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2011.04.12

贄(にえ)家の探索

先月---3月6日(日曜)の静岡での定例[鬼平クラス]の前に、島田市旭町に、贄家の分家を訪ね、徳川幕府崩壊後のあれこれをお訊きするつもりで電話をいれたら、歴代の位牌ていどしか残っていないとのことであったので、訪問を中止、代わりに、クラスの安池欣一さんに、機会をみて位牌のを写してほしと依頼しておいた。

4月3日(日曜)のクラス日に、頼んでおいたリポートが出来上がっていた。
添えられていたメッセージの一部は以下のとり。

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贄家訪問の報告

贄さんのお宅を訪問しましたので、結果を報告いたします。

1 .贄さんのお宅には、位牌以外には、先祖に関する資料はないそうです。
その位牌は6~7ありまして、一つの仏壇にすべてまつられておりました。

この位牌については、(江戸から菊川市へ移住後の菩提寺である)極楽寺の先代の住職が、ひとつひとつ、調べて過去帳に記載してくれたといいます。

そこで、この過去帳を転記させていただきました。

没年月日の1日から30日まで日付順に記載されています。
その内、女性10名、子供6名を除いて、男性のみ抽出し没年順に記載すると別紙のようになります。


2. 寛政譜の贄家分家の初代「正長」の法名は、寛政譜は「同朝」に対して、過去帳は「洞明」と違いますが、次代の正朝は同じです。
没日はすべて同じですから、これらの位牌は贄家分家のものである可能性がたかいと考えられます。


3. 没年を比較しますと、一番古い寛永4年からNO.2の元禄10年まで70年と間があきすぎますが、それ以外は概ね連続していると考えられます。
NO.2から戒名に「院」がつき、寛政譜に記載されているNO.5から「院殿」がついています。

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_360


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安池さんが訪問した分家の、贄家についてのデータなどは、
参照】2011年11月18日~[贄(にえ)家捜し] () () () 

長谷川平蔵の前に、先手・弓の2番手組を火盗改メとして鍛えあげた(にえ) 安芸守正寿についは、 
参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 


そういえば、港区の大国寺では、正寿(まさとし 享年55歳)の戒名を訊くのも手ぬかっていた。

歿地・堺市で葬られた南宗寺の墓石に彫られていた戒名は、

寛量院殿(従五位下前芸州刺吏)印紹(超?)信居士

インターネットで、贄 市之丞正寿で検索したら、堺奉行に在任中の飢饉のときの手当てもよかったとあり、そのことも再任要請の理由の一つだったのかなと。


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安池さんからの添え状のつづき---。


その他

1. 『南紀徳川史』の『南紀徳川史』に「名臣伝」の「贄掃部」が掲載されています。
概ね、寛政譜に記載されていることと同じでしょうか。

2. 歌山県史の資料「和歌山分限帳」(延宝5年 1677年に作られたといわれています。)によりますと贄家では「400石 寄合 贄一郎太夫」と「25石 大小姓 贄与五兵衛」が記載されています。
これによりますと、この当時、既に贄家分家が存在したということも考えられます。

3. 和歌山県史によりますと、正保元年(1644年)以降延宝5年頃までの間に、新参の家臣・与力を召し放し、家臣に分家を立てさせた時代があったと記載されています。
贄家もこのようなケースであった可能性もあります。

4. 和歌山県立文書館に贄家の「系譜並ニ親類書書上」の存在を確認しましたが、無いとの回答でした
5. 以上からの推測ですが、「贄家過去帳」のNO.2の人の時代から贄家分家は存在したのではないでしょうか。
寛政譜の資料を提出するにあたって、たまたま、正長が養子になっていたので、そこから系譜をかくことにしたのではないでしょうか。

6. そのほか、贄正義さんは先祖の戒名に「院殿」がついていることから、相当な地位の人ではなかったかと言われたそうです。
三重県度合郡南伊勢町に「贄浦」という地名があるのですが、そこに贄島という所があって、親戚の人と訪ねて行ったそうです。
その時は、訪ねた寺の住職が不在で話を聞くことができなかったそうです。
また、位牌があるからにはお寺があるはずだとも思っていたそうです。
今回、「大安寺」のことを紹介し、本家のお墓はあることを説明し、電話番号も伝えてきました。


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つくってくださった『南紀徳川史』の「名臣伝」の「贄 掃部」のコピーには、先祖が家康の配下にあって、三河の各地に従軍、功を立てたことが列記されている。

寛政譜』は、慶長5年(1600)、秀忠が真田方の上田城を攻めたとき、牧野右馬充康成の組の旗奉行として、進みすぎたのは軍令に反する抜け駆けであると切腹をいいつけられたが、牧野康成が自分が命令したと弁護したため、改易ですんだことを記している。

その後、頼宣にしたがって紀州へくだり、「分限帳」には400石の寄合と載っている。

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