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2011年5月の記事

2011.05.31

お乃舞(のぶ)の変身(3)

五左次(いさじ)が、とんでもなくご迷惑をおかけいたしやして---」
品川の香具師(やし)の元締・〔馬場(ばんば)〕の与左次(よさじ 57歳)が頭をさげると、うしろの五左次(いさじ 22歳)もつづいて額を畳にすりつけた。

平蔵(へいぞう 37歳)がお(かつ 41歳)に呼び出されてから5日のちの、〔季四〕の座敷であった。

「迷惑---はて、面妖な---?」
「は---?」
「たしかに、お(かつ 41歳)はとり乱してはおる。 しかし、われはよかったとおもっておる」

意外な言葉に、〔馬場〕親子はきょとんとした顔で平蔵の次の科白を待った。

五左次どんの嫁にしてくれるのではなかったのか?」
横で、女将の里貴(りき 38歳)が笑いをこらえ、与左次に酒をすすめた。

与左次が、いつもの威容はどこへやら、しどろもどろで言いわけしたところによると、先だっての集まりで、口火をきって己れの考えを述べたお乃舞(のぶ 23歳)の気風(きっぷ)のよさと、絹でつつんだような京都弁にすっかり感激した。

参照】2011年5月26日[若獅子たちの興奮] (

ちょうど、[化粧(けわい)読みうり]品川板のお披露目枠の常連である白粉問屋〔久乃(くの)屋〕作兵衛方の化粧師がお産で休みたいといっており、代わりを頼まれていたので、集まりが退けてから茶店でお乃舞に相談した。

乃舞は気軽に品川までき、〔久乃(屋〕をのぞいてくれた。
陽が暮れたので、〔馬場〕家で夕飯となり、酒も出たので、若い者を楓川ぞいのおたちの家へやって断りをいれ、その晩は品川で泊まってもらった。

もちろん、 寝間には与左次の女房がいっしょに伏せた。
ところが、おは承知しなかった。
朝帰りしたお乃舞を面罵しつづけた。
乃舞はそれに耐られず、数回、馬場へ逃避してきたので、そのたびに女房をいっしょの部屋で寝させてきた。

さいわい、お乃舞も、五左次のことを嫌いではないらしいので、
「ここは、長谷川さまにおさんを説き伏せていただき、お乃舞さんを当家の嫁にもらいうけたいのでやす」

長谷川さま。お引きうけなさいませ」
五左次びいきの里貴がすすめた。

「〔馬場〕一家の祝いごとともなれば、元締衆はいうよおよばず、あちこちのつながりもあろう。仲人は〔音羽(おとわ)〕の元締夫妻に頼むとして、われはお乃舞がわの親族ということで出席しよう。したがって、式の日取りは、われの非番の日にしてもらいたい」

平蔵の申し入れに、〔馬場〕親子は、平伏したまましばらく顔をあげなかった。

平蔵は、おのために、相手を見つけてやる難題に、じつは頭をいためることになった。

〔箱根屋〕の権七(ごんしち 50歳)相談したところ、笑いながら、
長谷川さまも、案外、灯台元暗し---でございますなあ。〔耳より〕の紋次(もんじ 39歳)どんがいるじゃございませんか。[読みうり]のネタにことよせ、足しげく会っていますぜ」

(手に職をもったおんなが齢上の時代なんだな)
平蔵が憮然としてつぶやいたが、里貴のことは忘却していたらしい。

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2011.05.30

お乃舞(のぶ)の変身(2)

半月ほどのち、お(つう 15歳)、お(くめ 41歳)、松造(よしぞう 31歳)という経緯(つながり)で、お(かつ 41歳)からの、下城の途次に〔福田屋〕へ立ちよってほしいとのこと伝(づ)てを受けた。

日本橋通り南3丁目箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕は、あいかわらず店先に紺の大暖簾(のれん)を2枚かけていた。
その隙(すき)間から店をのぞくと、一番番頭・常平(つねへい 55歳)が目ざとく見つけ、仕事中のおを呼んでくれたので、白粉臭い店へ入らずにすんだ。

大暖簾の前で待つまでもなく、たすきをはずしながら目尻を吊りあげたおが、
「いつもの、うなぎの大坂屋さんでよろしいでしょう?」
「まだ陽が高いから、船宿というわけにもいくまい」
「ご冗談にお付きあいしているゆとりなんぞ、ありません」
いつになく、きんきんしていた。
(おも41---おんなの変わり目だ)

飯時からずれていたので、室町浮世小路の〔大坂屋〕の2階には、客はいなかった。
店は気をきかせ、酒と白焼きを通したきりにしておいてくれた。

「ま、いっぱい呑(や)れ」
「まだ、仕事がのこっています。お乃舞(のぶ 23歳)がまた休んでいるので、きりきり舞いなんです」
「それなのにおは、こうして店をあけている---?」
(てつ)さまのほかには、聞いていただける人がいないのです」
言葉を吐くたびに目尻をふるわせながら吊りあげた。

が吐きだした胸の内を文字にするとこうなる。
この半月のあいだに、お乃舞(のぶ 23歳)は4晩も外泊し、昨夜も大原稲荷の脇の坂本町の家へ帰ってこず、今日は店を休んでしまった。

京で、父親が二度目の女房を家にいれ、島原へ売られそうになったのを引きとり、手に職をつけてやったのも忘れて、男にうつつをぬかしている---。

「その男というのは---?」
平蔵は、わざととぼけた。
「品川宿の五左次(いさじ 22歳)にきまってますよ」
「〔馬場(ばんば)〕の五左次どん---?」
「お乃舞は打ちあけませんけどね」

「どうして五左次どんとわかるのだ?」
「せんだっての例の集まりが退けてから、誘われて2人で茶屋へいったんです。それから、あたしとのことを嫌うようになった」
「お乃舞は、これまで、男とのことは---?」
「あるわけないでしょう」

「おんな同士の睦みあいがどのようなものかはしらぬ。しかし、お(りょう 享年33歳)といたしたときも、おを抱いたときも、ふつうに動いた。それでも2人とも、おんな同士のとは異なった快感を覚えてくれたとおももっていた。どうだ?」
「それは、(てつ)さまが、おんなとして、やさしく扱ってくださいましたから---」
五左次どんも、お乃舞をやさしく扱っているやもしれない。やさしさの中に、猛々しさも見せていよう」
「猛々しさ---」
「おんな同士には、ないものかもな---」

「しかし、です、きょうまで、なんの苦労もさせないできたのに、あの恩しらず---」
「お。恩は着せるものではない、着るものだ。お乃舞もそれだけに、いいだしかねておるのであろうよ」

ちゅうすけ注】「恩は着せるものではない、着るものだ」、池波さんが、長谷川伸師から直伝の名句。

「それにな、お。男とおんなの、閨房(ねや)での合性(あいしょう)は、本人たちだけのもので、他人にはうかがいしれぬ」

が大きくため息をついた。


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2011.05.29

お乃舞(のぶ)の変身

(それは、困ったことだな)
平蔵(へいぞう 37歳)の正直な気持ちであった。

乃舞(のぶ 23歳)は化粧師(けわいし)・お(かつ 41歳)の代理であり、10年ごしの相方(あいかた)であった。

の立役であったお(りょう 享年33歳)が、29歳のとき、平蔵(24歳=当時)によってはじめておんな(?)に目ざめた。

参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (

からは、盗賊たちの戦略を学んだ。

そのおが琵琶湖で溺死したあと、おもおんな(?)にしてしまった。
平蔵が27歳、おは31歳であった。

参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] () () (
2009年8月24日~[化粧(けわい)指南師のお勝] () () () (9)
2009年9月25日~[お勝の恋人] ()  ) (() 

8年前の初冬に、お乃舞(15歳=当時)とお(さき 12歳=同)をつれ、お(33歳=同)が江戸舞いもどってからも、たまに、せがまれて抱いていた。

そのことは、お(りょう 33歳)とのこととともに、里貴(りき 38歳)には伏せてきた。

権七(ごんしち 50歳)もそこまでは立ち入っていないはずであった。

だから、品川の元締・〔番場(ばんば)〕の嫡男の五左次(いさじ 22歳)がお乃舞(23歳)に一と目惚れしたらしいと察し、うかぬ顔をしているのは、おとお乃舞とのあいだにおもいをいたしているからに違いなかった。

平蔵は、お、おとのはじめての夜のことを、あさってのほうに目をやりながらおもいだしてみた。
というより、相手がすこしでもさからったかどうかであった。
そんな気配はなく、むこうから燃えた。

すると、五左次にさそわれたとき、お乃舞もさりげなく受けいれるかもしれない。
そうなったときに、おが狂乱しなければよいのだが---。

平蔵里貴は、
「お乃舞さんが一つ齢上っていうのも、、なんとなく微笑ましい」
自分と平蔵の齢の差にあてはめていた。

「男とおんなのあいだのことは、当人同士にしかわからぬものよ」
平蔵の言葉に、
「はたから煽ることはできます」
「無理はしないことだ」

「さようでございます。成り行きにまかせやしょう」
権七(ごんしち 50歳)が、さすがに平蔵の思惑を察した。

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2011.05.28

若い獅子たちの興奮(3)

「町絵師の長谷川伯斎さんはお達者かな?」
平蔵(へいぞう 37歳)が記憶の糸をたどり、〔耳より〕の紋次(もんじ 39歳)に質(ただ)した。

「64歳だが、お達者です」
「お仕事ぶりがみなの衆に納得してもらえるように、何点か借りだしてきてくれまいか。〔音羽(おとわ)〕のご新造・お多美(たみ 41歳)どのにはことさら入念にご判断いただくように---」
多美の絵ごころをもちあげた。
「明日にでも、みなの衆のところへ、若いのを走らせますです」

参照】2010年4月27日[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (11

紋次は内心で、平蔵が長谷川伯斎をおぼえていたことに感激した。
帰りぎわにそっと、
「伯歳さんは、嶋田まで絵筆をふるいに行ってくれるだろうか」
と訊かれ、とっさに描かれるのが、本陣・〔中尾(置塩)〕のお三津(みつ 22歳)と察したが、
「訊いてみましょう」
なに食わぬ面持ちで応じたのは、1刻(2時間)ほど、あとのこと。

木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 35歳)が、お多美を気にしなから、意外な案を吐いた。

〔化粧読みうり〕の江戸板が刷られてからまる8年になる。当時、16歳のむすめざかりであったおんなは、いまでは24歳---子の2人や3人もかかえているが、それでも美しくありたいという気持ちは持ち続けていよう。
「お多美姐さんのようにあいかわらずの美形の人もいることだし、20代から30代の戻り美人を狙った[化粧読みうり]というのはどんなものか?」

みんなは、43歳になってもなお色香を保っている今助の姉さん女房・千浪(ちなみ)をおもいうかべながら、とりあえず合点した。


きょうの結論として、西方のおのぼりさんたちを受ける江戸側としては、
頭(かしら)格--------〔木賊〕の今助
頭格助役(すけやく)---〔愛宕下(あたごした)の伸太郎(しんたろう 32歳)
書役(しょやく)-------〔音羽〕の儀右衛門(ぎえもん 20歳)
連絡(つなぎ)役------〔番場(ばんば)〕の五左次(いさじ 22歳)
 同    助役-------お乃舞(のぶ 23歳)

後見役-------------〔箱根屋〕の権七(こんしち 50歳)
 同            {音羽〕のお多美(41歳)
 同            〔耳より〕の紋次


昼餉(ひるげ)をとり、席料を払い、満足しておひらきとなり、散った。

権七は、みんなにあいさつし、隣りの船宿〔黒舟〕へ一度入ってから、一同が散ったのを見すまし、〔季四〕へ戻った。

長谷川さま。ひとつ、気がかりなことがあります」
「ほう---?」
「お乃舞さんは、おさんの、なに、でしたよね」
「京都以来だから、あっちも、かれこれ10年になるな。お乃舞がどうかしたかな?」

別の座敷の昼客を送った里貴(りき 38歳)が入ってきた。
「成果はありましたか?」
「若い者たちだけに、考えが柔かく、いいたいことをいいきったので大満足のようであった。礼をいう」

「〔黒舟〕さんもお手数でした」
「板元ですから---」
「いま、さんが、お乃舞のことで、なにか、気になることがあるらしい」
「いえ、ちょっと---」
「なにかしら?」

いいよどんでいた権七が、
「〔馬場〕の跡継ぎ---五左次どんといいましたか。あの若衆がお乃舞さんに一と目惚れしたようで---」
「あら---いいじゃないですか」
五左次を好ましくおもっている里貴は、身内の甥iのことでもあるかのように嬉しがった。

 

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2011.05.27

若い獅子たちの興奮(2)

音羽(おとわ)〕の新造・お多美(たみ 41歳)から上座の真ん中の席に請じられた平蔵(へいぞう 37歳)は、頭(こうべ)をふり、固辞した。

〔化粧(けわい)読みうり〕も、京都で板行を始めてまる10年経った。
:「10年ひと昔ともいい、移り変わりは世の常。きょうは、いまの若い人たちの目でみた〔化粧(けわい)読みうり〕について、黙って聞かせてもらうつもりでおる」

「若いいわはると、うちら、もう、お婆ぁちゃんどす---」
多美がこころにもない卑下をもらし、苦笑した。
「いや、生まれてから迎えた正月の数ではなく、世の中の動きについていけておるかどうか、だから---」
平蔵がとりつくろう。

