茶寮〔季四〕の店開き(6)
〔季四〕は、里貴(りき 34歳)が江戸へ帰ってきて10日後に開店し、田沼(主殿守意次 おきつぐ 60歳)侯のところの侍女・佳慈(かじ 28,9歳)が最初の客となった。
里貴は丁重にもてなし、深川は水が悪いので調理用はすべて買い水を使っていると、それとなく水道の増設を乞うた。
「それにしては、風味が江戸と変わりませぬ」
大川の右岸をうっかり「江戸」と呼んでしまい、本所育ちであることをうがわせてしまったのはご愛嬌---と、あとで里貴が寝所で平蔵(へいぞう 33歳)にささやいた。
〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 52歳)が内儀・お多美(たみ 37歳)とともに多額の祝い金を包んで現れ、元締衆の次の集まりを約してくれた。
【参照】2010627~[草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] (1)
(2) (3)
〔季四〕の賑わいもだが、大いにいそがしかったのは、隣りの船宿〔黒舟〕であった。
すべての舟縁(ふなべり)を黒塗りにしていたので、ひと目で権七(ごんしち)のところの舟とわかり、その往来が披露目(ひろめ せんでん)になった。
暮れてから〔季四〕から客が乗った舟に、〔茶寮〔季四〕〕の名入り、片側に〔冬木町寺裏〕と達筆した雪洞(ほんぼり)を灯(とも)したのも話題を呼び、店名入り雪洞を飾ることが流行した。
権七は、その利権を川沿いの元締衆にゆずり、またも顔を売った。
開店から1ヶ月ほどたち、義理がらみの祝儀客が一段落したころ、平蔵は、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 58歳 800俵)を招待した。
はじめ、深川か、と帰りの足を心配した牟礼与頭であったが、鍛冶橋下まで黒舟が迎えにきていること、帰路も牛込門下まだ送ると口説かれ、しぶしぶながら承知したが、〔季四〕へ着き、出迎えた女将が里貴とわかると一変、部屋までにぎった手を放さなかった。
里貴も、父親への杖のように情愛をこめていた。
「長谷川。いつからだ?」
席に着くなり、牟礼与頭が頬をほころばせながら咎めた。
「7日ばかり前に雪洞に〔茶寮〔季四〕〕と灯(とも)した舟を見かけ、その方に通じておる知己にたしかめました。したが、今宵まで席がふさがっておりまして---」
【参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] (1) (2) (3)
里貴が酒を捧げて入ってくると、詮索はそっちのけとなり、
「報(し)らせてくれば、もっと早く訪(おとな)ったものを---」
嬉しそうな口ぶりで愚痴た。
形ばかりに盃を受け、
「母御(ご)も、父(てて)御もお眠りにつかれたそうで、愁傷であった」
盃を里貴へ返し、
「これからは、贔屓にさせてもらう---とはいえ、薄禄の直参ゆえ、口ほどのこともできぬが---」
「深川舌代でございます」
「羽織芸者も呼べるのかな?」
「いえ。一ッ橋同様、茶寮でございます」
「重畳、重畳。長谷川などと違い、もう、色気より眠気(ねむけ)での」
「ご冗談でございましょう」
「なに、鑓は錆びっぱなし。一戦をいどまれたら逃げの一手のみ。三方ヶ原の大権現さまよ。ふっ、ふふふ」
歯が数本欠けており、笑うときにも口をあけないようにしていた。
突然、三方ヶ原の負け戦さがでたので、平蔵は、牟礼家の祖が今川から織田右府を経て幕臣になったことをおもいだした。
長谷川の祖は、今川方から徳川へ走り、三方ヶ原で戦死した。
【参照】2008年11月30日[三方ヶ原の長谷川紀伊(きの)守正長]
できる幕臣は、上役、同僚、下役の先祖と家柄を覚えこむほど牽きが多くなった。
〔季四〕の仕舞いは六ッ半(午後7時)から五ッ(8時)前であった。
当時の江戸武士の夕餉は、たいてい七ッ半(5時)前ときまっていた。
商店も六ッ(6時)には大戸を降ろしていた。
〔季四〕から長谷川家の屋敷までは7、8丁(1km弱)であったから、一ッ橋のときの5分の1しかかからなかった。
ときによっては、権七が亀久橋下に黒舟をもやっておいてくれもした。
それだけ、里貴とのときが永くすごせたともいえた。
といっても、いっしょにすごせたのは、月に4度ほどであったが。
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コメント
権七つぁんの駕篭の〔箱根屋〕は、たしか、黒船橋の北詰でしたよね。横川の向こうに祀られている黒船稲荷にちなんだ橋名でした。
その、地元の〔黒船〕にあやかった黒塗りの黒舟---地元密着にことよせた銘柄識別作戦、おみごと。
さらに、雪洞のメディア化には恐れいりました。
投稿: 文くばりの丈太 | 2010.11.16 05:39
>文くばりの丈太 さん
江戸時代のコーポレイト・アイデンティティとでもいいましょうか。
それと、メディア利権を川沿いの元締め衆に無料で解放---すでにネットワーク時代だったんでしょう。
投稿: ちゅうすけ | 2010.11.16 07:46