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2011.02.25

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(11)

養君・豊千代(とよちよ 9歳)の伽が4人そろったところで、天明元年(1781)6月23日に伴読の師がきまった。

徳川実紀』は、林 百助(ももすけ)信有(51歳 300俵)の名をあげている。
姓からわかるように、儒学をもって仕えていた林家の支流であった。

席を供にした伽衆は、すでに記したが、

加藤寅之助則茂(のりしげ 9歳 家禄1500石)
(久松)松平小八郎定経(さだつね 11歳 同1500俵 愛宕下)
横田鶴松松茂(とししげ 5歳 1000石 築地門跡裏門)
柘植三之丞英清(ひできよ 9歳 532石  本郷金助町)

幼い体での登城をおもい、屋敷をつけ加えた。
幕府は、馬を一頭ずつあたえたのではなかろうか。

登用されてから受講までに1ヶ月はすぎているから、呼称というか愛称ができていたろう。

加藤寅之助は、「さん」。
松平小八郎定経は、「小八(こば)さん」。
横田鶴松松茂は、「鶴んぼ」。
柘植三之丞英清は、「(さん」。
あたりか。

豊千代は、もちろん、「」。

林百助信有の『寛政譜』には、天明5年(1785)までに{「四書をあげ
た」ととある。

最初の講義は、『(らい)』であったろう。
なにしろ、いたずらざかり年齢である。

人生まれて十年になるを幼といい、学ぶ。
二十を弱(じゃく)といい、冠(かん 元服)す。
三十を壮といい、室有り(妻帯)。
四十を強といい、仕う(家を継ぐ)。
五十を艾(かい 白髪)といい、官政に服す(重職に就く)。
六十を耆(き 長年)といい、指使す(さしずする)
七十を老といい、伝う(子に地位をゆずる)
八十・九十を耄(もう 老耄)という。
七年なるを悼(とう)といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。
百年を期(き)といいも頣(やしな)わる。

人生設計の目標を示したが、もちろん、少年たちにのみこめたはずはない。

講述した百助信有自身が4年後に55歳で逝っていた。
「(さん」こと三之丞英清は、師に2年先立ち12歳で夭逝。、
小八郎定経は「小八(こはっ)つぁん」と呼ぶ者がいなくなった16歳、これからという齢で病死した。
鶴んぼ」と親しまれた鶴松松茂は、家治の死により将軍職に就いた豊千代(家斉 いえなり)の小姓として本城へ従ったが、翌年、どうしたことか辞任している。

家斉は、幼ないときからの遊び仲間で共学の、忠臣ともなり諌臣ともなってくれるはずの者をはやばやと失っていたのである。

将軍・家治(いえはる)が50歳で薨じたのは、天明6年(1786)の秋であった。
その前に、田沼山城守意知(おきとも 36歳)の刃傷死もあった。
失脚した田沼意次の死は、その4年後で70歳。


礼記』は、女性の年代区分は記していないが、平蔵(へいぞう 36歳)は、これまでに3人の女人(にょにん)の死を体験している。
18歳で会い、女子をなした阿記(あき 享年25歳)。
琵琶湖で水死した知恵の塊であったお(りょう 享年33歳)
還俗寸前に仏となった貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)

それぞれが、愛欲の深さと人間智をあたえてくれた。


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コメント

ご無沙汰しております。

>「鶴んぼ」と親しまれた鶴松松茂は、
>家治の死により将軍職に就いた豊千代
>(家斉 いえなり)の小姓として本城へ>従ったが、翌年、どうしたことか辞任し>ている。
このくだりで「横田」姓が気になったのですが、家治公の御側取次だった横田準松の一族でしょうか?
もし一族なら、家治公の死後、横田準松が解任されたのとはかかわりはないのでしょうか?

投稿: asou | 2011.02.25 10:39

>asou さん
鋭いご指摘、ありがとうございます。
まだ、とくと調べいてはいませんが、天明6年秋の家治の死ともに、一橋、水戸卿などによる田沼派の粛清が始まりましたから、横田家もその波をかぶったのかも知れません。
まだ、天明元年を書いているので、6年までを、ひまをみて調べてみます。

投稿: ちゅうすけ | 2011.02.25 11:04

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