そのとき、平蔵の頭をよぎっていたのは、嶋田宿の本陣の若女将・お三津(みつ 22歳)の、みだらであることを恥じないというより、すすんでそれを演じきる若さであった。
縁切りなど、気にも苦にもしていなかった。

三津に会ったのは、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 50歳)と〔耳より〕の紋次(もんじ 39歳)であったが、2人とも、西駿河板の板元を引きうけるために、江戸まで平蔵についてきた度胸のよさと 独り立ちの心根に驚いていた。

権七がそっと訊いた。
置塩さま。親ごさんのお許しはでているのでございますか?」
「相談するほどのことではないでしょ。したところで、風評が金に化けるなどということは考えの外よ」
権七に笑いかけたものである。

しばらく、みなはお互いの顔をみあわすだけで発言がなかったが、日本橋通り南3丁目箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕で化粧指南師代理をしているお乃舞(のぶ 23歳)が手をかざし、
長谷川はん。ちょっと、よろしおすか?」 

平蔵がうなずくと、みなから顔がみえるように、お五左次(いさじ 22歳)のあいだへ座をずらし、
「おかあはんの下で、化粧師助(すけ)をさせてもろうてます乃舞、いいます。妹の(さき 20歳)は、宇都宮へ縁づき、〔釜川(かまがわ)〕の元締はんとこの〔読みうり〕の、白粉屋はんの化粧師をさせてもろうてます」

音羽〕のお多美が微笑した。

参照】2010年11月6日[お勝の杞憂] (

「じつ、いいますと、うちもも、〔音羽〕のかあはんとおんなじ京育ちでおます。そやいうたかて、かあはんとうちらでは月とすっぼんどすけど---」

宇都宮ののいいぶんは、〔化粧読みうり〕には、どことのう、上方のものは上等、東のものは劣るといった気配がにじんでいる。
京の呉服は美しいが、宇都宮へ住みついてみると、このごろでは、結城や館林の絹物のできは、京に劣ってはいない。
なのに、あいかわらず京が上手(うわて)というのは、〔読みうり〕の板木が京で彫られているからではないか。
いっそ、板木づくりも江戸でやったらどうか。

が口をそえた。
「眉の引き方ひとつかて、上方と江戸では、好みがちがいます」

「箱根からこっち、東(あづま)気質は間違いないが、西駿河ばどっちでしょう?」
権七が元箱根の雲助時代をおもいだしながら、平蔵へ問いかけた。

しばし、思案したふりで、
「三河までは関東ぶりであろう」

木賊(とくさ)の今助(いますけ 35歳)が〔耳より〕の紋次にたしかめた。
「板木づくりを江戸でやる目安は---?」

「上方より1割5分がた値がはろうが、西駿河分や相模分がふえれば、帳消しになるはず---」

もじもじしていた〔馬場(ばんば)〕の五左次(いさじ 22歳)が、
「色刷りのきれいな浮世絵が出回っております。いっそ、〔読みうり〕も色刷りのおんなの絵にしたどんなものでしょう?」
この一言で、みんなの頭の中が色刷りになった。


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2011.05.26

若い獅子たちの興奮

町飛脚による回状を受けとった面々が、八ッ(午前10時)に東深川・冬木町寺裏の茶寮〔季四〕に顔を揃えた。

平蔵(へいぞう 37歳)の梅雨前の、非番の日であった。

〔箱根屋〕の主(あるじ)で、[化粧(けわい)読みうり]の板元の権七(こんしち 50歳)。
同じく[読みうり]の編集者・〔耳より〕の紋次(もんじ 39歳)。

音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門の内儀のお多美(たみ 41歳)。着付けのお師匠さん。
同・嫡男の祇右衛門(ぎえもん 20歳)
同・修行中で、嶋田の元締・〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)の息子・千太郎(せんたろう 25歳)。

愛宕下(あたごした〕の嫡男・伸太郎(しんたろう 32歳)。

浅草・今戸の〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 35歳)。

品川一帯の元締の長男の〔馬場(ばんば)〕の五左次(いさじ 22歳)。

日本橋の白粉問屋〔福田屋〕の化粧師・お(かつ 41歳)。

顔がそろったところで、権七が席につくようにすすめた。

その声を待っていたかのように、お多美が、上座に3枚並んでいる座布団の左席につき、右席に権七を招いた。
真ん中は空いたままであった。

しばらくゆずりあっていたが、左の列のもっとも上座に近い席に今助が座り、その隣に儀右衛門、そしてお
のうしろに、お乃舞(のぶ 23歳)。

上座の右の列には、ー紋次伸太郎五左次千太郎の順。

つき添ってきていた小頭やその代人は、それぞの組のうしろにひかえた
今日、初めて顔あわせした者もいるのに、それぞれが自分の格を自覚していることを驚嘆していた平蔵を、お多美が上座の真ん中の席へ手招きした。

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2011.05.25

〔馬場(ばんば)〕五左次(2)

「相模板、西駿河板[化粧(けわい)読みうり]の下見講の世話役に〔馬場(ばんば)〕の五左次(いさじ 22歳)を入れるのはいいとして、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 56歳)元締のところの嫡男・祇右衛門(ぎえもん 20歳)を抜かすわけにはいかないな」
平蔵(へいぞう 37歳)は、格式にこだわった。

(てつ)さま。〔音羽〕のもそうですが、〔愛宕下(あたごた〕の伸蔵(しんぞう 52歳)元締のところの伸太郎(しんたろう 32歳)さんが、2代目のなかでは、いちばんの齢かさではないかしら」
里貴(りき 38歳)につられ、
「2代目といえば浅草・今戸の〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 35歳)どんもそうだ」

それに、と平蔵はいいかけて、よどんだ。
上野一帯をとりしきっている〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 35歳)もいる---と、あげかけたのである。
猪兵衛には、盟友の内輪のことですっかり世話をかけていた。

参照】2010年4月3日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] () () 
2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆] 
2010年5月17日~[浅野大学長貞の憂鬱] () () () 
2010年12月19日~[浅野家の妹・喜和] () (

今助は、先代の隠し子だからまあ、2代目といってもとおろうが、猪兵衛のばあいは、上の連中がそっくり島送りとなって手にいれた元締の地位である。
そういう理屈をいって、今回はあきらめてもらおう。

平蔵はこれまで、裏の世界の席次のきまりを気にしたことはなかった。
役人の世界では出仕の年月の早い・遅い順だし、商店では入店順と役iについた順と決まっていた。

これまで、宴会の席の決め方を想いだしてみたが、平蔵の席では、平蔵と知り合った順が優先しているようであった。

2代目ではどうなるのであろう?
父親の順がそのまま引きつがれるのであろうか?
そんなはずはない---。

里貴が結論をだした。
「若い人たちを呼んで座につかせれば、それが順序なのですわ」

{その会合、〔季四〕でうけくれるか?」
「私だって興味津々ですから、とうぜん、引きうけさせていただきます」
「夜ではないぞ。昼餉(ひるげ)だ。若い連中に、いまから夜遊びを教えてはいかぬ」

「では、大人の2人は、おとなの夜遊びを---」

里貴が閨(ねや)の行灯の芯を高くした。
部屋が明るくなった。

明かりの下で、透きとおるように白い里貴の肌が、昂まりとともに首筋から乳房へかけて桜色に染まっていくのを確かめるのが、平蔵の好みであった。

「桜が開きはじめた」
耳元へささやかれると、里貴はいっそうはげしく没入していった。

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2011.05.24

〔馬場(ばんば)〕五左次

馬場(ばんば)〕の五左次(いさじ 22歳)さんを招(よ)んであげなかったのですか?」
さっきまでの小料理〔蓮の葉〕での、相模・西駿河の貸元、元締衆による、それぞれの城下・宿場の大店の跡継ぎたちの江戸見物のことを話してきかせたときの、里貴(りき 38歳)から出た疑問であった。

里貴の目には、五左次は、品川一帯の香具師(やし)の元締である父親・〔馬場〕の与左次(よさじ 57歳)より、はるかに人望があり、智力もすぐれた若者と映っていたらしい。

たしかに、火盗改メ・増役(ましやく)の懇請のかたちで、平蔵(へいぞう 37歳)が嶋田宿の事件に出張るとき、西六郷の安養寺・古川薬師と矢口の小料理屋での五左次の気くぱりようが、里貴はいたく気に入ったらしい。

でしゃばらず、 父親をたてながら、先々を読んで手くばりをさりげなく質(ただ)していく要領のたしかさであった。

(てつ)さま。10年後をおかんがえになってごらんなさいませ。さまは47歳の火盗改メ、〔音羽(おとわ)〕の元締・(重右衛門 じゅうえもん)どのは66歳、〔馬場〕の与左次元締は67歳、たとえお元気だったとしても、(てつ)さまの力になってくれるのは、五左次さんでしょ。器量のある人は、若い世代を大事にしてこそ、10年後、20年後に腕がふるえのです」

そういえば、田沼主殿頭意次 おきつぐ 44歳=当時)侯が父・宣雄(のぶお 44歳=当時)にすすめ、銕三郎(てつさぶろう)が初めて木挽町(こびきちょう)の中屋敷へ参上した17歳の夕べのことをおもいだした。

参照】2007年12月17日~[平蔵の五分(ごぶ)目] () () (

「なにを、にやにや、かんがえておいでです?」
平蔵とこうなって足かけ9年、躰のすみずみまで互いに究めつくしていた。
今宵も、腰丈の寝着でむかいあって片膝をたて、太股の奥までまる見え、それこそ、あられもない姿態でいながら、言葉つきだけは9年前とかわらず丁寧であった。

ほんの半日でぞんざいというか、気やすく友だち言葉になったお三津(みつ 22歳とは大違い。
これがその家の躾け差ということであろうか。

里貴は、百済だか高麗だかの渡来人が古風を伝えまもっている紀州の志貴村の育ちであった。

「いや、なに、里貴の考え方が、いまほどの地位におのぼりになる前の田沼侯とそっくりなのでな。側に仕えるだけでも考えが伝わるものとおもったのだ」
(人は、大きな人物に接するだけで、自らを太らせていく)

片口から自分の茶椀へ冷酒を継ぎ足した里貴が、
さまの10年後を案じるより、自分ことをかんがえろとおっしゃりたいのでございましょう?」

10年経てば、里貴とて48歳の姥(うば)で、茶寮〔季四〕の女将でございます---などと力んでもはじまらない。
今夜、ひょっとしてややの種を宿しても、10年後にはまだ10歳---。

「それで、紀州の貴志村の縁者のところから14,5歳のむすめを引きとり、いまから躾ければ、10年後に老醜をさらさないですみます」

しかし、そうなると、14,5歳のむすめがいっしょにいるのに、とこんな格好でのじゃれあいもでない---。
「そろそろ、もうすこし部屋数のある家を考えておくべきですね」

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2011.05.23

先達〔市場(いちば)〕の逸平

(ごん)さん。〔松戸(まつど)〕の繁蔵(しげぞう 41歳)に頼んでおいた人が見つかったそうだ。いっしょに話を聞いてほしい」
下城姿の平蔵(へいぞう 37歳)が、 町駕篭〔箱根屋」の主人・権七(ごんしち 40歳)へ声をかけた。

音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 56歳)にも〔耳よりの紋次(もんじ 39歳)にも声をかけたとつけ加えた。

「六ッ(午後6時)に〔蓮の葉〕でございますね。〔季四」でなくて、よろしいんですか?」
「〔松戸〕のへのつなぎ(つなぎ)をお(はす 37歳)がつけたのだから---」
「わかりました」

三嶋宿の探索から戻って2ヶ月がすぎ、季節は立夏(りっか)を迎えていた。
小田原の貸元・〔宮前〕の徳右衛門(とくえもん 59歳)からも、嶋田宿の元締・〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)からも、大店の世継ぎたちが江戸見物をせきたててきていると書きおくってきていた。
(物見遊山の旅じゃあないのだぜ)
平蔵としても、ないがしろにしていたわけではないのだが、とにかく暇がなかった。

やっと、熊野権現の御師(おし)を表看板にしている〔松戸〕の繁蔵をおもいだし、小料理〔蓮の葉〕の女将・おに、つなぎをつけてもらった。

参照】20101028~[松戸(まつど)の繁蔵] (1) (2) (

用件もつたえてあった。

もちろん、〔松戸〕の繁蔵が盗人〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ 60すぎ)一味の男であることは承知している。

御師や先達(せんだち)の一人や二人、寺社奉行所の顔見知りにたのめばすぐ引きあわせてくれようが、〔化粧(けわい)読みうり〕の陰の板元であることは、知られたくなかった。


繁蔵が連れてきた男は、鶴見宿の熊野社かかわりで先達をしている、40がらみの丸顔で、〔市場(いちば)〕の逸平(いっぺえ)と名乗った。
「なにかあると、いっぺえやるか? ともちかけるもので、ほんとうは[いつへい]なんですが、いっぺえでとおってしまっております」

そういえば、酒好きにらしく、鼻の頭が赤じみているのも、愛嬌をそえていた。

耳より〕の紋次が〔化粧読みうり〕の経緯(あれこれ)を説いてきかせ、〔音羽〕の重右衛門が、江戸は浅草寺と富岡八幡宮に2日、大店まわりに2日、板木の組みと刷りの見分に1日、つごう在府5泊ということで旅程と路銀の見積もりをつくってほしい。
なお、取り分は実費の1割、旅籠と料理屋、みやげ物屋、揚げ屋からの戻りは、講を組んだところの親分衆が5分、いっぺえどんが3分、江戸側2分とこころえておいてもらいたい。

