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2011年4月の記事

2011.04.30

おまさの影

留め書き帳に、お(てつ 25歳見当)と記されているおんなが、蔵元〔神座(かんざ)屋〕の直営している呑み屋の酌婦に雇われた経緯(ゆくたて)は、あっけないほどの手口であった。

去年の11月の寒い夜、〔神座屋〕の仕込み小屋の前で苦しんでいたがおであった。
家へ入れて介抱してやると、2日目には回復したが、腹にややがいるのに、男に有り金をもって逃げられた、
ややを産むためにも当分働いかないといけない、働き口はないものかと頼まれ、黒眸(くろめ)がぱっちりして受け口の、ちょっといい年増であったから、呑み屋のほうの酌取りなら、というと、喜んで承知した。
呑み屋で働いた経験でもあったのか、所作が手なれており、客の受けもよかった。
寝泊りは屋敷のほうの女中部屋があてがわれた。

「おてつという名---?」
平蔵(へいぞう 37歳)がことさらに問うと、陣屋の手代・祐助(ゆうすけ 45歳)は、不安げに岡っ引きの宇三(うぞう 38歳)へ視線を向けた。
「酌取りがそういいやしたということな,んで、と、こっちで勝手に当て字しやした」
「わかった。ところで、そのおんなの背格好だが---」

5尺3寸(1m60cm)と、当時のおんなとすると、かなりの背丈があった。
「ぽっちゃりした感じ---か?」
「さあ。あっしたちはじかに見たわけたではありやせん。事件が起きたその日から消えちまっておりやす。細かなことは、〔神座屋〕でお改めになってくだせえ」

江戸の火盗改メということで下手(したで)にはでているが腹の中では、調べるためにわざわざ出張(でば)ってきているのであろうが---とでもいいたげな口ぶりであった。

遣いにやっていた松造(よしぞう 31歳)が戻ってき、平蔵に指6本を示し、隣室へ引っこんだ。
大井神社脇で香具師(やし)の元締をやっている万次郎(まんじろう 51歳)が六ッ(午後6時)に待っているという返事であったに違いない。

「何刻(なんどき)かな?」
「先刻、林入寺の鐘が七ッ(午後4時)を打ちました」
手代の祐助が告げた。

ちゅうすけ註】林入寺は、本陣・〔中尾〕脇の陣屋小路から3筋江戸寄りの林入寺小路を北へ入った突きあたりにある名刹である。文庫巻1[血頭の丹兵衛]で、その山門の蔭で〔小房(こぶさ)〕の粂八(くめはち)が天野与力に「そろそろ、時刻---」とささやく。p110 新装版p116


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(嶋田宿 本通り6丁目から北へ折れた林入寺小路の奥 林入寺)


「では、宇三親分は、明日の〔神座屋〕の改めに立ちあってもらうことにし、きょうのところはこれでお開きに---」
平蔵三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)同心に断った。

「六ッに、ちょっと人に会うので、湯で埃流しをいたします。夕餉(ゆうげ)は無用かと---」

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2011.04.29

嶋田宿への道中(4)

宇津谷峠をくだった岡部の茶店で一息したとき、
松造(よしぞう 31歳)。〔野川(のがわ)〕の潤平(じゅんぺえ 50男)のことが気になるらしいな」
「あの齢で、佐渡の水汲み人夫で終るのかとおもうと、なんだか哀れになりまして---」

松造らしくもない---」
「なぜでございます?」

平蔵(へいぞう 37歳)が人差指と親指をすりあわせ、
「おぬしも20歳近くまでこれで稼いでおって、ちぼ(摺摸 すり)はその場を押さえなければ罪にすることがむつかしいくらいのことは存じておろうに---」

「しかし、自白させられますと---」
「いくら田舎の町奉行所だとて、拷問ででっちあけげた罪状で佐渡送りにはすまい。もし、目安箱に「おそれながら---」と一札投げこまれたら、評定所もので、町奉行の首がとぼう」

平蔵は、3日もすれば20叩きで追放だろうがと推量しておいて、
松造の読みでは、潤平は西へ上るか、東へ下るか---?」
「本陣・〔小倉〕の番頭がふりまいた噂が耳に入れば、殿を追って西へ上ることはございますいますまい」

「そうかな」
「---と申されますと?」
「復讐にこないともかぎらない。嶋田宿まで気くばりを怠ってはならぬ」

だが、平蔵主従のほうが3日先んじていたらしく、島田宿の本通4丁目北側本陣〔中尾(置塩)〕藤四郎方へ入るまで、潤平の影はなかった。


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(嶋田宿 赤○=本陣・[中尾(置塩)} 左端は大井川 『東海道分間絵図』より )


10年前に、父・宣雄(のぶお 享年55歳)の先鉾として上京したときは、〔中尾〕より一格落ちの隣の本陣・〔大久保〕新右衛門方を指定された。
京都町奉行として久栄(ひさえ 20歳=当時)同道で赴任の道中をした父はもちろん、〔中尾〕に宿泊とわかっていたから、間口16間余の堂々とした構えの下本陣〔中尾〕をうらめしく眺めたことであった。
下本陣とは、3軒あった島田宿の本陣の中で京都からみてもっとも東に位置していたための俗称であったが。


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(東海道筋・本通4丁目に面した本陣・〔中尾(置塩)〕藤四郎 『東海道と島田宿展』カタログより)


〔中尾〕には、火盗改メ・増役(ましやく)の建部組の同心である三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)と古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)が待ちかねていたらしく、埃おとしの湯もすすめないで、従えていた小者を陣屋へ走らせた。
陣屋は、〔中尾〕の東側の御陣屋小路を北へ入った、本陣のすぐ裏手にあった。

陣屋からは手代の裕助(ゆうすけ 45歳)と、土地の岡っ引きの宇三(うぞう 38歳)がやってき、早速に聞きとりがはじまったが、平蔵はその前に、松造を、大井神社脇の宮小路で置屋〔扇屋〕の主人で香具師(やし)の元締・万次郎(まんじろう 51歳)のところへ、今夜の都合を訊かせにやった。
音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 56歳)からの引きあわせの書状をもらってあった。

手代の裕助が幕府へ送ったとおりの箇条を、ほとんど感情をこめないで棒読みした。
平蔵も2人の同心も、事件書の写しを目でたどりながら黙って聞きおえた。

「ほかに、なにか---?」
祐助三宅同心を見ながらうかがった。
三宅は目で、平蔵をうながした。

「賊の頭数が書いてないが---?」
祐助から応えるようにいわれた岡っ引きの宇三が、
「それがはっきりしねえんで---。7人いたとも、10人だったとも、言い分が違えますんで、顛末書に書くのを遠慮いたしやしたしでえで---」

「尾張ことばを話したのは何人だった?」
「えーと、頭目格の男と、副将格のが話しあったと---」
「尾張ことばと気づいたのは---?」
「〔神座(かんざ)屋の主(あるじ)の伍兵衛(ごへえ)さんです。渥美の蔵元から婿にきておりやすんで---」

「呑み屋のほうで働いていたという孕みおんなのおというのは、どこの口入れ屋からきたのかな?」
手代も岡っ引きも黙ってしまった。

「どうした---?」
「ちゃんとした口入れ屋を通して雇ったのではねえのでやす」
宇三かしぶしぶ口をわった。

「どういうことだ?」
古屋同心の声にはとげがあった。

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2011.04.28

嶋田宿への道中(3)

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(府中城下から安倍川 赤○=本陣〔小倉〕 『東海道分間絵図』より)


府中城下、下伝馬町〔小倉〕平右衛門方のがっちりした門構えは、13年前---明和6年(1769)といささかも変わっていなかった。

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(府中 下伝馬町 赤く○={〔小倉〕 水色は旅籠)

平蔵(へいぞう 37歳)は、わらじを脱ぐ早々に、初めてみる番頭に問うた。
「一番番頭の恭助(きょうすけ)どのはお達者か?」
「いえ、番頭さんは、3年前に歿されました」
「主(あるじ)の平左衛門どのは、たしか、まだ70前だと存ずるが---?」
「先代はご隠居なさり、いまは9代目の息子が---手前は、2番番頭の道蔵(みちぞう 45歳)と申しますが、なにかご用でしたら、手前が承ります」
「そのことよ。銘酒〔鶯宿梅(おうしゅくばい〕は手に入るかな。今夕の飲み代(しろ)なのが---」

手早く、懐紙にひねった小粒をつかませ、
「供がおっつけ着くつくはずだから、埃を落として着替えたころあいに膳につけてもらいたい。供のは燗、われのは冷や、でな」れのは

参照】2008年1月8日[与詩(よし)を迎えに] (19

酒ではなく、鶯宿梅の文字どうり、鶯が蜜をついばみにくる紅梅の伝説は、 こうである。
さる貴族の家の梅がみごとというのでも宮中からお召しがあった。
大切に育てていたむすめが、
「お召しであったので差し出しましたが、毎春やってきている鶯、私はどこに止まればいいかと問われたら、なんと応えればよいのでしょう」
 
 勅なれば いともかしこし  鶯の宿はと問はばいかが答へむ

紅梅はむすめに返された。

湯からあがると、部屋に松造(よしぞう 31歳)が着いていた。
「話はあとでよい。湯を浴びてこい」

鶯宿梅となった。
銘柄のいわれを話してやると、
「いわれを聞くと、いっそう甘露でございます。かような銘酒の肴にはなりませんが---」

道中師の〔野川(のがわ)〕の潤平(じゅんぺえ 50男)は、本陣の西10軒ほどの商人旅籠〔遠州屋〕保次郎方へわらじを脱いだので、しばらく見張ったが、どうやら泊まる気配らしいので、なにも手をうたないで引き返したと報じた。

「それでよし。われらのこたびの旅は、島田の一件である。護摩(ごま)の灰などにかかずらわっておられない」
「心得ております」
「しかし、せっかく松造が見つけた手柄じゃ。そのままというわけにもいくまい」

平蔵は道中矢立を取り出し、懐紙になにやら記すと結び文にし、表に「ご注進」と書き、番頭の道蔵を呼び、
「もうすこし暮れたら、〔遠州屋〕の店先にこれを投げこんできてほしい。番頭どのや本陣に迷惑がかかってはならぬゆえ、くれぐれも気づかれないように」

渡そうとした結び文をすぐに引き、
「いや。これは松造、おぬしがやってくれ。食しおえてからでいい」

番頭には、さりげなく、
「明朝は六ッ(午前6時)発(だち)する。〔遠州屋〕の泊まり客の先を歩きたい。いや、〔遠州屋〕は、今夜のうちに町役人に手くばりをするとおもうが---」

盃を伏せて出て行った松造は、寸刻(10分ほど)で戻ってき、
「〔遠州屋〕の番頭が拾いあげ、あたふたと奥へかけこむのを見さだめました」
「ご苦労---」

「殿。先刻は、なにゆえに、ここの番頭に楽屋裏をお見せになりました?」
「そのことよ---」
平蔵がざっと口伝したのは、13年前に駿府町奉行所の手配でこの本陣・〔小倉〕に滞在したことがあり、隠棲しているという先代の平左衛門へ訊けば、われのことを覚えておるやもしれない。
その節iこ同席していた同心・矢野弥四郎(やしろう 48歳)に問いあわせても、われのことは知れる。

として、われが〔野川〕の潤平を脇から差したことは、道蔵番頭の口から、あたりに洩れるとみる。

「5日後に戻り泊まりすると、本陣からか町奉行所からか、銘酒〔鶯宿梅〕の差し入れがあろうよ」


 

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2011.04.27

嶋田宿への道中(2)

「昼餉は沼津で---」
いったものの、、平蔵(へいぞう 27歳は、本陣・〔樋口)伝左衛門の前までくると、咄嗟に気がかわり松造(よしぞう 31歳)をうながし、 向いの本陣・〔世古〕郷四郎方へ入っていった。
まっ昼間の客に、急病人でもできたかと番頭がおどろいて出迎えた。

「江戸の火盗改メ・本役・(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳)さまのお声がかりを承っておる長谷川平蔵である」

火盗改メの本役が三島宿まで出張ることはないから、番頭もあわてた。
足を洗うすすぎ水を女中にいいつけたのを制止し、
「いや。上がるほどたいしたことではない。単なる通りがかりの手配である」
「はい---」
「10数年前に、当本陣で女中をしていた大酒くらいの、賀茂(かも 47歳)と申す者、見かけたら代官所を経て、本役の役宅まで届けてもらいたい」

番頭がかしまって平伏したのを尻目に、〔世古〕を出た。
あとで、「世古〕では、働いている者たちのあいだで、ひとわたり賀茂のことが話題になるであろう。
そこが平蔵のつけ目であった。

このことは、いずれ、賀茂---ひいては〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう 60がらみ)の耳に達し、かの盗賊の居場所がそれだけ狭くなるというもの。
平蔵が、おまさが〔荒神〕一味にかかわっていたことがあることを承知していたら、このような処置はとらなかったろう)

ちゅうすけ註】おまさがある時期、〔荒神〕の一味にいたことは、巻23[炎の色]に明記されている。

三嶋の宿場を抜けたところで、松造が、
「殿は、〔荒神〕の助太郎をお忘れではなかったのでございましたか」
「あたり前だ。あの者には、おぬしをはじめ、権七くごんしち 50歳)夫妻などの念がこもっておる」
さすがに、お(りょう 享年33歳)の名をあげるのははばかった。

参照】2008年3月27日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (10
2009年1月3日[明和6年(1769)の銕三郎] (

