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2011.04.01

長谷川家と林叟院(3)

馴れない鬼平ファンの方には、読みづらいかもしれないが、すこしのあいだ、お付きあいを乞うしかない。
というのは、すでに記したかもしれないが、先日の地震で、書斎の書棚が全部崩壊し、資料が散乱、利用できなくなってしまっているため、これまでのホーム・ページからの記録をさらえている。


静岡大学の教育学部長・小和田哲男さんの著書『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)により、静岡市瀬名の中川家から出現した古文書――

大職冠大臣鎌足八代の孫
 鎮守府将軍藤原秀郷三代左馬亮五代孫、下川辺四郎政義次男、小川次郎左衛門尉政平、建久二年(注1191)右大将源頼朝公に奉仕、富士巻狩之節供仕候。長男大膳亮長教大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川村ニ住居。夫ヨリ五代孫小川藤兵衛尉長重、明徳四年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕、文明六年(1474)遠江国塩買坂ニ於而戦死、法名者弘徳院殿与号、駿州益津郡野秋村有之。

秀郷稲荷というのを、府中市の高安寺(片町 2-26)墓域内で見つけた。
同寺は藤原秀郷の屋敷跡に建立されたのだそうである。

Koanji_roumon_2
(高安寺の楼門)


Syugoinari_sando_2
(墓域の正面ののぼりが秀郷稲荷)

静岡市瀬名の中川家から出現した古文書――

大職冠大臣鎌足八代の孫
 鎮守府将軍藤原秀郷三代左馬亮五代孫、下川辺四郎政義次男、小川次郎左衛門尉政平、建久二年(注1191)右大将源頼朝公に奉仕、富士巻狩之節供仕候。長男大膳亮長教大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川村ニ住居。夫ヨリ五代孫小川藤兵衛尉長重、明徳四年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕、文明六年(1474)遠江国塩買坂ニ於而戦死、法名者弘徳院殿与号、駿州益津郡野秋村有之。


上掲『今川氏家臣団の研究』で、小川長重が仕えた今川義忠は、明徳4年(1293)にはまだ生まれていないから、享徳4年(1455)の誤記であろうとしている。
また、小川長重が戦死した遠江の城飼郡塩買坂のそれは一揆鎮圧の出動でしたが、帰城途中にふたたび一揆が襲いかかられ、今川義忠は脇腹に深く刺さった流れ矢のためにしだいに衰弱、翌朝絶命した。
義忠の享年28歳(?)。
義忠の享年が文明6年(1474)に28歳となると、小川長重が出仕した享徳4年(1455)時、彼はわずかに9歳だったのであろうか。

ちゅうすけ補】今川義忠の横死の没年は41歳と、別の史料にあるから、小川長重は22歳かも。
静岡県史 資料編6』収録の「今川家譜」では義忠の戦陣死を文明11年2月19日、享年53歳としている。研究課題の一つである。
それはともかく、義忠の嫡子・竜王丸(6歳)は、法栄長者らによって花倉にかくまわれた。


〔居眠り隠居〕さんから、、『今川氏家臣団の研究』の紹介についてのコメントがあった。

脳梗塞のため、禁じられていたPC操作がやっと解禁となりいの一番に開いたこのHPで、長谷川家の家系に関する新史料発見のニュースを知り、さっそく小和田哲夫教授のご本を取り寄せて読み、驚くとともに感激しました。
静岡市瀬名の中川家古文書発見によって下河邉四郎政義次男・小川次郎左衛門から長谷川藤九郎長重に至る、これまで知られなかった長谷川氏のおよそ 300年におよぶ家系の不明部分がほぼ明らかになりました。

平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍藤原秀郷のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名乗り次郎左衛門政宣の代になって、大和国・長谷(初瀬)川に住し、これより長谷川姓を名乗ったそうな。のち藤九郎正長の代になってから、駿河国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元に仕えた・…。

これによって文庫巻3「あとがきに代えて」も、大筋で正確であることが立証されました。
池波先生も長官(おかしら)もこれでホッとして、いまごろは〔五鉄〕あたりでくつろぎながら一杯やっているのではないでしょうか。ご同慶の至りです。
政平の子に長教の名を記した文献が見あたらない、名前のわからない者が多い、時代が合わない等、まだまだ解明すべき点、今後の研究に待つべき点はありますが、すばらしい発見であったと思います。
以下にこれまで不明であった、正長までの長谷川氏家系を整理して記してみます。ご笑覧ください。

下河邉四郎政義
長男・行幹 後の益戸二郎兵衛尉
母 河越重頼女

初代 小川次郎左衛門政平下河邉四郎政義次男
   建久2年(1191)頼朝公に奉仕、富士之巻狩之節仕候
二代 大膳亮長教 大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川(こが
   わ)村ニ住居
三代 不詳 長教より1
四代 不詳  々  2
五代 不詳  々  3
六代 不詳  々  4
七代 小川藤兵衛尉長重 長教より5代、明徳4年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕え、文明6年(1474)遠江国塩買坂ニおいて戦死
八代 次郎左衛門尉政宣 妻長重女 実父・加納彦右衛門義久
九代 元長 伊賀守
十代 次郎左衛門尉正長 藤九郎 駿河国小川に住し、のち同国田中に移り住す。今川義元に仕え、没落ののち東照宮に仕へ奉る。
元亀3年(1572)三方ヶ原合戦で討死

正長三男・惣次郎:静岡市中川家先祖。

三方ヶ原で討死した長谷川紀伊守正長(まさなが 享年37歳)f田中城を退去するとき、幼なかった次々弟・惣次郎を瀬名へ隠した。

惣次郎はのちに、田中城の「田」と、小川(こがわ)の「川」から中川を姓としたという。




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コメント

「居眠りご隠居」さんと瀬名の中林さんのコメントを拝読していると、長谷川家は、どこの馬の骨の出かしれない徳川なんかよりも血筋が正しいではありませんか。
もっとも、血筋が正しいからといって能力が高いとはいえませんから、血筋自慢はいいかげんにしておくことが賢い人の所作ですが。

投稿: kayo | 2011.04.03 04:54

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