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2011年6月の記事

2011.06.30

おまさのお産(3)

使いの者を佐倉藩上屋敷へ出そうとしたところへ、西丸・若年寄の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 36歳 与板藩主 2万石)から呼び出しがかかった。

ご用部屋の控えの間へ伺候すると、井伊若年寄が顔をほころばせてあらわれ、
「申し忘れたというか、同朋(どうぼう 茶坊主)の口伝えでははばかられることでな」

なにごとかと改まると、
「いや、些細なことじゃ。耳を貸せ」
佐倉侯(堀田相模守正順 まさあり 38歳)は、8男10女の第11子だから、そのような子福家の家臣にありがちな複雑な派閥があることをこころえおくように、との助言がささやかれた。

「承りました。こころして処し、決してご迷惑が及ぶようなことはいたしませぬ」
「予のところは、第一子の予一人きりであったから騒動はおきなんだが---」
また、声をひくめ、佐倉侯は上に異腹の男子が4人もいたようだから、妾腹同士の勢力争いも尋常ではなかったと伝わっておる、と笑った。

さて、指定された時刻・七ッ半(午後5時)に藩邸で案内を乞うと年寄格(重役)の佐治茂右衛門(もえもん 45歳)が待っており、
「殿もお目どおりをくだされる」

下城してくつろいでいたらしい佐倉侯が、珍奇な動物でも見るような目つきで平蔵(へいぞう 37歳)をながめ、
甲高い声で、
与板侯より盗賊追捕の名手と聞きおる。佐治の申し状を解決してやってくれ」

「あ。佐倉侯に申しあげます。お願いごとであがったので、手前がご城下へ出向くわけではございませぬ」
「さようか。ま、あとはろしゅうに、な」
興味が消えたらしく、表情もかえずに座を立った。

平伏から頭をあげた佐治年寄格が、
「頼みごととは?」

家の者が、酒々井(しゅすい 現・しすい)生まれといっていたかつての手習い子がややを産んだと聞き、祝いものを届けてやりたいといっているが、その生家がわからない。貴藩の郡(こおり)奉行どのから村長(むらおさ)たちへ通じておいていただきたいと、意図を告げた。

「あいわかった。手くばりいたそう。ついては、当方の相談も受けられよ」
この一年ほどのあいだに6件おきた奇妙な盗難について、犯人の見込みをつけてもらいたい。
奇妙なとは、家人が気づかないうちに手文庫とか違い棚の金銭がけむりのように消えている事件であると。

「町奉行所が聞きとった被害の経緯の写しは、このとおり---}
薄い帳面を押しつけられた。

「読ませてはいただきますが、このこと、西丸の若年寄・与板侯を通して拙のお(番)頭・水谷(みずのや)伊勢(守勝久 かつひさ 52歳 3500石)さまへお申しこしおきくだされますよう---」

今後のこまごましい連絡(つなぎ)役として、用人付きの志田数弥(かずや 30歳)が引きあわされた。


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参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (

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2011.06.29

おまさのお産(2)

いつもなら昂ぶりがひくと、身づくろいをととのえてい自室へ引きあげる久栄(ひさえ 30歳)が、その夜にかぎって離れなかった。

考えこんでいるふうなので、
「どうした? 珍しいではないか---」

横ざまになり、平蔵(へいぞう 37歳)の腰に手をのせ、
「独りっきりでお産をした、おまささんが可愛そうです」

向きあった平蔵久栄の乳首をなぶりながら、
「困れば、なんとかいってくるであろうよ」

「いいえ。おまささんは、殿さまに迷惑がおよんではいけないとおもいこんでいるのです」
「迷惑---?」
「そうでございましょう?」
「しっていたのか?」
「妻でございます」
「うむ」

抱き寄せた。
「私、酒々井(しゅすい)、とやらへ出向いてみてもよろしゅうございますよ」
「突然、なにをいいだすやら---」
太股へのびた平蔵の手をおさえ、
「本気です。いけませぬか?」
「一と晩おいて、話しあおう」

甘えて、
「あら、明日のご出仕にさしさわらなければおよろしいのですが---」
「いやか---?」
「いいえ、うれしゅうございます」


あくる朝---。

出仕を見送った久栄は、だれの目にもうきうきしているように映った。
辰蔵だけが、ひそかに舌うちし、
(まるで20代に戻りでもしたかのような)
胸のうちでつぶやいていた。

いずれ明かすことになるが、辰蔵の嶋田宿での体験は、吉で終わらなかったらしい。

登城した平蔵は、同朋(どうぼう 茶坊主)に、西丸・若年寄の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 36歳 与板藩主 2万石)に、
「寸時、お割きいただきたい」
伺わせた。

ご用部屋の控えの間で待っていると、気さくにあらわれ、
「その後、賊は出現しないようだ」

去年の冬の入り口に越後まで出向き、盗賊・〔馬越まごし)〕の仁兵衛(にへえ 30がらみ)一味を二度と与板へ戻れないように手くばりした。

参照】2011年3月5日~[与市への旅] () (2 () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

「侯の威光でございます」
長谷川はいつからお世辞をつかうようになったのかな?」
「恐れいります」
「用件をいってみよ」


参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (

下総(しもうさ)の佐倉藩主・堀田相模守正順(まさあり 38歳 11j万石)とは入魂(じっこん)かと伺うと、
「おお、奏者番の師匠役をやった仲だが---相模侯になにか?」

年寄格の人へ顔つなぎをしてほしいと頼むと、さいわい寅年で在府中だから、3ヶ日のうちに用が達せようと請けおった。

2日目に、数寄屋橋内の上屋敷に佐治茂右衛門を訪ねるようにと伝わってきた。

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おまさのお産

「この書状を届けてきた者には会わなかったのだな」
平蔵(へいぞう 37歳)は、辰蔵(たつぞう 13歳)のおんな体験にはまったく触れず、本陣・〔中尾(置塩)〕の若女将と称するおんなから、出立のきわにわたされた書状について念をおしただけであった。
若女将は、〔扇屋(おおぎや)〕の万太郎(まんたろう 51歳)元締から長谷川さまへと預かったといったきりであった。

「会ってはおりませぬ」
書状に目をはしらせていた父から、
「下がってよいぞ」
辰蔵も速やかった。
さっと自分の部屋へ引き取り、父親がその脊に笑いかけていることには気づかなかった

文意は、万次郎の配下の辰次(たつじ 60がらみ)のところへ、大井川の上流の神座(かんざ)村で荷運び舟の船頭をしている梅吉(うめきち 60がらみ)がやってき、
おまささんがお産のために尾張を発ち、東国へ帰る道すがら、わしのところへ一泊した。産むなら男のひとり所帯だが村の知りあいの婆ぁにも頼めるからと止めたが、行ってしまった」
無筆に近い梅吉爺はこのことを長谷川さまへ伝えてほしいと告げにきたと。

参照】2011年5月10日[神座(かんざ)村の梅吉

ところがそれは、なんと、おまさが立ち去ってから2ヶ月もあとのことで、梅吉がおもいなやんで遅れてしまったらしい。

(嶋田宿へ出張(でば)ったときに5ヶ月目の腹であったというから、すでに産んでしまっていよう。どこで産んだことやら---)

「ほんに旅は、子どもの背丈を突然に伸びさせますなあ」
いいながら箱枕と挟み紙をもって寝間へ入ってきた久栄(そさえ 30歳)に、
おまさがややを産みに戻ってきたらしいが---」
「江戸へでございますか? ご府内にそうした縁者がいるとは、ついぞ聞いたことはありませぬが---」
久栄は、銕三郎(てつさぶろう)に代わり、おまさの手習い師匠であった。

「そのことよ。いつだったか、両親の出は下総国の印旛郡(いんばこおり)---酒々井(しゅすい)]村(現・千葉県酒々井(しすい)町)とかいっていたような---」
「20代なかばでの初産では、たいへんでございましたろう」
「うむ---」
「父親はどんな男衆でありましょう?」
「身重のおまさを独りで産み元へやるぐらいだから、情のある男ではないな」
平蔵久栄も、おまさのややの父親がすでにこの世にいないことは関知していなかった。

「産みどころがわかれば、産着の一つも贈ってあげられますものを---」
いいながら、先に伏せ、平蔵を待った。

辰蔵は、旅先で遊んだのでしょうか?」
「そのことはならぬと、日出蔵(ひでぞう )にきつくいいわたしてある」
「しかし、私の目には、女を知ったとしかおもえませぬが---」
「母ごどののこわいの目じゃな。下帯でもあらためたか?」
「存じませぬ---」
「前にもいったとおり、知らぬふりをしていてやれ」

久栄のものに触れながら、じつは、お三津辰蔵にどのような相手を選んだか、われのときのお芙沙(ふさ 25歳=当時)のように、やさしくみちびてくれた若年増であったら---回顧しているちに、久栄があわてるほど挙立してきてしまった。


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(歌麿『歌まくら』部分 お芙沙のイメージ 『芸術新潮』2010年12月号)


参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (


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2011.06.28

ちゅうすけのひとり言(71)これまで

これまでの[ちゅうすけのひとり言]
()内のオレンジの数字をクリックでリンクします。


70)若女将・お三津の企みごと……2011.06.28
69)「大岡政談」の[火盗改メ] 2011.0329
68)「今大岡」と呼ばれたが…… 2011.03.28
67)次男・銕五郎の養子が決まったのは……2011.03.27
(66)一橋家の豊千代のお;礼先……2011.02.14
65)将軍・家治(45歳)の世嗣を選んだ面々 2011.02.13
64)豊千代、将軍養子として登城日の儀 2011.02.12
63)目黒・行人坂大火時の火盗改メ役宅の火難 2011.02.07
62)安倍平吉の火盗改メ・増加役考 2010.09.19
61)「ちゅうすけのひとり言」これまで 2010.07.11
60) 長篇[炎の色]の年代 2010.07.07
59) 家治の日光参詣に要した金額など 2010.O6.05
58) 松平賢(よし)丸(定信)の養家入りの年月日 2010.06.04
57) 日光参詣に参列・不参列の先手組頭リスト 2010.05,26.
56) 世嗣・家基の放鷹で射鳥して賞された士 2010.05.09
55) 平蔵以前に先手・弓の2組々頭11人のリスト 2010.05.08
54) 世嗣・家基の放鷹へ出た記録 2010.05.07
53) 渡来人の女性の肌の白さ 2010.03.31
52) 三方ヶ原の精鎮塚 2010.03.04
51) 禁裏役人の汚職の文献など 2010.01.23
50) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.04
49) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.03
48) 安永2年10月7日の跡目相続者 2010.01.02
47) 安永2年8月5日の跡目相続者 2010.01.01
46) 安永2年7月5日の跡目相続者 2009.12.31
45) 安永2年6月6日の跡目相続者 2009.12.30
44) 安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.29
43)安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.20
42) 安永2年2月11日の跡目相続者 2009.12.19
41)平蔵が跡目相続を許された安永2年(1773)の跡目相続人数 2009.12.18

40) 禁裏役人の汚職捜査の経緯
39) 3人の禁裏付
38) 禁裏付・水原家と長谷川家
37) 備中守宣雄の後任・山村信濃守良晧(たかあきら 
36) 備中守宣雄への密命はあったか?
35) 川端道喜
34) 銕三郎・初目見の人数の疑問
33) 『犯科帳』の読み返し回数
32) 宮城谷昌光『風は山河より』の三方ヶ原合戦記
31) 田沼意次の重臣2人

30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
28) 諏訪家と長谷川家
27) 時代小説の虚無僧と尺八
26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
25) 長谷川家と駿河の瀬名家
24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
23) 受講者と同姓の『寛政譜』
22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
19)  『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2

15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28

10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
)長谷川平蔵と田沼意次の関係 2008.2.14
) 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係 2008.2.13

) 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期 2008.2.8
) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17

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2011.06.27

ちゅうすけのひとり言(70)

(へい)さま。これで、おあいこよ」

隣りに励み疲れて眠りこけている辰蔵(たつぞう 13歳)を見やりながらお三津(みつ 22歳)がつぶやけば、起承転結がなるというものだ。

小夜(さよ)になりすましたお三津は、少年・辰蔵を男にしてやったばかりか、平蔵(へいぞう 37歳)が開眼させてくれた躰位まで教えこんだ。

もちろん、寝台から2寸(6cm)ほど尻をだして浮かせ、男を迎えると新しい快感をえられることは平安時代の『医心方 房内篇』に記述されていたように記憶している。

参照】2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () () () () () () () (
[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () (

女性の玉門から入って上襞6~7cmあたりに、「Gスポット」と呼ばれる性感点があることは、よく知られている。
医心方 房内篇』と「Gスポット」を組み合わせると、櫓炬燵2ヶの案も浮かぶ。

