« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月の記事

2011.07.31

辰蔵のいい分(3)

遅すぎの夕餉を静かに終え、松造(よしぞう 32歳)・お(くめ 42歳)夫婦とお(つう 16歳)が蔵前の榧(かや)寺裏の自分たちの家へ帰ると、病人のいる家は急に洞穴(ほらあな)のようになってしまう。

平蔵には記憶があった。
長谷川家が赤坂氷川神社の坂下・築地に拝領していた家がそうであった。

六代目の宣尹(のぶただ 享年34歳)が伏せがちあったし、家禄を守るために父・宣雄(のぶお 30歳=当時)が婿養子となlったため、形だけの妻となった宣尹の妹・波津(はつ 享年35歳)はずっと病床にあり、婚3年目、銕三郎(てつさぶろう)が5歳のときに息を引きとった。

戒行寺にのこっている戒名---秋教院妙進日進。

それまで、宣雄をはじめ、内妻であった(たえ)も銕三郎も、息をひそめるようにして、そっと暮らした。
波津が逝(い)くと、宣雄は一人っ子の銕三郎の健康のために日あたりのよい築地・鉄砲洲へ引っ越した。

奈々(なな 16歳)が看護婦のお(せん 24歳)を目でまねき、声をひそめて里貴(りき 39歳)の眠りぐあいを訊くと、おがうなずいた。

指で上をさした奈々は、いつものように灯をもち、玄関から裏庭へまわって2階へ移った。
平蔵は寸時、ためらったが、やはり玄関から裏庭へまわり、音をたてないで階段をあがった。

奈々が腰丈の黒っぽい寝衣に片立て膝で冷酒を呑みながら待ってい、左横を指さした。
座ると、酒をみたした小椀をわたし、右手を平蔵の右腿にのせて躰をくっつけ、
辰蔵(たつぞう 14歳)さんに口説かれてしもた」
耳元で、ささやいた。

「いつのことだ? どこで?」
話が話だけに、平蔵も唇が耳朶につくようにして訊いた。

聞こえるか聞こえないほどの小声の奈々によると、7日のあいだ、悩みぬいたが、自分の胸におさめおきかねたので、打ちあけているのだと。
口説かれたのは、弥勒寺の裏門---
山田銀四郎の家でだな?」
「あそこで礼法習うとるとき、見初められたみたい、待ち伏せしてたんな」

「で、口説かれて、どうした」
「遊んどる暇、ないゆうて、ひじ鉄を---」
「よく、やってくれた」
「そやかて、おじさまと、そないなるかもしれへんもん---」
「おいおい---」
奈々の指が平蔵の唇に軽くあてられた。
「しっ---」

平蔵が齢甲斐もなく狼狽したのはたしかであった。
奈々によいようにあつかわれていた。

腿にあてられていた奈々の掌がするりと動き、硬直しかけていたものに触れた。
「あかん、おじさま---ここでできるわけないやん」

平蔵は、奈々の両肩を押して躰を引きはなし、声は小さく、
辰蔵のことは放念してもらいたい。父親として頼む」
l両肩を押されたために開いた胸元からふくらんだ乳房が2つともこぼしたまま、
「わかった。その代わり---」
いいよどみ、双眸(りょうめ)をとじ、口をさしだした。

平蔵の目に、光をとおしているように白い乳房がささった。


ちゅうすけ記】奈々の紀州・貴志村ことばは、和歌山出身のアートディレクター・北山隆弘さんの指導をうけています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.07.30

辰蔵のいい分(2)

辰蔵(たつぞう 14歳)には、時間はたっぷりあった。

弓の稽古は、師の布施十兵衛良知(よしのり 40歳 300俵)が非番の日だから、5日ごとといってよかった。
「四書五経」は、黄鶴塾であった。
黄鶴塾では銕三郎(てつさぶろう)時代の父も学んだが、黄鶴(こうかく)は高齢で隠棲、いま塾生が接しているのは子息の天鏡(てんきょう 48歳)師だが、これも10日ごとであった。

意を決した辰蔵が、かつての師・於(よし 61歳)に、奈々(なな 16歳)にはどこで会えるか訊いた。

平蔵からの頼みで奈々を引き受けた於は、妙なことになりそうだ、とおもい、
「明日の七ッ(午前8時)が奈々さまが習いに日です。じかにお尋ねになるのが礼法というものです」

もとろん、辰蔵は翌日の七ッ前から弥勒寺の裏門のところ奈々をく゜町
伏せた。

時刻どおりに、奈々は独りでやってきた。
辰蔵をみかけると、やさしく微笑みかけ、お辞儀をして通りすぎようとした。

奈々さん。お待ちください」
「師がお待ちや。失礼さんです」
辰蔵の言葉を無視し、山田家へはいっていった。

辰蔵はあきらめなかった。
小半時(1時間)、待った。
先刻みせた奈々の微笑みだけが望みの糸であった。

奈々があらわれた。
「寸刻、お待ちを---」
「あきまへん」
「なにゆえに---?」
「うちは、仕事、もってます。あんさんみたように遊んでられる身分でないんや、母が伏せってます。堪忍です」
行こうするのに、
 「これだけでも応えてください。拙のこと、お嫌いですか?」
奈々は前をむいたまま、
「嫌いやあらしまへん」
辰蔵が興奮し、念をいれた。
「嫌いでない?」
「好きともゆうてぇしまへん。失礼します」
足早に去ってしまった。
甘酸っぱい香りだけが残された。

辰蔵は、あとを尾行(つ)けることもせず、呆然と見送ってしまった。
いまさら、於師に訊くこともできなくなった。

(齢は拙と同じか、一つか二つ上のようだが、仕事をもっているとか---髪型、着ているものからして武家むすめではないが、さりとて、武家の於婆ぁさんに礼法を習うというのが解(:げ)せない。

謎が深まれば深まるほど、辰蔵奈々に魅せられていった。

まあ、奈々のような肌をもった美形であれば、辰蔵でなくても惹(ひ)かれる。
げんに、父親の平蔵(へいぞう)が、分別のついた38歳にもなり、しかも妻子も里貴(りき 39歳)というおんな友たちまでありながら、奈々を気にしていたではないか。

その平蔵は、下城どき、里貴の枕元へまっすくにやってき、看護人・お(せん 24歳)から、往診してくれている多紀安長元簡(もとやす 29歳)の診(み)たてを聴きとるのが日課になっていた。

それから店をしまった奈々と臨時女中頭のお(くめ 42歳)が戻ってくるまで、夕餉もとらないで里貴のそばに付き添っていた。

奈々とおが帰着するころ、松造(よしぞう 32歳)がお(つう 16歳)ともども迎えにき、いっしょに夕餉をとった。
松造は、おが解放されるまでという取り決めで茶店〔三文(さんもん)茶房〕の主人におさまっていた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.07.29

辰蔵のいい分

辰蔵(たつぞう 14歳)の悩みが深まったようです」
寝所で、久栄(ひさえ 31歳)が告げた。

「下帯の汚れがひどくなったのか?」
平蔵(へいぞう 38歳)が、臀部(でんぶ)の肉(しし)置きがさらにたくましくなってきている久栄の尻を引きよせながら笑った。
「そのような笑いごとではすみそうもありませぬ。日がな、ため息ばかりついております」
「弓術の稽古には怠りなく通っておるのか?」
「そちらは、いままでにまして---」

