建部甚右衛門と里貴(2)
「長谷川さま。ご令息のお弓のほうはいがでございます?」
新しい酒を注ぎながら、里貴(りき 38歳)が、さりげなく尋ねた。
立ち聞きしたことをごまかすための、咄嗟の話題と察した平蔵(へいぞう 37歳)も、
「なかなか---」
受けとめ、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)へ、
「お見ぐるしく、豚児のことでございます」
「ほう、幾つになられるかの---?」
「辰蔵(たつぞう)と申し、13歳にあいなりました」
「わが家の吉十郎(きちじゅうろう)は12歳での」
吉十郎は甚右衛門広殷が43歳のときの男子ということだ。
「そんなに幼い---上はお姫さまばかりなのでございますか?」
「上に男子が2人いたが---それと、むすめが独り」
「お亡りになったのでございますか?」
こういう些事は、おんなのほうが得意である。
「いや、むすめは育っておるがの。息子2人は育たなかった」
「それは、それは。奥方さまのお嘆きは、いかほどでありましょう」
いまにも涙をこぼしそうな声であった。
甚右衛門広殷は里貴から目を移し、
「長谷川うじ。ご子息の弓の師範は---?」
「西丸で同じ組の布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)ですが---」
「うむ、日置(へき)流の達人とのうわさは耳にしておったが、弟子をとっていることはしらなんだ」
「いまのところ、豚児一人きりです」
「さようか---」
「豚児は、腕の力がまだ弱いということで、鉄条入りの木刀を素振りさせております」
「どうであろう、われのところの吉十郎も弟子の一人に加えてはもらえまいか? じつは蒲柳の質(たち)なもので、大勢の道場はむずかしい---」
「あすにでも、営中で訊いてみます。ご返事はご用人のほうへでも---」
平蔵の申し出にうなずいた広殷が、急に問いかけた。
「女将どのは、ずっと、産みの母ごに育てられたかの?」
「はい。紀州の寒村ではございましたが---」
里貴の返事を聞いた広殷は、しぱらく瞑目したままであった。
ぎょろ目を閉じた広殷の顔には、人生に倦(う)んだとでもいいたげな、疲れた色が浮いていた。
(建部老はなぜに里貴の育ちを訊いたのであろう? まさか----亡父・宣雄(のぶお)の享年55歳とおなじ齢で、茶寮の38歳の女将に色情をおぼえたともおもえないが---)
そうではなかった。
目をひらくと、しみじみとつぶやいた。
「異母に育てられるというのは、育てられる子にとってもつらいことである」
平蔵は、父・宣雄(30歳=当時)が連れ子(3歳)の形で従妹・波津(はつ 30歳=当時)の婿養子となったが、幸い、異母は病床にありつづけたため、実母・妙(たえ 23歳=当時)もおなじ屋敷に住んでおり、父の結婚の影響は銕三郎にはおよばなかった。
異母・波津は、永年の病いが昂じ、銕三郎が5歳のときに逝った。
平蔵は、建部老のつぶやきが、先刻の里貴の「奥方さまのお嘆きは、いかほどでありましょう」への応えの一つと理解した。
(ついに建部老がこころを開いてくれた。なにか、秘密を告げたいのだ)
「じつは、里貴女将にも初めてする昔話ですが---われにも、実母と異母がいました」
前置きし、平蔵が異母・波津と実母・妙のことを打ちあけ、亡夫・宣雄は、波津の死後、妙をついに継妻としては幕府にとどけないまま正妻のごとき位置におき、親類たちにもそれを認めさせたと説明した。
【参照】2006年6月25日[寛政7年(1795)5月6日の長谷川家]
2006年5月28日[長生きさせられた波津]
2006年7月24日[実母の影響]
2007年4月18日~[寛政重修諸家譜] (14) (16)
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