〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛
六郷の渡しが川崎側へ着くまで、里貴(りき 38歳)は平蔵(へいぞう 37歳)主従を見送っていた。
「松造(よしぞう 31歳)、振りかえったり、手をあげて応えてはならぬぞ。武士の出陣では前方のほかに目をうつすことは禁じられておる」
まわりの旅人に聞こえないように、ささやいた。
もちろん、里貴も武士の妻であったし、平蔵と親しんで8年になるから、昼間の武家の作法と寝間での狂態とはまったく別物であることは心得ていた。
しかし、本心はさみしかった。
振り向いてもくれない平蔵の背中が、にじんで見えてきた。
川崎の問屋場で、平塚の東はずれの馬入村の料理屋〔榎(えのき)屋〕あてに速(はや)飛脚を仕立て、今夜は事情(わけ)が出来(しゅったい)したので、藤沢の本陣〔蒔田〕源左衛門方へ一泊することになったゆえ、馬入川の渡しへは四ッ(午前10時)すぎになると報らせた。
翌朝、〔蒔田〕方を六ッ半(7時)発(だ)ちし、3里(12km)強をこなし、馬入川の東岸に着いた。
(馬入川の渡し場 赤○=東側 幕府道中奉行制作)
目つきでそれとわかる若者が、
「失礼つかまつりやすが、長谷川さまで---?」
そうだ、と応えると、〔馬入〕一家の下っぱしりの者だといい、渡し舟へ招き、
「親分から、素人衆のご迷惑になるから、長谷川さまがお乗りになったからといって、客の頭数がそろうまで、船頭をせきたてるなって、きつくいわれておりやすんで---」
船頭にも乗客にも聞こえるように断った。
「さすがはわが盟友・〔馬入〕の勘兵衛どんだ。お仕込みがちがう。幕府の書院番士の長谷川平蔵、藤橘源平(とうきつげんぺい)のうち、源氏にあらず平家にもあらず、筆頭---藤原(ふじわら)の宣以(のぶため)、感服つかまつった」
芝居がかりとおもったが、これも勘兵衛の地元での株をあげるためと、声をおしまずに口にした。
松造は横をむいて笑いをこらえた。
もう一人の若いのは、対岸へ大きく腕を幾度もふり、平蔵に出会えた合図を送っていた。
「お若いの、洋次(ようじ)どんはいまでも---?」
「若い者頭(がしら)をご存じでやすか?」
「ほう、若い者頭におなりで---。お脚(あし)がめっぽう、お速いご仁と---」
「いまでも平塚から小田原の5里(20km)近くを1刻半(3時間)もかけねえでお行きなせえやす」
若いのは、わがことのように自慢した。
【参照】2008年7月26日[明和4年(1767)の銕三郎] (10)
乗りあいの者たちが耳をそばだてているのを承知で、平蔵が容(う)けた。
「ほう。たしか、35歳におなりのはずだが---」
「若い者頭は、いつ、長谷川さまにお目にかかりやした?」
「かれこれ、15年前かなあ」
「ひゃあ、あっしが3歳のときだ」
「18歳のそちらのお名は?」
「寅次(とらじ)と申しやす」
「〔馬入〕の親分さんは、いい配下をそろえておいでだ」
乗りあい客がそろい、舟が岸を離れたところで、
「寅次さんと、そっちのお方に、みやげというほどのものではないが、お近づきの徴しに、藤沢の遊行寺のお守りを受けとってくださるかな。〔馬入〕の親分さんは躰を張って村方の人たちを守っておいでだがら、寅次さんたちにもどんな危険が降るかもしれない。そんなときにこのお守りが守ってくれましょう」
寅次ともう一人が両掌で受けとると、乗りあい衆が拍手をして寿(ことお)いだ。
(藤沢山遊行寺のお守り)
きのう、藤沢宿の本陣・〔蒔田〕源左衛門方へ投宿する前に、遊行寺坂の途中から右へ折れて本堂に参詣、ついでに10ヶほど下げてもらった。
1ヶ12文(500円)であったが、10ヶまとめたので26文(4000円ちょっと)ですんだ。
〔蒔田〕方では、番頭に何かを頼んでいた。
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