権七が、駿河組と相模組との旅程と見積もりを3日以内に〔箱根屋〕へとどけてもらいたいと、だめをだした。

最後に平蔵が、江戸がうまくいけば、京都の分も頼むつもりだ、京都は祇園をシマにしておる〔佐阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 50前)が相談にのる、とつけたした。

呑みながら、食いながらの打ち合わせであったから、あっというまに1刻(2時間)がすぎた。

あとは〔音羽〕の元締と〔箱根屋〕さんでつめてくれ、と平蔵が座を立つと、玄関まで繁蔵がついてき、
「〔市場〕のは、あっち(盗み)のほうにはまったくかかわりがありませんから、おこころえください」
律儀に耳打ちした。
〔恩に着る」
松戸〕の肩をた叩いた。

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2011.05.22

三嶋宿の本陣ウォーキング

いささか遅れぎみではあるが、静岡のSBS学苑の[鬼平クラス]が5月14日(土)におこなったバス&ウォーキングによる三島宿本陣および箱根関所めぐりのうち、三島本陣の部をリポートする。

このウォーキングの狙いは、明和9年(1772)秋に、銕三郎(てつさぶろう 27歳=当時)の父・備中守宣雄(のぶお 54歳=当時)が火盗改メ時代に、目黒行人坂の大火の放火を:検挙(あげ)るという大手柄をたて、その報償のような形で京都西町奉行という要職に任じられた。

参照】2006年6月1日[目黒・行人坂の火事] 

京都町奉行への発令は明和9年10月15日で、赴任の許しがでたのは丸1ヶ月後の11月15日であったことは、すでに『徳川実記』から引いている。

このブログでは、銕三郎が御所役人の不正内偵の密命をうけ、宣雄に先行して上京したことにしたが、史実の記録はない。

久栄(ひさえ 20歳=当時)と辰蔵(たつぞう 3歳=当時)が宣雄に同行したことは間違いない。

赴任の道中は幕府要職としての威信を誇示しろとの方針であったから、一行は三島宿では本陣〔樋口〕伝左衛門方に宿泊したろうと見る。

というのは、11月下旬というのは、参勤の諸大名の参府・下府はほとんどないからであった。

大熊嘉邦さん『東海道宿駅とその本陣の研究』(日本資料刊行会 11979.07.30)によると、東海道を上下していた藩は、

2月  6家
3月  3家
4月 52家
5月  3家
6月 41家

という。
52家や41家だと、三島の本陣に宿泊できたのは、その半分の藩であったかもしれない。

とにかく、宣雄と嫁・久栄は、小田原城下の本陣からのつぎは三島宿の〔樋口〕であったろう。

Photo前掲書によると、

Photo_2

樋口伝右衛門  建坪 238坪
世古六太夫       279.5坪

東海道と下田街道が交差する西北側に〔世古〕本陣、西南角に〔樋口〕本陣が向いあっていた。

鬼平〕クラスの面々は、それぞれ石碑をカメラにおさめながら、いまはかけらも残さずに寸断された敷地から、往時におもいをはせた。

このブログにアクセスしているメンバーは、、14歳の銕三郎をはじめて男にしてやったお芙沙(ふさ 25歳=当時)がその後女将になおった姿とか、女賊に落ちたお賀茂(かも 26,7歳)を連想してくれたであろうか。

参照】2007716[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年11月15日~[与詩(よし)を迎えに] (26) (30
2009年1月10日[http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/01/30_61f7.html] (
 
2007年3月17日〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (10

参加者へ配った、大熊さんの労作にあった{樋口}の間取り図を、こころ覚えまでに掲げておく。

Photo_3
(本陣〔樋口〕の間取り図 『東海道宿駅とその本陣の研究』)


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2011.05.21

[化粧(けわい)読みうり]西駿河板

「お三津。嶋田へ帰ったら、考えておいてほしいことがある」
藤沢の旅籠〔瀬戸(せと)屋〕の離れ座敷であった。

三津(みつ 22歳)は、ここでも離れ座敷のある宿屋を選んでいた。
平蔵(へいぞう 37歳)とのときにおもわずこぼす睦(むつ)み声を自覚してのこころ配りであった。
あとで訊くと、小田原の新宿町の旅籠〔梅ノ井〕で紹介されたと、けろりと応えた。

大井大明神(神社)脇の置屋を表の家業にし、裏では香具師(やし)の元締をやっている〔扇屋(おうぎや)〕の万次郎(まんじろう 51歳)が、藤枝や掛川の元締衆と板行を相談している〔化粧(けわい)読みうり〕の板元を引き受けないかともちかけた。

酒のあいまに、昼間、梅沢で手にいれた一枚を渡し、京での成功、江戸での結果を語って聞かせると、のりだしてきたが、
「江戸での板元は、さんが親しくしている女(ひと)なの?」
「ちがう。以前は箱根の荷かつぎ雲助の頭領だった男だ」
「男の板元かあ」
「そこだ、西駿河板は、若いとびきりの美女が板元というだけで金箔つきの読みうりになる。そうだ、京から絵師の北川冬斎を下向させ、お三津を何枚も描かせよう」
「うれしいような、恥ずかしいような---でも、これでさんと縁がつながったとおもうと、うれしい」

板元となると、掛川藩とか陣屋へのとどけもしなければならないから、本陣の若女将の肩書きをはずし、あの家を版元所として書き出しておいたほうがいいかもな。ま、じっさいに動きだすのは、来年のことであろうが---」
「それまでに、なんども相談に江戸へ下らなければ---」
「そうだな」
「江戸に、一軒、借りてしまおうかな」
「借りるまでもない。こころあたりがある」

先行きが、ばっと明るくなったせいか、その夜のお三津の、みだらぶりは尋常ではなかった。
保土ヶ谷宿の旅籠でも離れをとり、しまわれていた櫓炬燵を2ヶださせて長火鉢の代用とし、みだらを満喫した。

で、結局、江戸までいっしょにき、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 50歳)と〔耳より〕の紋次(もんじ 39歳)に引きあわせた。2泊ほど旅籠におとなしく泊まり、供の爺やとともに上りの桧垣(ひがき)廻船で嶋田へ帰っていった。


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2011.05.20

[化粧(けわい)読みうり]相模板(3)

「早すぎたようだな」
押切坂を上lりきり、立場(たてば)と一里塚が見通せるところで、平蔵(へいぞう 37歳)が、供の松造(よしぞう 31歳)に、〔津多(つた)屋〕へ荷を預けてくるようにいい、
「左手の丘の上に社(やしろ)があるようだ。参拝していこう」

_360
(左の押切川から右の中・緑○=梅沢立場。その右の赤○=一里塚。上の赤○の上に東明神 道中奉行制作『東海道分間延絵図)


松造が荷を置きにいっているあいだに、平蔵は通りがかりの村人をつかまえ、社のことを訊いた。
東(あづま)明神と、社号だけはわかった。
相模の海(現・横須賀)沖で、荒浪を鎮めるために身を沈めた弟橘媛(おとたちばなひめ)の流れついた櫛を祀っているともいわれた。

600
(弟橘媛の入水 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


松造と枯れ草で覆われた参道をのぼっていくと、塗りのはげた鳥居と小さな拝殿があった。
拝殿の縁側の端で、目つきの鋭い若者が2人、花札で遊んでたが、平蔵たちの姿に、あわてて本殿のほうへ消えた。

かまわずに賽銭をあげたが、拍手を派手に打ってはさっきの2人が間違えて飛び出してきそうなほどまわりが静かなので、掌をあわせるだけで、一家安全、職掌順調を祈願した。

参道を下ると、東から〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 54歳)が若い者頭(がしら)の洋次(ようじ 35歳)と連れだってきていた。
むこうも2人をみとめ、〔津多屋〕の入り口で待った。

供は1人だけと、〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門(とくえもん 59歳)に釘をさされたため、寅次(とらじ 18歳)たちは、いざにそなえてそこここに伏せていよう。

それは〔高麗寺(こうらいじ)〕の常八(つねはち 35歳)の側も同じであろう。

血気にはやった若い者同士のもめごとをとうぜん予想し、〔宮前〕側もその止め役を若いのを待たせているに違いない、と平蔵は読んだ。

奥座敷へ案内されてみると、〔高麗寺〕はすでに着座し、[化粧(けわい)読みうり]を手に、徳右衛門から説明をうけていた。

平蔵には、上座が用意されており、右手に〔宮前〕側、左手に〔馬入〕とならんで〔高麗寺〕、それぞれの後ろに従者がひかえた。

徳右衛門が改まり、まず、かけた声に応じてくれた礼と、平蔵を紹介した。
長谷川さんは、火盗改メのご用で嶋田宿へお出張りのお帰りだが、相模の街道筋の繁盛をこころがけてくださり、江戸からわざわざ、金儲けのたねをおとどけくださった」

京都と江戸での[化粧(けわい)読みうり]は10年つづいており、香具師(やし)元締衆が仲よく利をわけあっておる。
そにことをしった宇都宮の〔釜川(かまがわ)の元締も気のきいたのを〔音羽(おとわ)〕の元締のところで修業させ、いまでは野州一円で利をあげいいる。

おととい聞いたところでは、嶋田の〔扇屋(おおぎや)〕の元締も、岡部から掛川までの元締衆との語らいをはじめているらしい。跡取りはすでに〔音羽〕の世話になっているとか。

どうであろう、街道ぞいの藤沢、平塚、小田原もいっしょになって利をかせいでは---。
うちでは、18歳の孫に後見をつけて、〔音羽〕のに仕込んでもらうことにしているが---」

まっさきに〔高麗時〕の常八が賛意を発した。
若いだけあって、時代の流れを読むのにぬかりはなかった。

長谷川さまの案なら、まちがいありゃせんです」
馬入〕の勘兵衛の声をだした。

平蔵が、
「両貸元にご賛同いただけたようだから、わざわざきている一家の衆を、まず引き取らせてもらおうか」

馬入〕と〔高麗寺〕に付き添っていた両小頭が小腰をかがめて出ていった。

両小頭が戻ってくる前に、平蔵が〔宮前〕の徳右衛門に語りかける感じで、
「[化粧(けわい)読みうり]は、大店からのお披露目枠の買い上げでなりたっております。しかし、老舗の中には、いまさらお披露目などしなくても---という店主もいましょう。お披露目がどれほど効きめが大きいか、貸元衆の係りとともに、[読みうり講]をつくり、江戸や京都でお披露目枠をつかっている店の話を聞きがてら、江戸見物、京見物を仕組んではどうですか」

「うまい。大店の跡継ぎを講に誘い込み、世間をみせるというのがな」
宮前〕の徳右衛門は、改めて平蔵の案出しの能力に瞠目するとともに、旅籠や飯屋、華街からの戻し金を暗算していた。

「化粧師の仕込みもしておかないと---。これも江戸の権七に手配させますから、16,7歳の気がきき、ととのったを---」
平蔵が化粧師を白粉屋に置くことを提案した。

小頭たちが戻り、顔が揃ったところで、酒と土地(ところ)の名物・あんこう肝の共和(あ)えがでた。
「いついつまでも、和(なご)やかに---」
彦右衛門の呼びかけに、一同か和した。

「酒は六ッ(午後6時からと決めておるので、失礼して、あんこうを---)
平蔵は、徳右衛門に断り、共和えに箸をつけた。
里貴(りき 38歳)の、骨がない躰みたいな感触だ)


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2011.05.19

[化粧(けわい)読みうり]相模板(2)

翌日の午後、〔宮前(みやまえ)〕からの遣いの若いのが、江戸からのとどきものが着いたから、明日の八ッ(午前10時)に城下から1里半東よりの梅沢村押切坂の立場(たてば)の茶屋〔津多(つた)屋〕の奥座敷をとっておいたから、そのまま江戸へ向かうつもりでお越しありたいと伝えてきた。

遣いは〔馬入〕(ばにゅう)の勘兵衛(かんべえ 54歳)と高麗寺(こうらいじ)〕の常八(つねはち 35歳)にも出してあるという。

宮前〕の大貸元のところへ[化粧(けわい)読みうり]の見本が着いたのなら、〔馬入〕の勘兵衛もすでに手にしているはず。
(だが、さて、〔箱根屋〕の権七は、おれの手くばりという一筆を入れてくれたろうか。勘の鋭い権七のことゆえ、ぬかりはあるまいが---)

万事、筋書きじおりの手配が終ったから、小田原名物〔透頂香(ういろう)〕でも、与頭(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 61歳 800俵)ほかへ配る土産とし、松造(よしぞう 31歳)に購(あがな)ってこさせるかと、1分(4万円)を渡し。
「これで、購えるだけもらってこい。お(くめ 41歳)とお(つう 14歳)の分もいれておけ」

松造と入れちがいに番頭が、結び文をとどけてきた。
開くと、

新宿町の旅籠〔梅ノ井〕でお待ちしています みつ

目を疑ったが、お三津(22歳)からにちがいなかった。

宿泊している本陣・〔窪田〕は宿町だから、新宿町はとなりであった。

着流しのまま、帳場へ、夕飯は無用、松造へは明朝は六ッ半(午前7時)発(だ)ちと伝えるようにいいおき、旅籠〔梅ノ井〕を訪ねた。

三津はぜいたくな風呂つきの離れをとっていた。
「どうしたのだ---?」
「お忘れもの---」
「はて---」
「私がうっかり、番頭へ伝えるの忘れていたの。古室(こむろ)さまから、平(へい)さんご滞在分として2分(8万円)をお預かりしていて---」

