おまさの影
留め書き帳に、お鉄(てつ 25歳見当)と記されているおんなが、蔵元〔神座(かんざ)屋〕の直営している呑み屋の酌婦に雇われた経緯(ゆくたて)は、あっけないほどの手口であった。
去年の11月の寒い夜、〔神座屋〕の仕込み小屋の前で苦しんでいたがお鉄であった。
家へ入れて介抱してやると、2日目には回復したが、腹にややがいるのに、男に有り金をもって逃げられた、
ややを産むためにも当分働いかないといけない、働き口はないものかと頼まれ、黒眸(くろめ)がぱっちりして受け口の、ちょっといい年増であったから、呑み屋のほうの酌取りなら、というと、喜んで承知した。
呑み屋で働いた経験でもあったのか、所作が手なれており、客の受けもよかった。
寝泊りは屋敷のほうの女中部屋があてがわれた。
「おてつという名---?」
平蔵(へいぞう 37歳)がことさらに問うと、陣屋の手代・祐助(ゆうすけ 45歳)は、不安げに岡っ引きの宇三(うぞう 38歳)へ視線を向けた。
「酌取りがそういいやしたということな,んで、鉄と、こっちで勝手に当て字しやした」
「わかった。ところで、そのおんなの背格好だが---」
5尺3寸(1m60cm)と、当時のおんなとすると、かなりの背丈があった。
「ぽっちゃりした感じ---か?」
「さあ。あっしたちはじかに見たわけたではありやせん。事件が起きたその日から消えちまっておりやす。細かなことは、〔神座屋〕でお改めになってくだせえ」
江戸の火盗改メということで下手(したで)にはでているが腹の中では、調べるためにわざわざ出張(でば)ってきているのであろうが---とでもいいたげな口ぶりであった。
遣いにやっていた松造(よしぞう 31歳)が戻ってき、平蔵に指6本を示し、隣室へ引っこんだ。
大井神社脇で香具師(やし)の元締をやっている万次郎(まんじろう 51歳)が六ッ(午後6時)に待っているという返事であったに違いない。
「何刻(なんどき)かな?」
「先刻、林入寺の鐘が七ッ(午後4時)を打ちました」
手代の祐助が告げた。
【ちゅうすけ註】林入寺は、本陣・〔中尾〕脇の陣屋小路から3筋江戸寄りの林入寺小路を北へ入った突きあたりにある名刹である。文庫巻1[血頭の丹兵衛]で、その山門の蔭で〔小房(こぶさ)〕の粂八(くめはち)が天野与力に「そろそろ、時刻---」とささやく。p110 新装版p116
(嶋田宿 本通り6丁目から北へ折れた林入寺小路の奥 林入寺)
「では、宇三親分は、明日の〔神座屋〕の改めに立ちあってもらうことにし、きょうのところはこれでお開きに---」
平蔵が三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)同心に断った。
「六ッに、ちょっと人に会うので、湯で埃流しをいたします。夕餉(ゆうげ)は無用かと---」
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