辰蔵の射術
先ほどから、裏庭で弓弦(ゆづる)の音がつづいている。
辰蔵(たつぞう 13歳)が行射(ぎょうしゃ)をしているのだ。
布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵 39歳)について射術を学んでいた。
十兵衛良知は、平蔵(へいぞう 37歳)の同僚で、西丸・書院番4の組の番士である。
辰蔵が弓を習いたいと申しでたとき、すぐに十兵衛に師iを頼もうと決めた。
2歳年長ながら、平蔵とは反対に寡黙で、たいていのことはうなずくか横にふるかですましていた。
だから意見がないというのではない。
自分から先に意思を示すというのではなく、求められてからきちんと賛否を表したのであった。
そのかぎりでは変人でとおっていたが、西丸の主(あるじ)---家斉(いえなり 10歳 豊千代の加冠後の名)の加冠の式典のあとの矢射の競技で、みごとな腕前を披露し、いっきょに名が知られた。
【参照】家斉という諱(な)を案じたのは林 百助であった。
2010225[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (11)
相番になったとき、愚息・辰蔵の射法を見てやってくれないかと頼むと、珍しく口をひらき、
「なぜ、剣から始めない?」
訊きかえした。
射術なら相手がいなくても一人で稽古ができるという辰蔵の希望を伝えると、莞爾としてうなずき、
「弓の敵は、おのれのこころのみ---」
つぷやくように応じた。
たしかに闘技には、稽古といえども相手が存在する。
弓は自分一人だけの修練であった。
双方が非番の日、辰蔵を伴い、束脩(そくしゃう)を携え、行元寺裏の牛込白銀(うしごめしろかね)町(現・新宿区白銀町)の布施家を訪れた。
西丸・書院番4の組の与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 800俵)邸から1丁(100m強)と離れていない。
前もって告げておいたので、良知自らが出迎えた。
齢は良知が2つ上だが、書院番入りしたのは平蔵のほうが2年早かった。
しかし、平蔵は、この日は営中でのしきたりに従わず、あくまでも辰蔵の師としてうやまい、礼をつくした。
「長谷川家にもたんとござろうが、手前よりということでお納めくだされ」
7尺3寸(2.21m)の並弓を辰蔵がかしこまって受けた。
そういう礼法は、すでに1年以上も学んでいた。
「手前が稽古始めに使ったものだから、充分になじんでおります」
「お弟子は、辰蔵が---」
「辰蔵どのが初めてでず」
「重々、恭ないこと」
日置(へき)流の射者の中でも、布施良知は隠れた名手と噂されていた。
(布施十兵衛良知の個人譜)
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