与板への旅(5)
2夜目のあくる朝は、昨朝よりも、起きだしがもっと遅くなった。
宿のほうが心配してか、女中が戸の向こうから、
「お食事は、何刻(なんどき)にしますかね?」
「いま、何刻だ---?」
「五ッ半(9時)をまわっています」
「半刻(1時間)あとに、髪結いを呼んでくれ」
いいつけた平蔵(へいぞう 36歳)に、裸身の里貴(りき 37歳)がかぶさってきた。
しばらくそのまま抱いておき、
「宿の者があきれておる。帰りにもここで落ちあうのだから---な」
「お帰りのときにも、2夜くださいませ」
「〔季四〕のほうは大丈夫か?」
髪を結いなおした里貴を、荒川まで見送った。
若いむすめのようにいつまでも手をふっている里貴が見えなくなるまで土手に立ってい、夕刻、上尾(あげび)宿の本陣・〔井上〕五郎右衛門方に着いてみると、松造(よしぞう 30歳)が待っていた。
江戸から上尾は9里4丁(37km)、蕨宿からは4里24丁(18.5km)であった。
「何刻に発(た)ってきた?」
「六ッ半(7時)発(だ)ちさせていただきました」
「お粂(くめ 40歳)がよく、放してくれたな」
「2日も休みをいただきましたから。それより、お通(つう 13歳)が;耳ざとくなりまして---齢ごろのおんなの子はむずかしゅうございます」
「そんな齢になったか--」
「お勝(かつ 40歳)さんのところへ髪を結ってもらいに行っているあいだだけが、お粂が声をだせる時刻です」
「苦労するな」
(そういえば、13のころのおまさも、久栄(ひさえ 17歳=当時)との仲を妬(や)いていたような---)
夕餉(ゆうげ)をともにし、酒をすすめてやりながら、
「音羽の〔鳥越屋〕の〔吉兵衛〕のほうは、その後、なにか分かったか?」
「驚きました。越後の三嶋郡(さんとうこおり)に鳥越って里がございましてね。そこは長岡藩のご領内ですが、与板まで6里(24km)と離れておりません。黒川を使えば与板まて1刻(2時間)もかからないそうです」
「どっちが川下だ?}
「与板ということでした」
「〔鳥越屋}の吉兵衛は、前々代が熊谷宿からでてきて娼家を開いたが、熊谷でも最上郡(もがみこうり)の鳥越出のが2代ほど娼家でかせいだと、〔音羽〕の元締に語ったということだったが、そうか、越後にも鳥越村があったか。こういう知識となると、番方(ばんかた 武官系)はからっきしだな」
【参照】2011年2月4日[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (11)
平蔵は盃を伏せ、
「松造。明日からは、天気さえもてば、1日10里(40hm)をこなしたい。いささか気になることが出来(しゅったい)いたした」
「お気なになることと申されますと---?」
「本郷追分の〔越後屋〕倉蔵(くらぞう)が、速飛脚で与板の〔馬越(まごし)〕の仁兵衛(にへえ 40歳前後か)へ火盗改メの手がまわったことを報じたかもしれないのだ。受けた〔仁兵衛は、あわをくって姿を消すかもしれない。消える前に釘をさしておきたい」
「かしこまりました。明日は早発(だ)ちにいたしましょう」
{深谷、高崎をすどおりし、須川、三俣、六日町、川口と5泊でいきたい」
いいながらも、里貴と飽きることなくつづけた蕨宿での営みのあれこれを後悔していないわがままに、内心、あきれていた。
そのおもいは、松造も同じであった。
40おんなお粂の快楽への執着の深さを、この2日間にあらためておもいしらされていた。
【参照】201135~[与市への旅] (1) (2) (3) (4) (6) (7) 8 (9) ((10)) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19)
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