この日の泊まりは吉原の本陣・〔長谷川〕八郎兵衛方あった・
「これまで、京のぼりを含め、3度この宿を通ったが、泊まるのは初めてだ」

同姓の本陣であったが、宿方からは別段のあいさつもなかった。
長谷川姓の武家の宿泊客など、珍しくもなかったのであろう。

晩酌をすませ、
「どうだ、新吉原の本家である色街の白粉の香りでも嗅いでこい。お(くめ 41歳)には内緒にしておいてやる」
「とんでもございません。箱根のくだりでふくらはぎがぱんぱんでございます。ゆっくり休めてやらないと、明日の旅がこなせません」


翌日、由井(ゆい)で昼食をすまし、さつた峠の手前の倉沢村でさざえのつぼ焼きを賞味しようと、〔休み陣屋・柏屋〕で腰をおろした。

銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時)のころ、与詩(よし 6歳)を駿府からつれての帰り道、〔柏屋〕で一服してから、19年経っていた。
店主の幸七(こうしち)は、息災なら80歳ほどのはずだが、と店の女中に訊くと、姓を尋ね、母屋へいそいだ。

まもなく、腰の曲がった枯れ枝のような老爺が、ころばんばかりの足取りであらわれた。
「これはこれは、長谷川さまのお坊っちゃま」
「ご亭主。達者でなにより---」
〔ご奉行さまには、残念でございました」
幸七は、早くも涙声であった。

(9年前の父・宣雄(のぶお 55歳)の死のうわさは、倉沢村までとどいたとみえる)


参照】2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (23

「ご奉行さまがお亡くなりになったこと、例の海女(あま)のお(きみ 58歳=当時)に教えてやりましら、おんおん泣きましてな。それから5年後に、おも逝っちまいました。お奉行さまとおの艶話(つやばなし)を覚えとるのも、このあたりでは、わし一人になっちまいましたわい」
「いや、幸七さんのお蔭で、この平蔵宣以が子孫に語り伝えますぞ」
「ほんになあ---男気のある立派なお武家さまでした」

松造が、
「殿。ちょっと---」
平蔵の耳に口を寄せ。
「いま、店の前をさつた峠のほうへ行った50男が〔野川(のがわ)〕の潤平(じゅんぺえ)という道中師でございます。尾行(つ)けて行方をたしかめますから、殿は、府中の本陣で---」
「よし。〔小倉〕平左衛門方で会おう」

参照】2009年1月12日[銕三郎、三たびの駿府] (

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2011.04.26

嶋田宿への道中

翌((あ)る朝は、松造(よしぞう 31歳)のけたたましい声で明けた。
「殿、殿。真っ白で、どでかい富士でございます」

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(箱根宿 幕府道中奉行制作 『東海道分間延絵図』)

箱根宿の本陣・〔川田〕角左衛門方の裏庭から望むと、芦ノ湖の上、山伏嶽の右に、ぬうっと、山頂を見せていた。

「手前の生地のからす山から見える富士山は、伏せた猪口ぐらいの大きさでしたが、ここでは、酒顛(しゅてん)童子の大酒盃ほどにそびえています」

富嶽は、三島まで見えたり隠れたりで、松造を有頂天にさせた。
「お(つう 14歳に見せてやりたい」
本心は、お(くめ 41歳であったろう。
は、それこそ月のさわりさえなければ、夜伽は毎晩といっていた。

平蔵があきれると、
「一人寝が7年つづいていたのだもの、取り返さないと損してしまう、とせがむのです」
松造がけろっと応えた。

「毎晩、本膳でか?」
「はい。ニの膳つきの夜もあります」

 【参照】2010年6月27日[ (〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂)](

「睦んでから、かれこれ6年になるであろうが---」
「二の膳がつくのは3日に1夜だから、あと12年は---って勘定だそうです」
「12年といえば---」
「はい、手前が43歳で、お粂が54歳です」
「あきれたものだ。それより、あと3年もしたら、おは嫁にいかせないと、な」

他愛もない主従の会話であった。

が嫁入りしたあと、おとの誰はばかることのない2人きりの激しい交合を想像したのか、松造がひとり笑いしたのを、平蔵は横目でみたが、冷やかしはしなかった。

閨房ごとは、おんなにとっても男にとっても、楽しみが深まるふしぎな営みであった。

「登りより、下りのほうがふくらはぎがくたびれるから、ふんばらないで歩け」
平蔵(へいぞう 37歳)が幾度も声をかけてやった。

三島大社は松造は初めてであったから、参詣に立ち寄った。。

この大社の裏のしもた屋で、後家になったばかりの芙沙(ふさ 25歳=当時)によっておんなの躰の秘所にみちびかれ、銕三郎(てつさぶろう 14歳=当時)は少年期に特有の迷いを落とした。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

それから10年後の再会は、よけいであったかもしれない。
いや、銕三郎が男として成長していたともいえた。

参照】2009年1月10日[銕三郎、三たびの駿府] (

しかし、従兄弟の栄三郎正満(まさみつ 38歳)が先月、芙沙が女将をしている本陣・[樋口]へ宿泊したはずであった。
どんな思い出ばなしが咲いたか、たしかめてみたくもあった。
芙沙に恥をかかせるでない。男としての、抱いたおんなへの作法でもあろう)
自分にいいきかせたが、少年の初穂をつまむことは、芙沙が選んだことでもあった。

松造がなにやら真剣に祈念しているあいだ、平蔵は気ままに追憶を反芻していたが、松造が立ちあがったので、
「昼餉(ひるげ)は、次の沼津宿摂(と)ろう」
てれ隠しの科白であった。

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2011.04.25

〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門

長谷川さん。江戸のお屋敷はどちら---?」
辞去のあいさつを述べようとしていた平蔵〔へいぞう 37歳)に、なにをおもいついたのか、[宮前(みやまえ)〕の徳右衛門(とくえもん 59歳)が問いかけた。

「南本所の三ッ目通りに、お上から屋敷をいただいております」
「南本所---そこから、深川の黒船橋というのは---?」
「10丁(1km強)ばかりですが、黒船橋にお知りあいでも---?」

「城下はずれ、山道にさしかかる風速(かざはや)村の生まれの箱根の雲助が、そこでたいした成功をしているらしゅうて---」
(どうやら、権七(ごんしち 50歳)どんのことのようだが---)

「ご存じの人ですか?」
「知っているというより、喧嘩相手というか---いや、 もめごと納めの頭(かしら)同士の話し相手というか---」
「奇縁です。それが権七どんでしたら、義兄弟の間がらです」
徳右衛門が膝をうち、
「お旗本の若い仁を頼って江戸へ去ったとは承知していたが、そのお旗本が目の前の長谷川さんとは---人間、長生きをしていると、こんな不思議に出会うこともあるのですなぁ」
嬉しそうに笑った。
笑顔が、幼児のそれように無心に見えた。

泊まっていけとすすめられたが、かつて権七の下にいて、いまは頭をしている仙次(せんじ 37歳)を問屋場に待たしておるのでと断ると、
「お帰りの節は、ぜひ、一泊を---」
約束させられた。

徳右衛門の家から出、洋次(ようじ 35歳)に白旗神社のお守りを2つ渡し。
「一つは勘兵衛(かんべえ 57歳)どんに、〔宮前〕の貸元さんと対(つい)だといって渡してくれ。もう一つは洋次どん、お前さんへだが、決して人目にさらさないように、な」


問屋場には、仙次が若いのと待っていた。

長谷川さま。箱根の本陣・〔川田〕角右衛門方まで、こちらの春吉(しゅんきち 19歳)が先導いたしやす。もし、芦ノ湯村のほうへお泊りなら、そのようにお申しつけくだせえ」
「いや。本陣でけっこう」
「陽は永くなりはじめておりやすが、なにせ、山の中のことでこぜえやす。ご承知のとおり、関所の大門は六ッ(午後6時)には閉めやす。春吉には山提灯を3ヶ持たしておりやすが、せいぜい、お足元におきをつけなすって」
「帰りに、ゆっくり話そう」

芦ノ湯村の〔めうが屋〕には阿記(あき 享年25歳)との思い出があった。
銕三郎(てつさぶろう)が18歳、阿記は婚家から逃げてきた21歳の人妻であった。

参照】2007年12月30日~[与詩(よし)を迎えに] () (10) (11) (12) (13) (14) (15
2008年7月21日~[明和4年(1767)の銕三郎] (11) (12) (13

(東海道筋には一樹一水、青春の思い出がありすぎる)

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2011.04.24

〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(2)

馬入(ばにゅう)川の平塚側の舟着き場には、勘兵衛(かんべえ 54歳)ほか、手下数名が出迎えていた。

乗りあい客は、悶着をおそれ、先に平蔵(へいぞう 37歳)と松造(よしぞう 31歳)に道をゆずった。

そのことが分かっている平蔵は、舟着き場から50歩ほど離れるまで久闊を叙するあいさつを交わさなかった。
それも形だけですまし、〔榎屋〕の玄関に歩いた。

昨夜、語りあかすつもりれでいたことを、勘兵衛が愚痴ったのに、
「〔馬入〕の貸元。じつは、こんどの嶋田行きは、火盗改メの用件なのです。それゆえ、路程もかぎられております」
「さいでしょう。でも、お帰りには、お泊りになれやしょうな?」
白いものがめっきり目立ち、太めの体躯がさらにふくらんだ勘兵衛にうなずいた平蔵であったが、
「なにか、心痛ごとでも---?」

運ばれた昼餉(ひるげ)の膳に乗っていた銚子をとった勘兵衛の手がとまった。
「貸元。お志はありがたいが、出仕の身なので暮れ六ッ(日の暮れの6時)までは、酒盃を手にしないことに決めております。それよりも、身内の衆をお払いになり、お洩らしください---」

子分たちを下がらせてから、勘兵衛が意外なことを打ちあけた。

平塚宿の東、花水橋のむこうに〔高麗寺(こうらいじ)〕の常八(つねはち 35歳)というのがのしてき、勘兵衛の縄張りが荒らされはじめているのだと。


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(右端の赤○=料理屋〔榎屋〕 左端の緑○=高麗寺 元禄時代に描かれた『東海道分間絵図』より)


帰路に解決の糸口をみつけるから、それまでは争いを起こさないことを約束させた。

「若い者頭(がしら)の洋次(ようじ 35歳)どのの顔がみえなかったが---」
「小田原の〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門(とくえもん 59歳)貸元のところへ使いに行っておりやす」
勘兵衛の口ぶりがすっきりしなかった。

「まさか、出入りの助っ人を頼みに行かせたのでは---?」
勘兵衛が太い首をすくめたのを認め、きびしく、
「〔馬入〕の。洋次どのあての口上を書きつけてください。〔宮前〕のに頼んだ件は、手前が戻るまで、お預けになったから、〔宮前〕のにそう謝るようにと。道すがら出会うはずだから、言ってきかせます」


押切川の手前の梅沢村の茶店の前を行く洋次を呼びとめ、勘兵衛の書付けを読ませた。
困惑しているのを、むりやり、小田原城下へ引き帰らせた。

宮前(みやまえ)〕の徳右衛門は、土地を仕切っている大貸元とはおもえないほど、好々爺然とした柔和な面相を変えずに、平蔵の話を聞きおえた。

「それで、長谷川さまは、嶋田での探索仕事がおすみになったら、〔高麗寺〕のと、どう、話をおつけになるおつもりかな」
「まだ決めてはおりませぬが、こちらのお貸元に顔をだしていただくのが良策と、拝顔いたしまして---」
「わしに、話をつけろと---」
「お貸元なら、あちこちの親分衆が後ろ楯になってくださろうと納得が参りました」
「年寄りを嬉しがらせる技を心得ておられる」
「齢の甲でしか話が通じないことも、多々くあります」

松造にいい、荷物から小さなものを取りださせ、徳右衛門の前にさしだした。
「藤沢の白旗神社のお守りです。ご承知のとおり、この神社には九郎判官義経公がまつられております。鎌倉の目と鼻の藤沢で、義経公を祀ったのは、たいした勇気でございましたろう」

徳右衛門が笹竜胆(ささりんどう)の文様織りのお守りを押しいただき、
「お覚悟のほど、見とどけましたぞ」

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(白旗神社のお守り)

白旗神社のお守りは、藤沢の本陣・〔蒔田〕の番頭にいいつけて祈願させたものであった。


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2011.04.23

〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛

六郷の渡しが川崎側へ着くまで、里貴(りき 38歳)は平蔵(へいぞう 37歳)主従を見送っていた。

松造(よしぞう 31歳)、振りかえったり、手をあげて応えてはならぬぞ。武士の出陣では前方のほかに目をうつすことは禁じられておる」
まわりの旅人に聞こえないように、ささやいた。

もちろん、里貴も武士の妻であったし、平蔵と親しんで8年になるから、昼間の武家の作法と寝間での狂態とはまったく別物であることは心得ていた。
しかし、本心はさみしかった。
振り向いてもくれない平蔵の背中が、にじんで見えてきた。


川崎の問屋場で、平塚の東はずれの馬入村の料理屋〔榎(えのき)屋〕あてに速(はや)飛脚を仕立て、今夜は事情(わけ)が出来(しゅったい)したので、藤沢の本陣〔蒔田〕源左衛門方へ一泊することになったゆえ、馬入川の渡しへは四ッ(午前10時)すぎになると報らせた。