「好きなおなごでも見つけたか」
「殿さま---」
「いつも申しきかせておるように、あれの年ごろでは、らちもない悩みごとを自らからつくりだしては、苦しがってみるものなのだ。それが青雲のしるしでもある。放っておいてやるのも親ごころだ」


「と、の、さ、ま---}
「う?」
「頂きましたものが、いつもより多く、濃かったように感じました---」
「これまでよりも、倍もいとおしいとおもっているからであろう」
「外での放射を、おひかえになっているのかと---?」
「ばかな---」
「うれ、しゅう、ござ、い、ました」
「うむ」

久栄が気づいたとおり、辰蔵は大きな悩みをかかえていた。
平蔵がいうとおり、新しい好きなおんなが見つかった。

10日ほど前、高く澄んだ秋晴れの日であった。
知行地の寺崎村の庄屋・五右衛門---ということは辰蔵の祖母・(たえ 58歳)の実家から、栗がたんさん送られてきた。

久栄が、辰蔵の礼法の師匠であった勘定見習・山田銀四郎善行(よしゆき 41歳 150俵)の実母於(よし 61歳)へ裾分けをとどけさせた。

参照】20101031~[勘定見習・山田銀四郎善行] () () () (
2011年7月15日[奈々という乙女] (

の家は、軍鶏(しゃも)なべ〔五鉄〕のあるニッ目ノ橋の南、弥勒寺の裏手であった。

栗の笊(ざる)を小脇に訪れると、於は新しいおんな弟子に礼法を習わせていた。
その、自分よりほんのちょっと年長らしいむすめに笑みを含んだ双眸(りょうめ)で見返されたさた瞬間、辰蔵は心の臓がとまったかとおもうほどの衝撃をうけた。

黒々とした双眸、面高の瓜実(うりざね)顔もさることながら、光を透かせているような青白い肌---これまで会っことのない---天女であった。

が引きあわせた。
長谷川辰蔵さまです。お父上は、西丸のご書院番士としてお勤めです」
天女が唇をほころばせ、白い歯をみせてなにか声を洩らしたが、辰蔵は聴いていず、眸(ひとみ)を見ひらき、躰をこわばらせていた。

「こなたは、お奈々(なな)さま---」
奈々は、もう一度、笑みをこぼし、それからは辰蔵を無視した。

小夜(さよ 22歳=当時)と名乗ったおんなによって植えつけられた、辰蔵の、おんな憎しの感情が、潮が退(ひ)くように消えた。

去年の師走---辰蔵にとって13歳の最後の月。
東海道の嶋田宿のしもた屋で、お小夜によって男にされた。
その初めての体験は、
「おんなの的(まと)の柔らかく、暖かく、なめらかなことは、想像をはるかに超えてい、その瞬間、天女を抱いたまま天空へ舞いあがっているような夢ごこちであった」
であった。

参照】2011621~[若女将お三津(みつ)] () () () (

ところが翌くる日、お小夜は、性の夜叉に変身していた。
辰蔵を、自分が快楽をむさぼるための奴隷として奉仕させた。

辰蔵の女躰へのあこがれは、微塵にこわされた。
もちろん、放射の快感はあったが、夢ごこちからはるかに遠く、自分がしていることがうとつましく、おんなが憎くなっていた。

奈々を見た瞬間、お小夜の呪縛はあとかたもなく消えた。

その夜から辰蔵は、想像の天女・奈々の裸身を抱き、放射をつづけていた。

ちゅうすけのつぶやき】お小夜がお三津(みつ 22歳)であったことは、すでに明かした。
しかし、辰蔵はそのことをしらなかった。
もちろん平蔵も、お三津にたくらみがあったなどとは、想像すらしていない。
しかし、辰蔵のお小夜への逆恨みは、とりもなおさず、父への反抗ともいえる。
父と子の難問は、ツルゲーネフの提起よりもっと前からあった。

| | コメント (0)

2011.07.28

天明3年(1783)の暗雲(8)

「芝・新銭座の井上立泉(りゅうせん 59歳)先生に、多紀元簡(もとやす 29歳)先生のこの薬草一覧をお見せし、お診立てと、こころすべきことをお訊きしてきてくれ」
平蔵(へいぞう 38歳)が松造(よしぞう 33歳)を走らせた。

入れかわりに、〔黒舟〕の女将から聞いたといい、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 51歳)の女房・お須賀(すが 46歳)と一人むすめ・お(しま 19歳)が襷(たすき)と前掛け持参であらわれた。

「宿六は〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代を誘い、いっしょにくるそうです」
「ありがたい。お(くら 63歳)婆さんを助けて、握り飯を多いめにこしらえておいてもらおうか」
は、前の藤ノ棚のときからひきつづいて家事手伝いをしていた。

見馴れない若年増が大き目の荷物をもって訪れてきた。
(せん)と名、24歳と齢を告げ、多紀家の躋寿館(せいじゅかん)で看護人の資格を得てい、安長元簡若頭取のいいつけで、泊りこみで病人の世話を看(み)るように命じられたと来意を明かした。

荷物の中には、当人の仕事着や着替えのほかに尿瓶(しびん)と湯たんぽも包まれているのを見、平蔵は病状が軽くないと察せざるをえなかった。

「おどのは、独り身か?」
泊りこみで看護をするというのだから、所帯もちではあるまいとはおもったが、いちおう、たしかめた。

「はい。離別いたしました」
「余計なことを訊いた。許されよ。よろしくたのむ」

は、さっそくに里貴の耳元へ口をよせ、便意の加減を訊き、ふとんの中へ尿瓶(しびん)をさしいれ、もごもごと具合をととのえ、用をたさせた。
(これは気がつかなかった。しかし、さすがに手なれたものだ。里貴もこころ強かろう)

感じいり、っさんこと元簡の気づかいに感謝したとたん、
「どなたか、手桶にお湯と手拭を---」
の声に、おがあわててそろえた。

手拭をしぼり、また腕をさしいれ、局所の周辺を清めた。
気のせいか、病人がかすかに微笑したように感じた。

やってきた権七と〔丸太橋〕の元締代理の雄太(ゆうた 49歳)を別室へみちびき、座敷女中たちの孤立した個人部屋がつくれるような家を急いで探していると頼んだ。

考えこんだ2人のうち、権七が、
「そういう家を建てると横十間川の東の十万坪になります。店がひけてから女があんなさびしい土地へ帰っていくのはいかがでしょう?」
「送り迎えは、黒舟に頼るとして---}
「それより、この家の裏塀を3間(5.2m)ばかり南へ動かして、新築するって案はなりませんか?」

南といえば、旗本・水野万之助忠候(ただもり 30歳 2800石)の下屋敷であった。
このあたりの幕臣の下屋敷は、地主から借り上げているものがほとんどで、金額次第では、うまく話がつくかもしれなかった。

翌日、あたり一帯の地主の材木問屋〔冬木屋〕から、雄太が諾をとった。
元飯田町坂上の水野家との交渉は、用人の桑島友之助(とものすけ 51歳)が先方の用人と年2分(8万円)でまとめた。

普請奉行の与力に、改易になって屋敷が取りこわしの家があるかどうかをたしかめた。
10年前に、鉄砲洲の家をばらし、いまの三ッ目ノ橋通りへ移して組み立てた亡夫・宣雄(のふお 46歳=当時)の知恵をおもいだしたのであった。

