与板への旅(17)
翌日。
佐千(さち 34歳)は、供の女中と下僕にものをいいつける豪商〔備前屋〕の気丈な女主人に戻っていた。
昨夜、平蔵(へいぞう 36歳)に甘えきり、快感にひたり、性をむさぼりつくしていた同じおんなとは見えなかった。
(おんなは変わり身が速い)
船会所が設(お)かれている西福寺の西詰、柿川に架かっている常盤橋下で小舟に乗り、そのまま信濃川へ出、ちょっと川下の渡舟場で帆船に乗り換え、与板までくだる。
来るときもその帆船で遡(さかのぼった。
平蔵は、さりげなく常盤橋の橋げたにもたれ、別れの視線を投げた。
舟上の佐千も、従者に気づかれないように、胸の前においた腕の指を折って応じた。
(こんどの旅は、天女が天ノ河(あまのかわ)を舟で会いにくるような、妙な旅だな)
平蔵は苦笑し、橋を離れた。
旅館〔ますや〕四郎兵衛方を松造(よしぞう 30歳)とともに引きはらったのは、五ッ半(午前9時)であった。
勘定をいうと、番頭が、
「〔備前屋〕さんからいただいております」
支払いといえば、昨夜の〔たちばな〕で先払いした分を、有無をいわさず、2分(8万円)押しつけられた。
先払いしたのは1分で、帰るときに〔たちばな〕から2朱(2万円)返された。
さらに、六ッ(午前6時)に〔たちばな〕を出るとき、佐千が餞別といって2両(32万円)包んだものをよした。
「朝発(だ)ちがこんな時刻になってしまったから、泊まりは越後川口でよいか?」
「そういたしましょう」
松造は、平蔵の朝帰りのことは口にしなかった。
ただ、女房・お粂(くめ 40歳)に一刻も早く会いたがっていることは、態度で察しがついた。
長岡城下から越後川口までは三国街道をr5里6丁(21km)。
日暮れ前に着けるはずであった。
本陣・〔中村屋〕藤太郎方に入ったのも、なにかの因縁であったろうか。
翌日は、早発(はやだ)ちし、五日町で昼餉(ひるげ)を摂(と)り、湯沢の本陣・〔村松屋〕助右衛門方へ投宿した。
3泊目は、大事をとり、三国峠の手前、浅貝宿の本陣・高野源左衛門方に泊まった。
4泊目も大事をとり、中山峠の手前の中山宿の問屋・徳右衛門方に宿を頼んだ。
中山宿から高崎城下まで、ざっと9里(36km)強。
5泊目は高崎の本陣・〔大黒屋〕九兵衛方。
(三国街道 越後川口から高崎 青蛙房『五街道細見}』付録図)
【参照】2011年3月5日~[与市へのたび] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) 8 (9) ((10)) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (18) (19)
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