辰蔵のヰタ・セクスアリスにまでひろげるつもりはなかったのだが、彼の『寛政譜』を点検していて、

後将軍家(家斉?)放鷹のときしたがいたてまつり、鳥を射て時服をたまふ。

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(長谷川宣以・宣義(辰蔵)の『寛政譜』)


かなり修練したな、との思いが湧いた。
平蔵家で、そのような褒償を得た者は、辰蔵のほかにはいない。
それで、弓術の師を探して布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)と長女・丹而(にじ 12歳)に出あえた。

建部市十郎(いちじゅうろう 12歳)という恋敵(こいがたき)も見つかった。
市十郎も、「のちしばしば的を射、あるいは放鷹にしたがいたてまつり、鳥を射て時服をたま」わっている。

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(建部市十郎広興の『寛政譜』)


そのことにより、煩悶する辰蔵を見かねた平蔵の依頼を引きうけたはいいが、抱いてしまったばかりか、寝台まがいの台で強く刺激させ、恍惚へのぼりつめ、おんなの情欲の濃さ、深さ、怖さを13歳の少年に植えつけたお三津の魂胆を推察してみた。

さすがの平蔵も、おのれのちょっとした言葉が、嫁して3年、子を宿せず不縁となっていたお三津のこころをわずかに傷つけたことにまでは考えがおよばなかった。

初回の抱合をおえたあとを再現してみる。


「不思議だな」
「なにが---です」
「お三津どのほどのいいおんなぶりのこの躰をあきらめた、ご亭主どののことよ」
「いい躰---?」
「敏感だし、しめつけるし、潤いもこんこん---」
さんだからです。認めてくださって、天にものぼるほど、うれしい」

「耕せば---」
「耕して---」


前夫に性感を「耕せさせて」いなかった---ととったのであった。

いや、そのときは、そうまで深くはうけとらなかったが、この半年のあいだに、ひとり寝の暇ひまに、ここで交わした会話、江戸までの旅と旅籠での睦みごとをくりかえいおもい返しているうちに
「耕せば---」
が、15歳も齢上の男の科白におもえてきたのであった。
つまり、性的に「まだ未熟」といわれたにひとしい。

こうもいわれた。


「われには、内室と子が4人、ほかに割りないことになっているおなごがいる」
「だから、引き返せ? ここが、進め、すすめって---」
「だから、進んでいいかと、確かめておる」


情からではなく、誘われたから同情心をそそられて抱き、好奇心からつきあってくれたのではないか、との疑念が芽生えては消えた。


「うんと齢下のを男にしてやる楽しみもあるぞ」


とも、口にした。
辰蔵との年齢差は9歳---相手を探してくれとの書状を読んだ晩、こんどの仕組みが湧いた。
もちろん、お三津がその相手を勤めめるなどとは、平蔵は想ってもいなかったろう。

「男って、いくつになってもいい気なものだわ。でも、これって、おんなだからできた復讐よ」

しかし、お三津は、平蔵から声がかかったら、すぐにでも帯を解くはずの自分に苦笑していた。

「だって、嫌いじゃないし、っつぁんを迎え入れているときも、さんとしているんだっておもおうとしていた私だもの」

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2011.06.26

平蔵、書状を認めた(6)

小夜(さよ 22歳)が、午後の出事(でごと 男とおんなの交合)の手習いは、師匠のほうが楽しませてもらう番と告げていた経緯(くさぐさ)は、記すのもはばかられる。

真新しい櫓(やぐら)炬燵を2基とりだし、その上に春先から秋口までの長火鉢用の蓋といって作らせた1畳分に近い止め縁枠つき台板をのせ、敷布団を敷いたこと、手鏡を2枚用意していたと打ちあければ、1ヶ月ほど前にアップしたコンテンツだから、内容はお察しいただけようか。

櫓炬燵は、平蔵からの文を受けるとすぐに、つくりの頑丈さを、店の者に上で足踏みさせてたしかめ、届けさせた。

ま、復習として、

参照】2011年5月12日~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () () (
2011年5月21日[[化粧(けわい)読みうり]西駿河板] (

小夜と名のっているおんなは、すでに昼風呂をすませ、結髪をといて洗い髪を長くたらしていた。
「結(ゆい)くずれを気にすることもなく、みだらがやれるから---」
みだら---と聞き、辰蔵(たつぞう 13歳)がたじろぐこともあるまいとふんでいるようであった。

辰蔵にも風呂をすすめ、口をよくすすぐようにと、新しい房楊枝(ふさようじ)をわたした。
口の吸いあいに舌を深くからませあい、表裏を刺激しあうことは、昨晩のうちに習得していた。
双方の唾液がまざりあううちに、とりわけおんなの気が昂まることも知らされた。
(道理で、丹而(にじ 12歳)が「ううっ---父上---怖い」,とうめいたわけだ)

参照】2011年6月11日[辰蔵の射術] (

舌使いの強弱、緩急も、口と乳首、脇の下、太股で違えることも会得したつもりであったが、昨夜は薄暗がりの中、芝生を鼻の頭に感じながら、辰蔵のほうが興奮してしまった。

この日は真っ昼間であった。

目を凝らして手鏡に写されている部位のほうに看(み)いっていた。
下の唇を中指でとんとんと軽く叩け、指でひらいたとこへ巨立している太棒をあてよ、と命じられ、おもわず挿入しそうになり、
「まだまだ。ちゃんと写して」
叱られたが、躰の置き方に苦心した。

「それではよく見えない。みだらが湧きしたたっているでしょう、それが光るように見せて」
片手で手鏡の向きをさぐり、もう一方の指で下唇を引き、玉水が亀頭を濡らすようにするのだから、額に汗をかいた。
(睦みも、みだらという段階になると、快楽よりも努力だな)

辰蔵の戸惑いにも同情する。
弓でも[手の内]という用語を口にする。
射法の型の中に秘められている勘どころのことである。

性技にもそれがあるのであろうが、昨夜覚えたこととは、要求があまりにも高度すぎた。
昨夜のを序(じょ)の口とすると、今日の午後のは有段者の技であろう。

どんな技にも奥の奥があることは、辰蔵もこころえていた。
しかし、小夜の要求は一足とびであった。

当惑していたとき、
「来て---」
師匠からお許しがでた。

jま、冗談めかしていうと、これこそ、父子相伝の秘技であろうか。

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2011.06.25

平蔵、書状を認めた(5)

っつぁん。お父上に決して洩らさないと、約束できる?」
翌くる朝遅くに朝食の粥(かゆ)をよそいながら、小夜(さよ)が辰蔵(たつぞう 13歳)に念をおすようにたしかめた。

「決して---また、このようなことの経緯(あらまし)を訊く父上ではありませぬ」
「お父上だけでなく、お母上にも供の者にも、こころ許しているお友だちにも---よ。そうそう、お丹而(にじ 12歳)さまにも---」
丹而どのとは、これから口をきくことはありませぬ」

「では、いいますが---」
期待させておき、小夜は、昨夜の経緯(あれこれ)の感想を訊いた。

箸の先端のを手前に向けて置き、こぶしを膝にそろえ、
小夜どのの的(まと)の柔らかく、暖かく、なめらかなことは、想像をはるかに超えておりました。その瞬間、天女を抱いたまま天空へ舞いあがっているのではないかと、夢ごこちでした」
「そのようにおもわれれば、みちびき甲斐があったというもの---」

参照】2011年5月4日[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] (

「御師(おんし)のお教えには、深く、ふかく、謝意を表します」
「私のことを、師とお呼びになった?」
「生涯忘れることのできない恩師です」

目を伏せ、辰蔵が置いた箸を見つめながら、
っつぁんのこと、私も、忘れないとおもう。すごい上達ぶりだったもの」
「弓芸もこうありたいのですが---}
「私の的へは、どまん中ばかり、みごとな射抜き---」

微笑んでうなずき、
「じつは、これからが肝心なこなの。昨夜から朝へかけてのことは、っつぁんがおんなの関門をためらうことなく通りぬけ、いい思い出をつくることに専念していたの」
「手をとり、入門を助けてくださいました」

いまの辰蔵の言葉で、さんの依頼の役目はi果たせたと納得---。

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(北斎「浪千鳥」 イメージ 『:芸術新潮』2010年12月号)

でも、入門篇だったわね。きょうは私がいい思いをする番だと覚悟して---」
「覚悟---?」
「午後、いうとおりにしてすればいいの」
「なぜに、午後なのですか?」

小夜が、辰蔵の箸で梅干と香のものをとりわけ、その先端を口にいれ、箸置きへ戻した。
すかさず辰蔵がとって先端をじっくりとなめ返し、神妙な面持ちで小夜の言葉を待った。

「早気(はやけ)はいけないと、昨夜、おいいだったわね」
素振りのことを小夜が訊いたとき、習っているのは弓で、師は丹而の父・布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)と応えると、弓術でむつかしいところは---と問うてきた。

[早気]をよく注意されているとの応えに笑い声を洩らした小夜
「殿がたの早気は、おなごに熟したりない不満な感じがのこるの」

弓術でいう[早気]とは、早漏のことではなく、甲矢(はや 1番目の矢。奇数番目の矢)と乙矢(おとや 2番目の矢 偶数番目の矢)りの間合いが短かすぎることだとの解説に、
っつぁんは立ち直りが早いから---昼からは[その早気]を受けて立ちます」

弓術での[早気]の克服は、不安と的中(あた)り気の解消につとめるのが早道とかいわれていた。

「午後の股業には、[早気]は禁じ手よ」
辰蔵は、すこし赤らんだ。
じつは、明け方の七ッ(午前4時)ごろ、かわやへ立ち、戻るなりもとめ、たしなめられた。
「私も、用をすませてきます。それから射位(しゃい 弓を引く位置)につきましょ」

そのあとの朝餉のとき、
「残心が、ここに---」
帯の下のほうを指され、また燃えた。
燃えると膨張し堅くたったものの先端が下帯と袴の生地をこすり、痛いがかゆくなった。

昼餉(ひるげ)まで、大井神社に詣でたり、裏通りにある寺めぐりでもしてくるようにいわれた。

午後のことを考えると、外歩きには興味が湧かなかったが、それでも宿場のあれこれを見てまわりながら、昨夜から朝にかけて小夜との4射のそれぞれの様相をおもいかえしているうちに、気が昂ぶってき、出立を一日のばした本陣の若女将の配慮に感謝した。


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2011.06.24

平蔵、書状を認めた(4)

長火鉢から、燗のできたちろりをとった,寝衣の小夜(さよ)が、
「もう一杯、いけますか---?」
「いえ、もうだめです」
真っ赤になっている辰蔵(たつぞう 13歳)が、
「酒は、こんどの旅で初めて口にしたのです。もう、胸が苦しくて---」


寝衣に帯をしていないかったから、立って前身がもろにあらわれた小夜から、辰蔵の目が離れない。
外の寒気にさらしておいた土瓶から、湯呑みに真水を注いできた。
「甘露---」
「大井川の伏流水です。お代わり---?」
「はい」

湯呑みを差しだすとき、さも裾が邪魔といった風情で、ぱっと後ろへはねたから、胸はあらわ、さっきみちびかれた腰から下もまるだしになった。

凝視している辰蔵を見すえ、盃から含んで唇をよせ、ちょっぴり口うつしにする。
腰を抱いていいものかどうか、逡巡している少年に、
「おもいどおりにしていいのですよ。さっき、躰がひとつになったのです。もう、他人ではないのだから、遠慮することはありません」
「はい」
小夜の口調は微妙にぞんざいになっていた。

辰蔵が恐るおそる黒い芝生に指をふれた。
「指が入りたがっている?」
声がでないのか、うなずいた。
「入れて---でも、っつぁんの元気のいい、そのもののほうがもっと嬉しい」
嬉しがらせるそのものは、すでに回復していた。


床の中で、全裸の肌と肌をくつつけあいながら、
っつぁん、私を嬉しがらせるようなことをいってみて---」
「どんなことを---?」

躰のどこでもいいから、感じたままを言葉にすればいいとみちびかれ、
「乳首の感じを10年以上も忘却していました。妹たちがすぐ生まれたのです。こんなにおいしく、香ばしいものだったことをおもいだし、嬉しくなりました」
舌でまさぐるようにすすめられ、かぶりつくようにふくんだ。

_360
(北斎「ついの雛形」部分 イメージ)

「ややを産んでないから、小さいの」
「拙は初めての子だったから、母者の乳首も小さかった---」
「お父上が怠慢だったのよ」
「えっ? ああ、そうだったのかも---」

