建部甚右衛門広殷、免任(3)
「十手持ちのあの宇三(うぞう 38歳)が、何かいって参りましたか?」
内心、ひやりとした。
(荷船頭の梅吉(うめきち 60がらみ)のことが露見(ばれ)たか---)
【参照】2011年5月10日[神座(かんざ)村の梅吉]
同心・三宅(重兵衛 じゅうべえ 42歳)の話はそのことではなかった。
嶋田宿の蔵元の〔神座(かんざ)屋〕伊兵衛方を襲った尾州言葉を使った賊が、大井川を川越しして西へ逃げたかもしれないと、川越(かわごし)人足の頭領・〔天神(てんじん)〕の安兵衛(やすべえ 51歳)に質(ただ)し、人足たちに訊かせたが、それらしい者がいなかったということであった。
だから賊一味は、東の藤枝宿へむかったと憶測できる、と。
「大井川ぞいに北へ向かうことも---」
あやうく口から出そうになったが、建部組は火盗改メ・増役(ましやく)を解かれているのだし、宇三の注意を梅吉のほうへ向けることもなかろうと、
「嶋田の陣屋へは、建部さまの組がすでにお役をお離れになっていることが、まだ、伝わってはおりませんでしたか」
「陣屋は役方(やくかた 行政)の勘定奉行所の支配ゆえ、番方(ばんかた 武官)の布(ふ)れは、どうしても遅れがちになります」
与力・原田研太郎(けんたろう 38歳)が口をゆがめて言いわけをした。
「縄張りへのこだわりが、どうしても直らない---困ったものよ」
増役を離れた建部甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)が嘆いた。
建部家は元来、番方だが視野がひろく、甚右衛門広殷自身も使番も経験し、この時から3年後には禁裏付(きんりつき)という公家相手の難職にも就き、こなしている。
食事がすみ、原田与力と三宅同心が、明日の勤めがあるのでと立ったのにあわせ、平蔵(へいぞう 37歳)も腰をうかせたのを、広殷が制した。
2人が消えると、
「長谷川うじ」
笑みをふくんだ大きな目を向け、贄(にえ)越前(守正寿(まさとし 41歳)どのから伝わったが、深川の茶寮〔季四〕にたいそう顔がきくそうな、いちど相伴してくれないか、と切りだした。
(まさか、里貴(りき 38歳)から於佳慈(かじ 31歳)、さらには田沼意次(おきつぐ)侯へという線---とも思えないが---)
平蔵は気軽をよそおって請けあい、いつごろかと問うた。
「席がとれる日を2つか3つ、あらかじめ、示してもらえまいか?」
承知し、辞した。
平蔵の足元を照らしながら、松造(よしぞう 31歳)が、
「殿。建部さまは、{季四〕へどなたをお招きになるおつもりでございましょう?」
「予測してもせんないことは、無駄に考えないことだ」
両国橋の西詰で松造と別れ、舟で亀久橋へ向かった。
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