与板への旅(4)
「与板侯(井伊兵部少輔直朗 なおあきら 35歳 2万石)さまからのおことずかりものでございます」
同朋(どうぼう 茶坊主)がわたしてくれた奉書の中身は、予想どおり、与板藩・江戸詰家老格の西堀治右衛門(じえもん 53歳)からのもので、陣屋のある町並みの冨家が襲われた年月日が記されていた。
それによると、(旧暦)10月が5年つづきであった。
(旅の足代かせぎだな)
平蔵(へいぞう 36歳)は直感した。
とともに、いまから与板藩の領内に出向いて防げるかどうか、ぎりぎりのところ、と観念した。
退出口の書院門で、松造(よしぞう 30歳)が、
「〔箱根屋〕の親方が、鍛冶橋の黒舟でお待ちです」
たしかに、源七(げんしち 49歳)が船頭・辰五郎(たつごろう 51歳)の舟で待っていた。
平蔵と松造が乗ると、
「さきほどいったところへ---」
大川をすこしばかり遡行し、石川島と佃島のあいだの入り堀にもやるまで、源七はほとんど口をきかなかった。
こころえた辰五郎が松造をうながして陸(おか)へあがり、どこかへ消えると、懐から金包みを2つ、舟桁へ置き、
「越後へお出張(でば)りとか---」
「そういう仕儀になった」
「これは、お餞別。こちらは、〔読みうり〕の板元料の長谷川さまのおとり分です」
いつもの源七に似合わない改まった口調をとりつづけた。
「助かる」
「お里貴(りき 37歳)さまから、蕨宿までの舟行きを頼まれました」
「陸路だと4里半(18km)ちょっとで、おんな足だと半日では無理だ」
「舟で、大川、荒川を遡れば、帆にうける風ぐあい次第では1刻半(3時間)も要しますまい。しかし、お断りいたしました」
「なぜだ---?」
「長谷川さまとお里貴さまのあいだがらをとやかく申すのではございません。男がべつにおんなをもつのは甲斐性というものです。しかも、お2人は、男と男の友情に似ていると、つねからほほえましくおもってきておりました。お里貴さまは、長谷川さまによかれの一念で、ことをお取りはからっておいでです。並みのおなごにはできないことです」
「それほど分かっていてくれて---」
「はい。お里貴さまを、うちの黒舟で蕨宿へお運びしては、奥方さまの前へ出られなくなリます」
「無謀であったかな---」
「いいえ。〔丸太橋(まるたぱし)の元締助役(すけやく)の雄太(ゆうた 44歳)どんへお申しつけになれば、ぬかりなく手くばりいたしましょう。蕨宿からのお帰りもお待ちしてお送りしますでしょう」
「心配をかけた。すまぬ」
けっきょく平蔵と里貴は、蕨宿の本町通りの旅籠〔林〕源兵衛方で落ちあい、離れで2夜をすごした。
里貴を乗せてきた2人の舟頭は、別の旅籠に宿をとっていた。
遅く起きた昼間は、蕨城址や金亀山極楽寺の十一面観音などをふざけあいながら巡視した。
江戸とは違った地方(じかた)の、のどかだがどこかものさびしい景色が2人を子どもに返した。
極楽寺の山門をくぐるとき、里貴がつぶやき、小舌を出した。
「ゆうべは、お蔭さまで3度、極楽へ連れて行っていただきました」
「今宵は阿修羅になるかもな」
「帰りも舟ですから、髷(まげ)がくずれても気になりません。ご存分に乱れさせてくださいませ」
【参照】2011,年3月5日~[与市への旅] (1) (2) (3) (5) (6) (7) 8 (9) ((10)) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19)
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