ちゅうすけのひとり言(58)
このごろ、盗賊はびこり---うんぬん
といった文言を、『徳川実紀』の安永3(1774)だか4年だかで目にしたような、おぼろげな記憶があったので、確認していて、とんでもない記録を発見してしまった。
【参照】2010年3月29日[松平賢(まさ)丸定信]
白河藩主・久松松平越中守定邦(さだくに 47歳=安永3年 11万石)の養子となった賢(まさ)丸(のちの定信 さだのぶ 17歳=安永3年)が、生家の田安家を安永4年(1775)年11月22日まで出ていかなかった---つまり、定邦の息女を抱かなかったと書いた。
出典は、その日に掲出しておいた『寛政重修l諸家譜』であった。
もう一つくわえると、佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』(人物文庫 2003.05.20)の、以下の文章から先入観を得ていたこともある。
(佐藤さんも『寛政譜』に拠ったのであろう)
養子縁組がまとまった直後、義父になる松平定邦は居城の白河で花見の最中にわかに卒中でたおれた。その秋参府してはきたものの言葉や身体が不自由で月次登城なども欠かしていた。
はやくうつってきてもらいたいと養家から矢の催促をしてくる。それでも定信は動かなかった。
田安治察(はるあき)の死後一年後幕府は田安家家老の大屋明薫(みつしげ)を大目付へとばした。それでも(賢丸は)腰をあげなかった。 後任(家老。勘定奉行兼)の川井久敬(ひさたか 享年51歳)が死に、さらにその後任に石谷(いしがや)清昌(きよまさ 61歳)がすわったあとの安永四年十一月、ようやく定信はあきらめて八丁堀の白河松平家の江戸藩邸にうつった。
ところが、『徳川実紀』安永4年3月18日の項には、
けふ松平越中守定邦使もて鮮鯛をたてまつり。養子賢丸をのが邸にうつりしを謝し奉る。賢丸よりも同じ(日記、藩翰譜続編)
『実紀』の文章には、「をのが邸」とある。
推察すると、養子の話がきまってから、白河藩は八丁堀の藩邸内に賢丸夫妻の別棟を新築したともとれる。
【参照】2010年3月21日[平蔵宣以初出仕] (2)
同じ安永4年の3月と11月なの8ヶ月違いだから、どっちだっていいではないか、という考え方できよう。
しかし、松平定信という人は、平蔵(へいぞう 30歳)がその後、火盗改メを勤めていたときに、老中首座へのぼり、かつ、人足寄場をつくらせたご仁である。
その人足寄場について、半自伝『宇下人言(うげのひとこと)・修行録』(岩波文庫 1942.06.25)に、
寄場てふ事出来たり。
享保之比よりしてこの無宿てふもの、さまざまの悪業をなすが故に、その無宿を一囲に入れ置侍らばしかるべしなんど建議もありけれど果さず。
その後養育所てふもの、安永の比にかありけん、出で来にけれどこれを果たさず。
ここによって志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみんといふ。
つくだ島にとなりてしまあり。これに補理して無宿を置、或は縄ない、又は米などつきてその産をなし、尤(もっとも)公用として米金一ヶ年にいかほどと定めて給せらる。
これによて今は無宿いふもの至て稀也。
この文面は、人足寄場を発案創始、経営を成功させた長谷川平蔵に対して礼を失していまいか。
『宇下人言』全篇をとおして、「○○何がし」と見下した書き方をしたところはない。
ちゅうすけは、これを、定信が、平蔵の器量の大きさを、田沼意次(おきつく)的とみなし、故意にいやしめていると見た。
『寛政譜』と『実紀』の記述の違いから、定信の気質・器量の一端をうかがのは今後の研究として、ここに指摘して、鬼平ファンの注意を喚起しておく。
2件の記録は、編纂時期が異なる。
『寛政重修l諸家譜』は、定信の老中在任中に発議され、大名およびお目見(みえ)以上の幕臣が、寛政11年(1799)中に「先祖書」草稿を提出したものを基として編まれている。
定信の久松松平家のそれは、白河藩のその筋の藩士たちが作成したろう。
『徳川実記』は、成島司直(もとなお)らにより、文化6年(1809)に起稿し、40年後の嘉永2年(1849年)12代徳川家慶に献じられたとウィキペデイアにある。、
とうぜん、『寛政譜』も参照されたろうが、結果は前述の齟齬をみた。
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