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2011.04.20

火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷(3)

旅程の打ちあわせが一段落したところで、平蔵(へいぞう 37歳)が訊いた。
原田与力どの。引き込みをした酌おんなの名前のおてつ(25歳がらみ)ですが、てつは、でしょうか、それとも、あるいは、拙のではありませぬか?」

原田研太郎(けんたろう 38歳)与力は、あらためて記録に目をおとし、
「金物のと書かれておりますが、これは、かの地でもう一度、お確かめください」

与力は、古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)へ記録をわたし、
「写しを書役(しょやく)へいいつけ、長谷川さまへお渡しするように---」

心得た古室同心が部屋をでて行った。

長谷川さま。われら一行と別の上りということになりますと、本陣への支払いなど、路銀はいかほど用意すればよろしゅうございますか?」
世慣れた年配者らしく、三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)が訊いてきた。

「供の者の分もあわせて、1日1分(4万円)でいかがでしょう?」
「では、20日分として5両(80万円)を、お屋敷のほうへおとどけしておきます」
ほっとした口ぶりで、三宅同心が原田与力の顔を見、与力がうなずいた。

平蔵が、
「先刻、こちらの殿が、柳営の上っ方々は、われわれ幕臣にできるだけ旅をさせて、世の中をひろく見聞するようにお考えとうかがいました。初めて耳にするご見識でした」

ぼんと膝をうった原田与力が、
「さすがは長谷川さま、お目が高い。われらの組頭は、齢相応に目と耳こそお弱りになっておられますが、視点が高いお方です」

使番から先手・鉄砲(つつ)の第12の組頭に任じたのは安永6年(1777)3月17日だが、その前年の家治(いえはる)の日光山参詣に列し、しもじもの苦しみを、再認識した。

その前は、いうまでもなく宝暦9年(1759)7月に秋田へ使いし、冷害を目のあたりにしたことであった。

火盗改メ・助役(すけやく)を命じられると、組の者たちに出羽の領民たちの貧窮ぶりを話し、あの者たちが城下町とか江戸へ流れてきて物乞いをし、悪心をおこして盗みをはたらいても、徒党を組んだ盗賊と一様に見ないように諭(さと)したという。
盗人の区別をいった火盗改メは珍しい。

聞いていて、平蔵は、本役の(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 42歳)が、少年のころに家治の伽役として側に仕えたときに学んだ話をおもいだしながら相槌を打っていた。

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 

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コメント

幕府にも、上位の職階につけるものは、広く世間をみさせるために、江戸以外の土地の様子を見聞させるしきたりがあったなんて、初めてしりました。
たしかに、必要なことです。

投稿: 文くばりの丈太 | 2011.04.20 09:34

>文くばりの丈太さん
建部甚右衛門広殷は、このあとに禁裏付に栄転しています---ということは、30代から嘱望されていた仁と見ました。
それで秋田藩の監査に派遣されたのは、世間見学し読みました。

投稿: ちゅうすけ | 2011.04.20 19:00

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