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2011.06.18

辰蔵、失恋(2)

神楽坂上の善国寺・毘沙門天門前の茶店の婆に握らせる小粒と黒い握り革を買うまでに、辰蔵(たつぞう 13歳)は1ヶ月近くかかってしまった。

母・久栄(ひさえ 30歳)を得心させて財布の紐をゆるめさせる口実を、なかなかおもいつかなかった。
ちょっとやそっとの口実では、
「いまの茶の握り革では、どうしていけないのですか?」,
根掘り葉掘り訊いてくる。
「弓構(ゆがま)えに入ったとき、的を見すえるのに黒革のほうが目の邪魔になにらないのですよ」
とでもいおうものなら、
「殿さまにたしかめてみてからにしましょう」
軽く逃げられてしまう。

(おれとしたことが、丹而(にじ 12歳)どのに、なぜ、黒い弽(ゆがけ)といわなかったのだろう。弽なら、落としたですむ)
弽は、弦を引く右手にはめる手袋のようなものだから、紛失しやすい。

けっきょく、辰蔵は〔箱根屋〕の権七(ごんしち 50歳)に借りることにした。

黒い握り革の弓をたずさえ、牛込白銀(うしごめしろかね)町の布施家へ勇んでいき、稽古した翌日、毘沙門天で待ったが、丹而はあらわれなかった。

次の稽古日の翌日の八ッ(午後2時)も待ちぼうけた。

その次の黒の握り革の弓での稽古の明くる日も、黒革はなんの効果も見せなかった。
座敷の縁に腰をかけ、来ない丹而をしょんぼりと待っている辰蔵に、茶店の老婆が、
「若いお武家さん、こんどの座敷代はまけとくから、諦めな」
小銭を返してきた。

神田川ぞいに歩きながら、いつかの口の吸いあいが親ごに発覚(ば)れ、嫁入り前の武家のむすめがしてはならない振るjまいと、座敷牢に閉じこめらてしまっているのではないか、それにしては布施十兵衛師の指導ぶりはいつもと変わらぬが---。
いや、座敷牢はありえないとして、遠くの親戚へでも預けられたのではなかろうか。
辰蔵の推量は雲のようにつぎからつぎへとふくらんだ。

水道橋の手前の三崎稲荷社の横から楽しそうに語りあいながら出てきた少年武士と武家むすめを見、辰蔵は咄嗟(とっさ)に横の小道へ身をかくした。

少年は弟弟子の建部市十郎(いちじゅうろう 12歳)、武家むすめは布施家の丹而にまちがいなかった。

しばらく小道に立ちすくんでいたが、2人がでてきた路地へ入ってみた。
軒看板に〔若桜(わかさ)〕と記した瀟洒(しょうしゃ)なぜんざい屋があった。

入ると、店の小女が、
「2階の神田川が見下ろせる小座敷になさいますか、それともこの土間で?」
「小座敷はいくらかな?」
「小半刻(こはんとき 30分)ごとに50文(2000円)になってます」
「この土間の飯台だと---?」
「ぜんざいの代金だけです」

毘沙門天前の婆の茶店の茶けた畳表の座敷と、この〔若桜(わかさ)〕の小部屋とでは天と地ほどの違いであることは、辰蔵も理解した。
市十郎は、こういう店にばかり丹而を連れ歩いているのであろう。妹・(はつ 10歳)だって、こういう店に誘われたら、ふらふらと入ってしまうであろう。これは、男同士の勝ち負けというより、おれの財布の負けだ)

ちゅうすけとしては、辰蔵くんにいってやりたい。
「財布の差」というのは、男の世界ではたいていついてまわる。しかし、ご父君---の平蔵(へいぞう 37歳)どのは銕三郎(てつさぶろう)時代から財布のふくれ具合にかかわりなく、おんなからの献身(?)をいただいてきている。要するに、男ぶりがいいのである。男ぶりの一つに、情報の多寡ということもある。おんなにとっては、安心できる相手ということもあろう。

こんどの場合の敗因は、おんなは甘いものに目がないのを、市十郎のほうが母・於(ゆい 42歳)を観察して悟っていたことであろう」


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コメント

はじめまして。
鬼平の大ファンのきんぎょです。

女子としては、食べ物につられてしまうのはどうしようもないことでして(苦笑
丹而ちゃんもごく普通の女子なのねぇ。

毎日の更新を楽しみにしています☆

投稿: きんぎょ | 2011.06.19 00:11

>きんぎょ さん
辰蔵の無念さをお認めいただきまして、ありがとうございます。
母親・於結(ゆい)は、手帖持参で料理店へ行く人ですから、その息子も美味しいものに詳しくなりましょう。於結は、池波さんが平蔵のモデルの一人にしたパリ警視庁の「人生の修理人」メグレ警視の夫人を見習いました。

投稿: ちゅうすけ | 2011.06.20 10:45

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