贄(にえ) 家捜し (2)
コンクリート造りの本堂に付属している玄関脇のインタ-ホンで、
「アポをいただいている者です」
来意を告げた。
すぐに前住職夫人が招じてくださった。
背丈はそんなにないが、 ふくよかな面立ちの80歳前後の方。
用意してきた、贄 家の本家・分家と長谷川家の『寛政重修諸家譜』と旧著『江戸の中間管理職・長谷川平蔵』を進呈し、遊びの調査でないことを示した。
夫人のほうからは『泰嶽山大安寺誌』(1984制作)が差しだされた。
「10年もお参りがないと、無縁のほうへお移しするのですが、贄さまのはお残ししています。最後にお見えになったのは、30年以上も前でしたか、お父さまとお嬢さまのお2人で---お嬢さまはたしか、よし子とかとおっしゃったような---」
贄 夫人は療養中か他界されていたのかもしれない。
前住職夫人は、
「私が20代のころでした」
お嬢さまという言葉にまどわされたが、30年前ではなく、50年ほども前のことで、
「ご結婚なさったかどうか---」
疑問の言葉がつづいたから、贄 直系の本家は消えたのかもしれない。
しかし、子孫の住まいは東京か近郊であったふしもある。
また、支流がおられるかもしれない。
(大安寺本堂 1961建立)
コンクリート造りの本堂ができたとき、墓も本堂左の建物群に収容したと。
風雨で墓標が退化したり、塔婆が風で騒ぐこともない。
供花を用意してお参りしたが、夫人が朝のうちに手くばりくださっていた。
じつをいうと、供花は、安池欣一さんが送ってくださった、贄 分家の菊川市牛窪の墓標の写真を見、安池さんの気くばりに学んだのである。
(菊川市牛窪 極楽寺の贄.分家の墓標3基 安池さん写す)
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コメント
クラスの方と一体となっての探索、まさに鬼平犯科帳を地でいっているみたいでカッコいい。ト
投稿: tomo | 2011.01.19 06:24
>tomo さん
おっしゃるとおり、安池さんに刺激されての大安寺詣ででした。
墓標の横や裏の文字を確認しなかったのが手ぬかりでした。
ルートがついたので、また、行って確認し、リポートします。
投稿: ちゅうすけ | 2011.01.19 07:41
長谷川平蔵にかかわったと思われる人物まで調べていくこのブログ、どこまで発展していくやら。
もし、池波先生がご生存でしたら、ちゅうすけさんをリサーチャーに契約なさったでしょう。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.01.19 09:04
>左兵衛佐 さん
あまり、うれしがらさないでください。
池波さんとは、読売新聞映画広告賞の審査員を10数年間ごいっしょしましたが、そのころは、鬼平を読むだけで、史実の長谷川平蔵は調べておりませんでした。
池波さんが、やりたいことを急いでしなければ---と審査員をご辞退なさってから、探索をはじめました。
いまおもえば、残念です。
投稿: ちゅうすけ | 2011.01.19 12:28