辰蔵は、好きだった12歳の丹而(にじ)の乳房のふくらみがまだ小さく、乳首も米粒ほどだったと白状した。
小夜は笑い、
「舌でなぶった?」
「指先だけです」
「小さかったなんてこと、丹而さんに告げてはだめよ。おんなの子って、自分の乳房がもりあがらないのをとても気にしているんだから---」
「告げません。もう、別の男の子と仲よくしていて、拙は相手にしてもらえないのです」
「おかわいそうに、袖にされたのね?」
「はい---」
「代わりに、小夜がこうしてあげてるでしょ」
「一生、忘れません」
「嬉しい---さ、おさらい。そう、そこ---」

その夜、父親とよく似た躰つきの辰蔵が素振りをしたときの腕や肩の筋肉の動きを見ていたとき、下腹の芯が熱くなったことをおもいだし、
「父と子、よ、ねえ」
とつぶやいた。

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2011.06.23

平蔵、書状を認めた(3)

嶋田宿までの3日の道中、三島で背中に感じたのお芙沙(ふさ 48歳)のやわらかくも張りと量感の乳房を、辰蔵(たつぞう 13歳)が意識しなかった、というと嘘になる。

興津宿の〔手塚〕十右衛門方では、酒を1本つけてもらい、盃の半分だけ含み、寝床で躰はお芙沙、顔は丹而(にじ 12歳)を10年ほど齢をとらせたおんなにつけかえて股をなぶっているうちに、粗相してしまった。
それからは、母上より18も齢上のおなごであったと自分にいいきかせ、自制した。

嶋田宿の本陣・〔中尾(奥塩)〕藤四郎方へは、指定されていた七ッ半(午後5時)あたりに着いた。

三津(みつ 22歳)とおもわれる若女将が出迎え、
「お待ち申しておりました」
日出蔵(ひでぞう 50歳)から辰蔵の荷物を受けとり、旅籠への道順をおしえ、出立は明後日の五ッ(午前8時)と告げた。

若女将は、辰蔵を部屋へ通さないで、
「お泊まりの家へご案内します」
本陣東ぞいの御陣屋小路をとおり、しもた屋の表戸を叩いた。

「家主(いえぬし)の小夜(さよ)さまと申されます」
辰蔵を引きわたすと、すぐに戻っていった。

「湯をお召しになりますか?」
「いや。日課の素振りをこなしてからにします」
「素振り---?」
「父が作らせた鉄条入りの木刀をたずさえてきています。拙の腕の筋力を鍛えるためです。朝、夕に80回ずつ振るようにいわれておりますが、拙は、100回を自分に課しております」
辰蔵さまは、お偉いのですね」
「偉くはありません。修行のためです」
美しい小夜に褒められ、うれしそうに微笑むと、平蔵と同じく、左の頬に片えくぼができた。

裏庭で、蹲踞(そんきょ)の姿勢から素振りに入り、50回あたりで冬にもかかわらず汗びっしょりで、片肌を脱ぎ、80回目ではもう片方も腕をぬき、上半身、素肌をさらした。

見ている小夜の双眸(りょうめ)が熱っぽくなっていることに、辰蔵は気づかなかった。

褒められたので、今夕にかぎり、もう20回をつけたすと、さすがに息があがっていた。

縁側から小夜が声をかけた。
「お背の汗をぬぐってさしあげます」

その手はやさしく、快かったが、ぬぐうはなから汗がにじみ、なんど拭かれても、汗がとまらなかった。
「きりなく流れてまいります。いっそ、風呂場で湯をおかぶりなっては---?」
誘いにのった。

袴を脱ぎ、着物をとり、手をとめた。
下帯を小夜の前ではずすべきか、そのまま湯をかぶるべきか、判断に迷った。

「下帯が濡れます。お取りになって---目をつぶっていますから---」
声が遠ざかったので、おもいきって全裸になった。

白い湯文字一枚の小夜があらわれた。

「あっ」
前をかくす手拭は、小夜の手にあった。

入ってきた小夜は、手桶で湯を汲み、
「腰置きにお掛けになって---」
人形のようにしたがった。

肩から何杯も湯がかけられ、湯文字もびしょぬれになり、太腿の線をあらわにした。
そうなったところで、
「こちらをお向きになって---}
濡れた湯文字ごしに、股の黒い陰が目の前にあった。

手拭は小夜に手にあったから、挙立したものを掌でかくしたが、その腕をつかんで脇によせながら、
「まだ、坊主頭が顔をだしていないのですね。かわいい---」
含み笑いをこぼし、膝をつき、唇をよせ、舌でなめ、
「塩(しょ)っぱい」

手桶で湯をじかにかけ、また、舌をつけた。
「おいしい」

辰蔵が、おもわず小夜の肩をにぎると、
「湯桶へおつかりになって---」
たあいもなく、いいつけにしたがっていた。


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2011.06.22

平蔵、書状を認めた(2)

嶋田宿の本陣・〔中田(置塩)〕の若女将・お三津(みつ 22歳)からの返書はすぐにとどいた。

12月の前半であれば、参勤の大名家の宿泊はほとんどないから、いつにてもご応接するが、ご到着はできることなら七ッ半(午後5時)前後にとあり、追って書きの形で、香具師(やし)の元締・〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)とのことは、万端、順調にすすんでいると報じていた。

万端とは、西駿州板〔化粧(:けわい)読みうり〕のことと平蔵(へいぞう 37歳)は推量しておいた。

極(12)月8日の夕七ッ半に〔中田(置塩)〕へ入れるように旅程をしつらえ、志太郡(したこおり)小川(こがわ)の林叟禅寺への立ち寄りは帰路とした。

辰蔵(たつぞう 13歳)へ申しわたし、久栄(ひさえ 30歳)は、先祖の墓の浄(きよ)めに行かせると納得させた。
供には、もっとも老僕の日出造(ひでぞう 50歳)をあてがった。
自分に三島宿でお芙沙(ふさ 25歳)を引きあててくれた僥倖の再来を期待したからであった。

そんな経緯もあり、三島宿の本陣・〔樋口〕の女将のお芙沙(48歳)には、旅の狙いを明かさず、投宿したさいにはくれぐれも旧事を秘密にと頼んだ。
そう書いけば、自慢ばなしらしく語ってきかせるかもしれないとも予見したのだが。
もっとも、初穂をつまんだ男の息子に、どういう顔をして話すかまでは読まなかった。

小田原城下の貸元・〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門(とくえもん 59歳)と箱根山道の荷運び雲助の頭分格の仙次(せんじ 37歳)は、頼っていったら面倒を見てやってほしいとだけ告げた。


とりあえず、三島宿の本陣・〔樋口〕の女将のお芙沙との場から報告しよう。

箱根8里(32km)をくだったときには、初旅に興奮していた辰蔵はくたびれきっていた。
辰蔵以上に参っていたのが供の日出蔵で、辰蔵を〔樋口〕へ送りこみ、お芙沙へ引きわたし、明朝の六ッ半発(だ)ちを約すと、そうそうに近所の旅籠へ倒れこむように駆けこんだ。

辰蔵が風呂からあがると、お膳には銚子が載っていた。
酒は頼んだおぼえはないし、嗜まないと断ろうとおもったとき、お芙沙がはいってきた。

「これは---」
「はい。私の呑みしろでございます」
嫣然と銚子をとりあげ、盃をとらせ、
「形だけでよろしいから、お受けくださいませ」

大きいほうの木杯を差しだし、
「私にもお酌を---」
一気にあけ、手酌しつつ、
与詩お嬢さまは、お変わりなく---?」

駿府からの道中に2夜、共寝したことを楽しそうに話した。

参照】2008年1月15日[与詩を迎えに] (26

「かれこれ、20年近くなりますから、与詩お嬢さまも、お正月がくれば26におなりですね」
辰蔵は、与詩叔母が不縁になったことをいいそびれてしまった。

与詩お嬢さまが夜中に2度もはばかりにごいっしょいただいた、うちの多恵(たえ 21歳)は、3年前に嫁ぎましてねえ」

なにかをおもいだしたふうに肩を落としたが、
さま。お酒(ささ)が冷(さ)めてしまっています。こちらへくださいませ」
自分であけ、口紅がついたままの盃を辰蔵にもたせて注ぎ、
「お父上は14歳でしたが、無理にもお口をおつけになったのでございますよ。さまもお父上におならいになって---」
そうまでいわれては、口をつけないわけにはいかなくなった。

口に入れたとたんに噎(む)せ、おもわず吐いていまった。
風呂場で着替えた丹前と浴衣が濡れた。

手を打ち、着替えを持ってこさせ、辰蔵から剥いだ。
浴衣をひろげ、下帯一つの辰蔵の背へまわり、着せかけるふりで抱きついた。

うなじへ唇をつけ、
「お父上に、こうしたかったのです。お許しくださいませ」
ゆったりした乳房を背中に感じながら辰蔵は、金しばりにあったように硬直したままで、拒(こば)めなかった。

やがて、
「私が、もう20歳ほど若かったら---}
ささやき、腕を解いた。

銕三郎(てつさぶろう 24歳)にたしなめられた13年前の恥態をおもいだしたのかもしれない。
いや、艶ごとの失態を嫌悪はしても、おんなが恥じるはずはないのだが---。

参照】2009年1月10日[銕三郎、三たびの駿府] (

辰蔵は、食後にもう一度、湯を浴び、床に伏したが、なにごとも起きなかった。

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2011.06.21

平蔵、書状を認めた

その後の暮らしぶりを問うたあと、ずばりと本題に入った。

ようやくに色香がわかるようになってきたらしい13歳のわが豚児・辰蔵(たつぞう)の初陣に、お力ぞえを頼みたい。

豚児のせっかくの初陣ゆえ、のちのちまでの語り草になるようなお相手とあいまみえさせたい。
そう、「微風、蘭杜(らんと)を吹く---そよかぜのたびに芳(かぐわ)しい思い出がよみがえるような---。

もちろん齢上で、戦場での駆け引き、技も汗馬のあつかいにもすぐれ、はやる若武者をみちびいておちつかせ、勝ち名乗りをあげさせてくださるような麗人---。

できれば、若くて孤閨をかこっている佳女に開眼させてもらえれば、父親としていうことはない。

どうして江戸で---と疑念をお持ちになるのもっともだが、あとを引いては、前途のある若者を迷わせてしまう。
遠く、旅の空での夢のような逸事としてこころに秘めさせたい。

なんとも、だらしない親ばかの頼みごと、お三津(みつ 22歳)どのなら、われの意を察し、お手配くださるものと希願しておる。

このことは、わが室にも内緒であり、密かにおすすめのほどを。
もちろん、豚児には、われら2人の仕組みなどとはつゆ悟られないよう、ご配慮いただけるものと信じておる。

ついでながら、〔化粧(けわい)読みうりの版元のこと、くれぐれもよろしくお取り扱いのほどを。


認(したた)めながら、平蔵(へいぞう 37歳)は、なんども顔を赤らめて筆をとめては額ににじむ汗を懐紙でぬぐったことか。

頭をよぎるのは、23年前のお芙佐とのこと、つい半年前のお三津の家での秘めごとであった。

口はぶつぶつと、
(このような恥しらずのことを頼むのも、辰蔵の将来をおもえばこそ---)
辰蔵のせいにしていた。

登城の途中で鍛冶橋の町飛脚屋へ立ちより、嶋田宿までの飛脚便料120文(4800円)を払いおわり、
「矢は放たれた」
返事がきたら、すぐさま、旅の手つづきをとるこころづもりになっていた。


夕刻、深川・冬木町寺裏の茶寮〔季四〕に顔をだすと、里貴(りき 38歳)が、
建部(たけべ)さまが、奥方さまとご嫡男づれでお越しくださっています」

先手・鉄砲の第13の組頭の建部甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)であった。

参照】2011年6月14日~[建部甚右衛門と里貴] () () (

奥へ伝え、
「同席をと、申されております」

しかたなく平蔵は、松造(よしぞう 31歳)を帰し、家族団欒の席へ加わった。

建部家では、われがおいしい馳走を体験すると、奥と吉十郎(きちじゅうろう 12歳)にも味わせるしきたりになっておっての」

内室・於(ゆい 42歳)は、ふくよかな面高の顔をほころばせ、
「ほんに、いいお店をお引きあわせくださいまして---」
ゆったりした口調であいさつをよこした。

(いかん。われも、久栄(ひさえ 30歳)と辰蔵の舌を鍛えてやらねば---)
おのが反省が辰蔵にとって手遅れになっていることに、平蔵は気づくはずもなかった。

あとで藤ノ棚で里貴が洩らしたところによると、於は手控え帳をたずさえており、板長を呼んで料理の勘どころを訊いては、いちいち控えたという。

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2011.06.20

辰蔵、失恋(4)

行灯の芯をさげて寝所の明かりを一段と細め、つかった挟み紙をかき集めた久栄(ひさえ 30歳)が、
「お眠りになるのまえにお消しくださいますよう」
自分の寝間の引きあげた。

