建部甚右衛門と里貴(3)
「長谷川うじのは、異母といっても、実母がずっといっしょだったわけだから---」
建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)が苦笑しながら、
「いや、われのほうがもっと不幸せであったなどと、競いあいをするのではないがな---われには異母が2人いてな」
すかさず、里貴(りき 31歳)が身をのりだし、その先をうながした。
「お2人の異母と申されますと---」
自分は子をもっていなくても、家庭の複雑な話を、おんなはわが身とくらべたがる。
甚右衛門広殷が語ったことをはしょって写すと、おおよそ、こうなる。
荒次郎(こうじろう のちの広殷)は、享和13年(1723)に、書院番士・甚右衛門広長(ひろなが 29歳=当時)の第一子として生まれた。
母は、3年ほど前に嫁してきていた、小普請奉行・松浪筑後守正春(まさはる 54歳=当時 1000石)の長女・富紀(ふき 21歳)であったが、出産のとき夫はたまたま、将軍の日光山参詣に顧従しており留守で、難産死に立ちあえなかった。
すぐさま、継嫁がきまった。
逝った富紀の3歳下の妹とはいえ正春の養女であった。
異姉の遺児をいつくしむはずはなかった。
下(しも)のもの始末も乳母にまかせきりで、いちども手を汚さなかったという。
そのうち、男子を2人なしたので余計であった。
自分が産んだ万吉を継嗣にとせがんでいるうちに病死した。
荒次郎は7歳であった。
つぎの継妻は大井家からきた。
さらに粗略にあつかった。
「ひどいお話ですこと」
双眸に涙が浮かべて聞きいっていた里貴があわてて、酒をとりに立った。
新しい酒が注がれると、
「2人の異母も亡くなってみると、われのほうもなつこうとせず、依怙地であったと悔やむことしきりでな---」
「おなごに向けていた憎しみが溶(と)けたのは、結(ゆい 18歳=当時)を室に迎えたときからで---結はこころがひろく、義母にも偏見なく仕えてくれたばかりか、舅(しゅうと)に権現さま(家康)の家法をそれとなく説き、われの家督の道を、しかとつけてくれた」
「於結さまは、どちらの---?」
里貴がさりげなく問うた。
京都西町奉行の土屋伊予守正延(まさのぶ 47歳 1000石)の妹と応えられ、
「その土屋さまなら、武田方の武将の流れ---」
里貴の記憶も確かであった。
正延が西町奉行の席へついたのは、長谷川備中守宣雄の後任・山村信濃守良旺(たかあきら 51歳 500石)が勘定奉行(公事方)へ転じたあとであった。
【参照】2009年11月20日~[京都町奉行・備中守宣雄の死] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
里貴が甚右衛門広殷の内室・於結へと、深川佐賀町の銘菓舗〔船橋屋〕織江の羊羹(ようかん)を持たせた。
広殷は平蔵が手くばりしておいた船宿〔黒舟〕で、神田川を四谷橋まで遡り、あとは町駕篭で南伊賀町の屋敷へ、ご機嫌で帰っていった。
【ちゅうすけ補】〔船橋屋〕織江の黄粉おはぎについては、
2008年8月18日~[〔菊川〕の仲居・お松] (10) (11)
『鬼平犯科帳』に登場する〔船橋屋〕は、
2006年9月17日[9月17日のハイライト]
藤ノ棚の里貴の家で、例によってお互いに寝衣で向かい合あい、冷酒を酌みかわしながら、
「嶋田宿のこと、うまく収まりまり、よろしゅうございました」
「うむ。おまさがからんでいたので、いささか肝を冷やした」
「紀州のほうから文がきました。遠い縁者にあたる村の肝いりの三女で、16歳の奈々というむすめがくることになりました」
「16歳か」
「なにか---?」
「2,3年のうちに男ができるかもな」
「それならそれで、添わせながら勤めさせます。それより、私たちの家を見つけませんと---。こんなくつろいだ姿では、もう呑みあえなくなります」
「帯や紐で締められるのがいやだからって、素裸ではいられなくなるぞ」
【参照】2010119[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (2)
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