〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(2)
馬入(ばにゅう)川の平塚側の舟着き場には、勘兵衛(かんべえ 54歳)ほか、手下数名が出迎えていた。
乗りあい客は、悶着をおそれ、先に平蔵(へいぞう 37歳)と松造(よしぞう 31歳)に道をゆずった。
そのことが分かっている平蔵は、舟着き場から50歩ほど離れるまで久闊を叙するあいさつを交わさなかった。
それも形だけですまし、〔榎屋〕の玄関に歩いた。
昨夜、語りあかすつもりれでいたことを、勘兵衛が愚痴ったのに、
「〔馬入〕の貸元。じつは、こんどの嶋田行きは、火盗改メの用件なのです。それゆえ、路程もかぎられております」
「さいでしょう。でも、お帰りには、お泊りになれやしょうな?」
白いものがめっきり目立ち、太めの体躯がさらにふくらんだ勘兵衛にうなずいた平蔵であったが、
「なにか、心痛ごとでも---?」
運ばれた昼餉(ひるげ)の膳に乗っていた銚子をとった勘兵衛の手がとまった。
「貸元。お志はありがたいが、出仕の身なので暮れ六ッ(日の暮れの6時)までは、酒盃を手にしないことに決めております。それよりも、身内の衆をお払いになり、お洩らしください---」
子分たちを下がらせてから、勘兵衛が意外なことを打ちあけた。
平塚宿の東、花水橋のむこうに〔高麗寺(こうらいじ)〕の常八(つねはち 35歳)というのがのしてき、勘兵衛の縄張りが荒らされはじめているのだと。
(右端の赤○=料理屋〔榎屋〕 左端の緑○=高麗寺 元禄時代に描かれた『東海道分間絵図』より)
帰路に解決の糸口をみつけるから、それまでは争いを起こさないことを約束させた。
「若い者頭(がしら)の洋次(ようじ 35歳)どのの顔がみえなかったが---」
「小田原の〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門(とくえもん 59歳)貸元のところへ使いに行っておりやす」
勘兵衛の口ぶりがすっきりしなかった。
「まさか、出入りの助っ人を頼みに行かせたのでは---?」
勘兵衛が太い首をすくめたのを認め、きびしく、
「〔馬入〕の。洋次どのあての口上を書きつけてください。〔宮前〕のに頼んだ件は、手前が戻るまで、お預けになったから、〔宮前〕のにそう謝るようにと。道すがら出会うはずだから、言ってきかせます」
押切川の手前の梅沢村の茶店の前を行く洋次を呼びとめ、勘兵衛の書付けを読ませた。
困惑しているのを、むりやり、小田原城下へ引き帰らせた。
〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門は、土地を仕切っている大貸元とはおもえないほど、好々爺然とした柔和な面相を変えずに、平蔵の話を聞きおえた。
「それで、長谷川さまは、嶋田での探索仕事がおすみになったら、〔高麗寺〕のと、どう、話をおつけになるおつもりかな」
「まだ決めてはおりませぬが、こちらのお貸元に顔をだしていただくのが良策と、拝顔いたしまして---」
「わしに、話をつけろと---」
「お貸元なら、あちこちの親分衆が後ろ楯になってくださろうと納得が参りました」
「年寄りを嬉しがらせる技を心得ておられる」
「齢の甲でしか話が通じないことも、多々くあります」
松造にいい、荷物から小さなものを取りださせ、徳右衛門の前にさしだした。
「藤沢の白旗神社のお守りです。ご承知のとおり、この神社には九郎判官義経公がまつられております。鎌倉の目と鼻の藤沢で、義経公を祀ったのは、たいした勇気でございましたろう」
徳右衛門が笹竜胆(ささりんどう)の文様織りのお守りを押しいただき、
「お覚悟のほど、見とどけましたぞ」
(白旗神社のお守り)
白旗神社のお守りは、藤沢の本陣・〔蒔田〕の番頭にいいつけて祈願させたものであった。
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