参照】2008年3月3日[南本所・三ッ目へ] (10


| | コメント (2)

2011.07.27

天明3年(1783)の暗雲(7)

「神田佐久間町の躋寿館(せいじゅかん)の多紀安長(やすなが 元簡(もとやす 29歳)どのに、〔季四〕の女将が倒れたと告げ、すぐに往診をたのめ」
里貴(りき 39歳)が店で倒れたとの急報を受けた平蔵(へいぞう 38歳)が、西丸の出入り口へ松造(よしぞう 33歳)を呼んでもらい、指示した。

あと、与(くみ 組)頭へ事情を告げると、牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 享年64歳)がこころえて火盗改メ・(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 43歳)の役宅への公用の通用状をわたしてくれ、
「次第によっては、明日、風邪につき休仕との届けをだしてもよろしい」
かしこまり、拝受した。

亀久町の家へ運ばれた里貴の枕元には、隣店の船宿〔黒舟] の女将・お(きん 39歳)がついてくれてい、
奈々ちゃんは、使用人たちの差配があるので、お店をみてもらっています」
「かたじけない」

声に気がついたらしい里貴が、布団からゆっくりとだした手で、strong>平蔵のそれをもとめた。
にぎってやると、閉じたままの蒼白な目尻から涙を一筋もらし、
「すみません」
かぼそい声であった。
「与頭の牟礼老から、しっかり養生を、と伝言(ことず)かった」

その時、薬箱をもった従者をしたがえ、多紀医師の駕篭がついた。

急場に告げるのもなんだが、多紀医師の若妻・奈保(なお 20歳)は里貴の縁者であった。

参照】2010年12月25日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

脈をとり、瞼の奥をのぞき、鼻孔へ掌をあて、舌の色をたしかめ、ふとんに腕をいれて腹の張りぐあいをさぐった
元簡医師が、
「疲労と心労がかさなってのことと診立てました」

薬箱からいくつもの薬草をとりだして量をはかって混ぜ、矢立からの筆で、
[地黄(じおう)、茯岺(ぶくりょう)、山茱茰(さんしゅゆ)、山薬(さんやく)、沢写(たくしゃ)、牡丹皮(ぼたんひ)、桂枝(けいし)、附子(ぶし)、半夏(はんげ)、白朮(びゃくじゅつ)
さらさらとしたため、
「筆頭の八味で十分とおもいますが、念のために2味、足しておきました」

さらに、高貴薬の人参をそえ、
「こちらの10味と人参とは分けて煎じ、朝昼晩、食後小半刻(こはんとき 30分)してから服してくださいますよう」

元簡医師と入れ違いのようにして、御厩河岸の舟着きの〔三文(さんもん)茶房〕のお(くめ 42歳)と松造がやってきたので、別間で容態をささやき、
「おどの。しばらく〔季四〕の女将代理をやってもらえまいか?」

は、里貴が一橋北で料理茶房〔貴志〕の女将をしていたときの女中頭であった。

「いや。永い間のことではない。こころあたりはあるのだ」
雑司ヶ谷の〔橘屋〕の女中頭師範のお(えい 51歳)をくどくまでだ、とことわった。

| | コメント (4)

2011.07.26

天明3年(1783)の暗雲(6)

「女中衆の寮ですか? それはいいかもしれませんが、男とのことが---」
平蔵(へいぞう 38歳)が雑司ヶ谷の鬼子母神脇の料理茶屋{橘屋〕ですすめられた座敷女中の寮の話をにつたえ.ると、里貴(りき 39歳)は、ちらりと横の奈々(なな 16歳)を見やった。

手酌で小茶碗に冷酒を注いだ奈々は、けろりとしたもので、
里貴おばちゃんは、うちが男をつくるとおもうてんのやけど、うちは窮屈かて、この家の2階からうごかへんし」

「それほど、ここが気にいっているのかの?」
訊いた平蔵へ、
「部屋の問題でと違ごて、こないして長谷川のおじさまと差し向かいでお酒呑んで、いろんなこと教えてもらえるし。それと、おばちゃんの色気の演(だ)し方も---」

里貴がため息をついた。
「疲れているようだな?」
「はい。少し---」
「無理しないで、寝(やす)んだらどうだ。われは、これだけ呑(や)ったら引きあげる---}
「大丈夫です。ごいっしょに---」
「うむ」

奈々がにぃっと笑い、
「うち、消える」
玄関へまわり、履物をつっかけて三和土(たたき)の通路から裏の階段を音をたててのぼっていった。

「申しわけありません。躰は疲れているのに、あちらのほうが欲しがってやまないのです。どういうことなのでしょう?」
平蔵をひきつけた。

「営中でも不思議だとささやかれておるのは---」
同輩の内室たちの要求が強まっていることだと。

多くの家がそういうことだと、要因は、浅間山の火坑からの溶岩流に焼かれた村、それが吾妻川を埋めておきた洪水に村ごと流された人たちの失われた命を、あたらしい誕生で埋めあわせよとの天の配慮にちがいないという説がもっぱらであるとも。

「でも、39歳にもなり、子宝には縁遠い私にまで、天は気をくばってくださっているのでしょうか?」
「天は公平なのであろうよ」
「うふ、ふふふ---でも、そうだと、奈々にもその欲気が---?」
「あのこは、もう男をしっているのかな?」
「しる前から、おんなはむずむずを下腹におぼえます」

里貴は、ご内室さまも? と訊かないだけの明察をもっていた。
もちろん、天は久栄(ひさえ 31歳)にも配慮を忘れてはいなかった。

もっともありようは、秋風の気配がおんなたちをはげましただけのことかもしれないのだが---。


| | コメント (0)

2011.07.25

天明3年(1783)の暗雲(5)

馴れと反動は人の性(さが)なのかもしれない。

浅間山の噴火のあとはさすがに茶寮〔季四〕の客足もとぎれがちであったが、7日もたたないうちに、まず、噴火による農作物の被害をうけなかった西国の諸藩の留守居たちが会合をもちはじめた。

それでも、高級料亭はお上の目をはばかり、〔季四〕のように質素だが品格の高い店がえらばれた。
老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 65歳 4万7000石 相良侯)の息のかかった店らしいという風評も影響したらしく、四ッ(午前10時から)から暮れ六ッ半(午後7時)すぎまで、客の絶え間がなくなった。

板場も座敷も人手をましても、それでもおっつかない。
諸藩の重役たちは、里貴(りき 39歳)に藩と己れの顔と名を覚えてもらいたいから、里貴奈々(なな 16歳)は休む間もなかった。

奈々は、諸藩の上級者と一流店の若手店主や番頭の顔と名をひかえるようにと、平蔵から特徴を記す小さな懐中手控え帳をわたされていた。

非番の日、平蔵は雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕を訪ね、2代目忠兵衛(ちゅうべえ 50がらみ)と女中師範のお(えい 51歳)に、〔季四〕で働けそうなこころあたりのおんなを頼んだ。

忠兵衛は、里貴が紀州藩ゆかりの女将と分かると、
「紀州さまご指定をいただいておる〔橘屋〕としては、放ってはおけませんな」
嫁入りするといって辞めていったので、その後、夫婦仲がうくまくいってないのはいないかとおに訊いた。

