嶋田宿への道中(3)
(府中城下から安倍川 赤○=本陣〔小倉〕 『東海道分間絵図』より)
府中城下、下伝馬町〔小倉〕平右衛門方のがっちりした門構えは、13年前---明和6年(1769)といささかも変わっていなかった。
(府中 下伝馬町 赤く○={〔小倉〕 水色は旅籠)
平蔵(へいぞう 37歳)は、わらじを脱ぐ早々に、初めてみる番頭に問うた。
「一番番頭の恭助(きょうすけ)どのはお達者か?」
「いえ、番頭さんは、3年前に歿されました」
「主(あるじ)の平左衛門どのは、たしか、まだ70前だと存ずるが---?」
「先代はご隠居なさり、いまは9代目の息子が---手前は、2番番頭の道蔵(みちぞう 45歳)と申しますが、なにかご用でしたら、手前が承ります」
「そのことよ。銘酒〔鶯宿梅(おうしゅくばい〕は手に入るかな。今夕の飲み代(しろ)なのが---」
手早く、懐紙にひねった小粒をつかませ、
「供がおっつけ着くつくはずだから、埃を落として着替えたころあいに膳につけてもらいたい。供のは燗、われのは冷や、でな」れのは
【参照】2008年1月8日[与詩(よし)を迎えに] (19)
酒ではなく、鶯宿梅の文字どうり、鶯が蜜をついばみにくる紅梅の伝説は、 こうである。
さる貴族の家の梅がみごとというのでも宮中からお召しがあった。
大切に育てていたむすめが、
「お召しであったので差し出しましたが、毎春やってきている鶯、私はどこに止まればいいかと問われたら、なんと応えればよいのでしょう」
勅なれば いともかしこし 鶯の宿はと問はばいかが答へむ
紅梅はむすめに返された。
湯からあがると、部屋に松造(よしぞう 31歳)が着いていた。
「話はあとでよい。湯を浴びてこい」
鶯宿梅となった。
銘柄のいわれを話してやると、
「いわれを聞くと、いっそう甘露でございます。かような銘酒の肴にはなりませんが---」
道中師の〔野川(のがわ)〕の潤平(じゅんぺえ 50男)は、本陣の西10軒ほどの商人旅籠〔遠州屋〕保次郎方へわらじを脱いだので、しばらく見張ったが、どうやら泊まる気配らしいので、なにも手をうたないで引き返したと報じた。
「それでよし。われらのこたびの旅は、島田の一件である。護摩(ごま)の灰などにかかずらわっておられない」
「心得ております」
「しかし、せっかく松造が見つけた手柄じゃ。そのままというわけにもいくまい」
平蔵は道中矢立を取り出し、懐紙になにやら記すと結び文にし、表に「ご注進」と書き、番頭の道蔵を呼び、
「もうすこし暮れたら、〔遠州屋〕の店先にこれを投げこんできてほしい。番頭どのや本陣に迷惑がかかってはならぬゆえ、くれぐれも気づかれないように」
渡そうとした結び文をすぐに引き、
「いや。これは松造、おぬしがやってくれ。食しおえてからでいい」
番頭には、さりげなく、
「明朝は六ッ(午前6時)発(だち)する。〔遠州屋〕の泊まり客の先を歩きたい。いや、〔遠州屋〕は、今夜のうちに町役人に手くばりをするとおもうが---」
盃を伏せて出て行った松造は、寸刻(10分ほど)で戻ってき、
「〔遠州屋〕の番頭が拾いあげ、あたふたと奥へかけこむのを見さだめました」
「ご苦労---」
「殿。先刻は、なにゆえに、ここの番頭に楽屋裏をお見せになりました?」
「そのことよ---」
平蔵がざっと口伝したのは、13年前に駿府町奉行所の手配でこの本陣・〔小倉〕に滞在したことがあり、隠棲しているという先代の平左衛門へ訊けば、われのことを覚えておるやもしれない。
その節iこ同席していた同心・矢野弥四郎(やしろう 48歳)に問いあわせても、われのことは知れる。
として、われが〔野川〕の潤平を脇から差したことは、道蔵番頭の口から、あたりに洩れるとみる。
「5日後に戻り泊まりすると、本陣からか町奉行所からか、銘酒〔鶯宿梅〕の差し入れがあろうよ」
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コメント
鶯宿梅って、そういう故事に基づいたネーミングだったのですか。
紅梅の蜜のような酒ということなんですね。了解。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.04.28 07:02