嶋田宿への道中(2)
「昼餉は沼津で---」
いったものの、、平蔵(へいぞう 27歳は、本陣・〔樋口)伝左衛門の前までくると、咄嗟に気がかわり松造(よしぞう 31歳)をうながし、 向いの本陣・〔世古〕郷四郎方へ入っていった。
まっ昼間の客に、急病人でもできたかと番頭がおどろいて出迎えた。
「江戸の火盗改メ・本役・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳)さまのお声がかりを承っておる長谷川平蔵である」
火盗改メの本役が三島宿まで出張ることはないから、番頭もあわてた。
足を洗うすすぎ水を女中にいいつけたのを制止し、
「いや。上がるほどたいしたことではない。単なる通りがかりの手配である」
「はい---」
「10数年前に、当本陣で女中をしていた大酒くらいの、賀茂(かも 47歳)と申す者、見かけたら代官所を経て、本役の役宅まで届けてもらいたい」
番頭がかしまって平伏したのを尻目に、〔世古〕を出た。
あとで、「世古〕では、働いている者たちのあいだで、ひとわたり賀茂のことが話題になるであろう。
そこが平蔵のつけ目であった。
このことは、いずれ、賀茂---ひいては〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 60がらみ)の耳に達し、かの盗賊の居場所がそれだけ狭くなるというもの。
(平蔵が、おまさが〔荒神〕一味にかかわっていたことがあることを承知していたら、このような処置はとらなかったろう)
【ちゅうすけ註】おまさがある時期、〔荒神〕の一味にいたことは、巻23[炎の色]に明記されている。
三嶋の宿場を抜けたところで、松造が、
「殿は、〔荒神〕の助太郎をお忘れではなかったのでございましたか」
「あたり前だ。あの者には、おぬしをはじめ、権七くごんしち 50歳)夫妻などの念がこもっておる」
さすがに、お竜(りょう 享年33歳)の名をあげるのははばかった。
【参照】2008年3月27日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (10)
2009年1月3日[明和6年(1769)の銕三郎] (4)
この日の泊まりは吉原の本陣・〔長谷川〕八郎兵衛方あった・
「これまで、京のぼりを含め、3度この宿を通ったが、泊まるのは初めてだ」
同姓の本陣であったが、宿方からは別段のあいさつもなかった。
長谷川姓の武家の宿泊客など、珍しくもなかったのであろう。
晩酌をすませ、
「どうだ、新吉原の本家である色街の白粉の香りでも嗅いでこい。お粂(くめ 41歳)には内緒にしておいてやる」
「とんでもございません。箱根のくだりでふくらはぎがぱんぱんでございます。ゆっくり休めてやらないと、明日の旅がこなせません」
翌日、由井(ゆい)で昼食をすまし、さつた峠の手前の倉沢村でさざえのつぼ焼きを賞味しようと、〔休み陣屋・柏屋〕で腰をおろした。
銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時)のころ、与詩(よし 6歳)を駿府からつれての帰り道、〔柏屋〕で一服してから、19年経っていた。
店主の幸七(こうしち)は、息災なら80歳ほどのはずだが、と店の女中に訊くと、姓を尋ね、母屋へいそいだ。
まもなく、腰の曲がった枯れ枝のような老爺が、ころばんばかりの足取りであらわれた。
「これはこれは、長谷川さまのお坊っちゃま」
「ご亭主。達者でなにより---」
〔ご奉行さまには、残念でございました」
幸七は、早くも涙声であった。
(9年前の父・宣雄(のぶお 55歳)の死のうわさは、倉沢村までとどいたとみえる)
【参照】2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (23)
「ご奉行さまがお亡くなりになったこと、例の海女(あま)のお君(きみ 58歳=当時)に教えてやりましら、おんおん泣きましてな。それから5年後に、お君も逝っちまいました。お奉行さまとお君の艶話(つやばなし)を覚えとるのも、このあたりでは、わし一人になっちまいましたわい」
「いや、幸七さんのお蔭で、この平蔵宣以が子孫に語り伝えますぞ」
「ほんになあ---男気のある立派なお武家さまでした」
松造が、
「殿。ちょっと---」
平蔵の耳に口を寄せ。
「いま、店の前をさつた峠のほうへ行った50男が〔野川(のがわ)〕の潤平(じゅんぺえ)という道中師でございます。尾行(つ)けて行方をたしかめますから、殿は、府中の本陣で---」
「よし。〔小倉〕平左衛門方で会おう」
【参照】2009年1月12日[銕三郎、三たびの駿府] (5)
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