はそれには応えず、
「いつかもお話ししたことがあるとおもいますが、私は信州の佐久郡(さくこおり)沓掛村の出です。こちらの〔橘屋〕さんが女中たちの寮をお店の近くにお手当てしてくださっていたので、永くお勤めさせていただけました。〔季四〕さんも座敷女中たちの寮をお手当てなさると、遠くから通うこともいりません」
片目をつぶった。

(おんなたちのセックス・フレンドとのことは、〔橘屋〕流に大目にみてやれ)という合図だな)
平蔵はうなずき、
「おさんなみの座敷女中頭になれるような人のおこころあたりは?」

参照】2008月8月10日〔菊川〕の仲居・お松] (

「お(なか)さんも、もう、48歳だからねえ」
つい、もらした。
「おが、どうか---?」
平蔵がゆっくりと問うた。
つられたおが、
「石浜真先の〔甲子屋(かねや)〕さんで女中頭をやっています。むすめ---といっても27の年増ですが、お(きぬ)ちゃんといっしょです」

参照】2008年8月14日[〔橘屋〕のお仲] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)


_360
(真崎稲荷前〔甲子屋〕 『江戸買物独案内』)

忠兵衛平蔵に釘をさすように、
長谷川さま。〔甲子屋(かねや)〕さんからおさんを引き抜くのはおやめなさったほうがいいでしょう。これからおと相談し、うちの女中頭候補から、えらばせましょう」
(忠兵衛旦那のいうとおりだ。しっかり暮らしている母子に、若いツバメだったおれが、いまさら顔をだせた義理か)

【参照】2008年11月29日[〔橘屋〕忠兵衛

| | コメント (2)

2011.07.24

天明3年(1783)の暗雲(4)

_160三河町ほか数町の草分け名主の斉藤月岑(げっしん)が編んだ『武江年表』から、天明3年(1783)癸卯(みずのとう)6月下旬から7月(いずれも旧暦)へかけての、浅間山噴火の記載を、現代文になおしながら引く。

○信濃と上野(こうずけ)の国境にそびえている浅間山の火坑(火口)が噴火し、広範囲に被害があった。
江戸では、7月6日夕、七ッ半(午後5時)より、(浅間山のある)西北のほうが鳴動し、翌7日へかけてよりはげしくなった。空は闇(くら)くて夜になったようで、6日の夜から関東筋および上毛に火山灰を大量に降らせた。
竹木の枝につもったさまは雪帽子をかあぶっているみたいであった。

上を、江戸で体験した噴火前後の状況の記録とすると、以下は、現地近辺を取材した記者の見分か、かわら版
からのサム・アップであろう。

(浅間山が焼けだしたのは---:大量の煙と蒸気を吹きあげて火山活動が活発になったのは、春の頃より始まってその勢いは例年に倍していたが分けても強く噴火したのは、6月29日あたりからで、望月宿(中仙道 現・長野県佐久市)の辺から見ると、烟の立ちぼりようは雲のごとくで空一面を覆い、炎は稲光のようでおそろしい。

7月4日ごろから毎日雷鳴のような山鳴りが次第にはげ゜しくなり、6日の夕方には青色の灰が降った。
夜中より翌7日の朝、灰や軽石などがさかんに降り、山鳴りも強まっていた中、昼すぎになり、掛け目20匁から40匁といった軽石みたいな小石が降ってきて危ないので、外歩きができなくなった。
7時ごろから灰が降りだし、しばらのは闇夜のように暗くなり、人の顔の見分けがつかなくなったほどであったから、家の中では灯をともし、どうしいも外出しなければならないときは、空き米俵を何層にもかさるたかぶった。

然るに2時ばかり過ぎ、晴れてきたように見えた空が、またも浅間の山頂では火の玉が噴きあがり、しばらくする小石が降りだし、山鳴りもはげしく、戸や障子がはずれて倒れ、夜、寝ることもできなくなった)


被災地の大変さの報告はまだまだつづくが、この天明3年の大噴火を記録した書物は数多くあるので、詳細はそちらにまかしたい。


天明三年 浅間山大噴火』 大石慎三郎 角川選書
複合大噴火 1783年夏』 上前潤一郎 文藝春秋


江戸側での記録として、公式記録ともいえる『徳川実紀』からひく。

7月6日 この夜更たけて、(浅間山の方角の)西北の方、鳴動すること雷のごとし。(日記、能知見草)


7月7日のこのおどろしい夜、平蔵(へいぞう 38歳)がどこにいたかの記録はない。
三ッ目の通りの自邸で、おびえる銕五郎(てつごろう 3歳)と怖がっている於(きよ 8歳)を久栄(ひさえ 31歳)とともになだめすかしていたか。

あるいは、亀久町の2階家で、腰丈の寝衣の里貴(りき 39歳)に、
「その装い(なり)ではまさかのときに外へ逃げられまい、せめて帷子(かたびら 単衣)でもまとっておいたほうがいい」
奈々は、あがって、持ちだすものをまとめておくんだな」
すすめていたか。

営中で宿直(とのい)にあたってい、ひと晩、寝ることができなかったか。

〔五鉄〕で、三次郎(さんじろう 34歳)を相手に冗談をいいあっていたとはおもえない。
慎重な三次郎のことだ、板場の火をおとし、軍鶏鍋用の七輪の火の消していたろう。


さて、『実記』の記録----。

7月7日。この日、天の色ほのぐらくして、風吹き、砂を降らすこと甚だし。
午の刻すぐるころ、風ようやく静まり、砂降ることも少しくやみぬ。
黄昏(たそがれ)よりまた振動し、よもすがらやまず。

8日。この日、鳴動ますます甚だしく、砂礫を降らす。大きさ栗のごとし。これは信濃国浅間山このほどもえ上りて、砂礫を飛ばすこと夥しきをもって、かく府内まで及びしとぞ聞えし。(日記、能知見草)

(世に伝ふる所は、ことしの春のころより、この山しきりに煙立しが、6月の末つかたよりようやくに甚だしく、こり月6日夜、忽震動して、その山燃上り、稲(火偏)燼天をこがし、砂礫を飛ばし、大石を迸(ほとば)すること夥し。
また山の東方崩頽して泥濘を流出し、田はたを埋む。よりて信濃・上野両国の人流亡し、あまつさえ石にうたれ
、砂にうづもれ、死するもの2万余人。
牛馬はその数を知らず。凡この災にかかりし地40里余におよぶという)

この噴火の余波としておきた飢饉や水害について、『実記』は記していない・


| | コメント (2)

2011.07.23

天明3年(1783)の暗雲(3)

「すべて、手くばりを終えて参りました」
用人格の桑島友之助(とものすけ 50歳)が報告した。

桑島友之助がこのブログに初登場したのは、たしか20年前だから、歳月のたつのは矢のごとく速い。、

参照】2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] () () () (

知行地である上総(かずさ)の寺崎(220石)と片貝(180石)の、浅間山噴火による降灰の被害の程度と、まさかの時の窮民の救済の手だてを村長(むらおさ)と村役人たちにいいふくめる辰蔵(たつそう 14歳)の助役(すけやく)としてつけられたのであった。