天井を睨みにながら平蔵(へいぞう 37歳)は、三島宿での芙佐(ふさ 25歳)とのことを手くばりしてくれた父・宣雄(のぶお)の年齢を暗算していた。
---41歳。
14歳だった息・銕三郎(てつさぶろう)との年齢差27歳---。

13歳の辰蔵との差は、24歳---父は、母に内緒でことをすすめてくれ、ことがなったあとも秘しとおしてくれた。
このことは、きちんと受けつくべきなのだ。

さて、あとを引かさないために江戸住いのおんなをはずすとすると、嶋田宿のお三津(みつ 22歳)、三島宿の本陣〔樋口〕のお芙佐(ふさ 48歳)、]陸奥・与板の廻船問屋の女将・佐千(さち 35歳)しかこころあたりがなかった。

3人とも、躰を重ねたおんなばかりであった。
おんなとの連帯感は、けっきょく、躰の触れあいにつきるのかもしれない。

参照】2011年3月5日~[与板への旅] () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) 

佐千といえば、長男・藤太郎は14歳---それでも、われとの間(ま)にあわせとして辰蔵の初穂をつむかもな。いや、うぬぼれでなく---)

とにかく、与板は往還に日数(ひかず)がかかりすぎる。
そういうことでは、京都も遠すぎるか。

上方で頼むとすれば、祇園一帯の香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 50がらみ)ということになろうか。
京都なら、華香寺へ亡父・宣雄の供養という口実がお上に対してつかえる。

もっと近くで、辰蔵による長谷川家の墓参となると、駿州の小川(こがわ)---東海道筋の藤枝宿---ちょっと足をのばせば嶋田宿だ。

嶋田宿では大井大社門前の香具師の元締で置屋の〔扇屋(おおぎや)〕を表の顔にしている万次郎(まんじろう 51歳)に頼める。
(もっとも、夜ごとに男をとりかえている〔扇屋〕抱えのおなごたちでは、いくらその道に熟練しているとはいえ、思い出にに夢が添わない)

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 56歳)のところで修行している〔扇屋〕の息子・千太郎(せんたろう 25歳)に念を入れておいたほうがいいかもしれない。
やがて嶋田宿へ帰っていく若者である。
酒を飲みかわし、腹をわって話しあっておくのも悪くはない。

灯芯がかすかな悲鳴をあげ、灯油がきれかかっていることを告げた。
灯を消し、ふとんを引きあげた。
久栄の匂いがのこっいてた。

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2011.06.19

辰蔵、失恋(3)

「いいか。辰蔵(たつぞう 13歳)の失意に触れるでないぞ。そしらぬふりをしていてやれ。当人もいろいろ考えているはずゆえな」
平蔵(へいぞう 37歳)が寝所で久栄(ひさえ 30歳)にいいきかせた。

久栄は腹のなかでは、
(ご自身の体験よりも辰蔵のほうが早くなりそうなもので、あわててござる)
たかをくくっていた。
もっとも、これがむすめの(はつ 10歳)や(きよ 7歳)の喪失にかかわるようなことであったら、真剣に心配したろう。

久栄(17歳)は、銕三郎(てつさぶろう 24歳)と華燭の式をあげる前に、
「私の躰にお徴(しるし)を---」
懇願は、果たせなかった。

参照】2008年12月18日~[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] () () () (
2009年2月13日~[寺島村の寓家] () () () (

つまるところ、久栄銕三郎の徴を秘部に印されたのは、初夜、寺島村の寓家においてであった。

平蔵は自分の体験から、辰蔵が初穂をつまれるのは、13歳でもかまわないと断じていた。
ただ、双方にいい思い出がのこるような経緯(ゆくたて)であってほしい。

菅沼藤次郎(とうじろう 13歳=当時)のような、いささか汚れた形であっては困る。
繰り返すことになるが、藤次郎の初相手は、藤次郎の父の性愛の相手を永くつとめていた佐和(さわ 32歳)であった。

参照】2010年7月21日~[藤次郎の初体験] () () 

やさしく教えてくれる齢上がいい---といって、上すぎても---辰蔵の母・久栄より若くあってもらいたい。
となると、自分のときのように25歳前後より下ということになろうか。

しかも、あるていど男に馴れて---というか、性技の綾をこころえてい、この道の奥の深さを暗示してくれるおなごであれば申し分ない。

そんな相手というと、このころでは、嶋田宿の本陣〔中尾(奥塩)のお三津(みつ 22歳)しかいない。

参照】2011年5月5日~[本陣・〔中尾〕の若お女将・お三津] () () () () () (

三津ならおもしろがって引き受けるかもしれないが、「父子鍋」という困った行いになる。
(われも世間が狭くなったものだ。いや、まて---)

おもしろがる---といえば、〔銀波楼〕の女将・千浪(ちなみ 43歳)ならどうであろう?
商売柄、顔も広いし---。
(だめだ。江戸のおんなでは、双方、一夜かぎりではおさまるまい。納豆ではないのだから、あのあと、糸を引いてはまずい)

そう考えると、亡夫・宣雄(のぶお 享年55歳)は、じつに的確であった。
箱根越えの手前の小田原か、越えた先の三島宿あたりで銕三郎が夜遊びにでたがるであろうと見越して太作(たさく  50がらみ)に策を授けておいた。

運よく、三島宿の本陣の縁者にお芙佐(ふさ 25歳)のような、うんと齢上の夫を亡くしたばかりで、しかも男との性体験は亡夫だけという、天佑としかいいようのないおんながいたものだ。

これは、機会(おり)をみ、辰蔵を旅にだすしか術(て)がなさそうだ。

「殿さま。まさぐりがなおざりになっております。お疲れでございますか?」
「う、うん。許せ。考えごとをしておった」
「おやめになりますか?」
「そうもいくまい。久栄が、その気、十分のようだ」
「うふ、ふふふ」

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2011.06.18

辰蔵、失恋(2)

神楽坂上の善国寺・毘沙門天門前の茶店の婆に握らせる小粒と黒い握り革を買うまでに、辰蔵(たつぞう 13歳)は1ヶ月近くかかってしまった。

母・久栄(ひさえ 30歳)を得心させて財布の紐をゆるめさせる口実を、なかなかおもいつかなかった。
ちょっとやそっとの口実では、
「いまの茶の握り革では、どうしていけないのですか?」,
根掘り葉掘り訊いてくる。
「弓構(ゆがま)えに入ったとき、的を見すえるのに黒革のほうが目の邪魔になにらないのですよ」
とでもいおうものなら、
「殿さまにたしかめてみてからにしましょう」
軽く逃げられてしまう。

(おれとしたことが、丹而(にじ 12歳)どのに、なぜ、黒い弽(ゆがけ)といわなかったのだろう。弽なら、落としたですむ)
弽は、弦を引く右手にはめる手袋のようなものだから、紛失しやすい。

けっきょく、辰蔵は〔箱根屋〕の権七(ごんしち 50歳)に借りることにした。

黒い握り革の弓をたずさえ、牛込白銀(うしごめしろかね)町の布施家へ勇んでいき、稽古した翌日、毘沙門天で待ったが、丹而はあらわれなかった。

次の稽古日の翌日の八ッ(午後2時)も待ちぼうけた。

その次の黒の握り革の弓での稽古の明くる日も、黒革はなんの効果も見せなかった。
座敷の縁に腰をかけ、来ない丹而をしょんぼりと待っている辰蔵に、茶店の老婆が、
「若いお武家さん、こんどの座敷代はまけとくから、諦めな」
小銭を返してきた。

神田川ぞいに歩きながら、いつかの口の吸いあいが親ごに発覚(ば)れ、嫁入り前の武家のむすめがしてはならない振るjまいと、座敷牢に閉じこめらてしまっているのではないか、それにしては布施十兵衛師の指導ぶりはいつもと変わらぬが---。
いや、座敷牢はありえないとして、遠くの親戚へでも預けられたのではなかろうか。
辰蔵の推量は雲のようにつぎからつぎへとふくらんだ。

水道橋の手前の三崎稲荷社の横から楽しそうに語りあいながら出てきた少年武士と武家むすめを見、辰蔵は咄嗟(とっさ)に横の小道へ身をかくした。

少年は弟弟子の建部市十郎(いちじゅうろう 12歳)、武家むすめは布施家の丹而にまちがいなかった。

しばらく小道に立ちすくんでいたが、2人がでてきた路地へ入ってみた。
軒看板に〔若桜(わかさ)〕と記した瀟洒(しょうしゃ)なぜんざい屋があった。

入ると、店の小女が、
「2階の神田川が見下ろせる小座敷になさいますか、それともこの土間で?」
「小座敷はいくらかな?」
「小半刻(こはんとき 30分)ごとに50文(2000円)になってます」
「この土間の飯台だと---?」
「ぜんざいの代金だけです」

毘沙門天前の婆の茶店の茶けた畳表の座敷と、この〔若桜(わかさ)〕の小部屋とでは天と地ほどの違いであることは、辰蔵も理解した。
市十郎は、こういう店にばかり丹而を連れ歩いているのであろう。妹・(はつ 10歳)だって、こういう店に誘われたら、ふらふらと入ってしまうであろう。これは、男同士の勝ち負けというより、おれの財布の負けだ)

ちゅうすけとしては、辰蔵くんにいってやりたい。
「財布の差」というのは、男の世界ではたいていついてまわる。しかし、ご父君---の平蔵(へいぞう 37歳)どのは銕三郎(てつさぶろう)時代から財布のふくれ具合にかかわりなく、おんなからの献身(?)をいただいてきている。要するに、男ぶりがいいのである。男ぶりの一つに、情報の多寡ということもある。おんなにとっては、安心できる相手ということもあろう。

こんどの場合の敗因は、おんなは甘いものに目がないのを、市十郎のほうが母・於(ゆい 42歳)を観察して悟っていたことであろう」


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2011.06.17

辰蔵、失恋

「殿さま。辰蔵の様子がおかしゅうございます」
平蔵(へいぞう 37歳)の書見の間へ、茶を運んできた久栄(ひさえ 30歳)が妻としてではなく、母親の声で告げた。

「どう、おかしいのだ?」
「ふさぎこみ、ときどきため息をつき、食事もはずみませぬ」
「そのとおりだとすると、おんなかかわりだな」
「おんな---? まだ、13歳でございますよ」

「まだ、13歳ではない、---もうすぐ、14歳なのだ」
「女児の14歳は一人前のおんなでございますが、男の子の---」
久栄が育った大橋家は、男の兄弟がいなかったからしらないのだ」

いいながら、平蔵が連想していたのは、剣の教え子、菅沼新八郎定前(さださき 19歳 7000石)が、まだ藤次郎と称していた12歳の性への目覚めであった。

参照】2010つ年5月20日[菅沼藤次郎の初恋

とろが、13歳のときにはりっぱに体験してい、平蔵はその解決に苦心した。

参照】2010年7月21日~[藤次郎の初体験] () () () () () (

そういう平蔵は、銕三郎(てつさぶろう)と呼ばれていた14歳のとき、三島宿で甘美な初体験と苦い破恋を体験した。
このとは、いく度もリンクを張ったから、あなたも銕三郎と同じように深く記憶していよう。
スキップしてくださってけっこう---。
ただし、(2)の破恋のほうは少年の性の挫折として再度でもお読みいただきたい。

参照】2007717~[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] () (

あとで察しこたとだが、お芙佐とのことは、亡夫・宣雄(のぶお 享年55歳)がそれとなく手くばりをしておいてくれたものらしかった。
しかも、仔細をしろうとはしなかった。

息子の性の秘事には、父親たりとも立ちいってはならない、という態度であった。

だから、久栄から辰蔵の懊悩を聞かされても立ちいらず、遠くから見守ってい、できることがあればその障碍を密かにとり除いてやるつもりであった。

あれこれ思案をめぐらせ、おもいあたたったのは、辰蔵の弓術の師・布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)にいわれたこと---12歳の長女の丹而(にじ)とかいうむすめが辰蔵の嫁になりたいといったが、あれには婿養子を考えておるとか。
(さては、辰蔵めもその丹而とかに気があったのか)

気があったどころか、2人は、布施家から近い神楽坂の毘沙門天門前の茶店の奥座敷で口を吸いあい舌をからませる仲にまで、ままごとを発展させていたのであった。
しらないのは双方の親ばかり。

しかし、そこまでは平蔵良知もしらないとしても、辰蔵の懊悩はどうしたわけか?