紙包みには5両(80万円)入っていた。
「現に、われが滞在したのだし---」
「いいえ。さまは、私の家へお泊りでした」
「それにしても、多すぎないか---?」

本陣の女将としての手ぬかり詫び料もはいったいる、と笑いながら頭をさげた。

真意はわかっていた、詫び料は口実で、都合がついたら、しめしあわせて藤沢宿とか鶴見宿あたりで落ち合うための路銀のつもりであろう。

「どうやってきた? 馬か?」
「桧垣廻船に頼みこんだの。 半日ちょとでした。江戸まで嶋田から、風の具合さえよければ3日だそうです」
「江戸には、室も親しいおんなもおる」
「そうでしたね。お湯、浴びません?」

明日は、梅沢で命がけの用があるから、今夜は泊まることはできない、というと、泊まりは藤枝宿の本陣〔蒔田〕かと問うた。
「多分、そうなる」
「では、また、文します」

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2011.05.18

[化粧(けわい)読みうり]相模板

嶋田宿を発(た)って3ヶ日の夕刻、小田原へ着いた。

〔窪田〕益右衛門方へ荷物を置き、すぐ近くの〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門(とくえもん 59歳)のところへ顔をだした。

この日のこれくらいの時刻にうかがえることは、府中から飛脚便で報らせておいた。
もっとも、宿泊したのは江尻宿であったが---。

公用で東海道を上下する幕臣は、本陣のほかには宿泊できないことも書き添えておいた。

「小田原には、もう一日滞在します」
「とりわけてのご用向きでも---?」
あいかわにずの好々爺然とした面持ちをくずさず、他人ごとをむ訊きでもしているような口調であった。

「いえ。さしあたっての用向きはありませぬ。ただ、江戸からとどくものを待ちます」
「江戸からのとどきもの---?」
「貸元あてにとどきます」
「何かの---?」
「[化粧(けわい)読みうり]という、お披露目の刷りもです」

平蔵(へいぞう 37歳)は、京都で御所役人の不正探索の囮(おとり)として、祇園の香具師(やし)の元締・〔佐阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すき=当時)と組み、[化粧(けわい)指南読みうり]というお披露目(広告)枠つきの瓦板を板行したことを話した。

参照】2009年8月9日[〔左阿弥(さあみ)〕の円造] (

「不正役人はひっかかりましたか?」

宮中の地下官人は釣りそこなったが、おお披露料という揚がりが入ってくるようになったというと、徳右衛門は笑い、
「若い身そらで、働かんでもゼニが入るようになったら、たいていは身をもちくずすものだが---」
平蔵の双眸(りょうめ)をのぞきこんだ。

その鋭さに、平蔵はおもわす、貞妙尼(じょみように 25歳=当時)との一件を洩らしてしまいそうになったが、ふみとどまった。

参照】2009年10月11日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] () () () () () () (

江戸でも、[化粧(けわい)読みうり]を板行をすることになり、それぞれの土地(ところ)の元締衆に地割りしてまかしたところ、風聞がぜニに化けることに初めて気づいたらしく、お互い寄り合い、じかに話しあうことで、シマ争いがなくなったと告げると、膝を打ち、
「〔平塚宿の争いを、それで鎮めようというわけかな」
「いえ、平塚宿だけでは商いが小さすぎます。小田原から藤沢までで地割りしないと---」

しばらく瞑想していたが、
「:化粧(けわい)と呼びかけるからには、むすめとおなご相手だなあ」
「見栄えをよくするためには、おんなはゼニを惜しみませぬ」
「そうだが、博打うちに、おんな相手の商売ができるかな」
「香具師の元締衆も引きこみ---」
「それだけ、争いごとが減るかもな」

取りまとめがすすんだら、板元の〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 50歳)をよこすというと、
さんがなあ」
かんがえこんだ。

それから、息子と小頭を加えての酒となり、席上で、もう一度、[化粧(けわい)読みうり]のあらましを語らせた。


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2011.05.17

長谷川豊栄長者の屋敷跡(3)

静岡の〔鬼平クラス〕でともに学んでいる安池欣一さんが送ってくださった資料の一つ---[焼津市史考古資料調査報告書 小川(こがわ) 2003年]から、焼津市長・戸本隆雄さんの「序」の一部を引用する。


_170_2「自然や人々の営みに恵まれたこの地で、これまでどのように人々が暮らしてきたのかを知るためには、遺跡の内容を紐解くことが重要な手段のひとつです。焼津市域の平野部には、古くは弥生時代から人々の営みを見ることができますし、丘陵部にはいまだ(こ古墳がいたるところに残されています。このようにいくつもの遺跡がある中に、もちろん中世の暮らしを垣間見るための好事例もあります.。それが道場田・小川城遺跡です。
道場田・小川城遺跡は1981年から随時調査が行われてきました。これにより、戦国時代の館と集落の様相が有機的に分かってきています。全国的な考古学の大発見を挙げれば暇がありませんが、中世の館では東海地方から全国までを見渡しても、これほどまでに膨大な成果を収めて、ほぼ全容が把握できる例はさほど多くはないことに気付くでしょう。


鬼平犯科帳』の連載が『オール讀物』で始まったのは1968年の新年号からである。
松本幸四郎さん主演でテレビ化が放送されたのは1969年秋である。
焼津市が、鬼平こと---長谷川平蔵の祖先である長谷川家の居城であった小川城址の発掘を企画したこととかかわりはなかったであろうか。
あるいは、連載やテレビ化が促進剤とならなかったであろうか。

少なくとも、長谷川家に関する資料探しに火がついてことは容易に想像がつく。
もっとも、象牙の塔の人が、こんな仮説を認めるはずはないが。

報告書 小川(こがわ) 2003年]は、第4節に[小川の長谷川氏]をたて、まず[小川の法永長者]の項で、


文明8年(1467)、駿河守護今川義忠が戦死し、遺児竜王丸が4歳の幼童であったため、義忠の従兄にあたる範満が家督を望み、今川家臣がそれぞれの支持に分かれ、お家騒動に発展した。

範満の母親や祖母は関東の扇谷上杉氏の出であったので、相模守護上杉定政は家事の太田道潅を派遣して、範満を支援し竜王丸派を威圧した。

道潅は駿河に向かうに際し、伊豆の堀越公方足利政知の許に立寄り、政知の重臣上杉政憲と同道して府中に入った。

これに対し幕府は、竜王丸の母親(北川殿)の弟で、奉公衆の伊勢新九邸盛時(後の早雲庵宗瑞-北条早雲)を駿府に下向させ、内紛の調停に当たらせた。

その結果竜王丸が成人するまでの間、範満が家督を代行するということになった(『今川家譜』・家永遵嗣「戦国大名北条早雲の生涯」『奔る雲のごとく――今よみがえる北条早雲――』)

この騒動の間、竜王丸母子を匿ったの.が小川の法永長者(長谷川次郎左衛門尉正宣)である。

法永長者はこの時47歳であった。

法永長者が竜王丸母子を保護したのは、法永長者の帰依する林双院(後の林斐院)住職賢仲繁哲の要請によるものと推測される。

賢仲は「備中平氏」の出身といわれるので(『日本洞上聯燈録』八)、竜王丸の母の実家伊勢氏(伊勢氏も平氏である)と何らかの関わりがあったと思われるのである。

つまりその伊勢氏の所領は備中国荏原郷であり、同地の伊勢氏の氏寺法泉寺(岡山県井原市)は、賢仲が出家した同国草壁庄の洞松寺(岡山県矢掛町)とは同宗大源派)であり近しい間柄であった。

そうした俗縁関係から貿仲が法永長者に竜王tの保護を依頼したと考えたい。

覇停成立後、竜王丸は宇津の山の麓、泉谷(静岡市丸子)に新たに館を建てて成人÷るのを待った。

しかし中世は「自力救済」の時代であり、時が来たからといって約言通り竜王丸が当主の座につける保障はなく、竜王丸が当主となるには自らの力でその地位を奪い取るほかはないのである。

竜王丸が15歳になった長享元年(1487)伊勢量専ら竜王丸派は府中の今川館を攻めて範満を討ち取ったという(『字津山記』『今川家譜j)

こうして竜王丸は名実ともに今川家の当主となったのである.。


この今川館襲撃に、長谷川次郎左衛門正宣は力を貸したろうか。
兵力でなくても、資力は貸したと推察してもおかしくはなかろう。


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2011.05.16

長谷川豊栄長者の屋敷跡(2)

安池欣一さんからのリポートのつづき。

昭和29年(1954)に刊行された[小川町誌]のなかに、「豊永長者屋敷(小川城跡)」とキャプションのある写真をみつけました。

_360_2
(豊永長者屋敷(小川城跡」 [小川町誌])


田んぼの中にここだけ残されて、いかにも、「田中の古土手の跡」という風情です。

[小川町誌]にはありがたいことに城域の見取り図も掲載されていたので拝借する。

_360_5


ぼくが三ヶ名(さんがみょう)不動院を訪れたときには、院の前は畑で、その向こうには新しい住宅群が建っていたから、新開地として発展しつつあったのであろう。

_360_3
(三ヶ名不動院の門前から豊栄長者屋敷跡を望む)


安池さんのリポート――――、

これが発振された小川城の土居跡とすると、そこは、西小川(町名)であり、三ヶ名不動院とはどういう位置関係になるのか。
先生のプログによると、三ヶ名にあるということで、三ヶ名地図で探索しました。
土地勘がないので知りませんでしたが、三ヶ名は西小Jlの隣ですね。
でも、小川城跡と不動院とは大分離れています。

上掲の見取り図では、堀が大きく屋敷を取り囲んでいるから、不動院の近くまで、堀がきていたとかんがえられないだろうか。


安池さんのリポート――――、

不動院のお婆ちゃんと面談しました。
「法永長者のことを調べているのですが---」と前置きし、[小川町誌]の豊永長者屋欺(小川城跡)Jの写真を見せ、
「昔は、こうなっていたのですか?」
と訊くと、懐かしそうに、
「そうそう」という返事。
でも屋欺跡と大分離れているのに、見えたのかと確認すると、
「50年も前には、ここから海が見えるくらいで、何もなかったから。この写真みたく見るには田んぼの中には入って撮るしかないけど」
ということでした。
かつては、豊永長者の屋敷跡の所在を説明するには、
「不動院前、田中の古土手の跡」と書くよりなかったのかもしれません。


[小川町誌]にも豊栄長者についての記述があり、大正2年の[小川村誌]よりも調査がすすんでいるので転記しておく。

  豊栄長者(長谷川次郎左工門政宣)
         (叉は法永)
南北朝の頃、今川義忠の旗下に藤原鎌足の後裔にして、大和国長谷川の出身長谷川長重と称する勇将があった。
戦国のならいとて征戦に寧日なく、家を顧る閑がなかったので、良き後継者を得たいと思い、大いに人選した結果、小川城嗣として当国坂本村の豪将加納彦工門義久の男、次郎左工門尉政宣を迎えた。
政宣は、文武二道に通じ治政斉家の宜敷を得、家又大いに富み、世人は豊栄長者と呼んだ。
また仏法を信ずる事が篤かったので文明十ニ年、日頃帰依する処の遠江国高尾山宋芝の弟子・賢仲禅師と諜り会下(えげ)ノ島の海辺に精舎・林叟院を建立した。
其後国主今川義忠が遠州塩買坂に戦死、父長重もまた馬前に箆れた。
国内は二派に分れ騒乱が続き、已むことがなかったので、石脇城主(東益津村)伊勢新九郎氏 (後の北条早雲)の謀いで幼君竜王丸(今川義元の父)は母・北川氏と共に密かに豊栄の居城に隠れた。
豊栄は篤くこれを遇した。
間もなく太田道観等の調停によって駿河八幡において和義成立し、竜王丸は帰城した。
この時、豊栄大いに喜び、新九郎迎えの武士に馬鞍其他を送って祝い、自分達父子も随行した。
夫れより豊栄の長子元長は伊賀守に任官し、今川の近習に列せられた。
明応6年、異人来り、天変地異を予言葉したので、豊栄再び賢仲禅師と諜って林叟院を高砂山下坂本に移した。
翌年8月、大津浪があり溺死する者二万六千、会下島の林叟院跡は海底となった。
翌年、林叟院の伽藍完成(以下略)


小川城跡には、「小川城遺跡」の案内板と小川城祉の碑があります。

_360_6
(安池さん、写す)

出土品は:[焼津市歴史民俗資料館]に展示・保管されています。

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2011.05.15

長谷川豊栄長者の屋敷跡

本年の4月17日のこのブログに[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪]と題して、西焼津の三ヶ名(さんがみょう)あたりをうろうろし、ついに屋敷跡を発見できなかった経緯を書いた。

参照】2011年4月17日[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪

そのことは、当日の〔鬼平クラス〕(JR静岡駅ビル SBS学苑)で披露した。
いつものように、クラスの安池欣一さんが早速に助(す)けてくださった。

リポートとともに、資料が送られてきたのである。

資料は、[焼津市史考古資料調査報書 小川(こがわ) 2003年]と、[小川町史]のコピー。

リポートは、こんなふうに始まっている。


豊栄(歿後;法永) 長者の屋敢跡は焼津市により、「道場田・小川城遺跡」として発掘・調査されているようです。

安池さんの「道場田」も、「小川城」も地区名で、隣接しているために、[報告書 小川城 2003年]は併記している。


_360_2
(明治22年 参謀本部製地図 [小川城]より)