が、平蔵(へいぞう 38歳)は、ひそかに、もう一つの任務を友之助にさずけていた。
長年にわたって任えてくれている友之助だから頼めたことであった。

それは、辰蔵の性的不満によるとおもえる不機嫌の由来をさぐってみてくれ---という、父親としての心配ごとであった。

「苦労をかけた」
「とんでもございませぬ。ところで、もう一つのことですが---果たせませぬでした」
「ほう---?」

友之助によると---。
往路は行徳まで便船、船橋、大和田、臼井とたどり、佐倉城下の〔江戸屋〕で一泊した時、夕食後、供の者が遊び女(め)のいる家へ行くことの許しをえるという口実で、それとなく誘ってみたが、
「そういうことに、いちいち許しを求めるでない」
すげなく拒絶されたと。

寺崎村の五左衛門屋敷での夕餉に給仕したちょっとした美形の若後家に、寝間までみちびかせたが、さっさと蚊帳の中へ消え、
「用はない。すみやかに去(いぬ)るがよい」
にべもなかった。

片貝村から帰りの東金宿でも、夜の町への興味はしめさなかった。
岐路は東金街道を川井、稲毛ととり、船橋宿で一泊したが、結果は同じであった。

それとなく、女躰の経験を話題にだしてみたが、微笑するだけで応えをえられなかったが、あの笑顔は肯定とみたが---推察に終った。

「人生に長(た)けた桑島をもってしても尻尾を見せないとは、(たつ)もしたたかになったものよ」
平蔵も、天を仰ぐのみであった。

---が。
真相は、意外な人物がさぐりあてたが、その経緯(ゆくたて)は別の日の物語りということに。

| | コメント (2)

2011.07.22

天明3年(1783)の暗雲(2)

「菜をとどけてくれている砂村の農家の者が、今朝のようなことがあると、灰を洗いおとすだけでもたいそうな手間で、5日もつづくと、農家はお手あげだと嘆いていました」
里貴(りき 39歳)が身近におきた被害を告げた。

里貴おばさまは、農家のことを心配していますが、うちだって、今宵みたいな取り消しがつづいたら、お店はやっていけなくなります」
早くも若女将になったつもりの奈々(なな 16歳)が、大げさに眉根を寄せた。

平蔵(へいぞう 38歳)は、明日、嫡男の辰蔵と2,3の家士を知行地へ旅立たせることを話すと、
辰蔵さん、お幾つですの?」
奈々か訊いた。

「14歳だから、来年あたり、元服させようとおもっておるのだが---」
「お武家の元服って、お嫁さん、もらうの?」
興味津々の双眸(まなざし)で奈々が問いかけた。
こういうところは、まだ、乙女であった。
「いにしえでは嫁取りのこともあったとおもうが、いまは戴冠(たいかん)といい、いつでも職に就ける---男として一人前なったという儀式になってきておる」
「せやけど、男として一人前いうことやったら、おなごをしるゆうことでもあるやろ?」

奈々ッ!」
里貴がとめたが、遅かった。

「男がおなごをしるのは、儀式とはかかわりはなく、機会のあるなしである。おなごもそうであろう?」
奈々か゜返事をためらうと、
銕(てつ)さま、そのような話題は、きょうのような宵にはふさわしくありません。城内での風評では、浅間山はこれからどうなると話されておりますか?」
里貴が話題を転じた。

(そうだ、われが辰蔵の初めての体験のことを見て見ぬふりをしているのと同じで、姪っ子同様の奈々がむすめであるかどうかも、そしらぬふりでいてやらねば、不公平だ)

営内にも2派あることを告げた。
すなわち、700年ほど前の火坑(噴火)の言い伝えを耳にしたことがある浅間山近隣の諸藩のなかには、昨日のは前触れで、1ヶ月のうちにもっと大きな異変を予言する者があったが、宿老たちから発言をとめられたらしい。
もう一派は、政事がうまくてっいるいまの世の中に、天が苦難を投げかけるはずがないという、根拠の薄い天命説であった。

「おじさま、どっち摂る?」
奈々の双眸は、平蔵が前者の説に与(くみ)すると決めているようであった。

「j町方・在方(ざいかた)といわず、武家にしろ大名方にしても無事を願っていよう。しかし、一寸先は闇と考えて策を練っておくのが賢者であり、政事であろう」

歴史は、もっと大きな異変が予言派の言い分とおりになった。


| | コメント (4)

2011.07.21

天明3年(1783)の暗雲

「殿さま。真夏というのに、霜がおりたように、庭の木々の葉という葉に白くつもっております」

天明3年(1783)6月26日(旧暦)の早朝七ッ(午前4時)すぎであった。
手水(ちょうず)から戻ってきた久栄(ひさえ 31歳)が、平蔵(へいぞう 38歳)の横に伏せながら、つぶやいた。

昨宵、睦みが終ったとき、夫が珍しくやさしく許してくれた。、
「久しぶりだ、このまま朝まで、同衾していけ」

庭に面した障子が白じむころ、ふと、指が平蔵の硬めにふくれているもの触れ、つまんでいるうちに自分のものも熱くなってきたのだが、出仕の日でもあったので耐え、たまらず厠(かわや)へ立ち、気を鎮(しず)めてきたのであった。

「なにっ!」
平蔵はすばやかった。
すぐに庭木をあらため、衣服を着すると、
「皆を起こせ」

久栄は自分の部屋へかけ戻り、身づくろいをととのえ、腰元のお芭瑠(はる 20歳)を起こし、板木をたたくようにいいつけた。
板木は武家の屋敷では非常用に吊るされていたが、めったにたたかれることはなかった。

四半刻(15分)後には、全員が平蔵の居間前の庭先に集まっていた。

「ご苦労。非常の呼集は、おのおのが目にしているごとく、浅間山の火坑からの灰がはげしく積もったからである。なに、わが屋敷の庭木に積もった灰は、落とせばことはすむ。
しかし、知行地の寺崎村と片貝村の作物に積もった灰は、村人を困難に落としこむやもしれない。ついては、寺崎、片貝からの知らせを待つのではなく、こちらから見分の者を派遣する。
われの代理は辰蔵(たつぞう 14歳)、桑島友之助(とものすけ 50歳)を助役(すけやく)とし、書役(しょやく)2人は桑島が選ぶこと」

朝餉(あさげ)の白粥(しろがゆ)の席へ呼んだ辰蔵に、220石を賜っている武射郡(むしゃこおり)の寺崎村では、亡祖父・宣雄(のぶお 享年55歳)の若いころの働きで、80石を越える新田が拓かれてい、そこからのあがりの一部は、ここ40年近く、祖母・(たえ 58歳)の実家で村長(むらおさ)格の五左衛門家の別倉に蓄えられておるから、こんどの浅間山の降灰で作物が害をこうむり、食うに難儀がでた戸には蓄えの半分までは、村長の判断で与えてよいと伝えよ--。

180石を拝領している山辺郡(やまべこおり)の片貝村の村長にも、同様の許しをつたえるようにいいつけた。

登城を内玄関まで見送りにでた久栄が、
「駿河への旅から帰っていらい、気ふさぎがつづいている辰蔵の気持ちが、このたびの知行地行きで晴れれば何よりでございますが--」
「嫡男としての責任の果たしどころよ」
平蔵は、こともなげにいい放った。

営中には触れがまわっており、信濃、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、常陸(ひたち)、武蔵、上総(かずさ)、下総(しもうさ)に知行地をえている幕臣で、知行地へ被害の問い合わせをなしたい向きは、隔日の八ッ(午後2時)までに書状を、最寄代官所あての継飛脚便へ託すことができるということであったので、平蔵はさっそく、辰蔵らを見分に派遣するむねを2つの知行地へ報せる一文を寄託した。

