ちゅうすけのひとり言(59)
再び、『徳川実紀』の「浚明(しゅんめい)院殿(家治 いえはる)御実紀」のどこかに、
このごろ、盗賊はびこり---うんぬん
とあったような、とのおろげな記憶をたしかめるべく、安永4年(1775)前後を読みかえしていて、
(これは---)
という事項が目についたので、前回につづいて、わき道へそれる。
安永4年5月3日---。
土井大炊頭利里(としさと 54歳 京都所司代)は、下総国古河(こが 7万石)城を明年の御旅館に定られるヽをもて金五千両(8億円)恩貸あり。
【参照】2009年9月4日[備中守宣雄、着任] (3)
戸田因幡守忠寛(ただひろ 38歳 奏者番)は封地(を島原から)宇都宮に転ぜられしのち、いまだ年へず。城の内外火患にかかり。こたびその城を御旅館に定られしをもて。これも金五千両をかし給わり。
大岡兵庫頭中忠喜(ただよし 39歳 奏者番)も岩槻(2万石)の城御旅館となりしに。これも近ごろ火災ありしとて金2千両(3億2000万円)かし下され。
こうした貸与金は、そのうちにうやむやとなり、返済されないことが多いらしい。
将軍が往還に2泊するだけで何億という下賜金同然の金が消えていったわけだ。
翌5年(1776)4月13日から21日、9日間にいかほどの費えがあったか、肥前・平戸の藩主であった松浦静山(せいざん)が書きのこした『甲子(かっし)夜話』(東洋文庫 1977.4.25)巻12によると、
御供人数、御入用金(1両=18万円)、御扶持方
18万両 入用金
4万3000両 被下金
10万3000人扶持 賄扶持方
23万830人 人足
30万5000疋 馬数
353万440人扶持 供上下扶持方
雑兵62万3900人
書き写していても、ぞっとする。
『甲子夜話』は、巻37に、行列の詳細を写しているが、きょうの主題ではないので、省略する。
(行列の次第は、首途とともに、当日の『実記』も記載している)
ところで、『実紀』は、安永4年6月5日の項に、
けふ令せられしは、来年日光山 御宮御詣の時。供奉あるはその事あづかりて赴く輩(やから)。なるべきだけ行李を省略せん事いふまでもなし。
荷駄となりがたき品は長櫃にいるべし。
荷駄数は享保度(13年の吉宗の)の3が2を用い。其余すべてことそぐぺし。
こは采邑稟米給わる輩。なべて各人馬の数を注記して。此月のうち。勘定奉行石谷備後守清昌(きよまさ 61歳 800石)。安藤弾正少弼惟要(これとし 61歳 800石)にさし出すべし。
一応は、節約をこころがけてはいたのだ。
【ちゅうすけ補記】このひとり言を記したとき、古河藩主で京都所司代であった土井大炊頭利里は、宿泊する将軍を迎えるために帰藩したのかとおもっていたが、その後、『実記』をあらためたら、帰ってきてはおらず、前年安永4年11月に(大給 おぎゅう)松平和泉守乗佑(のりすけ 61歳=安永4年 6万石 西尾藩主)の十男・美濃守利見(としちか 17歳=同上)を養子に迎え、応接はこの利見が供じたとあった。
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