翌朝、〔蒔田〕方を六ッ半(7時)発(だ)ちし、3里(12km)強をこなし、馬入川の東岸に着いた。

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(馬入川の渡し場 赤○=東側 幕府道中奉行制作)

目つきでそれとわかる若者が、
「失礼つかまつりやすが、長谷川さまで---?」
そうだ、と応えると、〔馬入〕一家の下っぱしりの者だといい、渡し舟へ招き、
「親分から、素人衆のご迷惑になるから、長谷川さまがお乗りになったからといって、客の頭数がそろうまで、船頭をせきたてるなって、きつくいわれておりやすんで---」
船頭にも乗客にも聞こえるように断った。

「さすがはわが盟友・〔馬入〕の勘兵衛どんだ。お仕込みがちがう。幕府の書院番士の長谷川平蔵、藤橘源平(とうきつげんぺい)のうち、源氏にあらず平家にもあらず、筆頭---藤原(ふじわら)の宣以(のぶため)、感服つかまつった」
芝居がかりとおもったが、これも勘兵衛の地元での株をあげるためと、声をおしまずに口にした。
松造は横をむいて笑いをこらえた。

もう一人の若いのは、対岸へ大きく腕を幾度もふり、平蔵に出会えた合図を送っていた。

「お若いの、洋次(ようじ)どんはいまでも---?」
「若い者頭(がしら)をご存じでやすか?」
「ほう、若い者頭におなりで---。お脚(あし)がめっぽう、お速いご仁と---」
「いまでも平塚から小田原の5里(20km)近くを1刻半(3時間)もかけねえでお行きなせえやす」
若いのは、わがことのように自慢した。

参照】2008年7月26日[明和4年(1767)の銕三郎] (10

乗りあいの者たちが耳をそばだてているのを承知で、平蔵が容(う)けた。
「ほう。たしか、35歳におなりのはずだが---」
「若い者頭は、いつ、長谷川さまにお目にかかりやした?」
「かれこれ、15年前かなあ」
「ひゃあ、あっしが3歳のときだ」
「18歳のそちらのお名は?」
寅次(とらじ)と申しやす」
「〔馬入〕の親分さんは、いい配下をそろえておいでだ」

乗りあい客がそろい、舟が岸を離れたところで、
寅次さんと、そっちのお方に、みやげというほどのものではないが、お近づきの徴しに、藤沢の遊行寺のお守りを受けとってくださるかな。〔馬入〕の親分さんは躰を張って村方の人たちを守っておいでだがら、寅次さんたちにもどんな危険が降るかもしれない。そんなときにこのお守りが守ってくれましょう」
寅次ともう一人が両掌で受けとると、乗りあい衆が拍手をして寿(ことお)いだ。

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(藤沢山遊行寺のお守り)

きのう、藤沢宿の本陣・〔蒔田〕源左衛門方へ投宿する前に、遊行寺坂の途中から右へ折れて本堂に参詣、ついでに10ヶほど下げてもらった。
1ヶ12文(500円)であったが、10ヶまとめたので26文(4000円ちょっと)ですんだ。

〔蒔田〕方では、番頭に何かを頼んでいた。


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2011.04.22

古川薬師堂(2)

「〔馬場(ばんば)の与左次(よさじ 57歳)元締のところの五三次(いさじ 22歳)どのが見えています」
下城口に姿をみせた平蔵(へいぞう 37歳)に、供の松造(よしぞう 31歳)が耳うちした。

「愚息の五三次と申します。父の遣いで参りました」
場所柄を心得てい、大店の息子ふうのの堅い身なりで、言葉遣いにも気をくばっていた。

鍛冶橋東詰の茶店まで、黙ってついてきた。
 
「お勤めの道すがらに、古川薬師へお参りとお聞きしました」
「ほう。〔箱根屋〕が気をきかせたらしいな」
「お足でございますが、亀久橋からから大森の先、玉川の六郷まで、船をお使いいただくようにと、父が申しております」
「お世話になろう。では2日のちの五ッ(午前8時)に亀久橋に---」
「お宿でございますが、本門寺の近くに、鄙にはまれな閑静な家がございます」
「かたじけない」

平蔵が、五三次に訊いた。
「古川薬師像は行基というえらい坊さんの作と聞いておる。参詣したら、じかに拝ませてもらえるように手配できるかな」
「あそこは、うちのシマの一つなので、庫裡へ念を入れておきます」


佃島で帆船へ乗り換えた。

春をおもわせるなまめいた陽ざしであった。


昨夜、藤ノ棚の部屋で、腰丈の紅花染めの寝衣の里貴(りき 38歳)に、
「どうして古川薬師なのだ?」
「私が生まれた貴志村は高野山領だって、いつかお話ししましたでしょう? 古川薬師さんも真言宗なのです。かねがね、お参りしなければとおもってえおりました」


高輪の沖をすぎるとき、平蔵は、お(りょう 享年33歳)が松明の炎で合図を連携したのはこあたりかと回想したが、里貴の手前、表情にはださなかった。

参照】2008年10月25日[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (

(独占欲をあまりあらわにしない里貴だが、なにかがきっかけになり、情を通じていたからといって、8年前に没したおんなにまで妬心をもたれてはたまらない)

蒲田(かまだ)の先で玉川へ入った。

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(古川薬師 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ) 

古川薬師は、安養寺という山号で、大田区西六郷2丁目にある。

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(現在の安養寺 正面)


_240五三次の案内で里貴たちが参詣すると、住職が自らが薬師堂への案内にたった。
5尺5寸(1m67cm)の薬師如来坐像と脇の5尺3寸(1m55cm)の釈迦如来坐像は、境内にあった銀杏の大樹で彫られたものと解説した。

ちゅうすけ註】江戸期の諸書は、阿弥陀如来坐像も行基作と記しているが、学術調査の結果、同じ藤原後期だが、すこしずれているらしい。

里貴はお布施を捧げ、母子安全、母乳満足の利益がいわれている薬師像を、瞑目し長く合掌していた。

あとで平蔵が、子授けでも頼んだかと冷やかすと、
銕五郎(てつごろう)さまのすこやかな育ちとご内室の乳の出が豊かでありますように祈願したのです」

薬師堂の参道をはさむようにそびえている2本の銀杏が若緑を芽ぶかせていた。
古樹の幹まわりは丈(3m)余もあった。
見送りの住職に、里貴が問うた。
「恩師。この銀杏樹は---?」
宮廷から奉納され、樹齢700年を経ていると。

馬場〕の与左次が、
「人目のないときに、女人がこの樹をだいて願うと、ややがさずかるとの言い伝えがあります」
里貴はうなずいただけで、抱かなかった。
住職が首をふった。

(右の写真は、かつて東海道の古川薬師道に立っていたという道しるべ)


その夜、[馬場〕の父子が設けた宴会から帰った宿の寝床で、
銕三郎には、この乳首がなによりの功徳---」
「舌が上手に動くややですこと。ふくませ冥利---」

「目と耳が二つあるように、口が二つあれば、いちどに双方の乳がなぶれるものを---」
「片方ずつでもこんなに昂ぶってきているのに、双方、二枚舌でいちどに吸われたら、狂乱してしまいます」
「狂ってみよ」

「………………」
「なにかいったか---?」
「うヽヽ、ヽヽ」
「どうした?」
「あヽ、ヽヽ、どうか、なり、そぅ――――たすけ、てぇ――――お、ち、るぅ――」


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2011.04.21

古川薬師堂

増役(ましやく)の役宅になっている四谷南伊賀町の建部(たけべ)右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)の屋敷からの帰路、深川・黒船橋北詰の町駕篭〔箱根屋〕の権七(ごんしち 50歳)のところへ寄った。

「ちょっと付きあえるか?」
「どれほどで---?」
「半刻(はんとき 1時間)たらず---」

すぐそばのお(えん 32歳)が女将をまかされている船宿から黒舟に乗った。
かつて平蔵(へいぞう 37歳)に半死半生の裸躰をさらしたこともあるおだが、そんなことはにやりと微笑んだだけであとはそぶりにもださない。

参照】2010年11月17日~[古川薬師堂] () (

冬木町寺裏の舟着きへ渡った。
茶寮〔季四〕の開店にあわせ、隣のにも権七は船宿〔黒舟〕をおき、こちらはお(きん 38歳)がおんな主人であった。
は鉄火肌のおんなであったが、おは万事を胸にたたみこむように抑えていた。

真反対のおんなを妾にしている権七の不思議な好みを平蔵は、おんなは昼と夜ではがらりと変わるから---と悟るだけの年齢に達していた。

〔季四〕で、里貴(りき 38歳)にも座にいるようにいい、建部組から頼まれた嶋田行きを打ち明けた。
「与板でのお仕事から3ヶ月と経っていませんのに、もう、お頼まれごとでございますか? お城のほうはよろしいのでございますか?」
里貴の気づかいももっともであった。
平蔵は、西丸書院番の番士であって、火盗改メの与力などではなかった。

「うむ。番頭(ばんがしら)どのは、組の名誉とおもってござる」
「それなら、およろしいけど---」

権七には、箱根の雲助頭の仙次(せんじ 37歳)につなぎ(連絡)をつけておいてほしいと頼んだ。
仙次には、この19年のあいだにいろいろと世話になっていた。

参照】2008年1月30日[与詩(よし)を迎えに] (36
21008年7月28日~[明和4年(1767)の銕三郎] (12) (13) 
2009年1月4日[明和6年(1769)の銕三郎] (
2009年2月10日[〔高畑(たかばたけ)〕の勘助] (
2010年10月26日[〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)] (

「ついでですから、平塚宿はずれの〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 54歳)どんにもひと声かけておきましょう。なにかの役にたつかもしれません---」
権七は、久栄(ひさえ 30歳)と里貴の前では雲助言葉をひかえている。

参照】2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37) 
2009年1月9日[銕三郎、三たび駿府] (1) 

「〔馬入〕のには、嶋田の顔役へつなぎを頼んでおいてもらいたい」
「承知しました。香具師(やし)の頭分(かしらぶん)のほうは、〔音羽(おとわ)〕のお頭へお願いしておきます」
「いろいろ、世話をかける---」
「なにをおっしゃいますことか」

里貴が、つい、口をはさんだ。
「ご出立は、いつでございます?」
「3日あとだ」
「せわしないこと」
「いや、12日後に島田宿へ入ればよい」
「六郷の古川薬師さんまで、ごいっしょできますか?」

それで権七はすべてを察した。

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2011.04.20

火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷(3)

旅程の打ちあわせが一段落したところで、平蔵(へいぞう 37歳)が訊いた。
原田与力どの。引き込みをした酌おんなの名前のおてつ(25歳がらみ)ですが、てつは、でしょうか、それとも、あるいは、拙のではありませぬか?」

原田研太郎(けんたろう 38歳)与力は、あらためて記録に目をおとし、
「金物のと書かれておりますが、これは、かの地でもう一度、お確かめください」

与力は、古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)へ記録をわたし、
「写しを書役(しょやく)へいいつけ、長谷川さまへお渡しするように---」

心得た古室同心が部屋をでて行った。

長谷川さま。われら一行と別の上りということになりますと、本陣への支払いなど、路銀はいかほど用意すればよろしゅうございますか?」
世慣れた年配者らしく、三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)が訊いてきた。

「供の者の分もあわせて、1日1分(4万円)でいかがでしょう?」
「では、20日分として5両(80万円)を、お屋敷のほうへおとどけしておきます」
ほっとした口ぶりで、三宅同心が原田与力の顔を見、与力がうなずいた。

平蔵が、
「先刻、こちらの殿が、柳営の上っ方々は、われわれ幕臣にできるだけ旅をさせて、世の中をひろく見聞するようにお考えとうかがいました。初めて耳にするご見識でした」

ぼんと膝をうった原田与力が、
「さすがは長谷川さま、お目が高い。われらの組頭は、齢相応に目と耳こそお弱りになっておられますが、視点が高いお方です」

使番から先手・鉄砲(つつ)の第12の組頭に任じたのは安永6年(1777)3月17日だが、その前年の家治(いえはる)の日光山参詣に列し、しもじもの苦しみを、再認識した。

その前は、いうまでもなく宝暦9年(1759)7月に秋田へ使いし、冷害を目のあたりにしたことであった。

火盗改メ・助役(すけやく)を命じられると、組の者たちに出羽の領民たちの貧窮ぶりを話し、あの者たちが城下町とか江戸へ流れてきて物乞いをし、悪心をおこして盗みをはたらいても、徒党を組んだ盗賊と一様に見ないように諭(さと)したという。
盗人の区別をいった火盗改メは珍しい。

聞いていて、平蔵は、本役の(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳)が、少年のころに家治の伽役として側に仕えたときに学んだ話をおもいだしながら相槌を打っていた。

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 

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2011.04.19

火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷(2)

もっぱら安西彦五郎元維(もとふさ 62歳 1000石 ただし隠居中)老が大声でしゃべりまくり、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)のほうは、
「さようであったな」
元維どのの叱声に、久保田(秋田藩)側は畏れいっておった」
と相槌をいれていることに気がついた。

建部増役は、亡父・宣雄(のぶお 逝年55歳)と同じ齢に達している。
宣雄は生命の灯が消えるまで頭脳ははっきりしていた。

安西彦五郎老の帰去をも送って戻ってきた建部甚右衛門は、
長谷川うじには、ご迷惑なところをお付きあいいたさせた。このとおりである」
頭をさげた。
「お目にとまったとおり、老耄がはじまっておるのでござるよ。むかしは明晰で俊敏な仁で、ずいぶんと教えられたものじゃが---」

