平蔵、書状を認めた(5)
「辰っつぁん。お父上に決して洩らさないと、約束できる?」
翌くる朝遅くに朝食の粥(かゆ)をよそいながら、小夜(さよ)が辰蔵(たつぞう 13歳)に念をおすようにたしかめた。
「決して---また、このようなことの経緯(あらまし)を訊く父上ではありませぬ」
「お父上だけでなく、お母上にも供の者にも、こころ許しているお友だちにも---よ。そうそう、お丹而(にじ 12歳)さまにも---」
「丹而どのとは、これから口をきくことはありませぬ」
「では、いいますが---」
期待させておき、小夜は、昨夜の経緯(あれこれ)の感想を訊いた。
箸の先端のを手前に向けて置き、こぶしを膝にそろえ、
「小夜どのの的(まと)の柔らかく、暖かく、なめらかなことは、想像をはるかに超えておりました。その瞬間、天女を抱いたまま天空へ舞いあがっているのではないかと、夢ごこちでした」
「そのようにおもわれれば、みちびき甲斐があったというもの---」
【参照】2011年5月4日[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] (1)
「御師(おんし)のお教えには、深く、ふかく、謝意を表します」
「私のことを、師とお呼びになった?」
「生涯忘れることのできない恩師です」
目を伏せ、辰蔵が置いた箸を見つめながら、
「辰っつぁんのこと、私も、忘れないとおもう。すごい上達ぶりだったもの」
「弓芸もこうありたいのですが---}
「私の的へは、どまん中ばかり、みごとな射抜き---」
微笑んでうなずき、
「じつは、これからが肝心なこなの。昨夜から朝へかけてのことは、辰っつぁんがおんなの関門をためらうことなく通りぬけ、いい思い出をつくることに専念していたの」
「手をとり、入門を助けてくださいました」
いまの辰蔵の言葉で、平さんの依頼の役目はi果たせたと納得---。
(北斎「浪千鳥」 イメージ 『:芸術新潮』2010年12月号)
でも、入門篇だったわね。きょうは私がいい思いをする番だと覚悟して---」
「覚悟---?」
「午後、いうとおりにしてすればいいの」
「なぜに、午後なのですか?」
小夜が、辰蔵の箸で梅干と香のものをとりわけ、その先端を口にいれ、箸置きへ戻した。
すかさず辰蔵がとって先端をじっくりとなめ返し、神妙な面持ちで小夜の言葉を待った。
「早気(はやけ)はいけないと、昨夜、おいいだったわね」
素振りのことを小夜が訊いたとき、習っているのは弓で、師は丹而の父・布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)と応えると、弓術でむつかしいところは---と問うてきた。
[早気]をよく注意されているとの応えに笑い声を洩らした小夜が
「殿がたの早気は、おなごに熟したりない不満な感じがのこるの」
弓術でいう[早気]とは、早漏のことではなく、甲矢(はや 1番目の矢。奇数番目の矢)と乙矢(おとや 2番目の矢 偶数番目の矢)りの間合いが短かすぎることだとの解説に、
「辰っつぁんは立ち直りが早いから---昼からは[その早気]を受けて立ちます」
弓術での[早気]の克服は、不安と的中(あた)り気の解消につとめるのが早道とかいわれていた。
「午後の股業には、[早気]は禁じ手よ」
辰蔵は、すこし赤らんだ。
じつは、明け方の七ッ(午前4時)ごろ、かわやへ立ち、戻るなりもとめ、たしなめられた。
「私も、用をすませてきます。それから射位(しゃい 弓を引く位置)につきましょ」
そのあとの朝餉のとき、
「残心が、ここに---」
帯の下のほうを指され、また燃えた。
燃えると膨張し堅くたったものの先端が下帯と袴の生地をこすり、痛いがかゆくなった。
昼餉(ひるげ)まで、大井神社に詣でたり、裏通りにある寺めぐりでもしてくるようにいわれた。
午後のことを考えると、外歩きには興味が湧かなかったが、それでも宿場のあれこれを見てまわりながら、昨夜から朝にかけて小夜との4射のそれぞれの様相をおもいかえしているうちに、気が昂ぶってき、出立を一日のばした本陣の若女将の配慮に感謝した。
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コメント
余計なコメントですみません。
「はやけ」は甲矢、乙矢とは関係なく、矢を発射する前の「会」から「離れ」までの時間が短い事となっています。短くても4~5秒、長い人は10秒位。1~3秒でははやけと言われます。何となくあちらを連想させますね。
投稿: とおりがかり | 2011.06.25 09:47
>とおりすがり さん
ご訂正、ありがとうございます。
弓道は心得がなく、辰蔵が射鳥で報賞され、建部広興(ひろおき 幼名・市十郎)も弓術に長じているとの記録を読み、あわわてて一夜漬けをしました。
とたんにボロがでました(苦笑)。
おっしゃるとおり、「早気(はやけ)」は、{会(かい) 発射準備完了 詰めあい〕から〔離れ 発射〕までの間合いですね。
しばらく、間違えたままのしておき、コメントを残しておき、時期をみて修正させていただきます。
小夜にいわせると、昂まってき、離れ寸前
状態になっていても、的がその気になるまで、矢離すな、ということでしょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2011.06.25 11:08