公用の継飛脚なら、寺崎へも片貝へも1日のうちにとどいた。

下城の道すがらに茶寮〔季四〕へ立ち寄ると、降灰のせいで座敷の取り消しがあいつぎ、
「今夕は、せっかく仕込んだ料理がむだになります。召し上がっていらっしゃいませんか」
里貴(りき 39歳)のすすめで、腰をおちつけた。

配膳を手伝った奈々(なな 16歳)も、里貴にならい、仕事着を普段着に着替えて相伴することになった。

| | コメント (0)

2011.07.20

ちゅうすけのひとり言(74)

_200_2昨日につづいての『群馬県史』(歴史図書社 1972)から、上野(こうづけ)国に知行地を賜っていた長谷川家5家の中でも大身で久三郎を継承名としている、納戸町の家。


250  長谷川 (家紋は左三藤巴)

正吉(まさよし) 久三郎。正長が三男。

ちゅうすけ注】正長紀伊守)は、小川から田中城(藤枝市)主となり、武田信玄に攻められて浜松へ走って家康の傘下へ投じ、姉川へ従軍、三方ヶ原で討ち死にした、幕臣・長谷川家の祖。3遺児---正成(まさなり 昨日掲出)、正次(まさつぐ 平蔵家の祖)、正吉(まさよし 今日掲出)がそれぞれ取り立てられた。


讃岐守となる。天正7年(1579)、秀忠に附属して、御小姓を勤む。
後屡、加恩ありて、上州甘楽・碓氷二郡にて、4070石余の采地を賜ふ。
此後放鷹に雇従せし時、仰に依りて、溢谷に於て別荘の地8萬5000余坪を賜ふ。
慶長13年(1608)卒す。上州榊保村仁叟寺に葬る。法名は宗伯。

正信 久三郎 実は長谷川筑後守正成が長男にして、正吉が養子と為る。
御徒頭・御書院番組頭に勤仕し、淡路守に任じ、寛永10年(1633)、采地700石を加へられ、後之を公収せらる。
16年(1639)卒す。小石川吉祥寺(後駒込に移る)に葬る。法名了知。

正相(まさすけ) 初名 正綱。久三郎。正信が男。御書院番・御先弓頭等に勤仕し、寛文4も年(1764)采地を廉米に更めらる。(是より先、洪水に因りて、采地荒廃せり)。天和2年(1682)4月、上州新田・邑秉2郡にて、500石の加恩あり。:元禄2年(1689)卒す。

正明(まさあきら) 五兵衛。正相が男。御小姓組に列し、元禄2年(1682)、遺跡を継ぐ。此時弟徳栄に500俵を分与し、自ら稟米3570俵余、采地500石を知行す。
10年(1697)稟米を更めて、遠州城東・山名2郡にて、3570石与を賜はり、11年(1698)3月、上野國の采地500石を城東・山名2郡の中に移さる。
享保元年(1741)卒す。江戸谷中の大行寺に葬る。法名は日音。


記載は、ここで終っている。
ブログに登場してい.るこの長谷川家は、正明から1代おいた、正誠(まさざね)、その養子・正脩(まさむろ)、その嫡男・正満(まさみつ)、さらには平蔵家から養子にはいった次男・正以(まさため)である。

もっとも、『群馬県史』とすれば、知行地が上野国から他国移った幕臣には用はない、というわけなのも、理解できる。


昨日にならい、長谷川久三郎で[旧高旧領取調帳データベース
のり検索にかけてみた結果はは、

遠江国山名郡 太馬郎新田     62石391 
    豊田郡 船明(ふなぎら)村 378石545

2000石ほどが行方不明のままで終った。

さらに不思議が残ったのは、正信が葬られた吉祥寺は曹洞宗、それから82年後に物故した正明が菩提された大行寺は日蓮宗であること。
改宗の因縁など、調べてみたくなった。


475_360
(駒込・吉祥寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

| | コメント (2)

2011.07.19

ちゅうすけのひとり言(73)

小さな書斎の本棚が地震で崩壊したまま4ヶ月がすぎた。
一向に本復しないのだが、散乱した本類のなかから、『群馬県史 全6冊』(歴史図書社 1972)が存在を告げるように背表紙を見せていた。

40年近くも前にどんな意図で、2万4000円もだして求めのか、存在すら忘れていた。

_360
(『群馬県史全6巻』 歴史図書社刊)

6冊のうち、これまた偶然に第3巻、帯に「江戸時代 上毛諸侯旗本代官の事績2」とある外函をははらい、ぱらぱらめくった。

長谷川」の文字に目が止まった。
見なれた名前が並んでいた。

長谷川の本家だった。
全段はともかく、正直 太郎兵衛は、このブログでなじみの脇役の一人である。


249  長谷川 (家紋は左三藤巴)


正成(まさなり) 下河逞四郎政義が二男、小川次郎政平三世の孫、次郎左衛門政宣。和州長谷川に住し、長谷川を以て氏とす。

其後裔紀伊守正長、駿州小川に住す。
後同國田中に移住し、今川義元に事ふ。
今川氏没落の後、家康に事へ、三方ヶ原の役戦死す。

正成正長が男なり。筑後と称す。
天正4年(1576)、家康に事へ、御側に近侍す。
慶長5年(1600)、上杉景勝征伐の時、秀忠に従ふて宇都宮に抵る。後采地600石を賜ふ。
16年(1611)、勝姫の松平忠直に入輿するに営り、之に附属す。1000石を加へられて、高田に赴き、之に仕ふ。
寛永2年(1625)12月相州高座・愛甲、武州榛沢・幡羅、上州緑野5郡にて、新墾田を併せ、1750石余の地を知行す。
15年(1638)卒す。相州高座郡沢橋村浄久寺に葬る。
久寺に葬る。

正澄 刑部。正成が男。寛永15年(1638)遺跡を纏ぎ、父に代りて勝姫に仕ふ。
寛文4年(1664)卒す。

正定 隼人。正澄が男。寛文4年(1664)、父の遺跡を纏いで1450石余を知行し、300石を弟玄蕃に分具す。

正利 刑部。正定が男。御小姓組番士・桐聞番・御近習番・御小姓組に歴事し、元禄15年(1702)卒す。

正冬 :監物。実は坪内藤九郎長定が長男にして、正利が養子と為る。御近習番・御納戸・御書院番士等に勤仕し賓暦2年(1552)卒す。江戸四谷一行院に葬る。

 
正直 太郎兵衛。正冬が男。御小姓組・西城御徒頭・西城御小姓1 頭・西城御小十人頭・御徒頭・御先弓頭・御持筒頭・御鎗奉行等に歴事し、寛政4年(1792)卒す。葬地前に同し。


正鳳(まさたか) 主膳。正直が男。御小姓組番士に列し、寛政6年(1794)卒す。

正運(まさかつ) 太郎兵衛。正鳳が男。御書院番士と為り、寛政10年(1796)致仕す。

正愛 金太郎。正蓬が男。寛政10年(1796)家を纏ぺ鈴を知行す。1450石余を知行す。


以上の記録が『寛永諸家系図伝』と『寛政重修l諸家譜』に拠っていることはいうまでもない。

ぼくとって、この『県史』の価値は、『寛政譜』にも記載されている長谷川本家の知行地の明細を、これを機に探索する気がおきたことにある。

知行地は、

相州 高座郡
    愛甲郡
武州 榛沢
    幡羅
上州 緑野

---と判明していた。

旧高旧領取調帳』はいぜんとして散乱してうもれた本類の中なので、[旧高旧領取調帳データベース]で検索をかけた。
ヒットしたのはわずかに、相模国愛甲郡長谷村---長谷川右京 500石のみというありさま。
寛政譜』をあらためてみたが、知行地移動の記載はなかった。