平蔵は、お芙佐(ふさ 25歳)の家を再訪したのに会えなかった23年前の自分の、痛いほどの悲しみを思い出し、うなずいた。

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2011.06.16

建部甚右衛門と里貴(3)

長谷川うじのは、異母といっても、実母がずっといっしょだったわけだから---」
建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)が苦笑しながら、
「いや、われのほうがもっと不幸せであったなどと、競いあいをするのではないがな---われには異母が2人いてな」

すかさず、里貴(りき 31歳)が身をのりだし、その先をうながした。
「お2人の異母と申されますと---」
自分は子をもっていなくても、家庭の複雑な話を、おんなはわが身とくらべたがる。

甚右衛門広殷が語ったことをはしょって写すと、おおよそ、こうなる。

荒次郎(こうじろう のちの広殷)は、享和13年(1723)に、書院番士・甚右衛門広長(ひろなが 29歳=当時)の第一子として生まれた。

母は、3年ほど前に嫁してきていた、小普請奉行・松浪筑後守正春(まさはる 54歳=当時 1000石)の長女・富紀(ふき 21歳)であったが、出産のとき夫はたまたま、将軍の日光山参詣に顧従しており留守で、難産死に立ちあえなかった。

すぐさま、継嫁がきまった。
逝った富紀の3歳下の妹とはいえ正春の養女であった。
異姉の遺児をいつくしむはずはなかった。
下(しも)のもの始末も乳母にまかせきりで、いちども手を汚さなかったという。

そのうち、男子を2人なしたので余計であった。
自分が産んだ万吉を継嗣にとせがんでいるうちに病死した。
荒次郎は7歳であった。

つぎの継妻は大井家からきた。
さらに粗略にあつかった。

「ひどいお話ですこと」
双眸に涙が浮かべて聞きいっていた里貴があわてて、酒をとりに立った。

新しい酒が注がれると、
「2人の異母も亡くなってみると、われのほうもなつこうとせず、依怙地であったと悔やむことしきりでな---」

「おなごに向けていた憎しみが溶(と)けたのは、(ゆい 18歳=当時)を室に迎えたときからで---はこころがひろく、義母にも偏見なく仕えてくれたばかりか、舅(しゅうと)に権現さま(家康)の家法をそれとなく説き、われの家督の道を、しかとつけてくれた」

「於さまは、どちらの---?」
里貴がさりげなく問うた。

京都西町奉行の土屋伊予守正延(まさのぶ 47歳 1000石)の妹と応えられ、
「その土屋さまなら、武田方の武将の流れ---」
里貴の記憶も確かであった。

正延が西町奉行の席へついたのは、長谷川備中守宣雄の後任・山村信濃守良旺(たかあきら 51歳 500石)が勘定奉行(公事方)へ転じたあとであった。

参照】2009年11月20日~[京都町奉行・備中守宣雄の死] () () () () () () (

里貴が甚右衛門広殷の内室・於へと、深川佐賀町の銘菓舗〔船橋屋〕織江の羊羹(ようかん)を持たせた。
広殷平蔵が手くばりしておいた船宿〔黒舟〕で、神田川を四谷橋まで遡り、あとは町駕篭で南伊賀町の屋敷へ、ご機嫌で帰っていった。

ちゅうすけ補】〔船橋屋〕織江の黄粉おはぎについては、
2008年8月18日~[〔菊川〕の仲居・お松] (10) (11
鬼平犯科帳』に登場する〔船橋屋〕は、
2006年9月17日[9月17日のハイライト] 

藤ノ棚の里貴の家で、例によってお互いに寝衣で向かい合あい、冷酒を酌みかわしながら、
「嶋田宿のこと、うまく収まりまり、よろしゅうございました」
「うむ。おまさがからんでいたので、いささか肝を冷やした」

「紀州のほうから文がきました。遠い縁者にあたる村の肝いりの三女で、16歳の奈々というむすめがくることになりました」
「16歳か」
「なにか---?」
「2,3年のうちに男ができるかもな」
「それならそれで、添わせながら勤めさせます。それより、私たちの家を見つけませんと---。こんなくつろいだ姿では、もう呑みあえなくなります」
「帯や紐で締められるのがいやだからって、素裸ではいられなくなるぞ」

参照】2010119[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (

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2011.06.15

建部甚右衛門と里貴(2)

長谷川さま。ご令息のお弓のほうはいがでございます?」
新しい酒を注ぎながら、里貴(りき 38歳)が、さりげなく尋ねた。
立ち聞きしたことをごまかすための、咄嗟の話題と察した平蔵(へいぞう 37歳)も、
「なかなか---」
受けとめ、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)へ、
「お見ぐるしく、豚児のことでございます」

「ほう、幾つになられるかの---?」
辰蔵(たつぞう)と申し、13歳にあいなりました」
「わが家の吉十郎(きちじゅうろう)は12歳での」
吉十郎甚右衛門広殷が43歳のときの男子ということだ。

「そんなに幼い---上はお姫さまばかりなのでございますか?」
「上に男子が2人いたが---それと、むすめが独り」
「お亡りになったのでございますか?」
こういう些事は、おんなのほうが得意である。

「いや、むすめは育っておるがの。息子2人は育たなかった」
「それは、それは。奥方さまのお嘆きは、いかほどでありましょう」
いまにも涙をこぼしそうな声であった。

甚右衛門広殷里貴から目を移し、
長谷川うじ。ご子息の弓の師範は---?」
「西丸で同じ組の布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)ですが---」
「うむ、日置(へき)流の達人とのうわさは耳にしておったが、弟子をとっていることはしらなんだ」
「いまのところ、豚児一人きりです」
「さようか---」
「豚児は、腕の力がまだ弱いということで、鉄条入りの木刀を素振りさせております」

「どうであろう、われのところの吉十郎も弟子の一人に加えてはもらえまいか? じつは蒲柳の質(たち)なもので、大勢の道場はむずかしい---」
「あすにでも、営中で訊いてみます。ご返事はご用人のほうへでも---」

平蔵の申し出にうなずいた広殷が、急に問いかけた。
「女将どのは、ずっと、産みの母ごに育てられたかの?」
「はい。紀州の寒村ではございましたが---」

里貴の返事を聞いた広殷は、しぱらく瞑目したままであった。
ぎょろ目を閉じた広殷の顔には、人生に倦(う)んだとでもいいたげな、疲れた色が浮いていた。
建部老はなぜに里貴の育ちを訊いたのであろう? まさか----亡父・宣雄(のぶお)の享年55歳とおなじ齢で、茶寮の38歳の女将に色情をおぼえたともおもえないが---)

そうではなかった。

目をひらくと、しみじみとつぶやいた。
「異母に育てられるというのは、育てられる子にとってもつらいことである」

平蔵は、父・宣雄(30歳=当時)が連れ子(3歳)の形で従妹・波津(はつ 30歳=当時)の婿養子となったが、幸い、異母は病床にありつづけたため、実母・(たえ 23歳=当時)もおなじ屋敷に住んでおり、父の結婚の影響は銕三郎にはおよばなかった。

異母・波津は、永年の病いが昂じ、銕三郎が5歳のときに逝った。

平蔵は、建部老のつぶやきが、先刻の里貴の「奥方さまのお嘆きは、いかほどでありましょう」への応えの一つと理解した。

(ついに建部老がこころを開いてくれた。なにか、秘密を告げたいのだ)

「じつは、里貴女将にも初めてする昔話ですが---われにも、実母と異母がいました」
前置きし、平蔵が異母・波津と実母・のことを打ちあけ、亡夫・宣雄は、波津の死後、妙をついに継妻としては幕府にとどけないまま正妻のごとき位置におき、親類たちにもそれを認めさせたと説明した。

参照】2006年6月25日[寛政7年(1795)5月6日の長谷川家]
2006年5月28日[長生きさせられた波津
2006年7月24日[実母の影響
2007年4月18日~[寛政重修諸家譜] (14) (16

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2011.06.14

建部甚右衛門と里貴

「そこもとが一橋の北詰で茶寮〔貴志〕をあずかっておられたころな---」
「一と昔も前のことでございます」

茶寮〔貴志〕の話題をだしたのは、火盗改メ・〔増役(ましやく)を解かれ、通常の職席である先手・鉄砲(つつ)の12番手の組頭・建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)であった。

相手をしているのは、茶寮〔季四〕の女将・里貴(りき)---38歳の大年増とはとても思えないほど若々しいのは、透きとおるほど白い肌とととのった面立ちのせいである。
もっとも、微笑むと目尻に3本ほどの浅い線がよるのは仕方がない。

里貴は、実年齢よりも4,5歳若く見られることを、寝間で平蔵(へいぞう 37歳)のむきだしの胸に頬をつけ、
(てつ)さまがこうしてほどよい間合(まあ)いで重愛(ちょうあい)してくださっているからです」
月に5夜か6夜の合褥(ごうじょく)では不満であろうに、それを洩らさなかった。
いまのことばでいうと、独り身でも、適度のセックスで女性ホルモンの分泌がいいということであろう。

平蔵とは、里貴が茶寮〔貴志〕の女将となってから、1年をおかずしてできた。
引き合わせたのは、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳=当時 300俵)であったが、もちろそのことは知らない。

参照】2009年12月23日~[夏目藤四郎信栄(のぶひさ)] () (
2009年12月25日~[茶寮〔貴志〕のお里貴(りき)] () () 
2010年1月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () () 

いや、男とおんなのなれそめなど、偶然の出会いとちょっとしたきっかけがあればできてしまうものだから、それをぐだぐだ語ってみてもはじまらない。

ただ、平蔵里貴とは、躰のぐあいが微妙に合ったために長つづきしたといっておこう。
それと、里貴が最初から妻の座をもとめなかったことも、2人のあいだに紛糾が起きなかった。
しかも、次から次へと予想外の事件がおき、好奇心が寝間へまで入りこんだ。

建部組頭が想いだしたよう言葉をつないだ。

そのころ、甚右衛門広殷<は、本丸の小姓組番士から使番に選ばれて6,7年も経ていたろうか、諸事に馴れつくしたとうぬぼれ、〔貴志〕の美人女将のうわさを聞きこみ、親しくしていた安西彦五郎元維(もとふさ 53歳=当時 1000石)を誘って訪れようとしたところ、元維の病いがはじまりかけてい、実現しなかった---と打ちあけて笑い、

「10年来の念願がかない満足至極」
お世辞たっぷりであった。

客のお世辞にはめったに動じない里貴が、平蔵かかわりということで、目元をうっすらと赤らめ、
「そのころはもうすこし若うござしました」
「お互いにな。はっ、ははは」

建部甚右衛門広殷の笑い声の奥にひそんでいる安西彦媚老元維への友情の深さを見ているだけに、平蔵は追従笑いができず、ごまかすために手酌した。

参照】2011年4月18日~[火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷] () (

「私としたことが、建部さまのおなつかしいお話に聞きほれ、失礼いたしました」
里貴は、さりげなく建部へ先に酌をし、つづいて平蔵にすすめた。

里貴があたらしい酒を取りに立つと、建部老は、なにげないふりで、
長谷川うじ。嶋田宿の陣屋からきた十手あずかりの観察に、まったく興味を示さなかったのには、なにか存念でも---?」
さすがであった、見るべきところはきちんと見ていた。
それを、里貴にことよせてこの場をしつらえさせて切りだすとは---。

参照】2011年6月3日[建部甚右衛門広殷、免任] (3

「その---それがしの幼なじみの女がからんでいるやにおもえまして---、それをたしかめたくて---」
正直に口にできた。

「偶然に---?」
「さようです」
「気がかりであろう。そのこと、(にえ) 越前(守正寿 まさとし 41歳 火盗改メ・本役)どのにも伏せておく」
「お心遣い、かたじけのう---」
「秘密は一人でかかえているより、2人でわけあったほうが興がのる」

わざわざ足袋のすり音をたてた里貴が新しい酒をもってあらわれた。
どう振るまえば、平蔵のためになるかと、思いつめたような表情をしているのが、いじらしかった。
襖の向こうで盗み聞きをしたにちがいなかった。

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2011.06.13

[火つけ船頭(巻16)]注解(2)

JR静岡駅ビル・パルシェ7Fでの〔鬼平クラス〕のリポートのつづき。
先だって5日のテキストが文庫巻16[火つけ船頭]であったことは、昨日の当コンテンツに記した。

じつは、この篇は、ぼくにとって、慙愧に耐えない篇である。

そう、25年ほど前のこと。
池波さん、落合恵子さんなどと、「読売新聞映画広告賞」の審査員を10数年つづけていた。
映画広告が掲載された30ページ近くが毎月送られてき、その中から候補作品を選んで返送、年に一度、全審査員---といっても5名が集まり、最終選考をした。
池波さんとも親しく口をきくようになっていたから、6,7回めあたりだったとおもうが、審査前の雑談のとき、
「火盗改メの鬼平は、火つけ犯も逮捕するのでしょうが、火事の場面は[火つけ船頭]くらいですね」
心易だてに、うっかり、いってしまった。

