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2011.04.22

古川薬師堂(2)

「〔馬場(ばんば)の与左次(よさじ 57歳)元締のところの五三次(いさじ 22歳)どのが見えています」
下城口に姿をみせた平蔵(へいぞう 37歳)に、供の松造(よしぞう 31歳)が耳うちした。

「愚息の五三次と申します。父の遣いで参りました」
場所柄を心得てい、大店の息子ふうのの堅い身なりで、言葉遣いにも気をくばっていた。

鍛冶橋東詰の茶店まで、黙ってついてきた。
 
「お勤めの道すがらに、古川薬師へお参りとお聞きしました」
「ほう。〔箱根屋〕が気をきかせたらしいな」
「お足でございますが、亀久橋からから大森の先、玉川の六郷まで、船をお使いいただくようにと、父が申しております」
「お世話になろう。では2日のちの五ッ(午前8時)に亀久橋に---」
「お宿でございますが、本門寺の近くに、鄙にはまれな閑静な家がございます」
「かたじけない」

平蔵が、五三次に訊いた。
「古川薬師像は行基というえらい坊さんの作と聞いておる。参詣したら、じかに拝ませてもらえるように手配できるかな」
「あそこは、うちのシマの一つなので、庫裡へ念を入れておきます」


佃島で帆船へ乗り換えた。

春をおもわせるなまめいた陽ざしであった。


昨夜、藤ノ棚の部屋で、腰丈の紅花染めの寝衣の里貴(りき 38歳)に、
「どうして古川薬師なのだ?」
「私が生まれた貴志村は高野山領だって、いつかお話ししましたでしょう? 古川薬師さんも真言宗なのです。かねがね、お参りしなければとおもってえおりました」


高輪の沖をすぎるとき、平蔵は、お(りょう 享年33歳)が松明の炎で合図を連携したのはこあたりかと回想したが、里貴の手前、表情にはださなかった。

参照】2008年10月25日[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (

(独占欲をあまりあらわにしない里貴だが、なにかがきっかけになり、情を通じていたからといって、8年前に没したおんなにまで妬心をもたれてはたまらない)

蒲田(かまだ)の先で玉川へ入った。

130_360
(古川薬師 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ) 

古川薬師は、安養寺という山号で、大田区西六郷2丁目にある。

_360
(現在の安養寺 正面)


_240五三次の案内で里貴たちが参詣すると、住職が自らが薬師堂への案内にたった。
5尺5寸(1m67cm)の薬師如来坐像と脇の5尺3寸(1m55cm)の釈迦如来坐像は、境内にあった銀杏の大樹で彫られたものと解説した。

ちゅうすけ註】江戸期の諸書は、阿弥陀如来坐像も行基作と記しているが、学術調査の結果、同じ藤原後期だが、すこしずれているらしい。

里貴はお布施を捧げ、母子安全、母乳満足の利益がいわれている薬師像を、瞑目し長く合掌していた。

あとで平蔵が、子授けでも頼んだかと冷やかすと、
銕五郎(てつごろう)さまのすこやかな育ちとご内室の乳の出が豊かでありますように祈願したのです」

薬師堂の参道をはさむようにそびえている2本の銀杏が若緑を芽ぶかせていた。
古樹の幹まわりは丈(3m)余もあった。
見送りの住職に、里貴が問うた。
「恩師。この銀杏樹は---?」
宮廷から奉納され、樹齢700年を経ていると。

馬場〕の与左次が、
「人目のないときに、女人がこの樹をだいて願うと、ややがさずかるとの言い伝えがあります」
里貴はうなずいただけで、抱かなかった。
住職が首をふった。

(右の写真は、かつて東海道の古川薬師道に立っていたという道しるべ)


その夜、[馬場〕の父子が設けた宴会から帰った宿の寝床で、
銕三郎には、この乳首がなによりの功徳---」
「舌が上手に動くややですこと。ふくませ冥利---」

「目と耳が二つあるように、口が二つあれば、いちどに双方の乳がなぶれるものを---」
「片方ずつでもこんなに昂ぶってきているのに、双方、二枚舌でいちどに吸われたら、狂乱してしまいます」
「狂ってみよ」

「………………」
「なにかいったか---?」
「うヽヽ、ヽヽ」
「どうした?」
「あヽ、ヽヽ、どうか、なり、そぅ――――たすけ、てぇ――――お、ち、るぅ――」


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