〔黒舟〕の女将・お艶(えん)
「おんなという生きものは、ちょっと目を離すと、着るものに銭(ぜに)を捨てておりやす」
船宿〔黒舟〕の主(あるじ)・権七(ごんしち 47歳)がぼやいたのは、深川・冬木町寺裏の茶寮〔季四〕隣りの〔黒舟〕においてではなく、横川に架かる黒船橋の駕篭〔箱根屋〕のすぐ近くにひらいた〔黒舟〕枝宿(えだやど)のほうである。
〔季四〕の隣りの船宿は、枝宿に対して根宿(ねやど)と呼ばせていた。
新しいから新宿(にいやど)としては、最初の店が古宿(ふるやど)ということになってしまうし、支宿(わきやど)では意気があがるまい。
本宿(ほんやど)とつけると、いい気になりやすく、上からものを言いがちになる。
それはともかく、いま、源七と平蔵(へいぞう 33歳)がいるのは、黒船橋に近い枝宿の舟着きの杭につながれ、障子戸を立てまわした屋根船の中であった。
(『童謡(わらべうた)妙々車』 写し:ちゅうすけ)
2人のほかに、もう一人いた。
若年増であった。
上半身は裸、両腕を後手で縛られ、下腹を覆った赤湯文字1枚だけ。
髷はすっかり解けている。
〔黒舟〕枝宿をまかされているお艶(えん 28歳)であった。
「源七どん、お艶どのがなにをしたかはしらないが、いい加減のところで許してやったら---」
お艶が助けをもとめる瞳(め)で平蔵を見上げた。
「せっかくの長谷川さまのお言葉でも、こればっかりは許すわけにはいきやせん。水漬けにし、横川の泥水をたっぷりと呑ませ、性根をたたきなおしてやります」
半死半生の責めを想像したお艶は、はやくも歯の根があわないほど、ぶるえはじめた。
そうなると、色気自慢のお艶の魅力が消えた。
源七によると、任されている〔黒船〕枝宿の売り上げから、自分の夏衣を1枚求めたのだと。
お艶とすれば、3年も前から躰をあわせてきており、情婦(いろ)として女将をまかされた---夏衣の1枚ぐらい儲けの中から買ったとしても、どうせ店着なんだからという気があったのであろう。
「さあ、立て」
普段は温厚な店主をよそおっている権七だが、根は箱根の荷運び雲助の頭格の一人として貫禄を誇っていただけに、凄みがきく。
「ひぇっー」
背中をつつかれたお艶が悲鳴のようなものをあげ、
「旦那さま。お許しください。もう、2度といたしません」
かまわず、背中にまわっていた綱のむすび目をつかんで引き立て、川側の障子をあけ、お艶を突き落とした。
平蔵もすぐに立ち、権七の手から綱をもぎとってひきあげ、ぐったりしているお艶を船の中にころがせ、すばやく袴を脱ぎながら、
「権七どん。手桶をここへ---」
うつ伏せのお艶の胃を自分の太腿に載せるや、背中を圧す。
お艶が手桶に川水を吐いた。
さらに圧す。
少なくなった。
あお向けに寝かし、
「権七どん。真水と手拭い--」
権七がととのえて船へ戻ってきたときには、湯文字も脱がされ、まっぱだかであった。
真水をふくませてた手拭で顔から胸へ拭いてやった。
「下腹と尻は権七どんの手でな。内股のあたりは、とりわけ入念に。水を替えてくる」
平蔵は湯文字を丸め、手桶をもってでていった。
戻ってときには、権七に抱きついて甘えていた。
洗ってきた湯文字をひろげてお艶の腰へかけてやり、
「権七どん。用件は明日だ」
平蔵が袴に足をとおしているのをいいことに、権七が目をぬぐっていた。
〔季四〕へ里貴を迎えに行き、連れだって藤ノ棚の家でくつろぐと、
「妙な晩だ、袴を脱ぐのが2度目だ」
「あら。どこの美人年増のところでお脱ぎになりましたの?」
「脱ぎおわってから、どのようなもてなしぶりであったか、聞かせてやる」
「興味しんしん---」
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コメント
平蔵と権七の息のあった芝居ですね。
権七も、平蔵がいなかったら、お艶を水に放り込んでそのままにはしていないでしょう。殺人になりますから。
それを平蔵に引き上げさせる、お艶は今後、権七を裏切らない、困ったときは平蔵に相談する、という筋書きになります。
ほんとうに、人間のこころというものをわきまえきった2人の打合せなしの演技、みごとでした。
投稿: 文くばりの丈太 | 2010.11.17 05:55
権七のように、善にも強いが悪にも強い男だから、お艶のような欲に負けるおんなの躾け方も心得ているのでしょう。
新しい着物が欲しい---ちょっと小綺麗と自惚れているおんなには辛抱できない欲だと思います。自分をより魅力的に見せるために。
その欲をぴしゃりと抑制させるには、権七の荒っぽい所作も必要だった。
投稿: ちゅうすけ | 2010.11.17 12:22