池波さんは、立腹もしないで、
「ぼくは、火事がきらいでね。火事の描写って、むずかしいんだよ」
それきり、黙ってしまわれた。

それから1年もたたないうちに、まるであてつけるかのように書かれたのが、文庫巻22[炎の色]であった。
もし、亡くなられないで未完[誘拐]が書き継がれていたら、〔荒神こうじん)〕のお夏(なつ 26前後)は江戸のどこかに放火をさせていたであろうし、火事さわぎの描写も真にせまった筆づかいでなされたろう。

それで、〔鬼平クラス〕の[火つけ船頭]の講義日、小林清親画伯の『東京名所図』(学研)から火事の絵を3点、カラーコピーして披露した。
というのは、子どものときから絵を描くことが好きであった池波少年に、母方の祖父が、
「小林清親に弟子入りを頼んでやるから---」
約束し、池波少年もすっかりその気になっていたと、エッセイにあるからであった。
もし、[誘拐]が書きつがれていたら、火事の描写の参考にされたにちがいない。

_360
(小林清親画『東京名所図』 [浜町より写両国大火])


_360_2
(同上 [両国大火浅草橋])


_360_3
(同上 久松町で見る火事)


そう確信しているのは、細部の描写もおろそかにしない池波さんの気質をしっているからである。

A_150_2火つけ船頭]に添い、その気質を証明した。

火つけ船頭・常吉が南伝馬町1丁目南鞘町の畳表問屋〔近江屋〕の裏側の塀に放火した。


なにぶんにも、外塀が燃えだしたのだから発見も早く、また、消火もしやすかった。
町火消しりニ番組の内、〔せ組〕の鳶(とび)の者が駆けつけて来るし、〔ろ組〕も〔も組}も出動するというわけで、さいわい近江屋の火事は内部を侵(おか)すこともなく、身辺に燃えひろがることもなく、消しとめねことができた。
(p168 新装版p174)


鬼平のころの町火消町内組合Fは、2番組---、
せ組  炭町、南槙町、南大工町、大鋸町、
     五郎兵衛町、281人
ろ組  元大工町、左内町、下槙町、上槙町、254人
も組  南紺屋町、銀座町、三十間堀、丸屋町、数寄屋町、
     西紺屋町、103人

ほんの1行分でしかない瑣末の調べも、おろそかにしていない。
(右図::町火消しニ番組の纏 上から、ろ組、せ組、も組)

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( 町火消しの出張り 『風俗画報』明治31年12月25日号)


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2011.06.12

[火つけ船頭(巻16)]注解

先週の6月5日(第1日曜日)の午後は、JR静岡駅ビネルのパルシェ7FにあるSBS学苑の[鬼平クラス]の日であった。

もう6年もつづいているのでテキストは、文庫16巻[火つけ船頭]まですすんできた。

当日の[火つけ船頭]は、盗賊の追捕(ついぶ)の物語りである『犯科帳』のなかでも、いささか風がわりな要素が濃い。

というのは、原鉱用紙80数枚の1話の中に、当時は犯罪と見られていた所業が4種類も描かれているからである。

は、〔岡本(おかもと)〕の源七(げんしち 45,6歳)一味による日本橋南鞘町の畳表問屋〔近江屋〕六兵衛方での、おもいもよらない未遂盗奪事件(草加宿に本拠をおき、かずかずの犯行をかさねてきていることはいうまでもない)。

は、〔関本〕一味に手を貸した浪人・西村虎次郎(とらじろう 30がら)が同じ長屋の船頭・常吉(つねきち 29歳)の女房との密通。

は、西村虎次郎がこれまでにやってきた20:件の辻斬り。

は、船頭・常吉がおこなった放火。

鬼平のころの犯罪は、「公事(くじ)方御定書(おさだめがき)」によって裁かれた。

ところが「公事方御定書」は秘密あつかいで、3奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)以上の幕閣でないと見ることができなかったらしいが、それは表向きで、奉行所内はおろか、しもじもでも、「10両盗めば首がとぶ(斬首の死罪)、有夫の女房(妾も含む)との密通は、男女ともに死罪で、密通現場で夫に刺し殺されても不問としっていた。

放火犯は、裁かれれば火刑(火あぶり)であった。

辻斬りは? 
もちろん、死罪。

それらの「公事方御定書」の条文を、畏友・福永英男さんの労作・私家版[『御定書百箇条』を読む](2001.12.16)を引いて注解した。

じつは、、「公事方御定書」を収録した『禁令考』はかねてから所持したいたはずだが、今度の震災による書斎の倒壊で所在がいまだにしれないので、福永さんの名著から抜粋・コピーして配布した。


第五六条 盗人ぬすっと)御仕置の事

(従前々の例)
②一、人を殺し盗み致し候者 引き廻しのうえ獄門。
(享保七年極)
③一、盗みに入り刃物にて人におっけ候者 盗物(を)持主へ取り返し候とも、獄門。
(追加・従前々の例)
 但し、忍び入りにてこれなく候とも、盗み致すべしと存じ、人に疵つけ候者 死罪。
(享保七年極)
④一、盗みに入り、刃物にてこれなきほかの品にて人に疵つけ候者 右同断 死罪。
(従前々の例)
⑤一、盗み致すべしと徒党致し、人家へ押し込み候者 頭取 獄門。同類 死罪。
    (以下、略)


従前々の例)は「まえまえから例」と訓じる。

おまさ などがやった引きこみは、


(従前々の例)
⑦一、盗人の手引致し候者 死罪。



第四八条 密通御仕置の事


(従前々の例)
①一、密通致し候妻 死罪。

(同)
 一、密通の男    死罪。 


この条文通りだと、[火つけ船頭]の船頭・常吉の女房・おときは、遠島ではなく死罪にならなければいけない。

もっとも、現今の世情だと、妻の不倫はさほどに珍しくもなく、離婚ていどですますことが多いようであるから、池波さんも遠島ですましたのかもしれない。



第七一条 人殺し並びに疵(きず)付け御仕置の事

 一、辻切り致し候者 引き廻しのうえ死罪。



第七〇条 火附(ひつけ)御仕置の事

(従前々の例)
①一、火を附け候者 火罪。
(寛保二年極)
②一、人に頼まれ火を附け候者 死罪。     ゛
(従前々の例)
 但し、頼み候者 火罪。
(享保八年極)
③一、物取りにて火附け候者引き廻しの儀 日本橋、両国橋、四谷御門外、赤坂御門外、昌平橋
 外
 右の分引き廻し候節、人数多少によらず、科書きの捨札建て置き申すべく候。もっとも、火を附け候所、居所(の)町中引き廻しのうえ火罪申し付くべき事。
 但し、捨札三十日建て置き申すべく候。
      (以下、略)


公事方御定書」は、八代将軍・吉宗の命によって整備されたことをつけ加えておく。

さらに余計なひと言。
百三条をその気になって読んでいると、江戸の市井ものの3篇や5篇はすに構成てきそうな気がしてくるから妙だ。

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2011.06.11

辰蔵の射術(8)

「ううっ---父上---怖い」
躰の芯に、これまで体験したことのない異様な快感をおぼえた丹而(にじ 12歳)が、処女の直感であろう、危険をさとり、おもわず父を呼んだ。

そのつぶやきに、辰蔵(たつぞう 13歳)の脳裏にも、弓術の師・布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)の謹厳な顔がよぎった。

丹而は十兵衛良知の長女であった。
名は、天空の美しいかけ橋---虹からあてられた。

年齢差がやや開いているのは、継室・於(りく)から生まれたからであった。
清楚な感じをいまなおたもっている継室は、田安家の家臣・平井八左衛門の次女であった。
八左衛門は田安家のために、紀州藩から江戸へ呼ばれた。
十兵衛が熟達していた弓術・日置(へき)流は、紀州藩でも主流であった。
は、幼いときの怪我がもとで片脚に軽い障害がのこってい、婚期がすこし遅れた。
そのせいで難産で、つづいての2人も女児であった。

良知は、掌中の珠玉のようにいつくしみ、ひそかに婿養子を考えていた。

身を起こす丹而に手をかし、その衿元からもれた生臭い匂いをふりきり、座りなおした辰蔵が、問いかけた。
「話しというのをうけたまわりましょう」

辰蔵への丹而のほのかな想いを察知した父・十兵衛良知が、辰蔵長谷川家の嫡男であることを理由に、今後、稽古にきても、茶菓の奉仕はもとより、汗ぬぐいの井戸水を汲むこともやめるようにいい渡したのだと。

「家では、もう、お会いできません」
丹而の目にまた涙があふれた。

「先生に背くことはできませぬ。しかし---」
「しかし---?」
「ここでなら、お会いできます」
「ほんとうですか?」
「一度か二度で終るとおもいますが---」
「なぜでございます?」

婆へ渡す小粒がつづかないとはえなかった。
「修行のさまたげになります」

「ただお会いするだけでも---?」
「会えば、口をあわせたくなります。乳房にも触れたくなります。拙は我慢できませぬ」
「うれしいお言葉。では、こんどは、いつ---」
「黒い握り革をした稽古日のあくる日の八ッ(午後2時)にここで」
「黒い握り革の翌日---でございますね。きっと参ります」

双眸(りょうめ)をとじた丹而が口をさしだした。
抱いた辰蔵があわせると、なんと、丹而の半びらきの唇から舌の先をだしてきた。
感じた辰蔵も先端で応えた。

しばらく先端同士でたわむれているうち、自然に丹而の舌が深くさしこまれた。

あえぎはじめた丹而は、もう、
「父上--」
とはうめかず、抱きついた腕に力をこめた。


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(鳥居清長 イメージ)

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2011.06.10

辰蔵の射術(7)

辰蔵(たつぞう 13歳)が、明日の丹而(にじ 12歳)との密会のときの科白(せりふ)をあれこれ練って眠れずにいたころ、平蔵(へいぞう 37歳)は寝床に久栄(ひさえ 30歳)とともにいた。

布施うじのむすめごが、辰蔵に気があったという件だがな---うふ、ふふふ」
「なんでございます、その含み笑いは---」

丹而(にじ)とかいったが、12歳とかいうことであったぞ」
「色恋にかけては、12歳なら、もうりっぱなおんなでございます。おまささんのことでお分かりでございしましょう?」
おまさ、のう。久栄のことを妬いておったようだが、いま、どうしておるかのう?」
おまささんは4つ;齢下でしたから、いまは26歳---どこぞの男とこうして---お妬けになりますか?」

「なにをいいだすやら---そこもとに4人ものややを渡したというのに」
「さ、も一人くださいませ」

男とおんなの性感を高めるための閨(ねや)でのじゃれあいやまさぐりあいは、何歳になっても他愛ないし、むかしも今も罪がない。

翌日。

361_360
(牛込神楽坂 坂上に毘沙門堂
『江戸名所図会 塗り絵:ちゅうすけ)

神楽坂上の毘沙門天の堂前で、しゃがんで手をあわせている丹而の肩に、辰蔵がそった触れた。
びくついてふり向いた丹而に笑顔をみせた辰蔵の手は、離れなかった。
辰蔵のその手の甲に丹而の掌が重なった。

初めての愛撫のふれあいであった。

約をとりつけておいた茶店へ2人が並んで入ると、婆が皺の多い目を細め、
「どこかの後家さんかとおもったら---。ままごとでもすっかね」
辰蔵の背中をどんとぶった。

「1刻(2時間)ほど、2人だけで話しあいたい」
辰蔵がすばやく小粒をにぎらせた。

「1刻といわず、2刻でも3刻でも話しあっとくれ---}
婆はほくほくで、気前のいいところを見せた。
さすがに人生に苔が生えている---一度ですむずがないとふんだのであった。

土間とのあいだの障子がしめられ、2人の世界になっても、どうしていいかわからず、ただ、手をとって瞶(みつめ)あっているだけであった。

いや、辰蔵は、唇をあわせあうことはあぶな絵を見てしっていた。
下腹をあわせることも覚えていたといえぱいえた。
昨夜、寝床のなかで空想しなかったといえばうそになる。
しかし、幼く清純な丹而を目の前にしていると、そんな所業はとてもできなかった。

と、丹而の瞼から、みるみる大粒の涙がこぼれはじめた。
「おお---どうなされた?」
婆の耳に入っては---と丹而の名を呼ばないだけの分別はあった。

「たつ---」
辰蔵さまといいかけたので、手をひっぱり寄せ、口を指でふさぎ、耳元で、
「名をいってはいけない。素性がしれる」
低くささやいた。

辰蔵に抱かれ仰向いたままの丹而がうなずき、辰蔵の首に腕をまわし、口を寄せた。
おもわず唇をあわせたが、丹而は唇を半びらきにしたままで、辰蔵も舌でじゃれあうことまではしらず、ただ重ねているだけであった。

