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2011.01.20

贄(にえ) 家捜し(3)

静岡県菊川市牛窪の極楽寺は、維新以後---すなわち、徳川幕臣の駿・遠州への移住により、 (にえ)分家が菩提寺としたしたのであろう。

先日も記したが、贄 家の本家、分家について再度、まとめてみよう。

享保元年(1716)、将軍・家継(いえつぐ 享年8歳)の危篤の報に、急遽、赤坂の紀州藩邸からニノ丸入りした吉宗(よしむね 33歳)にしたがった小姓組・贄 主計頭(かずえのかみ)正直(まさなお 25歳)が、そのまま将軍付きの小姓組番士として幕臣となり、300石を給された本家。

同年、吉宗の嫡子として西丸入りした長福丸(ちょうふくまる 6歳)付きの善之丞正長(まさなが 42歳 200俵)は、分家の祖である。
そして、善之丞正長は、本家・主計頭正直のもっとも近い叔父にあたった。
また、この贄 分家の屋敷は、鉄砲洲築地であったから、同じ区画で5歳から19歳までをすごした銕三郎(てつさぶろう)は、贄 分家の三代目・掬五郎正栄(まさよし 銕三郎より10歳年長)と顔をあわせていたかもしれない。

安池欣一さんが、資料をあたり、まず、見つけたのが、この分家・善之丞正長の末・善次郎(ぜんじろう 39歳=明治4年 1871)であった。
資料は、小川恭一さんの労作『寛政譜以降旗本家百科事典』(東洋書林 1997)であった。

主なところを書き写す。

贄善次郎 
養祖父:贄 弥市郎    書院番
  養父:贄 善右衛門   小十人頭
実祖父::三田:助右衛門 大番
  実父::三田助右衛門 小普請組頭 
200俵
文久3(1863) 小姓組入
慶応2(1866) 勤仕並小普請
明治元(1868)精鋭隊取締
明治2(1869) 金谷原開墾御用取締
    6人扶持手当150両


_160『金谷郷土史資料 牧之原開拓士族名簿』(金谷郷土史研究会)も、上掲とほとんど同じ記載だが、どちらの記述が先かは、後日、安池さんに確認してみよう。

善次郎(のち正善 まさよし)が金谷原開墾御用取締を勤めたことからであろうか、分家の菩提寺は菊川市牛窪の極楽寺になった。

同寺の住職夫人への、安池さんの問いかけ、
贄 家は名家であり、牧之原(金谷之原の改称)開拓に従事した方で、そのことを本に書いた人もいるようですが、そのようなこと、ご存じではないですか?」

住職夫人の応え---。
さんは、今はこちらにお住いではなく、島田へ移転されています」

安池さんからの資料に、島田市のハロー・ページのコピーが同封されており、贄 姓が5件登録されていた。
贄 善次郎家の子孫の色が濃い。

善次郎の項の「精鋭隊」について、前田匡一郎さん『駿遠へ移住した 徳川家臣団 第ニ編』(発行は著者 1993)に、

幕末の動乱のころから慶喜の護衛を任務としていた精鋭隊の中条金之助(景昭)以下ニ百五十名は、引き続いて慶喜の身辺の警護と久能山東照宮の警衛の任務を与えられて、大部分は久能山の周辺に住んでいた。
精鋭隊は移住後に「新番組」し改称したが、血気盛んな攘夷派でいずれも刀槍の達人揃いの十七人のさむらいが結成したもので、移住してからはね目的が変わったが同志を増やして、徳川家再興の先兵たらんとの意気iに燃えていた。

中には、近所の住民といざこざをおこす者もあり、そういう物騒な連中は遠くへ隔てろとの重臣の意見もあり、牧之原の荒涼地の開墾がわりあてられたらしい。

隊長の中条景昭は明治二十九年(1896)に島田で歿して墓は種月院にあり(中略)、幹部級の贄 善次郎は明治三十年(1897)に歿して墓は菊川町の極楽寺---(後略)

探索は贄 本家からやや離れたが、大安寺とのつながりがあるかぎり、いつか、連絡(つなぎ)がつくのではないかと希望を捨ててはいない。


1_360
2_360
(贄 分家 善之丞正長の家譜 寛政10年まで)


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コメント

『寛政譜以降旗本家百科事典』は1997年出版、『金谷郷土史資料 牧之原開拓士族名簿』は1964年出版となっており、前者の参考資料として後者が掲載されております。島田宿は粂さんが血頭の丹兵衛をみつけた所ですねエ。粂さんにあやかりたいものです。

投稿: 安池欣一 | 2011.01.20 09:19

>安池欣一 さん
やはり『金谷郷土史資料 牧之原開拓士族名簿』が先でしたか。そうでしょうね、地元の研究家のほうが先手ですよね。
しかし、あの広大な茶畑が贄 善次郎氏たちの手で開かれたとおもうと、相良町への車窓からもっとよく見ておくんでした。

維新で移住した子孫といえば鬼平の本家だったかな、鬼平家だったかな、清水だかとっかの当時の役所へ配置された史料を本家の長谷川さんからいただいていました。

探して、掲出します。

投稿: ちゅうすけ | 2011.01.20 17:24

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