文化・文政以後に移動があったのかも。

| | コメント (0)

2011.07.18

〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛

『鬼平犯科帳』巻16[見張りの糸]に、東海道の江戸への入り口---芝・田町7丁目に面した三田八幡宮門前に、15年ほど前に京都から下ってはき、社仏具類の小体(こてい)な店かまえの〔和泉屋〕をだした元盗賊の頭とある。
三田八幡の鳥居の脇の茶店〔大黒屋〕の持ち主が盗賊・[稲荷(いなり)〕の金太郎とふんだ火盗改メ・が〔和泉屋〕忠兵衛(ちゅうぺ゛え 70近い)に2階の一と間を見張り所にかりうけたことから、事件にかかわってしまった。

082_360
三田八幡宮(『江戸名所図会」 塗り絵師:ちゅうすけ)

_16

年齢・容姿:面長の、品のよい顔だちで、眉毛が雪のように白い。70歳近い。
息子・源四郎は40すぎで、女房・お弓には子がいない。
奉公人の太助は45,6。
生国:山城国綴喜郡(つづきこおり)八幡宮領橋本町堂ヶ原郷(現・京都府八幡市橋本堂ヶ原)。
いまごろ、〔堂ヶ原〕忠兵衛をとりあげたのは、じつは数年前に盗賊の出身地調べていたとき、堂ヶ原は、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治38年-)で拾えなかった。
今回、八幡市役所の文化財保護課の出口さんに教わったところでは、村という単位以下の高みの地区とのこと、道理で『旧高旧領取調帳』でも検索にひっかからなかった。
Google map の検索でヒットし、見当がつき、調査が一気にはかどった。

江戸の三田八幡宮と京都の石清水八幡宮---という八幡宮つながりの設定もおもしろい。

_360
(石清水八幡宮 『都名所図会』)

探索の発端:20数年前、亡父・備中守宣雄が京都西町奉行として赴任していたとき、銕三郎(てつさぶろう 27歳)はふとしたきっかけで茶店〔千歳(ちとせ)〕の女主人で女賊のお豊(25歳)と睦みあったこ。
その銕三郎をかばった同町奉行所の与力・浦部源六郎(げんろくろう 中年=当時)が、公用で江戸へやってき、〔大黒屋〕を見張っている木村忠吾の仕事ぶりを見分したとき、〔和泉屋〕の店主・忠兵衛は、西町奉行所をさんざんてこずらせたうえに消息を断った〔堂ヶ原〕一味の頭領・忠兵衛であることを鬼平に耳打ちして帰京していった。
その忠兵衛を兄の仇と狙っていたのが盗賊浪人・戸田銀次郎であった。〔堂ヶ原〕一味であった彼の兄は、一味
掟てを破り、押し入り先でおんなを犯し、血を流させたために仕置きされた。
戸田浪人たちが忠兵衛を襲った夜、ある予感から〔和泉屋〕の見張り所へ来ていた鬼平に戸田一味はなんなく捕縛されてしまったが、鬼平は〔大黒屋〕ほかを盗人宿としている〔稲荷〕の金太郎一味の全員の手くばりをおえるまで、何事もなかったように、忠兵衛に店を開かせ、〔稲荷〕一味を安心させておいた。
〔堂ヶ原〕一味をたばねて正統派の掟をまもらせていただけの器量をそなえている忠兵衛は、その役をみごとに果たした。

結末:]息子・源四郎の入牢は書かれているが、その妻・お弓が女賊であったとは記されてはいない。
元〔堂ヶ原〕一味の小頭格であったらしい太助は、戸田浪人一味に惨殺された。
忠兵衛の結末については、記されていないが、〔和泉屋〕は近隣へのあいさつもなく店仕舞いをし、一家は消えたとあるから、15年前までの所業により、死罪を受けたものと推察できる。
そうでなければ、近隣へなんらかのあいさつをしているはずである。

つぶやき:2011715[元盗賊〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛]の項にも書いたとおり、犯さず、殺さず、貧しき者からは盗まずの本格派盗賊の3戒を守りきって15年も前に廃業、足を洗っ正業にはげみ、火盗改メの見張り所として一部屋提供したほどなのだから、目こぼしがあってもよさそうなものだが、そうおもうのは、読み手の肩
入れのしすぎかも。

| | コメント (2)

2011.07.17

元盗賊〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛

まる2週前の3日(日曜日)、恒例・静岡の[鬼平クラス]は、文庫巻16[見張りの糸]がテキストであった。

梗概(あらすじ)はあらためて記すまでもないとおもうが、東海道の出口、芝田町6丁目、三田八幡宮の鳥居脇の茶店〔大黒屋〕が、盗賊〔むじな)〕の豊蔵(とよぞう すでに歿)の弟で、〔稲荷いなり)〕の金太郎(きんたろう 50がらみ)の盗人宿の一つであることをつきとめ、彦十が手柄をたてた。

さっそくに、その見張り所として、向いの仏具店〔和泉屋〕の2階が借りられた。

この〔和泉屋〕は店名が示すとおり、上方の出身で、15年ほど前に江戸へきて、いまの店を開いた。
主人は忠兵衛(ちゅうべえ 70歳近い)、息子は源四郎(げんしろう 40歳すぎ)とその女房お(ゆみ)、使用人は太助(たすけ 40代半ば)---だが、素性は上方から中国筋へかけて盗(つとめ)ていた〔堂ヶ原どうがはら)〕一味であった。

そのことを鬼平へ告げたのは、かつて鬼平の亡父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が京都西町奉行だったときに与力として支えた浦部源四郎で、その後、〔堂ヶ原〕一味にはさんざん煮え湯をまされていたという設定。

この物語は、『鬼平半科帳』の連載が『オール讀物』で始まってから9年半、101話目にあたる(長編の各章を1話と計算して)。
それだけに、レギュラー、準レギュラーの与力、同心、密偵たちのディテールは記述する必要がないほど読み手がこころえてい、その分、物語はテンポよくすすめられ、400字詰原稿用紙で100枚にもおよぼうかという中篇になっている。

---が、この篇でちゅうすけがこだわったのは、見張り所を火盗改メに用立て、しかも盗みから15年も前に足を洗っていた忠兵衛親子を、結末で処刑の場へ送ったらしい点。

盗みから密偵に転じた者は、〔相模(さがみ)〕彦十、〔小房こぶさ)〕の粂八(くめはち)、伊三次いさじ)、おまさ、〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう)、〔関宿せきやど)の利八(りはち [山吹屋お勝])、 〔帯川(おびかわ)〕の源助(げんすけ [穴])、〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛(もへえ [穴])など40人にものぼる。