14歳の銕三郎(てつさぶろ)が、三島宿のお芙佐(ふさ 25歳)と同衾したときには、若後家であったおんなのほうから舌を入れまさぐってきたので、銕三郎もたちどころに察した。
そればかりか、お芙佐はそのあと、乳首を銕三郎にふくませ、
「ややが母親のものを吸うように、舌をつかい、やさしくなぶって---」

唇に触れ、相手の息を感じているだけで、辰蔵のものは硬直していた。
しかし、丹而は、そのことの意味をしらなかった。

袖の脇の開きから、辰蔵の指が忍んでき、乳首をつままれたとき、その初めての感触に、気を失いそうになった。
おもわず、しがみつき、支えきれなくなった辰蔵が倒れた。
丹而も転がり、すそが割れた。

そのうえに辰蔵がかぶさり、指が、ふくらみの小さい乳房を静かになぶりつづけた。

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2011.06.09

辰蔵の射術(6)

さて、辰蔵(たつぞう 13歳)である。
丹而(にじ 12歳)から
「2人だけで会える機会をおつくりください」
もちかけられ、天にものぼるほど浮きたったものの、密会の場所をおもいつかないのである。

学習塾で秘画を隠れ見し、.夢で丹而を抱いて夢精を洩らしはしているが、出合茶屋や船宿がそのようなことのための座敷を貸してくれるとはかんがえがおよばない。

布施家のまわりに寺と墓域は多いが、丹而にふさわしくないばかりか軽蔑されよう。
さりとて、父の平蔵(へいぞう 37歳)や塾の仲間に訊くわけにもいかない。

おもいあぐねていたとき、父から鉄条入りの木刀をわたされ、朝夕、素振りをとりあえず50回ずつこなすように命じられた。
布施先生が、弓を引く腕の力をつけよとのことであった」

稽古の帰りに、密会の場所をさがして歩いた。
布施家からちょっと離れたあたり---赤城明神八幡宮の本殿裏とか済松寺の墓地はずれの加仁(かに)川のほとりなどをきょろきょろと探索したが、どれも丹而とのせっかくの密会にはふさわしくなかった。

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(赤城明神社八幡宮 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


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(済松寺  同上 塗り絵師:ちゅうすけ)


素振りが80回に格上げされた日の帰り、神楽坂の善国寺門前でにわか雨にあってしまい、斜(はす)向いの茶店へ飛びこむと、そこの婆さんが奥の部屋で着物と袴を脱いで水気を拭きとるがいいとすすめてくれた。

肌襦袢姿で、
「お婆独りか?」
「毘沙門天さま参りの客相手のしがない商売だでなあ」
「お婆、こんど、この部屋を1刻(2時間)ばかり)貸りられまいか?」
小粒をにぎらせた。
歯抜けの口をほころばせ、
「いいともよ。どこぞの後家さんと忍び会いかえ。このごろの若いお武家はすみにおけないねえ」
「さようではない。では頼んだぞ」

雨があがるや、2丁(200m強)と離れていない布施家へ行き、丹而に、
「明日の八ッ(午後2時)に毘沙門天門前で---」
丹而がこっくりとうなずき、双眸(りょうめ)の光がちがってきた。
一人前のおんなが逢引きの約束をし、期待をはずませている眸の輝きであった。

その夜、辰蔵は夢精をしなかった。
指でいじっているうちに、昂ぶって放射してしまっていた。


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2011.06.08

辰蔵の射術(5)

営中の控えの間で持参した昼餉(ひるげ)を摂りおえ、茶をすすっているとき、布施十兵衛良知(よしとも 39歳 300俵)が目顔でさそってきた。

はばかりへ連れ立って入ると、
辰蔵(たつぞう 13歳)どののことで話しあいたいから、下城をともに---」
ささやかれたので合点したものの、実を聞くまで心配になった。

剣のことなら、息子だから筋は悪くはあるまいが、弓となると、自信がなかった。
辰蔵は稽古に励んでいると、久栄(ひさえ 30歳)がいいきったが、母親のひいき目ということもある。

城につめている平蔵としては、辰蔵の武術の才を評価する機会がほとんどなかった。

まさか、おんなのことではあるまい---いや、布施どのは、最初の内室に子ができないという理由で離縁なされ、すぐに継室を迎え、たてつづけに3女もうけたことから、
十兵衛ではなく、むっつり助兵衛というほうが正しい」
陰口を耳にしたこともあった。

布施邸が牛込白銀町の行元寺裏なので、松造(よしぞう 31歳)を、元飯田町中坂下の料亭〔美濃屋〕源右衛門方へ先行させた。

「お待ちしております」
であった。

酒がでても、布施十兵衛は、しばらくはむっつり、盃をかたむけているばかりであった。
「で、辰蔵のことですが、やはり見込み薄ですか?」

たまりかねた平蔵が苦笑とともに糸口をつけると、掌をふった十兵衛が、
「稀に見る才能の持ち主で---」
「さようですか。豚児とおもうておりましたが、鳶(とんび)が鷹を生んでおりましたか。はっ、ははは」
冗談にまぎらせたが、十兵衛はのってこなかった。

またしばらく黙っていたが、
「12歳になるむすめの丹而(にじ)が---」
また口がとまったので、
「むすめごが---?」
辰蔵どのの嫁になりたいと申しまして---」
懐紙で首筋の汗をぬぐい、黙ってしまった。

辰蔵は、まだ13歳ですが---」
こころでは、14歳でお芙佐(ふさ 25歳)に男にしてもらったのも、亡夫・宣雄(のぶお 40歳)の手くばりであったことにおもいいたっていた。

参照】2006年5月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] () (

(憑(つ)きもののようにおれを苦しめていた性への妄想が、あれで落ちた)

辰蔵どのはご嫡男、丹而には、養子を考えおり申す」
十兵衛としても、熟考のすえの判断であったろう。

「あい、わかりました。辰蔵にはわれからそれとのう申し聞かせます」
「いま、一つ---」
「なんでしょう?」
辰蔵どのに、腕の力を---引分(ひきわ)けがいささか弱い」

引分けとは、左腕で弓を前へ押し、右手で弦を引く、弓術の基本動作である。

(そうだったか)
辰蔵を伴い布施宅を訪れて入門した日、使いこんでしなりのいい弓を下げわたしてくれたのは、弓の達人の目で、あれの腕を観察した上でのことであったのだ。

辰蔵の素振りのための、鉄条入りの木刀が発注された。

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2011.06.07

辰蔵の射術(4)

12本の矢を放ちおえ、辰蔵(たつぞう 13歳)は師・布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)に向かい、揖(ゆう)の礼を行い、評を待った。

揖の礼とは、上躰を4寸(12cm)近く傾け、承る姿勢である。

「上達が見えた」
良知のはまさに寸評で、いつもこれしかいわないが、その日の声の抑揚で、褒めているのか励まされたのか、辰蔵はほとんど正確に感得していた。
少年の感受性はするどい。

きょうは、12矢のうち、的へ達したのは8本、真ん中を射抜いたのは1本でしかなかった。
不満がられても仕方がなかった。
「忝けのう、ございました」

師があごで、うながした。
井戸で汗を拭いてこいというのだ。
井戸は隣家と共同で使っていた。
牛込白銀(うしごめしろかね)町あたりに屋敷を与えられている300石前後で、下賜屋敷も300坪(1000平方m)という旗本でも中の下級の家は、ほとんど専用の井戸はもっていなかった。
もっとも、隣家との仕切りは高い塀で目隠しされていた。

400石で、南本所とはいえ1,238坪(4,000平方m余)の屋敷をもっている長谷川家は特別であった。
父・宣雄(のぶお 享年55歳)の倹約と思惑で手にいれた屋敷地であった。

井戸では、良知の長女の丹而(にじ 12歳)が、いつものように手桶に水を汲んで待っていた。
丹而は、毎朝の父・良知の鍛錬にもそうやって奉仕をしていたから、初弟子といえる辰蔵にもそうするものと決めていた。

当初、辰蔵は、丹而の前で上半身をさらすのにこだわったが、
「父上のお弟子なら、兄妹(きょうだい)同然でございましょう? 妹に裸をみせるのをこだわる兄がいましょうや」
12歳とはおもえないませた口調でたしなめた。

丹而には男兄弟はなく、下に妹が2人なので、自然にませた口をきくのが癖とは、あとでわかったが、辰蔵としては、3歳と5歳下の妹---(はつ)と(きよ)とは肌あいがまったく違うようにおもえ、丹而におんなを感じていた。
10歳から12歳のあいだにおんなの子からおんなの躰に変わる者がいることを辰蔵はころえていなかった。

このごろ、脇下と股のあいだに生えてはじめてきているのも気なっていた。
脇の毛に、丹而の視線がそそがれているようにおもえた。

さらに、単衣の季節になり、つるべから手桶へ水をかがみ気味で移すとき丹而の衿もとがひらき、ふくらみかけている乳房がのぞけたときなど、どきどきした。

学習塾の塾友だちがこっそり見せてくれる秘図のおんなたちの、乳房の豊かなふくらみにくらべると、丹而のはあるかなきかのふくらみであったが、それが情欲の発火点の一つであることは、悪童連の話でわかっていた。

辰蔵さま。お話がありますの---」
まわりを見まわしてから、丹而が顔をよせてきた。

袖に腕をとおしながら、丹而の息が感じられるところまで、辰蔵も耳をよせた。
「ここでは、話せません。いつか、2人だけで会える機会をおつくりください」


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2011.06.06

辰蔵の射術(3)

「それとなく確かめたら、辰蔵(たつぞう 13歳)が、自分で洗い、自室に干していることがあるようでございます」
床の中で、久栄(ひさえ 30歳)が太股の茂みを平蔵(へいぞう 37歳) の腰へすりつけながら洩らした。

4人の子を産み、みっちりと肉がついてきた尻をなぜてやりながら、
「塾の悪たちに、あぶな絵でも見せられたかな---」
「そんなものを塾へしのばせてくる子がいるのでございますか?」
久栄は、ここへ嫁入るときに、母ごからそっと渡されなかったかな?」

「それとこれとは別でございます」
指で平蔵のものをつまみ、唇を首筋につけた。

「跡をつけるなよ、出仕できなくなるからな---それを、まだ、隠しもっているのか?」
(はつ 10歳)と(きよ 7歳)の嫁入りに持たせねばなりませぬゆえ」
「見せてみよ」
「ご覧になるより、なさったほうがおよろしいのでは---?」
「お互い、ときめかなくなったものよ---はっ、ははは」
「実のほうが、よほどにみだらで、ようございます。うっ、ふふふ」
「そのとおり---}
みだらといわれ、ちらっと嶋田宿の本陣の若女将・お三津(みつ 22歳)のあられもない姿態がうかんだ。

参照】2011,年5月14日[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] (

辰蔵も、もう、おんなを抱くことを夢みる齢ごろとおもったほうがよろしいので゛ざいましょうか?」
「人によって早い遅いの差はあろうゆえ、いちがいにはいえぬが、あぶな絵を見れば、挙立はしよう」
「殿さまは、おいくつで---?」
「いくつとだったおもう?」
「深大寺(じんだいじ)でお目にはかかったとき、私は16歳でございました」

参照】2008年9月8日[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] (

「清らかなむすめであった---」
「食指がうごきませぬでしたか?」
「動いたからこそ、こうして寄りそって寝ておる」
「ふっ、ふふふ。挙立しましたか?」
「そなたは裸ではなかった---。はっははは」
平蔵の指が、まさぐりはじめた。

久栄もつかんでいた。
辰蔵は、殿さまのお子です。晩熟(おくて)であるはずはございませぬ」
「申したな---」

辰蔵が夢の中で抱いていた相手のことを知ったら、平蔵久栄も、あわて、驚いたであろう。

2003
(磯田湖竜斎 部分 『芸術新潮』2003年新年号)


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2011.06.05

辰蔵の射術(2)

「お茶をお持ちいたしました」
久栄(ひさえ 30歳)が小間使いをしたがえ、廊下から声をかけた。

「うむ---」
指先につまんでいた針を書見台へ置いた平蔵(へいぞう 37歳)が、
(たつ 13歳)は、精がつづくのう」

「朝、昼、夕べ、半刻(1時間)ずつも励んでおります」
「弓がよほどに性(しょう)にあっていたとみえる」
「殿さまも稽古を見ておやりくださり、助言なと---」
「いや、それはならぬ」
「お冷たいこと。なぜでございますか?」
の弓術は、布施十兵衛良知 よしのり 39歳 300俵)どのに預けたのだ。横から余計なことは、差し出がましいし、のためにもならぬ」

「でも、父親として---」
「たとえ、父親であっても、弓術については、口だししてはならぬのだ。それより---」
目で、小間使いをさらせ、辰蔵の褌(ふんどし)を洗っておる下女が、変化を告げていないか、と訊いた。

