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2008.12.17

「久栄の躰にお徴(しるし)を---」(2)

翌日から、銕三郎(てつさぶろう 23歳)は、老職(老中)、少老(若年寄)、側用人、月番の奏者番(そうじゃばん)、それに、平蔵宣雄(のぶお 50歳)の配慮で、奥祐筆組頭の2人の家へもお礼の挨拶廻りをした。

挨拶廻りには、家格にふさわしい供ぞろえを従えなければならない。
長谷川家は、いまは宣雄が1500石高の先手・弓の組頭をしているが、銕三郎のほうは非役であるから、家禄400石の供ぞろえでいい。
それも略式で、侍、槍持ち、馬の口取り、挟み箱持ち、草履取りを各1人ずつ。
侍は、父・宣雄桑島友之助(とものすけ 35歳)が用人役もかねてくれたが、あとは口入れ屋から雇った。

老僕・太作(たさく 62歳)は、曲りはじめた腰をたたきたたき、裃姿の銕三郎に涙声で訴えた。
「もう3年早かったら、若の初見のお礼廻りにゃあ、この太作めが口取りをいたしましたものを---」

もっとも、銕三郎としては、お礼廻りのあいだ中も、久栄の処女(しょじょ)の徴(あかし)を貰いうけるのにふさわしい場所のことで頭がいっぱいであった。

お礼廻りそのものは、門番に用件をつげ、式台の用人に名刺と鰹節の箱を差し出し、
「このたびは、いろいろとおこころ遣いを頂戴し、めでたく初見参の儀をすませることがかないました。お礼に参上いたしました」
受けるほうは貰いなれてはいるが、初見の者たちのことゆえ、一応、
「おめでとうござる。ま、しっかりお仕えなされ」
と励ます。

老中、若年寄の役宅は、江戸城の東の曲輪(まる)の内に集まっているので、手間はかからない。
そのリストを掲げておく。

老中
松平右近将武元(たけちか 59歳)
  上野・館林藩主 6万1000石
松平右京大夫輝高(てるたか 44歳)
  上野・高崎藩主 7万2000石
松平周防守康福(やすよし 50歳)
  三河・岡崎藩主 5万400石
阿部伊予守正右(まさすけ 46歳)
  備後・福山藩主 10万石

西丸老中
板倉佐渡守勝清(かつきよ 63歳)

若年寄
水野壱岐守忠見(ただみ 39歳)
  上総・鶴巻藩主 1万3000石
酒井石見守忠休(ただやす 55歳)
  出羽・松山藩主 2万5000石
鳥居伊賀守忠孝(ただたか 52歳)
  下野・壬生藩主 3万石
加納遠江守久堅(ひさかた 60歳)
  伊勢・八田藩主 1万石
水野豊後守忠友(ただとも 38歳)
  三河・大浜藩主 1万3000石

西丸若年寄
酒井飛騨守忠香(ただか 54歳)
  越前・鞠山藩主 1万石

側用人
田沼主殿頭意次(おきつぐ 50歳)
  遠江・相良藩主 2万石

月番奏者番
久世出雲守広明(ひろあきら 38歳)
  下総・関宿藩主 5万8000石
 上屋敷=小川町 

問題は、蔭の実力者である奥祐筆の組頭。
職高は500石だが、家禄が150表と低いから、拝領屋敷も広くはない。200坪あるかないかだ。
しかも、武家の家は表札を掲出していない。探しあてるのがことである。

臼井藤右衛門房房臧(ふさよし 58歳 150俵)。
  屋敷=飯田橋モチノ木坂下の通り

参照】2008年8月21日[宣雄の後ろ楯] (7)
2008年6月11日[明和3年(1766)の銕三郎] (5)

橋本喜平次敬惟(ゆきのぶ 48歳 150俵)
  屋敷=神田明神下

参照】2008年6月23日[宣雄の後ろ楯] (9)
 
両組頭の屋敷を父・宣雄に訊くと上記の、臼井は飯田橋モチノ木坂下の通り、橋本は神田明神下としか答えてくれなかった。
神田明神下御台所町には、銭形平次というご用聞きの裏長屋もあるから、訊く(冗談!)こともできようが、臼井藤右衛門のもちの木坂通りは幕臣の家ばかりだから、尋ねることもできまい。
(それに、いまは、久栄とのことで頭がいっぱいなんだ)

そういう銕三郎を見かねたか太作が、
「若。奥祐筆の組頭さまのお屋敷を捜してくる役ぐれえは、太作にふってくだせえ」
そういって、出かけて行った。

なにしろ、14歳だった銕三郎に、東海道・三島宿で、20歳代半ばの若後家・お芙沙(ふさ)をあてがって男に脱皮させた老僕だから、銕三郎のことは、親類の子も同然である。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] (1) (2)

太作が捜しあててきた両家の所在は、下の切絵図(尾張屋板)の通り。

飯田橋モチノ木坂下の通りに面しているの臼井藤右衛門の屋敷。右手へ行くと飯田橋。
モチノ木坂は、九段坂の北の中坂のさらに北の坂名。
_360
(ただし、切絵図が後代の年のものなので名は後裔となっている)

神田明神下の橋本喜八郎の屋敷。後裔も襲名している。
_360_2
(同じころの近江屋板には同場所にない。転居したか)


  

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