秋田藩の藩政を監した2年目あたり、40歳を過ぎたころから言行に粗漏がではじめたという。
気がついた幕府が役をはずし、明和7年(1770)に致仕を強制したのは、元維が50歳のときであった。
いまでは、ともに出羽への監察を役した建部広殷だけが相手をしてやっていた。

「いや。われらが出羽へ遣わされたのは、循吏(じゅんり)たるもの、機会があれば広く世間を見ておくべし、とのお上のおぼしめしであったように存ずる。秋田藩をあれほどにいじめることはなかった}
甚左衛門広殷がふとこぼした。

ということは、こくんどの平蔵(へいぞう 37歳)の嶋田行きも、一つ上の循吏の地位へのぼるためのものであるのかもしれない。
書院番士として西丸へ詰めきるだけが極上の奉公とはかぎらない。

平蔵は、幕府の忌避にふれた秋田藩の銀札仕法の経緯(ゆくたて)を建部増役に質(だだ)そうとおもったが、
(いや。危ない質問を発すべき相手ではない)
尻毛しりげ)〕の長右衛門(ちょうえもん)かかわりで親交ができておる南伝馬町2丁目の両替商〔門屋(かどや)〕嘉兵衛に聞けばすむことであろう。

(【参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

玄関脇の応対の間へ席を移した。
与力・原田研太郎(けんたろう 38歳)、同心・三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)、古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)が待っていた。

平蔵を引きあわせると、建部増役は、あとを与力にふって消えた。
古室同心が、事件のあらましを説明した。

地元の銘酒で、江戸へも船送されてきている〔水神(すいじん)〕の酒造りどころの〔神座(かんざ)屋〕が賊に襲われた。
新酒ができ、あちこちから注文の前金が届けられていたところを狙われた。
手がかりは、去年の晩秋に春先までという期限つきで雇い入れた直営の酒場の酌婦で孕みおんなのお(てつ 25歳前後)。
は、賊の入った晩から行方がしれなくなった。
もう一つの徴(しる)しは、頭目とおもえる男の尾張なまり。
(言葉を発するようでは、たいした心得のある一味ではにないな)

平蔵は、かつて小浪(こなみ 29歳=当時)から、盗人にとってお国なまりは獄門への本通りと聞かされたことがあった。

参照】2008年10月20日[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (

もっとも、当時はラジオもテレビもなかったのであるから、全国統一の標準語などなかった。なまりから生国が特定できないといえば、江戸言葉か京言葉であったろう。

三宅古室同心が嶋田まで出張るといった。

旅程を打ちあわせたとき、平蔵が、落ちあうのは、7日目の嶋田の本陣・〔中尾〕藤四郎方ということにしたいと提案した。

「ごいっしょでは、なんぞ不具合でも---?」
「いや。火盗改メが揃って道中しては、公儀ご用を盗賊たちに触れあるいているようなもので。ことは隠密にはこぶのが良策かと---」
三宅同心は感服したが、平蔵とすれば、里貴(りき 38歳)と朝まですごす一夜をつくりたかっただけのことであった。

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2011.04.18

火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷

「はあ? 建部(たけべ)さまからでございますか?」
平蔵(へいぞう 37歳)の不審げな声を、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 62歳 800俵)がたしなめた。
建部どのの組からきた同心の口上では、おぬしとは入魂(じっこん)の間柄のようであったがの」
「とんでもございませぬ。たった一度、お目にかかっただけでございます」

「会話は交わしたのであろう?」
「はい」
長谷川。おぬしは、ここ(西丸)の書院番士となって、あしかけ9年になろう?」
「はい」
「それでもまだ呑みこめぬとは、困った仁よのう。役人同士というものは、1度言葉を交わしあえば、以後終生の知己になるのじゃ」
「はあ---」
「そうでなければ、役所ではことが進まぬ」

建部甚右衛門広殷(ひろかず 56歳 1000石)とは、火盗改メ本役・(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳 先手・弓の2組頭)がもうけた席で出会っただけであった。

ところが、幕府直轄の嶋田宿本通りの酒元に賊が入り、500両余(8000万円)が盗まれたために、糾明に同心2名を出張らせることにしたから、助(す)けてもらいたいと頼んできたというのであった。

「組頭の水谷(みずのや)伊勢守勝久 かつひさ 59歳 3500石)さまはご承知なのでございますか?」
「組の名誉にもなるから、行ってやれと---」
「はあ---」

平蔵は嶋田宿往復104里(412km)の日数11日と糾明の3日を暗算し、
「それでは、18日ほど頂戴させていただきます」
「おお、20日でもいいぞ」
建部どのは、牟礼与頭に3両(50万円弱)も包んだかな)

早引けし、四谷南伊賀町の日宗寺前の建部邸へ出向くと、応接の間でなく書院へ通された。
先客があった。
安西彦五郎元維(もとふさ 62歳 1000石 ただし隠居)と紹介された。
建部増役と同じく耳がとおくなりはじめているらしく、声が大きかった。
笑うと、とりわけ大口をあけて腹の底から発した。

建部増役は、平蔵を呼びつけた用向きなどそっちのけで、23年前に2人で、出羽・秋田藩20万余石に藩の仕置の不始末を訊(ただ)しに行ったときの思い出話に興じていた。

話の具合から察すると、安西老人が使番で39歳、建部老は小姓組番士で32歳あったらしい。
安西老はいく度も平蔵の齢を訊いた。
「37歳」
応えても覚えようとせず、
広殷が32歳、わしが39歳のばりばりのときであっての。久保田(秋田藩)の宿老たちを[だまらっしゃい]と叱りつけて吟味をつづけたものよ。のう、広殷どの」
そして、わっははは、と歯が抜けた大口をあけて笑うのであった。

秋田藩の仕置の不始末とは、藩財政の打開のために発行した銀切手にかかわるもので、家中が推進派と反対派に2分して争った---いつでも、どの藩にもある騒動だが、幕府による銀山の召しあげを藩が呑まなかった見せしめの気配もあった。

そういえば、銕三郎(てつさぶろう)時代、田沼意次おきつぐ)の木挽町(こびきちょう)の中屋敷で、秋田藩の鉱山から帰ってきたという平賀源内(げんない )に会ったことをおもいだしたが、老人たちの気炎に口をはさむ余地はなかった。

参照】2007年7月27日~[田沼邸] () (

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2011.04.17

長谷川家の祖の屋敷跡を探訪

駿河の小川(こがわ)湊(現・静岡県焼津市小川)が、鬼平こと長谷川平蔵の祖先にあたる豪族・次郎左衛門尉政宣の活躍の本拠地であったことは、たびたび触れた。

参照】2011年3月30日~[長谷川家と林叟院 ] () () () () (

最近なにかで、法栄長者こと長谷川次郎左衛門尉政宣の屋敷は、焼津市三ヶ名(さんがみょう)町の不動院の前に標識が建ったいるという記事を目にした。

愛用している昭文社『街ごとまっぷ 静岡県都市地図』で探すと、JR東海道線・西焼津駅から1kmほどのあたりとふんだ。

4月3日の静岡での[鬼平クラス日]の時刻前にちょっと訪問してみようと、2時間早く東京駅を発した。

西焼津駅で下車したら、かなりの雨であった。
居合わせた青年に、ビニール傘を売っていそうなコンビニのあり場所を訊いた。
「かなり、ありますよ」
教わった場所あたりで確認したら、全然違う店を指示された。

それで、2kmほども歩いたろうか。
歩いてわかったのだが、西焼津駅は、新開地の真ん中に20年ほど前に新設されたらしかった。

コンピニで傘を買って店をでたら、雨が熄(や)んでいた。
(いや、なに、池波さんがお得意の、「雨が熄(や)んでいた」の熄の字を書いてみたかっただけ。でも、ほんとうにあがっていたんです)

あちこちで津市三ヶ名(さんがみょう)町と不動院を訊き、たどりついたときには、6,000歩(3.6km.)ほども歩いていた。
樹齢の古そうな老松が枝をひろげていた。

立て看板には「西暦1575年(天正3年) 快玄法師開創」とあった。
天正3年といえば、今川義元とともに長谷川元長(花沢城主)が桶狭で戦死し、息子の正長が田中城へ入ったころだが---。
もちろん、小川は長谷川家の領内であった。

参照】「今川時代の長谷川家の年表」 http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/index.html

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(焼津市三ヶ名町の不動院)

境内には石小地蔵や碑などが散在していた。
庫裡の呼び鈴を押したが応答がないので、本堂正面の賽銭投げ入れ口にカメラをあて、祭壇にむけてシャッターを押す。

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(祭壇の正面には不動明王像らしいものが鎮座していた)

不動堂の前は賃貸農園で、畝の一つに、地主さん(石原氏)の電話番号札が立っていたが、法栄長者の屋敷あとであったことを記した標識は、どこにも見あたらない。

貸し農場で野菜の手入れをしていた男性に問うと、
「自分は最近引っ越してき、ここを借りている者だから歴史のことはわからない。
不動院には、老婆が独居しているはず。
この貸し農場の石原さんと同じ姓の家が不動院の隣だから、そこで訊けば---」

隣家の石原さんは、貸し農場の本家・石原さんの分家であったが、法栄長者の屋敷跡の標識も見たことはないし、不動院は無住であると。
60年配の石原さんの応答であった。


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2011.04.16

中屋敷の於佳慈(4)

「お忘れではなかったのですね」
佳慈(かじ 31歳)が、ぞっとするほど濃艶な目で平蔵(へいぞう 37歳)を見た。
(相当に酔いがまわってきているようだ)

ときどき、呂律(ろれつ)がおかしくなりながらも、於佳慈が打ちあけたところをまとめると、生まれたのは南深川の相川町の漁師の家であった。

6代ほど前の祖が、紀州の田辺あたりから移住してきたという。

移住は藩の要請で、藩邸へ魚介類を納めるようにいわれ、10t数戸がいまでも相川町にかたまっていた。
そんななかで、見目(みめ)のよかったむすめたちは、藩邸なり重役の屋敷へ奉公にあがった。

佳慈の母親も16歳で、田沼市左衛門意誠(おきのぶ 享年53歳=安永2年)が一橋の用人であったころ、小川町広小路裏町の田沼邸へあがっていた。

とうぜんのように、主(あるじ)の手がつき、於佳慈を宿したが、継嗣・専助(せんすけ 10歳=当時 のちの能登守)の産みおんなのはげしい嫉妬にあい、屋敷をさがって深川の実家で産んだ。
そんなわけで、幕府へ届けられていたか、どうか。

ただ、田沼家はよくしてくれ、そのまま相川町で育ったが、嫁入りのときにも道具をととのえてくれた。
夫は、紀州藩邸ほか大藩の奥向きへ出入りの小間物問屋の跡継ぎであったが、嫁して3年目に病死し、弟の妾になれば残れるといわれたが、蔭の父・能登守に相談したところ、いまの殿へ話が通じたのだと。

ちょうど、里貴(りき 38歳)が29歳のころに一橋北の茶寮〔貴志〕をまかされたので、後釜の形になり、木挽町(こびきちょう)のここへ住みこむことになって丸7年になる。
(そういえば、里貴が〔貴志〕をまかされたのも、一橋家などの風聞を集めるためであったような---)

参照】2010月1月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (

里貴が紀州の生家へ両親の介護に帰り、再度入府、また躰をあわせるようになって4年近くになった。
どちらも、お互いの躰に飽きていないどころか、ますます深入りしている。

「於佳慈さまのいきさつ、初めてうかがいました。能登)さまでございましたか。そういわれてもみると、やさしげな細いお目許(もと)が田沼家の血筋からだったのでございますね」
里貴のお世辞にもかかわらず、於佳慈の双眸(りょうめ)は、深酔いのそれで、とろんとしていた。

(てつ)さま。少々、お席をおはずにしになって---」
「だめ。これから(へい)さまをあいだに、川の字に雑魚寝するんだから---」
佳慈里貴にしなだれかかった。

里貴が目で平蔵を追いだし、お佳慈をよこたえておき、寝床を延べ、帯をとかせ、着物を脱がせた。
襖の外にいた平蔵を呼び入れ、わざとあしのほうを持たさせ、寝床へ移した。

それでも於佳慈は、脇を手さぐりし、
さんも、お脱ぎなさい」

里貴が於佳慈の湯文字をばらりと開き、下腹をさらし、平蔵に向かって舌をちろりとみせ、上布団をかけた。

佳慈は、その上掛けを抱きしめ、露出した太股ではさみ、腰をすりつけた。

人差し指を唇にあてた里貴が目で平蔵を襖の外へいざない、廊下で女中に声をかけた。
「お佳慈さまは、よくお眠みですから、2刻(4時間)ばかり、そっとしておいておあげください」

門外で、
さま。漁師村育ちのむすめの本性、この場かぎりで、どんなことがあっても誰にもお洩らしになってはなりません。お洩らしになると、於佳慈さまは、さまに陥穽をおしかけになります」

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2011.04.15

中屋敷の於佳慈(3)

「於佳慈(かじ 31歳)さま。そのような風聞は、どのような筋からお耳に入るのですか」
平蔵(へいぞう 37歳)の問いを、於佳慈は笑いと冗談ではぐらかした。
「おほ、ほほ。もっぱら、地獄耳の於佳慈といわれております」

「こちらの問いは、いかがでしょう? お生まれは深川と聞いておりますが---?」
長谷川さまは、いつから仲人をおはじめになりましたの?」
婉曲に逃げた。

「いつだったか、深川は築地(埋立地)ゆえ、水がよくない---とおっしゃったそうですね?」
里貴(りき 38歳)さまは、そんなことまで寝物語りでお告げになるのですか?」