「変化と申しますと---?」
「妙な汚れじゃ」
「汚れ---?」
「男の子は、夢精といってな、夢の中でつい、発射してしまうのじゃ」
「発射---?」
「ほれ。われがおことと睦んで頂上にたっしたおりに発射する、あれじゃ」

「男の兄弟なしで育ちましたゆえ---。むすめの月のものみたいなものでございますか?」
「真っ昼間から、妙な話題になったが、月のもののように決まったものではない。夢の中でおなごといたすとはかぎらぬのでな」
「夫婦(めおと)でございます、真っ昼間から寝屋ごとをしようと、その話をしようと、恥ずかしくはございませぬ」
「そう、力むな」

停めないと、寝間に布団を延べそうな力みようであった。
久栄の双眸(め)が潤んでいた。
(そういえば、ここしばらく接しておらぬな)

庭での弓弦(ゆづる)の音が止んでいた。

「ことさらに、下女に問うでないぞ。男の子の秘密ゆえな」
「はい」
「話のつづきは、今宵、寝間でな」

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2011.06.04

辰蔵の射術

先ほどから、裏庭で弓弦(ゆづる)の音がつづいている。
辰蔵(たつぞう 13歳)が行射(ぎょうしゃ)をしているのだ。

布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵 39歳)について射術を学んでいた。
十兵衛良知は、平蔵(へいぞう 37歳)の同僚で、西丸・書院番4の組の番士である。

辰蔵が弓を習いたいと申しでたとき、すぐに十兵衛に師iを頼もうと決めた。
2歳年長ながら、平蔵とは反対に寡黙で、たいていのことはうなずくか横にふるかですましていた。
だから意見がないというのではない。
自分から先に意思を示すというのではなく、求められてからきちんと賛否を表したのであった。

そのかぎりでは変人でとおっていたが、西丸の主(あるじ)---家斉(いえなり 10歳 豊千代の加冠後の名)の加冠の式典のあとの矢射の競技で、みごとな腕前を披露し、いっきょに名が知られた。

参照】家斉という諱(な)を案じたのは林 百助であった。
2010225[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (11

相番になったとき、愚息・辰蔵の射法を見てやってくれないかと頼むと、珍しく口をひらき、
「なぜ、剣から始めない?」
訊きかえした。

射術なら相手がいなくても一人で稽古ができるという辰蔵の希望を伝えると、莞爾としてうなずき、
「弓の敵は、おのれのこころのみ---」
つぷやくように応じた。

たしかに闘技には、稽古といえども相手が存在する。
弓は自分一人だけの修練であった。

双方が非番の日、辰蔵を伴い、束脩(そくしゃう)を携え、行元寺裏の牛込白銀(うしごめしろかね)町(現・新宿区白銀町)の布施家を訪れた。
西丸・書院番4の組の与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 800俵)から1丁(100m強)と離れていない。

前もって告げておいたので、良知自らが出迎えた。
齢は良知が2つ上だが、書院番入りしたのは平蔵のほうが2年早かった。

しかし、平蔵は、この日は営中でのしきたりに従わず、あくまでも辰蔵の師としてうやまい、礼をつくした。

長谷川家にもたんとござろうが、手前よりということでお納めくだされ」
7尺3寸(2.21m)の並弓を辰蔵がかしこまって受けた。
そういう礼法は、すでに1年以上も学んでいた。

「手前が稽古始めに使ったものだから、充分になじんでおります」
「お弟子は、辰蔵が---」
辰蔵どのが初めてでず」
「重々、恭ないこと」

日置(へき)流の射者の中でも、布施良知は隠れた名手と噂されていた。


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(布施十兵衛良知の個人譜)

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2011.06.03

建部甚右衛門広殷、免任(3)

「十手持ちのあの宇三(うぞう 38歳)が、何かいって参りましたか?」
内心、ひやりとした。
(荷船頭の梅吉(うめきち 60がらみ)のことが露見(ばれ)たか---)

参照】2011年5月10日[神座(かんざ)村の梅吉

同心・三宅重兵衛 じゅうべえ 42歳)の話はそのことではなかった。

嶋田宿の蔵元の〔神座(かんざ)屋〕伊兵衛方を襲った尾州言葉を使った賊が、大井川を川越しして西へ逃げたかもしれないと、川越(かわごし)人足の頭領・〔天神(てんじん)〕の安兵衛(やすべえ 51歳)に質(ただ)し、人足たちに訊かせたが、それらしい者がいなかったということであった。
だから賊一味は、東の藤枝宿へむかったと憶測できる、と。

「大井川ぞいに北へ向かうことも---」
あやうく口から出そうになったが、建部組は火盗改メ・増役(ましやく)を解かれているのだし、宇三の注意を梅吉のほうへ向けることもなかろうと、
「嶋田の陣屋へは、建部さまの組がすでにお役をお離れになっていることが、まだ、伝わってはおりませんでしたか」

「陣屋は役方(やくかた 行政)の勘定奉行所の支配ゆえ、番方(ばんかた 武官)の布(ふ)れは、どうしても遅れがちになります」
与力・原田研太郎(けんたろう 38歳)が口をゆがめて言いわけをした。

「縄張りへのこだわりが、どうしても直らない---困ったものよ」
増役を離れた建部甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)が嘆いた。

建部家は元来、番方だが視野がひろく、甚右衛門広殷自身も使番も経験し、この時から3年後には禁裏付(きんりつき)という公家相手の難職にも就き、こなしている。

食事がすみ、原田与力と三宅同心が、明日の勤めがあるのでと立ったのにあわせ、平蔵(へいぞう 37歳)も腰をうかせたのを、広殷が制した。

2人が消えると、
長谷川うじ」
笑みをふくんだ大きな目を向け、(にえ)越前守正寿(まさとし 41歳)どのから伝わったが、深川の茶寮〔季四〕にたいそう顔がきくそうな、いちど相伴してくれないか、と切りだした。

(まさか、里貴(りき 38歳)から於佳慈(かじ 31歳)、さらには田沼意次(おきつぐ)侯へという線---とも思えないが---)
平蔵は気軽をよそおって請けあい、いつごろかと問うた。

「席がとれる日を2つか3つ、あらかじめ、示してもらえまいか?」
承知し、辞した。

平蔵の足元を照らしながら、松造(よしぞう 31歳)が、
「殿。建部さまは、{季四〕へどなたをお招きになるおつもりでございましょう?」
「予測してもせんないことは、無駄に考えないことだ」

両国橋の西詰で松造と別れ、舟で亀久橋へ向かった。


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2011.06.02

建部甚右衛門広殷、免任(2)

おんなを抱くのも、おなごから逃げるのも、若いうちは経験だ---と笑いとばした建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 56歳 1000石)に、平蔵(へいぞう 27歳)は、古武士の豪放だけではない、抒情を感じとった。

参照】2011年4月5日~[火盗改メ・堀 帯刀秀隆] () () (
2011年41月18日~[火盗改メ増役・部甚右衛門広殷] () (

平蔵が建部広殷に会い、言葉を交わすのはきょうが3度目であったが、なんとなく気があいそうというか、ちょっと甘えてみたい感じになっていた。

平蔵が同年配の仲間よりも齢かさの仁に引き立てられたのは、そういう、甘えというか、よりかかる気性をもっていたからであろうか。

いまの場合もそうであった。
建部組頭さま。後学のためにお教えいただきたいのでございますが、おなごから逃げるのも経験のうちといって許されるのは、幾歳まででございましょう?」

訊かれた甚右衛門広殷は笑いをおさめ、それが特徴でもあるぎょろ目で深ぶかと平蔵を瞶(みつ)めていたが、首をニ、三度ふると、
「長谷川うじ。もう手おくれであろうよ。若いうちといってすまされるのは、家禄を継ぐまでのこと---」
断定しおえると、また、からからと笑った。

「と申されますと、いまの拙の10年前---たしかに手おくれでございますな」
平蔵も笑いでごまかした。

---が、ごまかしきれなかったようであった。
「10年前というと---?」
「28歳でありました」
「ふむ。われの遺跡相続は17歳であった---いや、かような微妙な話題は、組下の前ではしてはならぬ。いずれ、席をあらためてな---はっ、ははは」

亡夫・宣雄からの年長者でない心の友をも、一人得た感触があったが、そのおもいを断ちきった平蔵は、さぐりを入れてみた。

三宅重兵衛 じゅうべえ 42歳)どの。嶋田陣屋の手代の祐助(ゆうすけ 45歳)から、なにか目新しいことでも申してきましたか?」

三宅同心は、上役・原田り研太郎( けんたろう38歳)与力が軽くうなずくのをたしかめた上で、
「十手持ちの宇三(うぞう 38歳)と申した男、お覚えでしょうか?」

平蔵が合点すると、膝をすすめてきた。

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2011.06.01

建部甚右衛門広殷、免任

天明2年(1782)4月24日、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)の火盗改メ・増役(ましやく)が解れた---ということは、本来の先手・鉄砲(つつ)の第13 の組頭職へ戻ったということであった。

建部組の増役は、この3年、毎冬つづいていた。
火事の多い晩秋から春にかけて、火盗改メの助役(すけやく)が発令され、日本橋から北本役、南は助役の組が担当することは、このところずっとのきまりであった。

ところが近年、建部組が3年連続で増役についたということは、それだけ無宿人が江戸にふえたということでもあった。
無宿人の多くは、北国の冷害で農耕では食っていけなくなり、田畑を捨てた流亡者であった。

嶋田宿への出張りのことなど、増役時代の組頭といささかかわりができた平蔵(へいぞう 37歳)は、松造(よしぞう)に角樽をもたせ、四谷南伊賀町の建部邸へ、無事のお役ご免慶賀の訪問をしていた。
ここは数日前まで、増役の火盗改メ役宅として使われていたあったところである。

同日づけで、火盗改メ・助役を解かれた堀 帯刀秀隆( ひでたか 46歳 1500石)とは、それほどの縁ができなかったので、祝賀は省いた。

あらかじめ、辞をとおしておいたので、牛込榎町の組屋敷から、与力・ 原田研太郎(けんたろう 38歳)と同心・三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)が呼ばれていた。

三宅同心とは嶋田宿で取りしらべをやった仲だし、原田与力は平蔵の嶋田行きの一切を、西丸・書院番第4の組の与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 62歳)と取りはからった仁であったから、気がねがなかった。

もちろん、本陣・〔中尾(置塩)〕の若女将のお三津(みつ 22歳)と3夜ばかりか帰りの江戸まで泊まりをともにしたこと、蔵元・〔神座(かんざ)屋〕 を襲った賊が〔野見のみ)〕の勝平(かつへえ)であったこと、引きこみおんなのお(てつ)がじつは、おまさであったことは、すべてとぼけて報告しなかった。


嶋田宿の盗難の件は、けっきょくうやむやで終ったが、原田与力は笑って、
「なに、上っ方(かた)が、組頭の3度の加役を慰労するために臨時の役料をお下げ渡しになっただけのこと、お気になさいますな」
それですませてくれた。

3人で雑談をしていると、腰元が用意がととのったと告げにきた。

客間には、膳がならべられていた。
おどろいたことに、松造の分も下座にしつらえてあった。

松造とやらが道中師を見つけ、府中の町奉行所をはじめ、嶋田の陣屋へも突きだしてくれたこと、勘定奉行所から礼がきておってな、増役として面目をほどこした」
建部組頭が、松造に軽く会釈した。

(香具師(やし)の元締・〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)の仕事だな。われとお三津(みつ 22歳)のことをなにかで察し、松造の名前で陣屋へ届けたのであろう。しかし、あの世界の風評の伝わりの速いのには、あきれる)
平蔵は、あくまで白(しら)をきるつもりであった。

「ところで長谷川うじ。嶋田宿は、備中(守 宣雄 のぶお 享年55歳)どのが京都西町奉行としてお上りのときにお泊まりになったのであろう? できれば、別の土地の事件であればよかったのじゃが---」
「いえ。10年前には、父・備中とは別に、先発して上京しましたゆえ、本陣もこのたびと異なり、もそっと小さなところでございました。こたびは、本格の〔中尾〕藤四郎方に泊まることができ、幸せでした」

三宅同心が、知ってか知らずか、
「本陣・〔中尾〕には、美形の色っぽい若女将がおりましてな。それが、長谷川さまのことを太層、気にしており、奥方はいるのか、剣は何流であるかと、しつこく探りをいれてきました」

「それなのに、長谷川うじをひとり嶋田への残して帰ってきては、猫に鰹節ではないか。はっ、ははは」
組頭は豪快に笑い、
「なにごとも、若いうちは経験である。おんなを抱くのも、おなごから逃げるのもな」

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