報告書 小川)城 2003年]は、

小川城遺跡というのは、『駿河記』巻十六志太郡巻之三「小川」村の項に

○長者屋敷小川の西北に当り、三ケヶ名不動院の前、田中の古土囲あり。
長谷川次郎左衛門尉正量の屋敷跡なり。

とあり、

豊栄長者屋敷のことである。
長谷川次郎左衛門尉正量は、林院二十二世大転秀教が書いた「林叟院開基石塔再建記」(享和2年-1802)に、

原夫、我山之開基、長谷川法永居士者、駿河小川村之住人也、以其家富挙世称長者、(中略)永正十三年六月一日、長谷川宝永居士寂、寿八十七霊也、当院之卯辰撰墓所建塔、(後略)

永享2年(1430)の生まれで、法永長者と呼ばれ、永正13年(1516)に87歳で没したことがわかる。
法永長者が見えるのは『今川記』と『今川家譜』であり、『今川記』に「山西の有徳人と聞こえし小川法栄」、『今川家譜』には「山西ノ小川ノ法永卜云、長老」とある。


参照】2011年3月30日~[長谷川家と林叟院] () () () () (

_360
(左上緑○=不動院 赤○=小川城輪郭 上青○=西小川丁目 同下=西小路公園)


安池さんは、さらに、ゼンリン地図に、三ヶ名の不動院と小川城跡の区画を示してくださった。

これでみるかぎり、4月17日のぼくは、間違ってはいなかった。

ただ、なにかで読んだ、「不動院前」という記述が大雑把すぎたといえる。
なんの記述だったか、確かめるために、関係資料をひっくりかえしてみた。

_150「あった!」
[大正2年(1913)7月下浣印刷 小川尋常高等小学校長・川村積造編纂 小川村誌]のコピーであった。

第十目 口碑伝説の、[二 長者屋敷]の項に、

『駿河記』に云う。小川に西北にあたlり、三ヶ名不動院の前の田中に、古土圍あり。
長谷川次郎左衛門尉正宣の屋敷跡なり云々とあり。
不動院は豊田村三ヶ名なり。
その前面は一望平坦の耕田にしてわが小川村の内なり。
小字(こあざ)を「城の内」という。
田中の所々に一段と高き茶畑あり。いかにも旧邸の址なるかを偲ばしむ。
里人云う、これ長者の屋敷跡なりと。
長者は長谷川氏にして今川氏旗下の士なり。正宣(また政平)、元長、正長など数代この地に住し、その家、はなはだ富む。
ゆえに小川長者、または法永長者と称せられしという。


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2011.05.14

本陣・〔中尾〕の若女将お三津(7)

長火鉢の寝台の上で、これまでとはまったく異なった性感の刺激にしびれきっているお三津(みつ 22歳)が、
「私、どうかなっちゃったのかしら---」
「すごい声をあげていた」
「だって、なんにもわからなくなってしまったんだもの」
「江戸へ速飛脚をたてなければならないことをおもいだした。ちょっと、でてくる」

「いま、何刻(なんどき?」
「だいぶ前に、林入寺の時鐘が七ッ(午後4時)を告げていたから、おっつけ七ッ半(午後5時)だろう」
「1刻(2時間)ちかくも夢心地だったのかしら」

風呂場で張ってあった水を汲んで腰まわりを洗い、房事の匂いを流した。

夕餉(ゆうげ)の支度ができていますから---というお三津の声を脊に、問屋場へ急いだ。

紙と筆を借り、深川・黒船橋北詰の〔箱根屋〕の権七(ごんしち 50歳)へ、[化粧(けわい)指南読みうり]を10枚ずつ、小田原城下の〔宮前(みやまえ)の徳右衛門(とくえもん 59歳)貸元と平塚宿はずれの〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 54歳)のところへ早飛脚でおくるように書き、料金をはらった。

早飛脚はふつうの飛脚便の3倍近くもとるが、かまってはいられない。

じつは、お三津との行為の最中、悲鳴に似た声が耳にはいったとたん、おととい晩の〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)の言葉がこぼれでたのであった。

「〔化粧(けわい)読みうり〕のこともご存じでしたとは---?」
音羽の元締によると、あれの板行により、元締衆のシマ争いが消えたとか、そのことがなによりの結実であったと---」

おんなの自失の嬌声と、〔化粧(けわい)読みうり〕がどう結びつくのかと訊かれても、答えようがない。
しいていえばも、頭のすみにひっかかっていた、〔馬入〕の勘兵衛(かんべえ 54歳)と〔高麗寺(こうらいじ)〕の常八(つねはち 35歳)との紛争の仲介をどうつけたものか、解きあぐねていたせいであろう。

戻ると、表戸にはつっかい棒がかけていないばかりか、お三津は脱いだ寝衣を上躰にたぐりよせたまま、長火鉢に寝ていた。

半身をさらしたまま、脚も、丈があまって垂れている布団にそわせていた。
「どうした---? 人が入ってきたら、なによりの見せものだぞ」
「だって、こうしていても、潮が寄せるみたいに、身ぶるいがくるんだもの」
「------」

「あ、またきた。 鏡、みせて---」
平蔵が映してやると、
「ね、そこの唇がうごいてる。見て、見て---さわって---」

裏庭には、沈みが遅くなってきている夕日が差しこんでい、それが鏡に照り映え、にじみでている玉水を光らせていた。

「みだらだけど、神々しい」
「そう、神々しい。お三津は天女に化身したのだ」
さまが化身させたのよ。ありがと」

長火鉢でつくった寝台から降りても、しばらくがみこんで動くことがおっくうそうであった。

平蔵が風呂の焚き口に火をつけ、膳をととのえた。
冷やで呑んでいると、這うようにしてきたお三津が、太腿に顔を伏せ、解いた髪が藻のように膝にひろがった。

やがて、すすり泣きはじめた。

髪をすくように指で背中をさすってやりながら、
「なぜ、泣く」
「ほんとうのおんなの躰にしてもらった、うれし泣きです」
「道はついたのだから、もう、大丈夫だ」

太腿がうなずきを感じた。

「こんなこと、ほかのおんなの人にもやってあげているんですか?」
嫉妬のひびきがこもっていた。
(おんなは一人占めしたがる)
「やるわけはない」
「なぜ、私に---?」
「昨日の朝の組み太刀の型のおさらいを見ているうちに、下腹の奥が熱くなったといったろう?」
「はい---」
「それで、新しい撃ち太刀を思いついた」
「------?」
「お三津は、この方はあまり耕されていなかった。そこを撃つ---」
「------」
「みごとな、受けであったぞ、お三津
「誉められたのかしら?」
「そうだ」
「うれしい」


「明日の朝、おろしたままのこの髪ではお見送りできません。代わりiに、今夜、お名残りを---」


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2011.05.13

本陣・〔中尾〕の若女将お三津(6)

まだ眠っているお三津(みつ 22歳)から離れるとき、ふとんをもちあげると寝衣から乳房がはだけていた。
ややにふくませたことのない桃色の乳頭は小さかった。

吸うとお目ざを求めるにきまっているから、そのまま静かに身づくろいをし、本陣の裏庭から入り、素振りを500回こなした。

朝食をすましたところへ、〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)元締が辰次(たつじ 60歳)を伴い、案内されてきた。

「火盗改メ方の衆は---?」
「きのうの朝、発(た)ちました」
「ご用済みでしたか」

万次郎がいうには、きのうの夕刻、神座村の爺ぃがやってき、お(てつ 25歳)一行を荷運び舟で対岸へ渡したことを白状してしまったから、お咎めがありそうと心配していたと。

「そのことでしたら、爺(と)っつぁんのおもいすごしです。おの本名がおまさということを確かめただけです。おまさは、われの妹分のようなおなごです」

安堵した万次郎が、あすのお発ちのとき、藤枝まで伴をしたいと頼んだ。

「藤枝の元締に、[化粧(けわい)指南読みうり]をいっしょに板行しないかともちかけてみたいのですよ」
「藤枝がのってきたら、掛川の元締にも話をとおし、お披露目枠の権利だけそれぞれがお遣いになればよろしい。江戸へ帰ったら、〔音羽(おとわ)〕の元締から、ご子息へ知恵をつけてもらいましょう」

明朝発ちは六ッ半(午前7時)を約したところで、松造(よしぞう 31歳)が、
「きのう、宿場の主だった旅籠と本陣に、江戸の火盗改メ方が宿泊していないかと訊いてまわっていたのがいたそうです」
道中師の〔野川(がわ)〕の潤平(じゅんぺえ 50すぎ)が執念で追いついたらしい。

不審顔の万次郎に、4日前の府中での一件を説明してきかせると、
「おまかせください」
「命にかかわるようなことだけはしないでほしい」
「承知でやす」

去りぎわに、大井大明神の新しいお守りを、松造の分も渡し、平蔵(へいぞう 37歳)の10年前のを引き取っていった。
「一の鳥居料をご寄進をいただいておると告げたら、禰宜(ねぎ)が神殿に供え、念入な祝詞((のりと)をおげてから下げてくれました」

昼餉(ひるげ)の膳につきそってきたお三津は、松造が小用に立つと、
「長火鉢の立派な蓋ができました。どんなふうに使うか、おもってみただけでも、胸がさわぎ、下腹の芯が熱くなってきてしまいます。八ッ(午後2時)が待ちどうしい」
首に血の気をみなぎらせていた。

「昼間だから、行灯でなく、お天道さまの明かりで鏡に映せる」
「もう、みだら」
しばらく、動けなくなっていた。


訪れると、寝衣に着替え、髷をほどき、たらしていた。
「察しがいいな」

襖も片寄せ、裏庭からの陽光で、行灯よりも明るかった。、
「蓋に下布団をのせる」

「お酒(ささ)は---?」
「五ッ(午後8時)前にはおなごは抱かないという禁則を破るのだから、とうぜん、六ッ(午後6時)までは呑まないという自戒にも目をつむる」
「はい」

しばらく、他愛もないやりとりを楽しんだあと、平蔵が寝衣に手をとおした。
「表の戸締まりは大丈夫か?」
「頭痛がするので、寝(やす)むから、誰もよこすなといっておきました」
「鏡は---?」
「2ヶ。1ヶは自分のみだらな顔をときど映してみたい」
「では、そこに腰をかけ、頭を庭のほうへ、仰向けに寝る。箱枕をあてがってやろう。そのほうが鏡が見やすかろう」

寝たおんなの腰の両側に手をかけ、尻が2寸(6cm)ほど蓋から宙に浮くようにずらした。

膝を曲げて開かせ、鏡に映すと、
「なんだか、そこが宙にただよっているみたいで、初めての感触---」

ちゅうすけの詫び言】たしか、『医心方 房内篇』に、この体位があったはずとコピーを探したが、先日の地震で書棚が倒壊し、書籍と資料が散乱したままで、発掘できない。
あとはご想像いただきたい。
低いところから衝きあげるので、いつもにもました悦楽にひたれると記してあったやに記憶してはいるのだが。

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2011.05.12

本陣・〔中尾〕の若女将お三津(5)

「どんなみだらが教われるの?」
三津(みつ 22歳)が、双眸(りょうめ)をかがやかせながら問いかけた。

風呂からあがった、裸のままであった。
「手鏡はあるか?」

燭台の芯を高め、明かりを強くしてから、手鏡を開いた太股のあいだにかざし、
「自分のものを見よ」

「ああ---」
「両手の指で、割れ目を開け。なにがみえるか?」

三津の声は上ずっていた。
「濡れて、光ってる」

「閉じて、また開け」
肉が重なる小さな音がこぼれた。

自分の指で開いて、離して---くりかえしを鏡でみているうちに、お三津の双眸がすわり、みだらな光になってきた。

「みだら---か」
「すごい、みだら」

「中指を入れてみよ。目を閉じるな」
指がおそるおそる入った。

「中で動かしてみよ」
「みだら---とっても、みだら」

「だして、また、入れよ」
「みだら---」

「濡れた指で、上の豆に触れてみよ」
「これ、みだら。昂まる」

「入れよ。動かせ」
「あ。ここ、みだら」

男の指が乳頭をなぶりはじめたが、鏡は、しっかりとお三津の指の動きを映していた。

指の動きが自然に早まった。

その手を払いのけ、男のものが、入り口に接した。
三津の指がつかみ、導こうとあせるが、先端は、入り口にとまったまま、濡れて光っていた。

「見ているか?」
{みだら、すぎ」

「半分、入るところを見よ」
「見た、みだら---あ、でる。しずく、垂れてる。ものすごく、みだら」

「耕している」
「わかる。感じすぎ」

行為を確かめている自分の声に酔っていた。

鏡で、根元まで入ったところで、お三津はすでに達してい、そのあとは無我夢中の狂態であった。

2度目の大みだらのあと、お三津がしみじみと告白した。
「究めたあとって、頭からもやもやが消え、冴えわたるのだわ」

「明日のみだらのために、長火鉢の蓋を、出入りの棟梁につくらせておけ。暖かくなったから蓋をするのだ、とでもいってな」
「どんな、みだらを教わるのか、興味津々。六ッ(午後6時)までには作らせます」