里貴がすがるように、
(てつ)さまは、堀 帯刀さまの私ごとまで相良侯田沼主殿頭意次 おきつぐ 64歳)のお耳に達していることを驚くというか、私とのあいだがらもお上へ報じられているのではないかと怖れておいでなのです」

佳慈も真面目な表情になり、お上が、幕臣とおんなとのことで憂慮するのは、3点であると前置きし、
1は、家政がみだれたり、刃傷沙汰をおこして世間の耳目を集めたりしないか。
2は、おんなの縁者の猟官に走らないか。
3は、おんなに金を注ぎこんで不正を働くようにならないか。

長谷川さまと里貴さまは、茶寮〔季四〕が大赤字にでもならないかぎり、3の心配はないでしょう。わが殿も〔季四〕の帳尻には気をくばっておられます」
「ありがたいことでございます」
「2の猟官のことも、いまの里貴さまには、そういう縁者は見あたらない---」
「はい---」
「1は---」
「大丈夫です」

佳慈が言葉をつないだ。
「口外しないと指きりしてくださると、打ちあけますが---」
「誓紙を差しだしてもよろしいが、とりあえずは、里貴が指きりを---」
「いえ。長谷川さまといたしましょう」

里貴が眉根を寄せたが、かまわず、於佳慈が小指を平蔵に突きつけた。

心持ち指きりが長いと感じたのは、里貴だけではなかった。
(放してくれないな)
平蔵も、胸内でおもった。

指が離れると、
「わが殿は、お庭番とは別に、宿老としていただいている機密のお金で数人の隠密をかかえておられます。その隠密たちの取次ぎを私がやっているのです」
「すると、堀 帯刀どののご内室の件は---?」
佳慈の双眸(ひとみ)が、これまで見せたことのない冷たさで光った。
「20年のあいだに3人もの奥方ということなので、探索させました」

ちゅうすけ註】堀 帯刀秀隆は、その後、57歳で歿する寛政5年(1793)までの11年のあいだに、もう2人の内室を娶っている。総計5人。

「お佳慈さま。お生まれは深川のどちらでございましたか?」


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2011.04.14

中屋敷の於佳慈(2)

平蔵(へいぞう 37歳)とすると、正月早々から他家の新妻評など、耳にしたくはなかった。
けれども、於佳慈(かじ 31歳)とすれば、 組から火盗改メのことで依頼があったときの要心にとの親切心で話してくれていることがわかっているだけに、聞くしかなかった。

屠蘇がまわったらしく、里貴(りき 38歳)もふだんの抑制がゆるんで、金棒引きぶりを見せていた。
「新しくご内室にお入りになる方は3人目とおっしゃいました。2番目のお方は---?」
さすがに平蔵も黙っているわけにはいかず゜、
里貴。かかわりないことを口にするでない」

里貴がしょげたので、於佳慈が助け舟のつもりか、
「いいえ。他家へ入るのはおなごの宿命でございます。いろいろな運命をしっておくのもおなごの心得と申すもの---」
平蔵をやりこめた。
(おんなの連合軍に、男の勝ち目はない)

去年の10月、目付から先手・鉄砲(つつ)の第16の組の組頭に任じられるとともに、火盗改メ・助役(すけやく)を仰せつかった堀 帯刀秀隆(ひでたか 46歳)が、3人目の新妻を迎えようとしていることが、おんな同士の話題の的になっている。
3人目は、持参金目当てらしいとの結論であった。

「そういえば、2人目は再縁だったようです」
主(あるじ)の田沼意次も用人たちも神田門内の役宅のほうの年賀受けへかかりきっているので地がでたか、屠蘇のせいか、お佳慈も言葉遣いもぞんざいになってきた。

それによると、堀 秀隆の2番目の内室は、(形原)松平権之助氏盛(うじもり 享年61歳 2000石)の次女であった。

婚じた相手は、名門の一つである内藤家---といっても本家は、増上寺での刃傷ごとで志摩・鳥羽藩(3万3000石)を召し上げられてい、分家・左膳忠賢(ただかた 享年41歳 2000石)。

忠賢が兄の養子となったのは明和7年(1770)と推測でき、34歳。
婚儀は、その後と考えると、ずいぶん齢の離れた夫婦であったとおもえる。
忠賢の死は、嫁いで3年目で、子はなかった。
家は忠賢の弟が継いだ。
内藤家を去り、実家へ戻った。
姉も離婚して帰ってきていた。
堀 秀隆との縁ができたのは、あちらが40歳、こちらが25歳あたりであったろうか。

25歳あたりといってから於佳慈は、ちらりと里貴をみた。
亡夫・藪 保次郎春樹(はるき 享年27歳=明和4年)が卒したとき、里貴は25歳であった。

(おんなも25歳で先だたれると、身がもたない)
いおうとして、言葉を呑んだ気配であった。
里貴には、亡夫との房事の記憶はとうに消えていた。
いまの平蔵とのそれがそれほど強烈であったともいえるし、そのたびに満ちているとも思った。

平蔵がさらりと話題を転じた。


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(堀帯刀の形原松平からの2番目の妻)


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2011.04.13

中屋敷の於佳慈

天明2年(1782)が明けた。

平蔵(へいぞう 37歳)、久栄(ひさえ 30歳)、辰蔵(たつぞう 13歳)。
里貴(りき 38歳)、於佳慈(かじ 31歳)。

老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 64歳 相良藩主)の木挽町(こびきちょう)の中屋敷である。

平蔵里貴が年詞に訪れているというか、於佳慈から誘いがあった。
意次は、年詞を神田橋内の役宅でうけるために、松の内は向うであった。
もっとも、平蔵は役宅へ年始に伺うほどの格では、まだ、ない。

佳慈の誘いというので、用心して里貴を伴った。
茶寮〔季四〕は、河岸も閉ってしるので、5日まで客を受けない。

平蔵がいちど通されたことのある、素朴だが風格のある於佳慈の部屋であった。
里貴は、なんども訪れていた。

佳慈田沼家での立場を里貴にたしかめたことがあったが
「さあ---」
はぐらかされてしまった。
意次の側室ということだと、里貴もそうであったことになりかねない。
しかし意次の言動からは、里貴に手をつけた匂いはなかった。

佳慈は熟れた30おんな、男なしでいられるはずがない。
(ま、おれにはかかわりのないこと---)
平蔵は、しいて、納得することにしていた。

正月2日なので、屠蘇がでていた。
仕事ではないので、里貴はすでに目元を淡い紅色に染めていた。

「ところで、長谷川さま。火盗改メ・助役(すけやく)の堀 帯刀(たてわき 46歳 1500石)さまの新しいご内室をご存じでございますか?」
佳慈里貴に流し目をくれながら問うた。

「あら、最初の奥方はお亡くなりになったのでございますか?」
里貴は自分ではさりげなく訊いているつもりであろうが、ふだんの声よりすこし上ずっていた。

「最初どころか、3人目のご内室なのでございますよ」
「お3人目---?」
里貴の声にうらやましげな響きを感じた平蔵が、
「去年、師走にお目にかかったときには、そのようなこと、つゆ、出なかったが---」
(そういえば、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)老がとがめるような口調で同心3人の交換の話をもちだしたのは、3人目をめとる家政の不行きとどきをたしなめていたのかもしれない)

「それが、花嫁は32歳---老桜(うばざくら)といわれている私とどっこいどっこい---」
30をすぎると、おんなは老けを自分からいいたて、否定のお世辞を待っている。

「あら。於佳慈さまが老桜(うばざくら)なら、私など枯れ葉でございます」
「両姫(りょうひめ)とも、なにが老桜(うばざくら)なものですか、いまが盛りの八重桜---」
「お世辞でも、そうおっしゃっていただくと、うれしゅうございます」

「その、三十路(みそじ)花嫁ご寮は、どうまちがっても、美しいとは申せない、有徳院殿吉宗)さまお好みのご面相だそうでございます」
「それで32歳までご縁が遠かった---」
器量自慢のおんな同士の醜女(しこめ)評は、平蔵が顔をそむけたくなるほどに容赦ない。
吉宗は、おんなは嫉妬(やきもち)を焼かないのが一番---と、面相を気にしなかったといわれている。

「それでは、たいそうな持参金でも---?」
さまの用人が彦坂さまへ---」

彦坂どのといえば、火事場見廻りをおつとめの弟ご九兵衛忠篤(ただかた 29歳 3000石)さま---あの家禄なら、嫁ぎ遅れておる姉ごに200両(3200万円)の持参金もつけられよう)

ちゅうすけ註】32歳の花嫁の弟ごの九兵衛忠篤だが、その後先手・鉄砲(つつ)の組頭となり、平蔵が逝ったときにたまたま月番を務めており、平蔵の退任届けを若年寄へ差し役を務めた。

ついでながら、堀帯刀秀隆は、この3人目の花嫁も病死させ、あと2人、継妻を娶った記録が残っている。


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(堀 帯刀秀隆の彦坂家からの3番目の妻)


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2011.04.12

贄(にえ)家の探索

先月---3月6日(日曜)の静岡での定例[鬼平クラス]の前に、島田市旭町に、贄家の分家を訪ね、徳川幕府崩壊後のあれこれをお訊きするつもりで電話をいれたら、歴代の位牌ていどしか残っていないとのことであったので、訪問を中止、代わりに、クラスの安池欣一さんに、機会をみて位牌のを写してほしと依頼しておいた。

4月3日(日曜)のクラス日に、頼んでおいたリポートが出来上がっていた。
添えられていたメッセージの一部は以下のとり。

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贄家訪問の報告

贄さんのお宅を訪問しましたので、結果を報告いたします。

1 .贄さんのお宅には、位牌以外には、先祖に関する資料はないそうです。
その位牌は6~7ありまして、一つの仏壇にすべてまつられておりました。

この位牌については、(江戸から菊川市へ移住後の菩提寺である)極楽寺の先代の住職が、ひとつひとつ、調べて過去帳に記載してくれたといいます。

そこで、この過去帳を転記させていただきました。

没年月日の1日から30日まで日付順に記載されています。
その内、女性10名、子供6名を除いて、男性のみ抽出し没年順に記載すると別紙のようになります。


2. 寛政譜の贄家分家の初代「正長」の法名は、寛政譜は「同朝」に対して、過去帳は「洞明」と違いますが、次代の正朝は同じです。
没日はすべて同じですから、これらの位牌は贄家分家のものである可能性がたかいと考えられます。


3. 没年を比較しますと、一番古い寛永4年からNO.2の元禄10年まで70年と間があきすぎますが、それ以外は概ね連続していると考えられます。
NO.2から戒名に「院」がつき、寛政譜に記載されているNO.5から「院殿」がついています。

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安池さんが訪問した分家の、贄家についてのデータなどは、
参照】2011年11月18日~[贄(にえ)家捜し] () () () 

長谷川平蔵の前に、先手・弓の2番手組を火盗改メとして鍛えあげた(にえ) 安芸守正寿についは、 
参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 


そういえば、港区の大国寺では、正寿(まさとし 享年55歳)の戒名を訊くのも手ぬかっていた。

歿地・堺市で葬られた南宗寺の墓石に彫られていた戒名は、

寛量院殿(従五位下前芸州刺吏)印紹(超?)信居士

インターネットで、贄 市之丞正寿で検索したら、堺奉行に在任中の飢饉のときの手当てもよかったとあり、そのことも再任要請の理由の一つだったのかなと。


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安池さんからの添え状のつづき---。


その他

1. 『南紀徳川史』の『南紀徳川史』に「名臣伝」の「贄掃部」が掲載されています。
概ね、寛政譜に記載されていることと同じでしょうか。

2. 歌山県史の資料「和歌山分限帳」(延宝5年 1677年に作られたといわれています。)によりますと贄家では「400石 寄合 贄一郎太夫」と「25石 大小姓 贄与五兵衛」が記載されています。
これによりますと、この当時、既に贄家分家が存在したということも考えられます。

3. 和歌山県史によりますと、正保元年(1644年)以降延宝5年頃までの間に、新参の家臣・与力を召し放し、家臣に分家を立てさせた時代があったと記載されています。
贄家もこのようなケースであった可能性もあります。

4. 和歌山県立文書館に贄家の「系譜並ニ親類書書上」の存在を確認しましたが、無いとの回答でした
5. 以上からの推測ですが、「贄家過去帳」のNO.2の人の時代から贄家分家は存在したのではないでしょうか。
寛政譜の資料を提出するにあたって、たまたま、正長が養子になっていたので、そこから系譜をかくことにしたのではないでしょうか。

6. そのほか、贄正義さんは先祖の戒名に「院殿」がついていることから、相当な地位の人ではなかったかと言われたそうです。
三重県度合郡南伊勢町に「贄浦」という地名があるのですが、そこに贄島という所があって、親戚の人と訪ねて行ったそうです。
その時は、訪ねた寺の住職が不在で話を聞くことができなかったそうです。
また、位牌があるからにはお寺があるはずだとも思っていたそうです。
今回、「大安寺」のことを紹介し、本家のお墓はあることを説明し、電話番号も伝えてきました。


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つくってくださった『南紀徳川史』の「名臣伝」の「贄 掃部」のコピーには、先祖が家康の配下にあって、三河の各地に従軍、功を立てたことが列記されている。

寛政譜』は、慶長5年(1600)、秀忠が真田方の上田城を攻めたとき、牧野右馬充康成の組の旗奉行として、進みすぎたのは軍令に反する抜け駆けであると切腹をいいつけられたが、牧野康成が自分が命令したと弁護したため、改易ですんだことを記している。

その後、頼宣にしたがって紀州へくだり、「分限帳」には400石の寄合と載っている。

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2011.04.11

テキスト[網虫のお吉](2)

昨日につづき、4月3日の[鬼平クラス]のリポート。

テキスト文庫巻16[網虫のお吉]を下調べしていて浮かんだ疑問1.は、本所四ッ目に呉服問屋?であった。
疑問2は、火盗改メの与力・同心の欠員補充

網虫のお吉]では、黒澤勝之助(かつのすけ 40歳)が、情状酌量の余地なし、と役宅の庭で切腹を申しつかった。
当然の処置である。
読者も納得する。

で、疑問はそのあとのこと。

先手・弓の第2の組で、火盗改メを命じられている長谷川組の与力は10騎、同心は30人である。

黒澤同心が切腹すると、1人、欠員が生じる。
彼の息子は、後継をみとめられなかった。
補充しなければならないが、他組から引きぬくわけにはいかない。

本所あたりに屋敷をあてがわれている下級のご家人---30俵2人扶持級の者の中から選抜することになろう。
同心は、難なく埋められよう。

与力だと、どうか。
先手組の与力の家禄は、200石格で実質80石であるらしい。
希望者は山ほどいよう。

ところで、先手組の与力の数だが、長谷川組が10騎だから、ほかの組もそんなものだろうと思いこんできた。

で、確認のために、地震で散乱したままの書斎の本の群れから、ようやく、『大日本近世史料 柳営補任 3』(東京大学出版会 1964.03.25)を探しだして確認して、愕然!

