
あいかわらず、こまっしゃくれていた。

「ご参詣のり折には、きっと、お成りの道へくわえましょうぞ」
鳥居丹波守が約束すると、
丹波が存命のうちに参詣したいものだが、費用はいかほどかかるな?」
「40万両(640億円)ほど」
能登守が応えた。
「おぼえおく。長谷川。また、聞かせてくれ」

将軍となった家斉(いえなり)が日光へ参詣した記録はないが、平蔵の病気を案じた史実は残っている。

参照】2006年6月25日[寛政7年(1795)5月6日の長谷川家

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2011.03.02

西丸の重役(3)

「あの爺ィさん、駒込片町、白山社下のしもうた家にはいっていきました」
松造(よしぞう 30歳)が、翌朝、告げた。

鍛冶橋東詰で見かけた〔荒神こうじん)の助太郎(すけたろう 60なかば)を尾行(つ)け、寝ぐらをつきとめさせたのであった。

「近所の家にさぐりをいれようかとおもいましたが、噂になり、逆に気づかれてもとおもい、ひかえました」
「それでいい。松蔵もいっぱしの火盗改メの手ものなってきたな」

平蔵(へいぞう 36歳)にほめられ、てれ隠しに、
「日光での助太郎とくらべると、めっきり老けましたねえ。幾度も追いぬきそうになりました」

参照】2010年2月14日~[日光への旅] () (

「お主(ぬし)が日光へ行ったのは、8年も前のことだ。助太郎だけが齢を重ねるわけではない。お互いにそれなりに老けている」
いってしまってから、
(しまった)
ほぞを噛むおもいをした。

松造の女房・お粂(くめ)は10歳も齢上---40歳のはずであった。
加齢の話題は鬼門だ。

しかし、松造は気にしなかった。
「殿。朝っぱらからなんですが、おんなの40代というのは、盛(さか)りというのか、交尾(さか)りというのか---躰のすみずみまで練りあげられてい、どこを触られても燃えあがってしまうんで---」

参照】2010年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () 

「おの躰をそのように練りあげたのは、松造であろう?」
「そうなりますかねえ」
「お主の指は、とくぺつあつらえだからな」
「殿。そのことはいいっこなしの約定でございます」
「悪かった」

松造は、10代の後半、〔あすか山〕の寅松(とらまつ)と名乗った掏摸(すり)であった。

参照】2008年9月7日~〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) () (3)

松造のお蔭で、室と出会えることができたのだ。大恩人とおもっておる」
「殿には、かないません」

平蔵に男惚れし、足を洗った。

西丸へ登城してみると、若年寄・井伊兵部大輔尚直朗(なおあきら 35歳 与板藩主2万石)ばかりか、なんと老中に鳥居丹波守忠意(ただおき 65歳  壬生藩主 3万石)が帰り咲いていたではないか。

4年前、丹波守忠意が西丸の若年寄であったころ、壬生城下の事件解決に手を貸したばかりか、〔音羽(おとわ)〕の香具師(やし)の元締・重右衛門(じゅうえもん 51歳=当時)を伺候させたことまであった。

鳥居丹波守は、継嗣・家基(いえもと)の急死のあと、本城で少老末座として経験をつみ、このたび西丸の宿老となったのであった。

参照】2010年9月25日~[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] () () () () () () () () () (10) (11) (12
2010年10月日~[鳥居丹波守忠意(ただおき) () () (

(運が向いてきたかもな---)
思わず顔がゆるむのを感じるとともに、
(慢心するでない、(てつ)。運は自分の手でひらくものと、父上がおっしゃっていたではないか。高杉先生は、1歩前進2歩後退とおさとしになった)

自戒は長くはつづかなかった。

九つ半(午後1時)すぎ、同朋(どうぼう 茶坊主)が、ご用部屋の廊下へ参るようにとの、鳥居老中の呼び出しを告げた。


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(鳥居丹波守忠意の個人譜)


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2011.03.01

西丸の重役(2)

「(井伊兵部少輔 しょうゆう 直朗 なおあきら 35歳 2万石)さまと申しますと、越後の与板(よいた)の---?」
里貴(りき 37歳)が問うた。

「ご面識あり---かな?」
さりげなく、平蔵(へいぞう 36歳)が受けた。

2人のあいだに7年以来、躰の関係ができていることを、長野佐左衛門孝祖(たかのり 36歳 600俵)にさとらせることもない。
盟友のあいだがらではあっても、秘密は秘密であった。

「はい。一橋北の三番原で茶寮をしておりましたことがあったのでございます」
里貴もこころえたもので、佐左(さざ)に向かい、説明口調ではじめた。

〔貴志〕をまかされてすぐのころ---安永(1771)に改まって2年目ごろであったという。
「老中に補せられなされた相良侯田沼意次 おきつぐ 55歳=当時)さまが、奏者番の井伊(24歳)さまとお昼をお召しになりました」

話題は、北の国々では寒冷の夏がしばしばきているということであった。
「それで、お上の物入りなご用を少しのあいだご免除いただけると、民百姓が救われる---とお願いなされました」
田沼侯のお返事は---?」
「寒冷にも強い稲を、早く育てなされ---と」
「ふむ」

「冷害つづきで、与板藩の勝手方(財政)は破綻に近いということであるな」
佐左が口をはさんだ。

「そればかりではなく、信濃川の堤防補強工事も藩の財政を費消していると嘆願なさいました」
もっとも、そのころの与板藩主・井伊直朗は在府あつかいで、参勤交替はなかったから、国元のことは藩の重役まかせであったろう。

「その嘆願ぶりが、相良侯のお気に召し、寺社奉行ぬきでの、こたびの西丸・少老への抜擢ということもある」
うなずいた佐左に、
「冷夏に耐える稲の工夫が成ったということも考えられる。これだと、北国の各藩も幕領にも益がおよぶ」
平蔵が私見を加えた。

里貴がうっとりとした視線で平蔵を見た。
(てつ)さまは、火盗改メだけでなく、勘定ご奉行もお似合い---)

田沼さまのことだ、それくらいのご報償はお考えであろうよ」

与板藩の成功がもう少し早く成っていたら、天明3年(1783)の飢饉の被害はもっと軽くてすんだかもしれない。
西国のいなご群生の害は避けられなかったとしても。、


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(井伊右京少輔直朗の個人譜)

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