« 平蔵、書状を認めた(6) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(71)これまで »

2011.06.27

ちゅうすけのひとり言(70)

(へい)さま。これで、おあいこよ」

隣りに励み疲れて眠りこけている辰蔵(たつぞう 13歳)を見やりながらお三津(みつ 22歳)がつぶやけば、起承転結がなるというものだ。

小夜(さよ)になりすましたお三津は、少年・辰蔵を男にしてやったばかりか、平蔵(へいぞう 37歳)が開眼させてくれた躰位まで教えこんだ。

もちろん、寝台から2寸(6cm)ほど尻をだして浮かせ、男を迎えると新しい快感をえられることは平安時代の『医心方 房内篇』に記述されていたように記憶している。

参照】2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () () () () () () () (
[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () (

女性の玉門から入って上襞6~7cmあたりに、「Gスポット」と呼ばれる性感点があることは、よく知られている。
医心方 房内篇』と「Gスポット」を組み合わせると、櫓炬燵2ヶの案も浮かぶ。

辰蔵のヰタ・セクスアリスにまでひろげるつもりはなかったのだが、彼の『寛政譜』を点検していて、

後将軍家(家斉?)放鷹のときしたがいたてまつり、鳥を射て時服をたまふ。

_360
2_360
(長谷川宣以・宣義(辰蔵)の『寛政譜』)


かなり修練したな、との思いが湧いた。
平蔵家で、そのような褒償を得た者は、辰蔵のほかにはいない。
それで、弓術の師を探して布施十兵衛良知(よしのり 39歳 300俵)と長女・丹而(にじ 12歳)に出あえた。

建部市十郎(いちじゅうろう 12歳)という恋敵(こいがたき)も見つかった。
市十郎も、「のちしばしば的を射、あるいは放鷹にしたがいたてまつり、鳥を射て時服をたま」わっている。

_360_2
(建部市十郎広興の『寛政譜』)


そのことにより、煩悶する辰蔵を見かねた平蔵の依頼を引きうけたはいいが、抱いてしまったばかりか、寝台まがいの台で強く刺激させ、恍惚へのぼりつめ、おんなの情欲の濃さ、深さ、怖さを13歳の少年に植えつけたお三津の魂胆を推察してみた。

さすがの平蔵も、おのれのちょっとした言葉が、嫁して3年、子を宿せず不縁となっていたお三津のこころをわずかに傷つけたことにまでは考えがおよばなかった。

初回の抱合をおえたあとを再現してみる。


「不思議だな」
「なにが---です」
「お三津どのほどのいいおんなぶりのこの躰をあきらめた、ご亭主どののことよ」
「いい躰---?」
「敏感だし、しめつけるし、潤いもこんこん---」
さんだからです。認めてくださって、天にものぼるほど、うれしい」

「耕せば---」
「耕して---」


前夫に性感を「耕せさせて」いなかった---ととったのであった。

いや、そのときは、そうまで深くはうけとらなかったが、この半年のあいだに、ひとり寝の暇ひまに、ここで交わした会話、江戸までの旅と旅籠での睦みごとをくりかえいおもい返しているうちに
「耕せば---」
が、15歳も齢上の男の科白におもえてきたのであった。
つまり、性的に「まだ未熟」といわれたにひとしい。

こうもいわれた。


「われには、内室と子が4人、ほかに割りないことになっているおなごがいる」
「だから、引き返せ? ここが、進め、すすめって---」
「だから、進んでいいかと、確かめておる」


情からではなく、誘われたから同情心をそそられて抱き、好奇心からつきあってくれたのではないか、との疑念が芽生えては消えた。


「うんと齢下のを男にしてやる楽しみもあるぞ」


とも、口にした。
辰蔵との年齢差は9歳---相手を探してくれとの書状を読んだ晩、こんどの仕組みが湧いた。
もちろん、お三津がその相手を勤めめるなどとは、平蔵は想ってもいなかったろう。

「男って、いくつになってもいい気なものだわ。でも、これって、おんなだからできた復讐よ」

しかし、お三津は、平蔵から声がかかったら、すぐにでも帯を解くはずの自分に苦笑していた。

「だって、嫌いじゃないし、っつぁんを迎え入れているときも、さんとしているんだっておもおうとしていた私だもの」

|

« 平蔵、書状を認めた(6) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(71)これまで »

200ちゅうすけのひとり言」カテゴリの記事

コメント

「男って、いくつになってもいい気なものだわ。

お三津さん、よくぞ決めつけてくださった。
でも、だから、かわゆいところもあるのよね。

投稿: tomo | 2011.06.27 05:44

辰蔵が弓の稽古をはじめたこと、市十郎がライバルであったらしいこと、家譜を示されて納得しました。
いつものように史実に準拠した物語づくりだったんですね。時代背景といい人物といい、ちゃんとしているところがこの鬼平ものがほかとは一線を劃していて、勉強になります。

投稿: 文くばりの丈太 | 2011.06.27 05:54

>tomo さん
平蔵とお三津の場合は、37歳の既婚男性と、22歳の離婚女性の睦みでしたから、どうしても男性のほうが性的主導権をもっていたのではないかとおもいます。
それで、つい、進みすぎたのかも。

しかし、お三津と辰蔵の場合は、なにせ、辰蔵は13歳の初体験、どうしてもお三津が主導します。

それを「男って、いくつになっても、いい気なもの---」とい思われては、平蔵も立つ瀬がありなせぬ。「いい気」じゃなく「良い気」と思ってやりませんか。

投稿: ちゅうすけ | 2011.06.27 06:30

>文くばりの丈太 さん
震災のときに書棚が軒並み倒れ、資料が散乱、いまだに復旧しておりません。そんな中でのブログの継続なので、意にまかせません。ここ数日、明和3年に浅間山噴火の記録をまとめて---とおもっているのですが、肝心の『徳川実紀』がでてきません。まあボヤいていてもキリがありません。
あと、2ヶ月ほどで2,500項目書き続けたことになります。とにかく、鬼平にかかわる、新史実に挑戦していくしかありません。これからも、ご指導とご支援を願いいたします。

投稿: ちゅうすけ | 2011.06.27 12:46

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 平蔵、書状を認めた(6) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(71)これまで »