与力が10騎の組は半分もなかった。

弓組第1の組(堀 帯刀秀隆が組頭のときがあった)
与力 10人
同心 30人

第2の組(贄 壱岐守正寿や長谷川平蔵宣以が組頭)
与力 10人
同心 30人


第3の組
与力  6人
同心 30人

第4の組
与力 10人
同心 30人

第5組
与力  5人
同心 30人

第6の組
与力 10人
同心 30人

第7の組(平蔵の本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直が組頭)
与力 10人
同心 30人

第8の組(平蔵の亡父・宣雄が組頭)
与力  5人
同心 30人

第9組
与力 10人
同心 30人

第10の組
与力 10人
同心 30人



鉄砲
(つつ)組

第1の組
与力 10人
同心 50人

第2の組
与力  6人
同心 30人

第3の組
与力 10人
同心 50人

第4の組
与力  5人
同心 30人

第5の組
与力 10人
同心 30人


第6の組
与力  7人
同心 30人

第7の組
与力 10人
同心 30人

第8の組
与力  5人
同心 30人

第9の組
与力  7人
同心 30人

第10の組
与力  7人
同心 30人

第11の組
与力  6人
同心 30人

第12の組
与力  6人
同心 30人


第13の組
与力  6人
同心 30人

第14の組
与力  6人
同心 30人

第15の組
与力  6人
同心 30人

第16の組(本多采女紀品、堀 帯刀、佐野豊前守政親)
与力 10人
同心 50人

第17の組(小野次郎右衛門忠吉が組頭)
与力  5人
同心 30人

第18の組
与力  5人
同心 30人

第19の組
与力  5人
同心 30人

第20の組
与力  5人
同心 30人


西丸
第1の組(森山源五郎孝盛が組頭であった)
与力  6人
同心 30人

第2の組
与力  7人
同心 50人

第3の組
与力 10人
同心 30人

第4の組
与力  5人
同心 30人


さて、与力の移動・補充である。

徳川幕府でのいろんな部署での与力は禄高にかかわらず、お目見(めみえ)以下の身分であったようで、『寛政譜』で確かめることが困難である。
柳営補任』にも名簿が記載されていない。
したがって移動の記録も目にできかねる。

そんな状況下での推察だが、長谷川平蔵宣以(のぶため)が先手組頭となり、火盗改メ・助役(『鬼平犯科帳』では本役扱い)を命じられたときに、堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳=天明7年)の組から、筆頭与力・佐嶋忠介を借りたとなっているが、そういう史実があるのであろうか。

長谷川平蔵が組頭に就任した先手・弓の第2の組は、平蔵の就任以前の50年間をみた場合、34組の先手組の中で、火盗改メの経験月数がもっても多い(通算144ヶ月)組であった。
ましてや、平蔵の着任の4年前まで(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)という逸材が火盗改メ・本役として5年6ヶ月(39歳~44歳)の長期間、組下を鍛えあげ、そのほとんどが残留していた。

そんな利(き)け者ぞろいのところへ、他組から筆頭与力を招くということがあるであろうか。
佐嶋忠介の能力をどうこういっているのではなく、新組頭としての鬼平の配慮を気にしているのである。

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2011.04.10

テキスト[網虫のお吉]

久しぶりの[鬼平クラス]リポート。

クラスは、唯一のこしているJR静岡駅ビル7階で月1(原則 第1日曜日午後1時~)SBS学苑。
4月3日のテキスト、文庫巻16[網虫のお吉]。

粗筋(あらすじ)はわざわざ紹介するまでもなく、鬼平ファンなら、ああ、あの女賊の話と了解されよう。
そう、〔苅野(かりの〕の九平(くへえ 60歳近い)一味にいた〔網虫あみむし)〕のお(きち 35歳)が、日本橋橘町3丁目の琴師の歌村清三郎(せいざぶろうに見初(そ)められ、後妻に入っていた。

ところが偶然に、その所在を火盗改メ・長谷川組の同心の黒沢勝之助(かつのすけ 40歳)にしられてしまう。

の人相書は3年前に火盗改メによってつくられていたのであった。
3年前に次の押し込み先を下見していたおを見かけたのは、かつて〔苅野〕一味の盗(おつとめ)みに2度ばかりかかわったことで見知っていた密偵・おまさであった。

黒沢同心は、おをゆすったばかりか、その女躰まで奪っていた。
いきさつをここで書くまでもない。

ちゅうすけが小首をかしげたのは、3年前、おまさに見かけられたおがさぐっていたのが、本所・四ッ目の呉服問屋〔丁字屋〕四郎太郎方---
これであった。

もっとも高級な業種の一つである呉服問屋が、場末に近い四ッ目とは、信じがたかった。

現代でこそ密集した住宅がたてこんでいるが、江戸時代の本所・四ッ目といえば、まあ、下町の場末に近いといっていいほどの場所であった。

本所と深川のあいだを東西に縦断している竪川(たてかわ)に架かっていた橋も、四ッ目までであった。
その先は渡し舟。
鬼平ファンなら、おまさの父親・〔たづがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50歳近い)>が〔盗人酒屋(ぬすっとさかや)〕などという物騒な店名の飲み屋を開いていたのも四ッ目橋近くであったことからして、想像がつこうというもの。

仕入れにも不便なそんなところに呉服問屋が---と疑念が湧いた。

で、『江戸買物独案内』をくってみた。

そもそも『鬼平犯科帳』は、池波さんが史料『江戸買物独案内』を所有していたからこそ、書き続けられた物語、ともいえないこともない。
ほかの江戸もの作家には、『江戸名所図会』と『切絵図』が座右にあれば足りる。
しかし『鬼平犯科帳』には、盗賊が押し入る商店が必要である。
しかも、狙いがつけられるほど富裕な商店が---。

江戸買物独案内』は、長谷川平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の歿後30年ほど経った文政8年(1824)に刊行された、問屋・店舗の名刺広告を業種別に集めた名鑑だが、鬼平の時代と、店の配置にそれほどの変貌はなかったろう。


「呉服」の項の末尾、本所四ッ目に呉服太物問屋はあった。
ただし、屋号は〔萬屋〕。
とはいえ、その隣枠に〔丁字屋〕もあった。
実際にあった商店の、町名なり店主の名前なりを入れ替えるのは、池波さんの常套の心得でもあった。


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(『江戸買物独案内』 呉服太物問屋の項ー)

盗人に押し入られる小説である。
もし、子孫が残っていて、
「縁起でもない」
苦情をもちこまれては面倒---との配慮であったろう。

池波さんも、『江戸買物独案内』をめくっていて、
(へえ、こんなところに呉服問屋が---)
不思議におもって利用したのかもしれない。

編集者が指摘したら、
「いや。実際にあったのだよ」
ちょっと得意げに---いや、さりげなく、応じようとおもって仕掛けたのかも。

ついでだが、後妻にむかえ、骨がないみたいにしなるおの躰にぞっこんであった琴師・歌村清三郎が修行した師・歌村七郎右衛門つながりとおぼしい店が、京都の『商人買物独案内』の琴三味線処の項に---


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(『商人買物独案内』 琴三味線問屋の項)

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2011.04.09

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(6)

「では、ごゆるりとお寛(くつろ)ぎくださいませ」
一通り酌をしおえた里貴(りき 37歳)が引きさがった。

「ここは、相良侯田沼意次 63歳 4万7000石)の息がかかっております」
(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳 火盗改メ組頭)の言葉に、本多采女(うねめ)紀品(のりただ 67歳 隠居料300石)が、
(む?)
たしかめる表情を平蔵(へいぞう 36歳)へ向けた。

「いや、言葉を誤りました。相良侯が後見をなされておるという意味です」
壱岐守があわてていいわけしたのに、平蔵が足(た)した。
「寮名の〔季四〕は、女主人の生地--紀州の貴志村の当て字だそうです。一橋北詰にあったときは、〔貴志〕とそのままの店名にしていました」

平蔵の双眸(ひとみ)の奥をのぞくように視た紀品はすぐIうなずき、
「なるほど、紀州つながりというわけじゃな」
ゆっくりと盃を平蔵へさしだし、酒を促し、つぶやくように、
「よいおんなぶりでもある。齢は30歳をすぎた---おんな盛り---」
「ご隠居のいまのお言葉を告げてやると、飛びあがって喜びましょう」
そういった平蔵へ、
「おんなの齢は、見た目よりも5歳は若くいうのが作法である」
笑った。「
「はっ。心得ました」

「ところで、 どの。堀 帯刀組頭どののところの与力の名がほしいのではござるまい。本題は---?」
「恐れ入り---じつは、組頭どのの内所(ないしょ)の用人にとかくの風評があり、たしかな所存を告げてくれる与力をご紹介いたたければと---」
「うむ---」

しばらく瞑目していた本多元称老は、末席の筆頭与力へ、
脇屋清助 きよよし)うじは、第16の組の氷見(ひみ)健四郎(51歳)与力をご存じかな?」
細い目を見開いた脇屋筆頭が、
「存じあげませぬ」
「さもあろう。人ぎらいゆえな」
含み笑いをし、言葉をつないだ。
「口数はな少なく、ほとんど話さないが、その分、耳と眸(め)を開いておる。何時であったか、なぜ、そのようなことを見聞きしておると訊いてみたことがあった。そしたら、口は1つきりだが、耳と鼻は2つずつ穴があいております。これに双眸(りょうめ)を加えると、6倍の働きになります---と答えられましての」

「算術はお説のとおりですな。脇屋。こころしてご交誼をお願いしてみよ」
正寿は満足げであった。

〔黒舟〕の屋根船で帰る3人を見送っあと、藤ノ棚の灯芯を高めた寝間で、紅花染めの短い寝衣の里貴の口を吸い、掌で胸をまさぐりながら、
「口は1つ、乳房は2つ、薄い茂みに穴1つ---」
「なにがおっしゃりたいのですか?」
「おれにとっての宝ものってことさ」

里貴の抜けるように白かった乳房は、早くも淡い桜色に染まり始めていた。

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2011.04.08

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(5)

長谷川うじは、いまは隠居なされ、自適を悠々とたのしんでおられる本多采女(うねめ)紀品(のりただ 67歳 家禄2000石)どのとご面識がおありと聞いておりますが---」
あたりをはばかりながらの、 (にえ)越前守正寿(まさとし 41歳 先手組頭)の問いかけであった。

(ここで、なぜに、本多のおじさまの名が---?)
いぶかりながら、平蔵(へいぞう 36歳)が言葉を改めて質(ただ)した。
本多さまにもなにか---?」

「きちんとお引きあわせ願いたくてな」
越前正寿は笑顔で応え、
「いや。お案じになるような用件ではござらぬ。かつてお勤めであった先手・鉄砲(つつ)の第16の組頭として、信用のおける組与力をご推挙いただこうと存じてな」

鉄砲(つつ)の第16の組といえば、今宵の客の一人---堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)が組頭の組ではないか。
(すると、 助役(すけやく)に、火盗改メとして遺漏(いろう)でもあってか)

「ご都合のよろしい日時は?」
平蔵の確認に、
「茶寮〔季四〕が抑えられる日時であれば、こちらはいつにても---」


里貴(りき 37歳)の返事は、師走月の朔日なら迎られるということであった。

この夕べの寝着は、浅草・雷門の前の〔天童屋〕に仕立てさせた、紅花染めの腰丈の半纏であった。
松造(よしぞう 30歳)がお(くめ 40歳)とお(つう 13歳)のために襦袢をもとめたことを、平蔵がちらと洩らすと、ひらめいたらしく、さっそくに出向いて注文したのであった。

