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2011.04.19

火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷(2)

もっぱら安西彦五郎元維(もとふさ 62歳 1000石 ただし隠居中)老が大声でしゃべりまくり、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)のほうは、
「さようであったな」
元維どのの叱声に、久保田(秋田藩)側は畏れいっておった」
と相槌をいれていることに気がついた。

建部増役は、亡父・宣雄(のぶお 逝年55歳)と同じ齢に達している。
宣雄は生命の灯が消えるまで頭脳ははっきりしていた。

安西彦五郎老の帰去をも送って戻ってきた建部甚右衛門は、
長谷川うじには、ご迷惑なところをお付きあいいたさせた。このとおりである」
頭をさげた。
「お目にとまったとおり、老耄がはじまっておるのでござるよ。むかしは明晰で俊敏な仁で、ずいぶんと教えられたものじゃが---」

秋田藩の藩政を監した2年目あたり、40歳を過ぎたころから言行に粗漏がではじめたという。
気がついた幕府が役をはずし、明和7年(1770)に致仕を強制したのは、元維が50歳のときであった。
いまでは、ともに出羽への監察を役した建部広殷だけが相手をしてやっていた。

「いや。われらが出羽へ遣わされたのは、循吏(じゅんり)たるもの、機会があれば広く世間を見ておくべし、とのお上のおぼしめしであったように存ずる。秋田藩をあれほどにいじめることはなかった}
甚左衛門広殷がふとこぼした。

ということは、こくんどの平蔵(へいぞう 37歳)の嶋田行きも、一つ上の循吏の地位へのぼるためのものであるのかもしれない。
書院番士として西丸へ詰めきるだけが極上の奉公とはかぎらない。

平蔵は、幕府の忌避にふれた秋田藩の銀札仕法の経緯(ゆくたて)を建部増役に質(だだ)そうとおもったが、
(いや。危ない質問を発すべき相手ではない)
尻毛しりげ)〕の長右衛門(ちょうえもん)かかわりで親交ができておる南伝馬町2丁目の両替商〔門屋(かどや)〕嘉兵衛に聞けばすむことであろう。

(【参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

玄関脇の応対の間へ席を移した。
与力・原田研太郎(けんたろう 38歳)、同心・三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)、古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)が待っていた。

平蔵を引きあわせると、建部増役は、あとを与力にふって消えた。
古室同心が、事件のあらましを説明した。

地元の銘酒で、江戸へも船送されてきている〔水神(すいじん)〕の酒造りどころの〔神座(かんざ)屋〕が賊に襲われた。
新酒ができ、あちこちから注文の前金が届けられていたところを狙われた。
手がかりは、去年の晩秋に春先までという期限つきで雇い入れた直営の酒場の酌婦で孕みおんなのお(てつ 25歳前後)。
は、賊の入った晩から行方がしれなくなった。
もう一つの徴(しる)しは、頭目とおもえる男の尾張なまり。
(言葉を発するようでは、たいした心得のある一味ではにないな)

平蔵は、かつて小浪(こなみ 29歳=当時)から、盗人にとってお国なまりは獄門への本通りと聞かされたことがあった。

参照】2008年10月20日[〔うさぎ人(にん)〕・小浪] (

もっとも、当時はラジオもテレビもなかったのであるから、全国統一の標準語などなかった。なまりから生国が特定できないといえば、江戸言葉か京言葉であったろう。

三宅古室同心が嶋田まで出張るといった。

旅程を打ちあわせたとき、平蔵が、落ちあうのは、7日目の嶋田の本陣・〔中尾〕藤四郎方ということにしたいと提案した。

「ごいっしょでは、なんぞ不具合でも---?」
「いや。火盗改メが揃って道中しては、公儀ご用を盗賊たちに触れあるいているようなもので。ことは隠密にはこぶのが良策かと---」
三宅同心は感服したが、平蔵とすれば、里貴(りき 38歳)と朝まですごす一夜をつくりたかっただけのことであった。

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