堪能しつくしたお三津は、それでも左腕を平蔵の下腹に乗っけ、こちらを向いて寝息をつづけていた。

その若さが満ちた顔を眺め、
「妙なものだ」
平蔵は、おのれのヰタ・セクスアリスを反芻していた。

15も齢下の女躰と出事(でごと 交合)をしたことは、なかった。
(そういえば、おまさは11歳下であったが、考えもしなかった)
齢下といっても、お三津は3年も夫と寝所をともにしてきていた。
それでいて、熟れきってはいなかった。

だから、つい、
「耕そう」
などといってしまった。

そういえば、久栄(ひさえ 17歳=当時)は未通で嫁してきたが、あとはみんな、それなりに経験者であり、ほとんど齢上であった。
もちろん6歳齢上ではあったお(りょう 29歳=当時)は、男を入れたのはおれが初めてであったから、半未通というべきか。

参照】2008年11月17日宣雄の同僚・先手組頭[http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/11/post-2888.html] (

その前に性技をあれこれ仕込んでくれたお(なか 32歳=当初)は、12歳年長らしく、教えながら自分もとことんむさぼっていた。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (7)


楽しみつつ深めあっている里貴(りき 29歳=当初)とは、離れていた2年も入れてもう足かけ9年になる。
男とおんなとしてもありながら、人生の盟友といった間がらがつづいている。

37歳ーーー人生の半(なか)ばを過ぎて、ふってわいたように、お三津を耕してやる立場になった。

(あすは、お三津にいってやろうか。うんと齢下のを男にしてやる楽しみもあるぞ、と)


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2011.05.11

川越(かわごし)人足の頭領・安兵衛

「あっしも、足ならしにお伴をいたしやしょう」
川越(かわごし)人足の頭領・〔(すい)天神」の安兵衛(やすべえ 51歳)に会いに、甚兵衛嶋まで行くというと、香具師(やし)の元締の〔扇屋万次郎(まんじろう 51歳)が身支度はじめた。

〔扇屋〕の若いのが、早速に甚兵衛嶋へ報らせに走った。

安兵衛どんをお引き合わせなすった小田原の徳右衛門(とくえもん 59歳)貸元とは、どのようなつながりで?」
しかたなく、平塚の〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 54歳)との20年近いつきあいをかいつまんで打ちあけた。

参照】2008年1月16日[与詩(よし)を迎えに] (27
2008年1月31日[与詩(よし)を迎えに] (37)
2011年4月24日[〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛] () 
2011年4月25日[〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門] (

聞き終えたときには、すっかり身づくろいをすませていた万次郎が、感心したように、
音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 56歳)元締といい、〔佐阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 50がらみ)といい、お武家には珍しいご人徳ですなあ」
「こっちがあまりに世間知らずだから、見ておれないとおもい、助けてくださっているのでしょう。ありがたいことです」

「男が惚れるのだから、おんなはもっとですな」
万次郎が笑ったので、辰次(たつじ 60歳)がお三津(みつ 22歳)とのことを怪しいと勘づいたかとおもったが、そのはずはなかった。
辰次はお三津に会っていなかった。

宮前から大井川筋の甚〔兵衛嶋までは半里(2m)をちょっときる距離であった。
万次郎によると、
「20丁といったところでしょう、足ならしのつもりだから、駕篭はやめておきましょう」

蔵元〔神座(かんざ)屋〕から角樽を求め、松造(よしぞう 31歳)が下げていた。


安兵衛は、川越人足がしめている人足褌(にんそくふんどし)に単衣(ひとえ)の半纏(はんてん)をひっかけた姿であらわれ、
「お大名の前でもこの姿(なり)で通しておりやすんで---」
「寒くおもわれることはないのですか?」
「冬は焚き火であたためておりやす」

小田原の〔宮前〕の徳右衛門からの添え状とともに角樽をさしだすと、
「〔宮前〕のからご用のお手伝いをするように飛脚便もいただいておりやす。なんなりとお申しつけくだせえ」

用件が片づいたことを告げ、江戸から用意して〔荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう 64歳)とお賀茂(かも 45歳)の似顔絵の刷りものを20枚手渡し、見かけたら、どっちの方向へむかったかを陣屋経由で火盗改メ・本役の役宅あて、送ってほしいと頼んだ。

「相手にばれてもかまいませぬが、くれぐれも、ふんづかまえようなどとはお考えになりませぬように---」
「奇妙なお手くばりでやすが、お指図どおにきちんといたしやしょう」

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2011.05.10

神座(かんざ)村の梅吉

爺(と)っつぁんか---?」
舟に荷を積んでいた老爺に声をかけた。

いぶかしげに平蔵(へいぞう 37歳)主従を見つめる梅吉(うめきち 60がらみ)に、
爺っつぁんから教わってきた。ちょっと、話をきかせてくれないか?」
「お武家さんは---?」
「おてつ---の幼な馴染だ」
「江戸の人か---?」
「そうだ」

松造(よしぞう 31歳)が携えていた酒徳利を見せ、舟をだす前に一杯やろう、ともちかけた。
鼻の頭が赤ずんでいる梅吉は、否といわなかった。

相賀(おおか)谷川ぞいを半丁(50m)も遡ったところに、小屋に毛がはえたほどの住いがあった。
「嬶(かか)ぁがおっちんでからは、独りぐらしでよう。なんにもねえが---」
畳もなく、囲炉裏(いろり)ばたに茣蓙(ござ)と荒むしろを敷いだけの板の間であった。

「なかなかに風流な暮らし向きだ」
「風流すぎるがね」
梅吉平蔵の評価に、はじめて笑顔を見せた。

徳利の栓を抜くと、梅吉は湯呑と茶碗をもちだしきた。
3つに注ぎ、平蔵松造が湯呑みをとったので、なみなみとはいった大ぶりの茶碗は梅吉の手にもたれた。

「おてつだが、爺っつぁんは、ほんとうの名とおもうかね?」
「------」
梅吉が茶碗ごしに平蔵を見つめていたが、見返されると目をそらし、
「幼な馴染といいなすったが、おてつさんはお武家育ちには見えなかったが---」
「失礼。行きつけの酒屋の一人むすめで、母ごが早くに亡くなっていたので、われが手習いの手ほどきをしたりして、妹同然にかわいがっていたが---」
「そんな兄貴格のお武家がいたと聞いたことがあった---それがあなたさまでしたか?」

「やっぱり、おまさだ」
おまさ---そういえば、親分がおまさと呼んだような---」
ひとり言のようにつぶやいた。

「親分とは---?」
梅吉か口を抑えた。

爺っつぁん。おまさがあの晩、みんなを案内してここへきたことは察しがついておる。そして、夜があけてから、舟で向こう岸へ渡したこともわかっておる」
「渡したのは、おてつさんと親分ともう一人だけだ」

「それでは、ここで分け前を分配したのだな」
梅吉は黙りこんでしまった。

「なにも、おまさを捕らえようとか、一味をどうこうしようというのではない。おまさのこれからに気をくばっているだけだ」

梅吉がぽつりと洩らした。
「親分は、〔のみ〕の呼ばれていた---」

ちゅうすけのひとり言】『鬼平犯科帳』巻6[剣客]に、

おまさは以前、駿河と遠江一帯を荒しまわっていた盗賊で、
〔野見(のみ)の勝平(かつへい)〕
のもとで、一年ほど〔引きこみ〕をはたらいていたことがある。p92 新装版p98
  
平蔵が江戸へ帰ってみると、〔狐火きつねび〕の勇五郎(ゆうごろう 62歳)から、おまさが一味のなかで不始末をしたから、追放したが、〔瀬戸川(せとがわ〕の源七(げんしち 66歳)が、〔野見のみ)〕の勝平(かつへい)お頭(かしら)へつなぎをつけたようだとの文がきていた。

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2011.05.09

本陣・〔中尾〕の若女将お三津(4)

「若後家どの。引きかえすなら、ここからだが---」
耳元へ息を吹きこむようにささやいた。

平蔵(へいぞう 37歳)のものに触れていたお三津(みつ 22歳)が、
「引き返すなんて、できない」

湯から2人は、そのまま布団に伏していた。

「われには、内室と子が4人、ほかに割りないことになっているおなごがいる」
「だから、引き返せ? ここが、進め、すすめって---」
「だから、進んでいいかと、確かめておる」
「いいにきまってます」
「あと、1ト晩か2晩だぞ」

上にまたがったお三津が、おもいどおりに導き、腰をゆすってきた。

若後家のしおらしさの芝居っ気などとっくにかなぐりすてた、熟;れきる齢ごろの女躰の求めぶりであった。


終り、
「なぜ、こんなことになった---?」
さんが、今朝、裸の上半身をお見せたからです。棒を振り回すたびに、腕や肩の肉がぴくびく動のくのに、私も感じてしまって---」
「強(こわ)もての若女将との評判をとっているのに---」
「これからも、世評どおりです」


「鎮めてほしくなったら、江戸へくだります」
「江戸は遠いぞ」
「かまいません---10日や20日」
(与板の廻船問屋〔備前屋〕の後家・佐千(さち 34歳=当時)も、こらえきれなくなったら、江戸表へでてくるとかいっていたが、閨房でのそのときのおんなの躰がいわせている科白かもしれない)

参照】2011年3月20日[与板への旅] (16

「不思議だな」
「なにが---です」
「お三津どのほどのいいおんなぶりのこの躰をあきらめた、ご亭主どののことよ」
「いい躰---?」
「敏感だし、しめつけるし、潤いもこんこん---」
さんだからです。認めてくださって、天にものぼるほど、うれしい」

「耕せば---」
「耕して---」

口をしめらせたい、という平蔵のために、お三津は裸のまま、酒と水をとりに立ったが、その仕草は自信にみち、うきうきしていた。

22歳という若さの強みであり、悦楽のとば口に立っているおんなの欲求のはげしさでもあった。

座りこんで酒を傾けてる平蔵の横に寝ると、
「もっと、いってください」

乳首に触れ、
「小さいが、すぐに反応し、堅くなる」
「はい、求めてる」
下腹に這わせ、
「熱くなっている」


「もっとみだらになって、いいおんなぶれ」
「みだら、って---?」
「ここへきて、大股をひらけ」
「こう、ですか。あ、さんの目つき、みだら---」
「そう、大みだら---だ」
「うれしい。こんな、みだら、初めて---」

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2011.05.08

本陣・〔中尾〕の若女将お三津(3)

60という齢になるまで本陣というものの中へ入ったことのなかった辰次(たつじ)は、めずらしいものでも見るように部屋のあちこちに視線をまわしていた。

一段落したので、おてつを連れて対岸の牛尾の塩っけの潮湯へ通ったときに、大井川のどこらあたりを渡ったかを確かめた。

「幼な友だちが、相賀(おおか)谷川が大井川へ落ちあう神座(かんざ)村の南はずれで荷運び舟をもっているので、乗っけてもらってやした」
「昔友だちといえば、爺(と)っつぁんも神座(かんざ)村の生まれかえ?」
「へえ」

蔵元の〔神座屋〕も、もとはといえば神座村で大井川の上流の水をひいて酒造りをしていたが、五代前の主が嶋田宿へ移し、大きくなったのだと。

「荷運び舟の爺(と)っつぁんの名を聞かせてもらえるかな?」
梅吉(うめきち)っていいやす」
爺っつぁんところで、飯くったりしたことは---?」
「気のまわるおさんが、商売ものの酒徳利をさげてきていてくれやしたから、いつでも、くつろいでやした」


夕餉(ゆうげ)は松造(よしぞう 31歳)と2人でとった。
酒は、平蔵(へいぞう 37歳)は〔神水(じんすい)〕の冷や、松造は燗。
三津(みつ 22歳)は、2階に部屋をとっている三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)と古室(こむろ)忠右衛門(ちゅうえもん 32歳)に酌をしついでに話しこんでいたのであろう。

「この宿の滞在が2,3日、延びるかもしれない」
「2,3日で、お役目は果たせおわるのでございますか?」
「公けのほうは、きょうの昼間で終わったも同じだが、われの疑念が晴れておらぬ」
「殿のお仕事が片づくまで、何日でもお使いくださいますよう」
「待たせてすまぬと、お(くめ 41歳)に謝っておいてくれ」
「なにをおっしゃいますことやら---」

本陣・〔中尾(置塩)〕藤四郎は格式が高く、旗本の供の宿泊は別の旅籠ときまっていた。


林入寺の五ッ(午後8時)の鐘を、平蔵は本陣脇の暗い御陣屋小路で聞き、苦笑した。
つづいて、〔中尾〕が拍子木を打ち、五ッを報らせたのが聞こえた。

(おんなの家を訪れるというのに、昂ぶらないのはそれだけ齢をくったということか)
家は、すぐにわかった。
戸には心張棒(しんばりぼう)がかってなく、待っていたようにするりと開いた。

若やいだ家具の部屋であった。
三津は着替えてはいず、若女将の着付けのままであった。

「嫁入れしたときにあつらえたものを、縁切れになってそのまま持ちかえり、本陣には入れるところもないので、ここを買い、納めました。おかしいでしょ?」
「若女将の住まいには見えない」
「なんに見えますか?」
「若後家の部屋---」
「あ、それ、いい---では、若後家が、お武家さまにお願いをする場---」
「ご所望のものは---?」
「とりあえず、お酒(ささ)をおつきあいください」