「きのう、できあがってきたのです」
薄い桜色の寝衣だと、合わせ技のときの肌の染まりとともに、平蔵がいっそう昂ぶると想像したらしい。

たしかに効果はあった。
ただ、里貴のほうが先に昂ぶってしまい、いち早く脱いてしまっていたのだが。
平蔵が三ッ目通りの屋敷へ戻ったのもあけ方であった。


12月1日の七ッ(午後4時)、市ヶ谷門下の舟着にもやった〔黒舟〕の屋根船で、表六番町の屋敷からくる本多紀品を、平蔵が迎えた。
「お久しぶりでございます」
「あれこれの気くばり、大儀におもっておる」
「相変わらずのご壮健ぶり、麗(うるわ)しゅう存じます」
「病いに伏せぬが、目が弱ってな。絵筆の運びがままならぬ」
「そういえば、豚児・辰蔵(たつぞう 12歳)の元服の折りには、みごとな昇竜を頂戴いしたしました」
「憶することなくに元称(げんしょう)と署名しはじめてから、はや3歳(みとせ)になる」

元称は、致仕後の紀品の画号であった。
継嗣・隼人紀文(のりぶみ 27歳)はまだ役に召すされずにい、小普請の身分のままであった---というより、病弱で出仕をはばかっていたというほうがあたっていた。

「今席の〔季四〕は---?」
応じる前に船は牛込門下の舟着きに寄せていた。
筆頭与力・脇屋清助(きよよし 53歳)をしたがえた贄 越前守正寿が待っていた。

平蔵が引きあわせた。
「ご足労をおかけし、申しわけございませぬ」
頭をさげた に、手をふった元称が、
「なにが足労なものでありましょうや。かように、屋根船で迎送をいただいております」
「これは、長谷川うじのお顔で---」
「ほう。銕三郎(てつさぶろう)は、いつのまに、そのような広い顔に---」

はにかんだ平蔵が、
「いつぞや、本多おじどのの相談役を詐称(さしょう)してお侘びに参じました、あの旅で面識した〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 50歳)と申す雲助の頭が、江戸へきて船宿をやっておりまして---」
手短に権七とのなれそめを話した。

参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] () () () () () () () () 

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2011.04.07

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(4)

建部(たけべ)どの---」
増役(ましやく)・建部甚右衛門広殷(ひろかず 54歳 1000石)が、呼びかけた今夕のもてなし役の(にえ) 越前守正寿(まさとし 41歳 300石)のほうへ耳をつきだした。

年齢も家禄も建部のほうが本役・よりも上だが、役職でいうと、同じ先手の組頭でも、弓組は鉄砲(つつ)組よりも上位につく。
さらに、火盗改メでは、本役は助役(すけやく)と増役の上に立つ。
しかも、贄 越前守は先任であった。

「気のきいた同心を3名ほど---とのお申し出でありますが、先手34組をみわたし、この50年間、火盗改メの経験を通算でもっとも長く経験しておる組は、自慢ではないが、われの弓の第2の組です」

建部広殷も助役・堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)もうなずかざるをえなかった。

それをたしかめた上で、本役が提案した。
「どうでしょう、建部どの。増役の役明けは明年の4月あたりでしょうから、それまでの5ヶ月に日限をかぎり、わが組から気のきいた同心を3名、お貸し申そう。なに、代わりは無用です。わが組の目白台の組屋敷から建部どのの四谷南伊賀町のご役宅まで通わせます」

意外な申しでに、建部増役は面くらい、あわてて謝絶した。

建部どの。この席へ長谷川うじを招いたのは、同心3人以上の力をお持ちだからです。火盗改メの役目のことで、お困りの節は、長谷川うじの上役である、西丸・書院番第4の組の番頭(ばんがしら)・水谷(みずのや)出羽(守勝久 かつひさ 59歳 3500石)さまなり、われへお話しあれ」

本役の言葉に、安堵の色をみせたのは、 助役であった。
よほどに難題が嫌いらしかった。


平蔵(へいぞう 36歳)へ目顔でのこるように示し、本町の有名菓子舗・〔鈴木越後〕の折箱をみやげにもたせて助役と増役を送りだし、が戻ってきた。

「今宵は、特別なおこころ遣いを賜り、ありがとうございました」
平蔵が礼を述べると、
「いや、じつは、も一つ、用件があってな---」

正寿が告げたのは、意外なことであった。

ちゅうすけのひしり言】じつをいうと、建部甚右衛門広殷が組頭をしている先手・鉄砲(つつ)の第13の組は、与力は建部組頭のいうとおり6騎と少ないが、同心は40人と、ほかのほとんどの先手組よりも10 人多いのである。
建部組頭が堀 帯刀秀隆へが同心の交換を催促したのは、ほかに狙いがあったのであろうが、ちゅうすけはそれをはかりかねている。
しいて推測すると、堀秀隆の用人が賄賂をむさぼっているのを、暗に替えよと忠告したのかもしれない。

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2011.04.06

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(3)

しばらく料理に専念してい、静かであった空気を破るように突然、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 54歳 1000石)が、堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)に声をかけた。

どの。お手前の前任の水野清六忠郷 たださと 48歳 2500石)どのな---」
水野どのは、前々任ですが---}
秀隆は不審げな面持ちで、それでも箸を置き、首をかしげた。

秀隆のいうとおり、水野忠郷は西丸の先手組頭から先手・鉄砲(つつ)の第16の組頭iとして安永9年(1780)10月7日に組替えとなって転じてき、即日、火盗改メの助役(すけやく)を命じられた。
しかし7ヶ月後の今年---つまり天明元年(1781)閏T5月1日には小普請支配に栄転していった。
後任には、佐渡奉行の宇田川平七定円(さだみつ 200俵 68歳)が発令されたが、3ヶ月後に卒した。

家柄を誇りとしている建部とすれば、桜田の館に召された宇田川平七など眼中にないのであろう。

「で、水野どのがなにか---?」
堀 帯刀がうながすと、
「このことは、(にえ)越前 (守正寿 まさとし 41歳 300石)本役どのもご承知のことなれど---」

水野清六忠郷が火盗改メ・助役を勤めていたとき、建部広殷も増役(ましやく)に就いていた。
ところが、彼が組頭として預かっている組そのものは、この20何年というもの、火盗改メを役していず、みていてまどろかしい。
しかも、他の組の多くは与力が10騎揃っているのに、建部の組---鉄砲の第12組は6騎であった。

「これでは、せっかくのご奉公も手薄になろうというもの。そこで、相役の水野清六どのに、気のきいた同心を3人ほど交換してほしいと申しいれたのでござるよ。もちろん、 本役どのにもご相談しての上でござった」

組頭の交代はあたりまえのことだが、与力や同心は組についているのが定石で、もちろん後継ぎがいなければ小普請組の軽輩から調達することはあるが、ほとんじは養子を迎えて継がせている。
30俵2人扶持の微禄でも、安定したあてがい扶持を希望する者は少なくない。

そんなこんなで、前例のない組同心の交換についての手続きなどをあたっているうちに、
「水野どのが栄転されてしまったのでござる。これは、ぜひとも、 助役どのに無理をお願いいたしたい」

「しかし、組子の交換となりますと、組屋敷も転宅となりますゆえ、本人が承知いたすかどうか---」
堀 帯刀秀隆は、決まりきった仕事をすすめていくのは苦にはならないようだが、前例のない事態は手がけたくない性格らしいと平蔵(へいぞう 26歳)はみた。

まあ、徳川体制を維持するためには、新しいことはしないにかぎる---時代の趨勢に応じて対策をたてていく田沼主殿頭意次 おきつぐ 64歳 4万7000石)が門閥派から嫌われる原因も、そのあたりにもあると、平蔵(へいぞう 36歳)は贄 越前守の表情をうかがった。

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2011.04.05

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(2)

この夕べ---天明元年11月晦日近く。

九段坂の一筋北、中坂下の料亭〔美濃屋〕へ招かれていた客、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 54歳 1000石)はすでに耳が遠くなりかけているらしく、話し手のほうへ頭をぐいとのり出して聞くくせが身についているだけに、みずからの声も必要以上に大きい。
目玉も大きいから、戦国時代の武将の風格をたたえていた、ということは、所作が無骨でもあった。

長谷川うじ。建部どのは、こたびの増役(ましやく)は、三度目でな。その前、わしが火盗改メを拝命した年には加役(助役)として文字通りお助けいただいた。長谷川うじもいろいろとお教えをうけるとよろしかろう」
招待主の(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳 300石)は、 助役(すけやく)の堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)へいうべきことを、平蔵(へいぞう 26歳)にむかっていった。
(そうか、きょうのわれの役目は、顔つなぎにことよせた、この叩かれ役であったか)

3人の火盗改メのうちで、贄 壱岐守は最年少であり家禄も少ないが、階位は従五位だから、布衣(ほい)の2人よりも格は上だし、火盗改メの発令も早かった。
徳川体制---というより日本社会では、先任順がもっとも優先する。
それでいて、わざわざ建部甚右衛門の耳にも達するような音量で平蔵へ話した。

きちんと聞きとった建部増役は、目尻の皺を一段と深めた笑顔になっていた。
(ふだんは耳が遠くても、自分への褒め言葉はちゃんととどくらしい。褒め言葉をほしがりはじめたら老いの始まりとは、よくいったものだ)
平蔵は、腹の中で笑いながらも、建部老に頭をさげ、
「よろしゅうに、ご指導のほどを---」
頼んだ。

「なに、ご尊父の下で見習われたであろうが、教え手が異なれば、卒事も補えようというもの---」
建部増役はいい気分であった。

「増役さま。お訊きしよろしいでしょうか?」
「なにを?」
老がぎょろ目に戻した。

京都西町奉行のまま逝った亡父の後始末をして帰府には、往路と異なる中山道をとった。
その節、大津宿で建部大社に詣でたが、あれは、建部家の鎮守であろうか---と、追従ともとれる問いを発した平蔵へ、建部老は莞爾と膝をうち、
「建部大社の祭神は日本武尊(やまとたける)さまでな、わが家の姓は、同じ近江国神崎郡(かんざきこおり)の建部村(現・滋賀県南近江市のうち)の領主であったことによる」

平蔵は、大津に一泊したことは告げなかった。
京を出て大津宿で一泊という旅程を、久栄(ひさえ 21歳)は不思議がりもしなかった。
日が暮れてから、銕三郎(てつさぶろう 28歳=当時)は宿に頼んでおいた香華をたずさえ、湊口へ行き、合掌してから湖に沈めた。
(お(りょう 33歳)、20年ほど待っていよ。おれも行くから---)
小波が渡し場の杭にあたる音が、寝間でのおの甘え声のようであった。

参照】2009年11月29日~[銕三郎、京を辞去] () (

建部老は、相手が興味をもっているかいないかに頓着なく語った。
「湖畔の伊庭(いば)村から建部村へ移り住んだときに姓としたのでな」
「伊庭と申されましたか?}
「さよう」
助役(すけやく)さま。鉄砲(つつ)の第16の組に鳥越亥三郎(いさぶろう 48歳=当時)どのはいまでも同心筆頭をなさっておられますか?}
平蔵は、堀 帯刀に訊いた。
みんなが建部老の自分話に辟易しているとみたからである。

「はて---?」
秀隆の反応は鈍かった。
自分の組の同心筆頭の姓もおぼえていないとは!

「いや。いまの筆頭は、そのような姓ではなかったな」
壱岐守が助け舟をだした。
「伊庭がどうかしたかの?」

平蔵が、〔伊庭(いば)〕の紋蔵という盗賊を取り逃がした13年前の一件を話した。

参照】2008年11月31日[〔伊庭(いば)〕の紋蔵] 


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(建部甚右衛門広殷 『寛政譜』の広般は誤植)


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2011.04.04

火盗改メ・堀 帯刀秀隆

「深川の茶寮〔季四〕でともおもいましたが、助役(すけやく)・堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)どのは小川町裏猿楽町、増役(ましやく)になられた建部(たけべ)甚右衛門広殷((ひろかず 54歳 1000石)どのは四谷南伊賀町ゆえ、あいも変わりばえせぬが、飯田町中坂下の〔美濃屋〕にいたしました」
火盗改メ本役・(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 41歳 300石)からの誘いが、丁寧な添え状つきできた。

堀 帯刀秀隆に火盗改メ・助役が発令されたのは、1ヶ月半ほど前の10月13日であるし、建部甚右衛門広般の一昨年の冬場の助役につづいて2度目は今年の1月24日から半年、そしてこの11月9日に増役に命じられているから、それぞれが本役へのあいさつの招待は終っているはずである。
(ということは、贄 壱岐側の返礼の席であろう。そのような宴席へお招きくださるとは、あまりにも念のいったおこころ遣い---)
平蔵(へいぞう 36歳)は、贄 正寿の人柄にあらためて感服した。

幼少のころ、現将軍・家治(いえはる 45歳)の伽役にも選抜された贄 壱岐であるから、いまでもときどき清談に伺候しているにちがいない。
このたびの与板藩主・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 35歳 西丸若年寄)の領内で、平蔵が構じてきた盗賊・〔馬越まごし)〕の仁兵衛(にへえ)の風聞のみによる追いはらいの奇策も、将軍の耳に入れているかもしれない。

参照】2011年3月5日~[与板への旅] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19

宴席で紹介された堀 秀隆は、色黒のずんぐりした体躯で、齢に似合わず声が甲高く、
「目黒・行人坂の放火犯人を逮捕なされた長谷川備中守宣雄 のぶお 享年55歳)どのご子息とな。あの大火では拙屋敷も類焼したゆえ、留飲がさがり申した」
役職にある身で、個人の事情にことよせての話し方に、平蔵は一抹の危惧をおぼえた。
このときの平蔵の直感は、その後、堀 秀隆が火盗改メ・本役として再任された下で助役を勤めて的中したが、これは5年後のことであった。