縁切れでここへ移ってから、ととのえてものはこれだけという新しい長火鉢の角をはさんで隣あって座り、酒になった。

平蔵の冷やに2,3盃つきあい、
「着替えましょう」
平蔵の前で地味派手な仕事着を脱ぎ、桃色の寝衣をまとい、蹴だしをはずした。

平蔵にも、風呂ができているから着替えるようにいい、今朝、とつぜんに決まったことなので、男ものの寝衣の用意をしていない、本陣の浴衣でお許しをと、ひろげた。

湯殿で裸になると、3年も夫に抱かれていたとおもえぬほど、どこの肉づきもしまってい、白くはないが肌に艶があった。

「若後家どの。背中を流して進ぜよう」
洗い場で糠で背中の洗いっこをしたとき、ちらっと、19年前に芦ノ湯の離れ座敷の湯で、こんなことを人妻であった阿記(あき 22歳=当時)とたわむれたことを思い出した。
(あのとき、おれは18歳。19年も前のことだ。このほうはまったく大人になっておらぬ)

参照】2008年1月2日~[与詩(よし)を迎えに] (13) (14

三津がまたいで腰置きの平蔵の太股へ乗ってき、乳頭を唇へ押しつけた。
,尻を抱き、小指で尻の穴をくすぐった。
尻があがったので太股を開き、隙間から臀部(しり)越しに茂みをまさぐると、お美津が誘いかけるように、くすりと微笑んだ。

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2011.05.07

〔神座(かんざ)屋〕の伊兵衛(2)

小僧の千吉(せんきち 14,5歳)を連れて〔神座(かんざ)屋〕を出るとき、松造(よしぞう 31歳)に、〔扇屋〕の辰次(たつじ 60がらみ)に、手がすいていたら、本陣へ足労かけたいと告げにいかせた。

蔵元〔神座屋〕と置屋〔扇屋〕とは、1丁(100mほど)と離れていない。 

出迎えたお三津(みつ 22歳)に、千吉が丁寧にあいさつをした。

部屋へ戻る前に、三宅古屋の2同心に、おびえさせては本音がきけないからと断った。
千吉は、三津どのとは顔なじみか?」
「酒をとどけにくるときに、あいさつをしております」

「そうか---あれだけの美形だ。いろいろ、噂を耳にしておろう?」
「若女将さんにかぎって、まったく、噂がございません」
「やけに肩をもつではないか。さては、惚れたな?」
「お武家さまこそ、若女将さんにご執心のようございます」

「そうだ、まさに《ホ》の字でな---」
「せっかくでございますが、お武家さまに勝ち目はございません」
「はっきりいったな。しかし、お前の目は正しい。あきらめるとしよう。はっ、ははは」
(これで、お三津の名誉は守られた)

千吉が、それみたことかといわんばかりに、鼻をうごめかした。
「ところで、《ホ》の字の話のつづきだが、おてつに《ホ》の字であったのは、お前か、伊兵衛旦那か?」
千吉が下をむき、首すじを赤らめた。
男の子も、14歳ともなれば、おんなの裸躰を妄想する齢ごろだ。
(げんに、おれはお芙佐(ふさ 25歳)に男にしてもらった。悲恋というより、破恋ではあったが--)

「旦那さまは、遊びと酒がすぎて、おなごに用のないお躰です」
「用がないとは---?」
「役に立たないです」
「どうして知っておる?」
「前にいた女中が言っていました」
「何年前だ---?」
「1年近く前です。そのことを口にしたので、首になりました」
(身勝手ではあるが、男なら、とうぜんの処遇だ)

いまでいう糖尿の気による、起立不全ででもあったのであろう。
(そういえばも、かすかに薬草の匂いが口からもれていたようだ)

伊兵衛旦那のことは口が裂けても洩らしてはならぬ、おてつの入浴をのぞき見たひとことをしっこく訊かれたとでも応えておけというと、図星だったらしく、口ほぽかんとあけて帰っていった。
店にでる前に客商売のおんなが湯をあびることは、常識のうちであった。

千吉が出たのと入れ違いにお三津がお茶をささげてあらわれた。
「おっつけ、客がくる」
媚(こび)をふくんだ笑顔で、紙片を差し出した。
地図であった。
本陣・〔中尾(置塩)〕の東端の御陣屋小路の北東に印がついていた。
「ないしょの独り住いの家です。五ッ(午後8時には帰っております。風呂もあります」

辰次が案内されてくると、お三津がなに食わぬ、若女将の表情ででていった。


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2011.05.06

〔神座(かんざ)屋〕の伊兵衛

「ここから押しいったようです」
〔神座(かんざ)屋〕酒造の主人・伊兵衛(いへえ 54歳)が台所口の板戸を示した。
どう見ても板戸には、傷がなかった。

平蔵(へいぞう 37歳)は、板戸の点検は三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)と古室(こむろ)忠右衛門(ちゅうえもん 30歳)の2人の同心にまかせ、土地(ところ)の岡っ引き・宇三(うぞう 38歳)や伊兵衛の表情をさりげなく観ていた。

2人の同心が了解したところで、
「酌とりのおてつ(25歳)が寝起きしていた部屋は?」

奉公人が食事をする板の間つづきの3畳の小部屋がそうであった。
に与えられる前は、お膳や食器類をしまっていたらしい。
湿ったにおいが消えていない。
(こんなところでは、腹のややのためにもならなかったろう)

平蔵は、〔盗人酒屋〕の中2階のおまさの部屋をおもいだした。
天井は高くはなかったが、6畳を独占していた。

「昼間もここに---?」
入りきれない三宅同心と古室同心は、入り口から覗いただけで、いまは空(から)になっている部屋には興味をしめさなかった。

隅から隅まで丹念に検分した平蔵が、畳と畳のあいだにはさまっていた縫針をほじくりだした。
「おさんは、古着でややのものをよく縫っていました」
外からのぞいていた14,5歳の小僧が、手柄顔で告げた。
(そういえば、〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 40がらみ=当時)が、おまさ(10歳=当時)はお(こん 27歳=当時)から針仕事をならっているとかいっていた)

参照】2008年5月3日〔盗人酒屋〕の忠助] (
2008年5月5日~〔おまさの少女時代] () () () 

しかし、針は偶然に落ちたものであろうか?
なにか合図のつもりではさんだのであろうか?

{まさか、おれが出張るとはおもっていまい。誰への書置きであろう?)
平蔵は、針をなんでもないふりで衿へ差した。

平蔵たちは客間へ通された。
盗賊たちが、家族や店の者を集め、縛りあげ、猿ぐつわをかませた部屋であった。

の部屋から3部屋ほど離れていた。

「おてつも入れこまれたかのかな?」
平蔵の問いかけに、岡っ引きの宇三(うぞう 38歳)が伊兵衛の顔色をうかがったのを、平蔵は見のがさなかった。

「そういわれて気づきましたが、おは連れてはこられませんでした」
「おがいなくなったことは、いつ、わかったのかな?」

「夜があけて、朝餉(あさげ)にでてこないで、小僧の千吉(せんきち)が声をかけにいくと、部屋はも抜けの空であったのです」
千吉を呼んでもらおうか」

さきほど、おの部屋の入り口で、縫いものをよくしていたといった小僧であった。
千吉には、別に訊くことがあるから、本陣へいっしょにきてもらおう」
また、宇三伊兵衛の顔色をうかがった。
(けっこうな小遣いをもらっているようだな)

伊兵衛は50すぎにしてはいささか太りすぎの気味であったが、さすがにやり手の蔵元の主人らしく、落ち着いていた。

金蔵の鍵をあけないと、奉公人を殺(あや)めることになると脅されたので従ったと、ゆっくりした口調で告げた。
人の命は、500両余(8000万円)には替えられませんと、他人ごとのようにもいった。
「太っ腹だな」
平蔵が感心したふりでいうと、
「生家の近くの大店へ賊がはいったとき、金蔵を開くことを拒んだためにも家族と店の者が3人、命をうしなったことがありました」

「その盗賊も尾張ことばだったろうか?」
「まだ、幼なかったので、そこまでは---」
「40年も昔ことか---」
「さようでございます」

「ところでご当主。奪われた500両の始末はどうつけるつもりかな?」
「それほどのことで傾く身代でございません。それに、実家(さと)から見舞い金も参ります」
「豪気なことよ」

これしきの事件(こと)で、火盗改メが出張ってくることのほうがおかしい、とでもいわんばんりの表情であった。、

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2011.05.05

本陣・〔中尾〕の若お女将・お三津(2)

三津(みつ 22歳)が膳を下げ、うれしげに腰を微妙にゆすっているうしろ姿を見おくった平蔵(へいぞう 37歳)は、昨夜の書簡に追伸を入れるをことをおもいついた。

話を聞いたのが14年も前のことなのでしかとは覚えていないのだが、〔狐火きつねび)〕のお頭が、小浪どのと知りあった、浜松の銘酒〔天女の松〕の蔵元へ押し入ったときの配下の衆で、その後に一味をぬけ、いまは首領になっている尾張生まれの者がいたら、その名をお洩らしくださるわけにはいくまいか。
決して、悪いようにはしないつもりである。

参照】2008年10月29日[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (

元の封書を、もう一枚の奉書紙で包み、その中に追伸をいれたところで、お三津が、湯がころあいになったと迎えにきた。
浴衣に着替えていた。
(いっしょに浴びるつもりか?)
思ったが、うっかり訊き、「そうだ」と応えられてひっこみがつかなくなるので、
「あとで、この手紙を飛脚屋へ頼んでくれまいか。私信ゆえ、お上の定飛脚はつかえない」
「京のいいお人へですか?」
「そうではない」
わざと、素っ気なく言った。

脱ぎ場で帯をといている平蔵の横をぬけ、湯の加減をたしかめ、ふりむき、笑顔でうながした。
平蔵が躰を沈めると、浴衣の裾を帯にはさんで白い足をさらし、
「元結(もとい)を切りましょう」
脊を向かせ、鋏(はさみ)を使い、髷先(まげさき)を束ねていたものを切り、取り去った。

「お洗いします」
湯桶をでた平蔵を腰置きに向うむきに坐らせ、肩までとどく台に小ぶりな盥を乗せ、薬缶(やかん)からあたためた洗い湯を注いだ。゜

洗い湯は、溶かした布苔(ふのり)にうどん粉をまぜ、脂(あか)ねばりおとしによく効くといわれているものであった。
平蔵の髪を洗い湯に漬けては、両掌でもむようにして洗っていった。
(おしゃまで世話焼きなところも、おまさによく似ている)

「大名方のおいいつけで、用具をそろえているのです」
「大名たちのも、お三津どのが洗ってさしあげるのかな?」
ぴしゃと肩が叩かれた。
「冗談ではありません。長谷川さまだから洗ってさしあげているのよ」
平蔵が振りむこうと動いたら、また叩かれ、
「真湯でゆすぐまで、動かないで---」
「失礼した」

乾いた手拭で丁寧に水気がきられ、くるくるとまかれ髪は新しい手拭につつまれ、額の前でむすばれた。
「お疲れさまでした。こちらをお向きになって---」

高台と盥は片されてい、目の前にいたのは、低い腰置きに腰かけた膝がひらき、衿がはだけて乳房をこぼしているお三津であった。

指でつまんだものを平蔵に示し、
「お髪(ぐし)の中からでてきました」
ちぢれた短い毛であった。
「そんなはずはない---」
「ほら、赤くなった---」
「濡れ衣(ぎぬ)だ」
「はい。私のです」
「こいつ」
露出していた乳頭を押した指がつかまれ、口にいれら、舌がからんできた。

膨張したものはにぎらせておき、
「酒は六ッ(午後6時)まで口にしない。、おなごは六ッ半(午後7時)をすぎるまで抱かないことにしておる」
力がこもり、
「五ッ(午後8時)ならよろしいのですね?」
(生活(たつき)に憂(うれ)いの少ないおんなの心がむくところが「性」とは、よくしたものだ)

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2011.05.04

本陣・〔中尾〕の若女将お三津

早朝、寝不足ぎみであったが、太棒を借り、庭の隅で双肌を脱ぎ、500回の素振りをこなし、一刀流の組み太刀の型を終えたころには、頭が冴えていた。

三和土(たたき)の通路の出口で、若い女中が絞った手拭をわたしてくれた。
先刻から、素振りを見、待っていたらしい。
「すまぬ」
胸から脇の下をぬぐうと、
「お背中をお拭きいたします」
手拭をうけとり、手桶の湯でしめし、しぼりなおして後ろへまわった。
肩をやわらかい掌で抑えてから、脊の汗ををまんべんなくぬぐった。

ふりむいて礼をいうと、顔をあからめ、
「明日もお稽古なさいますか?」
「うむ。そなた、名は---?」
三津(みつ)と申します」
「おかげで、やっと目が醒めた。醒めた目で見ると、若さがみなぎっておるな」
受け口と黒い双眸(りゅうめ)が、どこかおまさに似ていた。
おまさに、成熟したおんなの色気を発散させるとこうなる---と、つい、おもった。

尾張藩、紀州藩の参勤交代の時期には半月から1ヶ月ほど早かったから、客ははほとんど小人数の公用の上り下りの武家だけであった。
川止めがないから、3泊、4泊というのは、平蔵(へいぞう 37歳)と建部組(にえ) の同心2人だけのようであった。