ちゅうすけの失策】平蔵の見た堀秀隆像はともかくとして、ちゅうすけとして、堀 帯刀秀隆に謝らなければならない発見をした。
この夕べ、中坂下の〔美濃屋〕へ現れたときの堀 秀隆は、先手・鉄砲(つつ)の第16の組の組頭に同年(1781)8月20日に目付から昇格したばかり、ほやほやの湯気がたっているといってもいいくらいの組頭であった。
鉄砲(つつ)の第16の組は、別名・駿河組の称もある歴史のある一団で、与力はほかと同じ10名であるが、同心が50名配されている。

当ブログをかねてからお目とおしいただきご記憶の篤い方は、先手・鉄砲第16の組の組頭といえば平蔵の亡父・宣雄の盟友でもあった本多采女紀品(のりただ 67歳=天明元年 隠居中)が6代前の組頭であったことをおもいだされよう。
いや、堀 秀隆は、由緒のあるこの先手・鉄砲の第16の組から、4年後の天明5年(1785)11月に、先手・弓の第7の組頭へ組替えした理由を、「よしの冊子」の報告書を信用して紹介してしまったことがあった。

よしの冊子』は、の組替えは、弓の第7の与力・同心が身銭をだしあって80両の賄賂をつくり、火盗改メであった堀 秀隆の用人へ贈って成功実現したように書いていた。
与力・同心の狙いは、火盗改メ手当てであったと。
たしかに、弓の第7の組は、長谷川太郎兵衛正直の3度、そのあとの横田源太郎松房(としふさ)の火盗改メ、就任で役手当てのおいしさの味をしっていた。

参照】2007年9月2日[隠密、はびこる
2007年8月29日[堀 帯刀秀隆
2006年4月19日[堀 帯刀の家系と職歴

しかし、『柳営補任』を調べてみると、堀帯刀秀隆の弓の第7の組への組替えは、

天明5年11月15日河野勝左衛門と組替え、火附盗賊改加役

組替えが先で、火盗改メの拝命はそれにつれてのものであった。
つまり、与力・同心たちが集金したというのは虚報ということになる。
ことほどに、『よしの冊子』の記述の精度には要注意である。

これで、堀秀隆への冤罪はそそげたであろうか。

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2011.04.03

長谷川家と林叟院(5)

(てつ)さんにわざわざご来駕いただいたのは、本家の太郎兵衛大伯父の賛同のことなんだよ」
「なるほど---」

平蔵(へいぞう 36歳)のことを幼名の銕三郎(てつさぶろう)と呼んだのは、家禄が4070石と飛びぬけている長谷川分家の一軒の当主---栄三郎正満(まさみつ 37歳)であった。

本家の太郎兵衛大伯父とは、長谷川正直(まさなお 72歳 1450石)のことである。

太郎兵衛正直は、かねがね、分家の分際で禄高が高いと思い上がりおって---と気分を白らけさせていた。
なにしろ徳川幕臣には、家格が第一、家禄はその次の気風の者が多かった。
というのも、家康が譜代の者の家禄を低めにおさえたことから、目には見えずはっきりとは計算できない三河以来の家格を言い立てて自己満足するしかなかったことにもよる。

栄三郎正満が、いまのところは営中の役についていないのを幸いに、駿河の益頭郡(ましづこおり)小川(こがわ)村の坂本郷まで出むき、長谷川家の祖の法永長者の墓域を整えることを幕府に申請しようとしていた。
路用はもちろん、寺への寄進と供養料も栄三郎正満がすべてもつつもりであった。
それだけの余裕もあった。

栄三郎とすれば、自分の幼名の「」が、法栄長者からきていることをしっているだけに、家督してからのこ4年間、練りつづけてきた案であった。
ぜひとも実現したかった。

林叟院へも便を送って打診ずみである。

(えい)さん。こうしたらどうだろう---?」
平蔵が案じたのは、太郎兵衛正直が、この天明元年4月28日に、持筒(づつ)頭'から槍奉行へ栄進した。
前職の先手弓の頭や持筒頭は1500石格であったから、家禄1450石の太郎兵衛とすると、ほとんど持高勤めに近かった。

槍奉行は2000石格だから、550石の足高(たしだか)がつく。
これは慶事であり、本家としてはご先祖へ報告せずばなるまい。
長谷川本家の菩提寺は、近々の祖・三方ヶ原の合戦で徳川方の武将として戦死した紀伊守正長(まさなが 享年37歳)の墓のある小川湊の脇・信香院である。

しかし、ご当人の太郎兵衛大伯父は重職現役、嫡男の主膳正鳳(まさたか 46歳)は、太郎兵衛隠居する気配もないのでいまだに家督はしていないのを幕府が気の毒がり、5年前に非正規ながら小姓組番士(仮手当300石)として召しだした。

もちろん、幕府としては暗に太郎兵衛に致仕・家督相続をすすめたつもりだったが、老は自分のこれまでの功績が認められての父子勤めだと、いよいよ得意になっていた。

そこでだ、嫡子の息・金蔵正運(まさかづ 17歳)を祖父の名代として小川へ差しむけ、栄三郎は後見役としてつくということでどうだろう。

「本家にも分家---といっても、さんのところをはずすとわが家だけだが、この際だから、又分家の2家にも、僅少なりとも費えを分担してもらう形をとる。これなら、大伯父どのも否とはいえまい」
「名案だな。さっそく明夕にも、一番町新道(太郎兵衛の屋敷)へ相談にあがろう」

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2011.04.02

長谷川家と林叟院(4)

地震で倒壊した書棚の復旧が遅々としてすすまない。
林叟院は4度ほど参詣し、ご住職からも懇切な説明をうけ、寺誌も保管していたが、散乱した資料にまぎれこんでしまっている。

といって、きょうまで6年間以上も一日も休まずにアップをつづけてきたこのブログを、ここで途切れせるのも癪である。
ネットで検索した記事をつなげながら、すすめることをお許しいただきたい。

寺史の略については、地元・焼津の七里至四方さんの概略を拝借する。

明応の津波と林叟院
http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/50929793.html

林叟院を開基した法栄(ほうえい)長者(仏門に帰依後は法永)こと、長谷川正宣が、平蔵宣以(のぶため)の11代ほど前の祖にあたる。

林叟院の鐘楼
http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/43558825.html

市のホーム・ページらしい、林叟院
http://www5.ocn.ne.jp/~yaidu8/n-rin.html

静岡駅ビルの7階で6年ほどつづいている「鬼平クラス」の中林正隆さんの探索記は、「井戸掘り人のリポート」の中の、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/index.html

中林さんの駿河の長谷川家の先祖調べは徹底しており、上記、「井戸掘り人のリポート」の「今川時代の長谷川氏の年表」は詳細をきわめている。

ただ、正満の年齢は、平蔵宣以よりも1歳上というのが、『寛政重修諸家譜』からの試算である。
中林さんのリポートの中の法永長者の位牌も、正満が供養したものである。
黒漆の艶が200年の歳月を感じさせない。

鬼平ファンのあいだで江戸の史跡めぐりが人気があるが、焼津の林叟院と三方ヶ原で戦死した長谷川紀伊守正長の墓がある小川(こがわ)魚港の脇にある信香院(焼津市小川3540)も、もっと重視されていいのではあるまいか。

ついでだから付記しておくと、宮城谷昌光さん『古城の風景Ⅱ 一向一揆の城 徳川の城 今川の城』(新潮文庫2010.11.01)の横地城の塩買坂の項に、今川義忠が横死する描写がある。
このとき、法栄長者の父の長重も討たれている。

法永長者の屋敷跡は、焼津市の不動院(三ヶ名町 さんがみょう)の前に碑が建っているという。
明日にでも訪ねてみようか。

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2011.04.01

長谷川家と林叟院(3)

馴れない鬼平ファンの方には、読みづらいかもしれないが、すこしのあいだ、お付きあいを乞うしかない。
というのは、すでに記したかもしれないが、先日の地震で、書斎の書棚が全部崩壊し、資料が散乱、利用できなくなってしまっているため、これまでのホーム・ページからの記録をさらえている。


静岡大学の教育学部長・小和田哲男さんの著書『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)により、静岡市瀬名の中川家から出現した古文書――

大職冠大臣鎌足八代の孫
 鎮守府将軍藤原秀郷三代左馬亮五代孫、下川辺四郎政義次男、小川次郎左衛門尉政平、建久二年(注1191)右大将源頼朝公に奉仕、富士巻狩之節供仕候。長男大膳亮長教大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川村ニ住居。夫ヨリ五代孫小川藤兵衛尉長重、明徳四年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕、文明六年(1474)遠江国塩買坂ニ於而戦死、法名者弘徳院殿与号、駿州益津郡野秋村有之。

秀郷稲荷というのを、府中市の高安寺(片町 2-26)墓域内で見つけた。
同寺は藤原秀郷の屋敷跡に建立されたのだそうである。

Koanji_roumon_2
(高安寺の楼門)


Syugoinari_sando_2
(墓域の正面ののぼりが秀郷稲荷)

静岡市瀬名の中川家から出現した古文書――

大職冠大臣鎌足八代の孫
 鎮守府将軍藤原秀郷三代左馬亮五代孫、下川辺四郎政義次男、小川次郎左衛門尉政平、建久二年(注1191)右大将源頼朝公に奉仕、富士巻狩之節供仕候。長男大膳亮長教大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川村ニ住居。夫ヨリ五代孫小川藤兵衛尉長重、明徳四年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕、文明六年(1474)遠江国塩買坂ニ於而戦死、法名者弘徳院殿与号、駿州益津郡野秋村有之。


上掲『今川氏家臣団の研究』で、小川長重が仕えた今川義忠は、明徳4年(1293)にはまだ生まれていないから、享徳4年(1455)の誤記であろうとしている。
また、小川長重が戦死した遠江の城飼郡塩買坂のそれは一揆鎮圧の出動でしたが、帰城途中にふたたび一揆が襲いかかられ、今川義忠は脇腹に深く刺さった流れ矢のためにしだいに衰弱、翌朝絶命した。
義忠の享年28歳(?)。
義忠の享年が文明6年(1474)に28歳となると、小川長重が出仕した享徳4年(1455)時、彼はわずかに9歳だったのであろうか。

ちゅうすけ補】今川義忠の横死の没年は41歳と、別の史料にあるから、小川長重は22歳かも。
静岡県史 資料編6』収録の「今川家譜」では義忠の戦陣死を文明11年2月19日、享年53歳としている。研究課題の一つである。
それはともかく、義忠の嫡子・竜王丸(6歳)は、法栄長者らによって花倉にかくまわれた。


〔居眠り隠居〕さんから、、『今川氏家臣団の研究』の紹介についてのコメントがあった。

脳梗塞のため、禁じられていたPC操作がやっと解禁となりいの一番に開いたこのHPで、長谷川家の家系に関する新史料発見のニュースを知り、さっそく小和田哲夫教授のご本を取り寄せて読み、驚くとともに感激しました。
静岡市瀬名の中川家古文書発見によって下河邉四郎政義次男・小川次郎左衛門から長谷川藤九郎長重に至る、これまで知られなかった長谷川氏のおよそ 300年におよぶ家系の不明部分がほぼ明らかになりました。

平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍藤原秀郷のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名乗り次郎左衛門政宣の代になって、大和国・長谷(初瀬)川に住し、これより長谷川姓を名乗ったそうな。のち藤九郎正長の代になってから、駿河国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元に仕えた・…。

これによって文庫巻3「あとがきに代えて」も、大筋で正確であることが立証されました。
池波先生も長官(おかしら)もこれでホッとして、いまごろは〔五鉄〕あたりでくつろぎながら一杯やっているのではないでしょうか。ご同慶の至りです。
政平の子に長教の名を記した文献が見あたらない、名前のわからない者が多い、時代が合わない等、まだまだ解明すべき点、今後の研究に待つべき点はありますが、すばらしい発見であったと思います。
以下にこれまで不明であった、正長までの長谷川氏家系を整理して記してみます。ご笑覧ください。

下河邉四郎政義
長男・行幹 後の益戸二郎兵衛尉
母 河越重頼女

初代 小川次郎左衛門政平下河邉四郎政義次男
   建久2年(1191)頼朝公に奉仕、富士之巻狩之節仕候
二代 大膳亮長教 大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川(こが
   わ)村ニ住居
三代 不詳 長教より1
四代 不詳  々  2
五代 不詳  々  3
六代 不詳  々  4
七代 小川藤兵衛尉長重 長教より5代、明徳4年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕え、文明6年(1474)遠江国塩買坂ニおいて戦死
八代 次郎左衛門尉政宣 妻長重女 実父・加納彦右衛門義久
九代 元長 伊賀守
十代 次郎左衛門尉正長 藤九郎 駿河国小川に住し、のち同国田中に移り住す。今川義元に仕え、没落ののち東照宮に仕へ奉る。
元亀3年(1572)三方ヶ原合戦で討死

正長三男・惣次郎:静岡市中川家先祖。

三方ヶ原で討死した長谷川紀伊守正長(まさなが 享年37歳)f田中城を退去するとき、幼なかった次々弟・惣次郎を瀬名へ隠した。

惣次郎はのちに、田中城の「田」と、小川(こがわ)の「川」から中川を姓としたという。




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