その分、本陣側の者たちも人数を減らしていた。
三津が残り組に選ばれているのは、それだけ気がきいているからと、平蔵はふんだ。
顔もととのっていた。

朝餉(あさげ)の給仕もお三津であったから、気やすく話しかけた。
「お三津どのの実家は、この宿の近くかな?」
含み笑いをして、応えなかった。

「この宿場近くの育ちなら、蔵元の〔神座(かんざ)屋〕のことでなにか耳に入っていよう、聞かせてほしい」
長谷川さまは、火盗改メ方のお人ではないのに、なぜ、〔神座屋〕さんの事件におかかわりあいになられておられるのでございますか?」
「われは西丸といって、お上のお世継ぎがお住まいになっておるほうの城の、書院番士でな」
「存じております」
「ほう---」

「御陣屋からの宿泊の書状に記されておりました」
「〔中尾〕では、そのようなものまで使っている者へ報らせるのかな? ずいぶんと念のいっていることよ」
三津はまた微笑んで、
「私は、使われている者ではございません。〔置塩〕のむすめでございます」

平蔵はおどけて座りなおし、
「これは恐縮。〔置塩〕家の姫、お手ずからの給仕の朝餉とは---」
箸を置き、深々と頭をさげた。

三津もすこし下がり、額が畳につくほどに下げ、
「殿方から、姫とお呼びいただいたのは初めて---うれしゅうございます」
2人は、声をそろえて笑いあった。

三津は、平蔵が箸を置くとき、口をつけている先のほうを手前にしたのを不思議がった。
4年前に勘定見習・山田銀四郎善行(よしゆき 36歳=当時 150俵)から教わり、以後、ずっとそうしていると告げると、お三津はうなずき、
「礼にかなっております」

参照】20101031~[勘定見習・山田銀四郎善行] () () () (

「失礼---」
腕をのばし、平蔵の膳から箸と箸置きをとり、先端を口へ入たのち、微笑んだ。

平蔵がうなずくと、も一度、口にふくんだ。
こんどは長かった。
平蔵が使っていたところをゆっくりと舌で愛撫し、箸置きへ戻した。

長谷川さま。お箸を清めましょうか、それとも---」
「そのままでよろしい」

受けとった箸の先端をふくみ、平蔵も舌でまさぐった。
三津の口紅の味がした。
そのしぐさを息をつめて瞶(み)つめ、首筋から頬へかけて上気したお三津が、ふっとため息をもらし、
長谷川さま。私は、〔塩置〕の三女ですが、出戻りでございます」
「ほう---」
「掛川城下の本陣に嫁いでおりましたが、3年があいだ、ややができず、ほかにややをつくられまして---」

「まだ、20歳前とおもっていたが--」
「22歳でございます」

「掛川には、肴(さかな)町に〔花鳥(かちょう)〕という料亭があったな」
「藩のご重役につながるお店ですね」
三津の言葉遣いがかすかに変化し、ぞんざいになった。

平蔵は、13年前、川がみおろせるしもた家で、お(りょう 30歳=当時)が演じてくれた孔雀という性技をおもいだし、
(朝っぱらから、不謹慎だぞ)

参照】2009年1月24日[銕三郎、掛川で] (

「つい、話しこんでしまった、朝餉に、これほどの暇をかけては、宿が迷惑---」
「いいえ、久しぶりで楽しめました。この箸は記念に、大切にしまっておきます」

「お三津どの。髪結いを呼んでもらえまいか?」
「承りました。でも、その前に湯殿をしつらえますから、小半刻(こはんとき 30分)ほどお待ちになって---」


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2011.05.03

おまさの影(4)

その夜、珍しく、平蔵(へいぞう 37歳)は寝つかれなかった。

ああでもない、こうでもないと、考えが堂々めぐりをしたのであった。

蔵元〔神座(かんざ)屋〕の引き込みをつとめたおんなは、おまさ(25歳見当)とみてほぼ間違いない。

一味の首領は、尾張の男であろう。
尾張の誰であるかは、江戸へ戻ってから、〔銀波楼〕の女将・小浪(こなみ 44歳)にあたってみるなり、火盗改メ・本役の(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳)のところで、筆頭与力の脇屋清助(きよよし 54歳)に記録を洗ってもらえばわかるかもしれない。

しかし、それがわかると、おまさを手配することになりかねない。
(おれは、おまさが磔になって処刑されるのを見すごすことができるであろうか)

法の決まりからいえば、仕置き(政治)の側の禄を食(は)んでいる者として、おまさを見のがすのは道理に反する。
しかし、心情としては、捕縛にかかわりたくない。

では、あすの〔神座(かんざ)屋〕の聞きこみを手かげんするのか? いや、そんなことをすれば、三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)や古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)が気づくかもしれない。

2人が気づかないまでも、岡っ引きの宇三(うぞう 38歳)は、おれが〔扇屋〕の辰次(たつじ 60歳)から聞き出したことを嗅ぎつけ、陣屋へ注進するであろう。

評定所へ呼びだされ、糾問されたら誤魔化しきれるものではない。

では、〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)と辰次に口どめを頼むか?
いや、そういう小細工は、かえって危険だ。

起きあがった平蔵は、行灯の芯を高め、京都の河原町通り米屋町東入ルの高級骨董の〔風炉屋}を隠れ蓑(みの)にしている〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆえごろう 62歳)あてに書状をしたためはじめた。

10年間の無沙汰を詫びたあと、お(しず 享年26歳)の冥府行きのとにはわざとふれず、前にも尋ねたとおもうが、妹同然のおまさの安否を気にかけていること、じつはある事件の手伝いで嶋田宿にいるのだが、おもいもかけず、おまさ又太郎(24歳)との妙な噂が耳にはいった。
おまさ が〔狐火〕一味にいるのであれば安心なのだが、どうも、そうではなさそうだ。
おまさについては、兄代わりのつもりでいるので、いま、おまさはどこのお頭のところにいるのか、南本所の屋敷へしらせてはもらえまいか。

幾度も筆を休めながら、概略、こんなことを、誠意をこめて綴った。
返事がくるとはおもっていなかったが、書いているうちに気が鎮まった。

封をしてから、書簡を布団の下へ入れ、冷やの寝酒をあおって床についた。

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2011.05.02

おまさの影(3)

「あのこが、大それたことをするはずがありやせん」
引きあわされた、60がらみの白髪も少なくなっている老爺・辰次(たつじ)は、水洟をすすりながらおてつ(25歳見当)という酌取りをかばった。

大井大明神(神社)の氏子総代仲間の蔵元・〔神座(かんざ)屋〕の主(あるじ)・伊兵衛(いへえ 54歳)から、妙な虫がつかないように気くばりしてほしいと頼まれた香具師(やし)の元締・〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)が、その役目をふったのは、男としての精気がまったく失せたように見える辰次であった。

(置屋の主に若年増の虫よけを頼むなんざあ、猫にかつ節だあな)
辰次は笑いながら、毎日のようにおてつが働いている店へ顔をだした。
といっても、齢のせいで酒を1合も呑むと飯台に臥せって居眠りをはじめていたが。

それでも昼間、腹のややにいいからと、大井川の対岸の牛尾村の海水の温泉に、おてつを連れていったりして、まるで孫むすめを可愛がっているようであったと。

「それで、家族のことを話したかな」
「母親は幼いころに逝き、父親もおてつが10代の半ばすぎにみまかったが、兄が一人---」
「兄が---?」

「その兄は、家をでていったきりだと」
「ふむ---」

「好きな男ができたが、事情があって添えなかったので、つい、手近の男に身をまかしたが捨てられ、嶋田宿で行き倒れたところを、〔神座屋〕さんに救われたと話していやした」

「言葉に、尾張なまりがあったかな?」
「ありやせん。ときどき、上方なまりがでることはありやしたが---」

辰次どんの見たてでは、生まれはどこと---?」
「西ではありやせん。東---それも箱根からむこう---」
「ふむ---」
「お伊勢まいりの男たちの話しぶりに似ていやしたから、ひょっとして、江戸---」 

「おてつというのは、ほんとうの名とおもうかな?」
「それが、あるとき、奇妙なこといいやした。生まれるややが男の子であったら、てつさぶろうまたたろう、おんなの子ならあきとつけたいともらしたことがありやした。本人がおてつで、子どもにてつさぶろうという名は妙だと、あとでおもいやした」
てつさぶろう---」
てつさぶろう---まちがいなく、おまさだ。またたろう---〔狐火きつねび)〕の勇五郎のところのお(きち 享年38歳)が産んだ子が又太郎といったような---。すると、添えなかった相手というのは、又太郎か)

参照】2010年11月29日~[おまさと又太郎 ] (1) (

辰次が引きさがると、酒と膳がはこばれた。

「〔神座屋〕さんが造っているいちばん上品(じょうほん)の〔神水(じんすい)です。江戸へも菱垣(ひがき)船で下っておりやす」
すすめる万次郎に、平蔵(へいぞう 37歳)が、
「元締。甘えさせていただいてよろしいか?」
「なんぞ---?」
松造(よしぞう 31歳)は燗が好みですが、拙は銘酒は冷やを所望いたしたい」
「お易いこと」
手を打ち、若いのに、冷やをいいつけた。

長谷川さま。互いのあいだがらです、なんでも遠慮なく申しつけくだされ」
「かたじけない」

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2011.05.01

おまさの影(2)

(お(てつ)はおまさであろうか。おれの遺跡前の銕三郎(てつさぶろう)の「」のつもりで「てつ」といったのではないか。おれへの呼びかけ---なにか困ったことでもおきたか? それならば、本所の屋敷へくるはずだが。まさか、久栄(ひさえ 30歳にこだわったのではあるまい)

本陣・〔中尾(置塩))藤四郎方から大井大明神(神社)脇の置屋〔扇屋〕は7丁(800m弱)と離れてはいなかった。
そのあいだ、おまさの思い出にふけっていた。

平蔵(へいぞう 37歳)が京都にいるあいだに、〔鶴(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年=51歳)が歿した。
おまさは18歳のはずであった。
ということは、平蔵がしっているのは17歳までのおまさであった。

そういえば、10年前のあのときでも、おまさは5尺2寸(1m56cm)はあった。
父親の忠助は、〔通り名(呼び名とも))の〔〕のとおり、痩せて脊が高かった。
それで、
おまさは母親の血を引いているのかな)
おもったが、5歳のときに死別したと聞いていたので、泣かれては困ると、口にだしたことはなかった。
もっとも、久栄によると、血の道がとおっておんなとしての躰になると、躰型が変わるものらしい。
おまさちゃんの脊がのびたのは、そのため---)
と、こともなげにいっていた。
10代前半のおまさは、ぷっくりとしていたが、別れのあいさつをしたときには、一人前のむすめらしく、すらりとした躰型になっていた。

「殿---」
提灯をで足元を照らしながら従っていた松造(よしぞう 31歳)が袖を引き、左手の横道に平蔵を押しこんだ。
5,6:軒先の醸造元〔神座(かんざ)屋〕から、蔵元の者らしい中年男に送られてでてきたのが岡っ引きの宇三(うぞう 38歳)らしいと、耳元でささやき、提灯をそばの天水桶の横へかくした。

2人がひそんでいる横道の前を通りすぎたのは、まぎれもなく、宇三であった。
「なにを告げに行ったのでしょう?」
「明日になれば、分明するさ」

遠ざかったとおもわれたころ、本通りへ出た。
平蔵が羽織袴姿の2本差し姿であったから、武家の少ない嶋田宿の横道にはふさわしくなかった。

置屋〔扇屋〕の本宅用の玄関は、露地の側にあった。
〔神座屋〕から1丁(100m余)あるかないかであった。

あたり一帯を取り仕切っている元締の万次郎(まんじろう 51歳)は、齢を感じさせない、黒く太い眉の精悍な風貌の主であったが、双眸(りょうめ)は笑みをたたえているように細めていた。

手みやげがわり---と懐紙に包んだ1両を、こともなく受け、そのまま長角火鉢の上の神棚へ供え、
「明日にでも、大井の社の、一の石鳥居の建て替えに、長谷川さまのお名で寄進させていただきます」
拍手をうって拝んだ。

大井明神社の氏子総代の一人でもあるのであろう。


_360
(大井神社一の鳥居)


座り直し、
音羽(おとわ)の元締のところには、いま、息子を修行に預けております」
重右衛門(じゅうえもん 56歳)どんから、さすがに成長が早く、あと1年もおかずにお戻しすることになろうと聞いております」
「なにが成長なものですか。〔化粧(けわい)読みうり〕のこともまだ習得しきっておりませんわい」
「〔化粧(けわい)読みうり〕のこともご存じでしたとは---?」
音羽の元締によると、あれの板行により、元締衆のシマ争いが消えたとか、そのことがなによりの結実であったと---」

話しながら、平蔵の袴の結び帯の右前に通されていた大井大明神のお守りに目をとめ、

_150_150_2

「いつ、お下(さ)げを---?」
「10年前に京へ上りました途次に参詣させていただきました折りにお下げを受けました。このたび嶋田へのご縁ができたので、明日にでも返納し、新しくお下げをとおもっております」
「それはご奇特。して、このたびのご用向きは---?」

「元締のところの若い衆で、〔神座屋〕の呑み屋にいたおてつとやらいう酌取りと親しかってのがいたら、ぜひ、話しを聞きたいと存じまして---」

うなずいた万次郎が手を叩き、顔を見せた若いのに、
(たつ)を呼んできな」


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