ほかにも、老齢でゆるされているのが〔浜崎はまざき)〕の友五郎(ともごろう [大川の隠居])、 〔猿皮さるかわ)]の小兵衛(こへえ [はさみ撃ち])など。

法の適用にあたって「一事両様」ぶりで江戸町人の喝采をえていたのが火盗改メ長官(おかしら)・長谷川平蔵なのだから、〔和泉屋〕の店主こと〔堂ヶ原〕の忠兵衛の処置になにぶんの手ごころが加えられてもよかったと感じたのである。

参照】2011年3月28日[ちゅうすけのひとり言] (68

そのついでに、江戸時代の時効の制度に目をむけた。
開いたのはいつかも紹介した、福永英男さんの労作私家版[『御定書(おさだめがき)百箇条を読む](2001)である。

福永さんにはあとで了解らとりつけめとして、やさくし解説してあるから、主要箇所をを引用してみよう。


第18条 旧悪(きゅうあく)御仕置の事

旧悪」=現在の公訴時効に近い制度。一定の期間経過によって、もはや真犯人であることが判明しても司直から訴追されない。これを「旧悪になる」といった。現在の公訴時効は次のとおり(刑事訴訟法)。

 第250条〔公訴時効期間〕時効は、左の期間を経過することによって完成する。
   1 死刑にあたる罪については15年
   2 無期の懲役又は禁偏にあたる罪については10年
   3 長期10年以上の懲役又は禁鋼にあたる罪については7年
   4 長期10年未満の懲役又は禁偏にあたる罪については5年
   5 長期5年未満の懲役若しくは禁鋼又は罰金にあたる罪については3年
   6 拘留又は科料にあたる罪については1年


江戸時代のそれは、意外に短くて12ヶ月とされていた。1年といわず12ヶ月といったわけは、閏(うるう)月が入る年があるからで、実質は今の1年より短い場合が多い。

12ヶ月経過した犯罪以「旧悪」となって通常は訴追しない。
しかし、次に列記する犯罪は凶悪とみなしてその恩典外にする。

逆に、12ヶ月月で公訴時効とならない罪については、打ち切りにする期間は何も規定されていない。
永久に続く(実際は犯人死亡の時まで)。

当時はたいていの犯罪は、12ヶ月以内で捜査の見切りをつけることにしていた。
それ以上長引かせてもあまり効果がないと考えていたのであろう。


1 (追加・延享元年(1744)極)
一、逆罪の者

(寛保3年(1743)極)
一、邪曲にて人を殺し候者

(寛保2年(1742)極)
 一、火附

(同)
 一、徒党致し人家へ押し込み候者

(寛保2年・延享元年極)
追剥(おいはぎ)並びに人家へ忍び入り盗人

(追加・延享元年極)
 一、すべて公儀の御法度(はっと)に背き死罪以上の科に行わるべき者
 但し、役儀に付きて私欲(にて)押領致し候者は、軽く候とも相応の咎めこれあるべき事。

(追加・寛保3年極)
 一、悪事これあり、永尋ね申し付け置き候者

(延享元年極)
右は旧悪に候とも御仕置伺い申すべく候。このほかの科(で)、一旦悪事致し候ともその後相止め候よしこれを申し、もっともほかの沙汰もこれなきにおいては、十二か月以上の旧悪は咎に及ばざる事。
但し、十二か月内より吟味(に)取りかかり、十二か月以後吟味済み候とも旧悪には相立てざる事。


著者の注解のつづき

邪曲にて人を殺し…」=けんかでの傷害致死などは含まれない。私欲にかられての計画的殺人をいう。

盗みでも侵入盗、強盗は凶悪視し、旧悪の恩典を除外している。

棹尾の但し書は、12ヶ月以内に端緒を得て捜査に入ったが結審の時点では12ヶ月を超えていた場合
に旧悪の恩典はない旨を念のため規定したもの。けだし当然のこと。


堂ヶ原〕の忠兵衛は、盗(つとめ)のときに女犯・殺傷した者を、一味の掟てを破ったとして私刑で刺殺しているから、犯さず、殺さず、貧しきからは盗まずの正統派であったらしいことが書かれている。

にもかかわらず、鬼平が御定書とおりの処置をとったのは、23年前の京都での[艶婦の毒]に描かれた女盗・おとの一件に義理立てしたのであろうか。

ちゅうすけ注】このクラスで、市川恭行さんのお手配で、初めて[見張りの糸]のDVDを鑑賞した。

テレビは文庫に収録順に放送されていないから、観る側は[艶婦の毒]での浦部与力のことなど覚えていまい。
その役は井関録之助にふられていた。
映像化の脚本家も、〔堂ヶ原忠兵衛に同情したらしく、処刑をしていなかった。

舞台は三田八幡の前ではなく本所相生町。相生町といえば、五郎蔵おまさ宗平の住いがあるが、登場したのはおまさのみ。

近くの両国橋ぞいにある駒留橋ぎわの超高級料亭〔万八〕が登場するのはいいが、下足番もいないような出入自由の安っぽい店に格落ちしていたのはいただけない。

| | コメント (0)

2011.07.16

奈々という乙女(8)

「お、じ、さまは、元の主人のためゆうて、わが子の首さしだせる?」
奈々(なな 16歳)は、観てきた『菅原伝授手習鑑(すがはらでんじゅてならいかがみ)』の四段目の「寺子屋}の場に感動しきったらしい。

外題は、『忠臣蔵』と『勧進帳』ととも演(だ)せば満席はまちがいなしの「寺子屋」であった。

たいていの人は筋書きはこころえていよう、政敵・藤原時平によって配流された右大臣・菅原道真の子・菅秀才(7歳)へ難がおよぶ。
秀才をかくまっていたのは、道真の門下時代に不運があり、いまは寺子屋を開いていた武部源蔵である。
時平から秀才の首をさしだせといわれ、新しく入門してきた賢そうな子・小太郎の首で偽装した。
首検分にきたのは、元の同僚の松王丸であったが、なぜか小太郎の首を秀才と断じた。

じつは、小太郎松王j丸の実子であった。
旧師・道真の恩義への報い、旧学友・源蔵への救いの手とはいえ、あまりにも残酷な所業といえる。
とりわけ、母性愛の強い観客は胸にこたえよう。、

ただ奈々は、、胸をつまらせただけでなく、忠と義のためなら自分の子の命を絶つことができるか---と平蔵(へいぞう 39歳)へ問うたのではなく、里貴(りき 39歳)のために命を賭けられるかと訊いていることはわかっていた。

里貴もそのことを察しているとおもった平蔵は、応えるかわりに、逆に訊いた。
奈々は、丹生(にう)さくまのために命を賭けられたかな?」

返事に窮した奈々は、
里貴おばちゃんのためやったら、賭けられるかもしれへん」

「本心であろうと信じておくが、その時になってそうできるかどうかは、奈々にも応えられまい」
「------」
「だから、さきほど奈々が訊いたような問いは軽々しく発してもいけないし、応えるべきではない。この世の中は、もっと上っ面の会話で障碍なくまわっておる」

里貴がことばを足した。
「とりわけ酒席での会話は、上っ面であればあるほど、気分がいいものなの。(てつ)さまのほんとうのお気持ちは、私の躰がお受けとめしています」

奈々が双眸(lりょうめ)を伏せてうなずいた。


参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] () () () () () () (

| | コメント (0)

2011.07.15

奈々という乙女(7)

「2階の人の考えが、私にはどうも理解がおよびません」
指先で上をさした里貴(りき 39歳)が、声と眉をひそめて訴えた。

奈々(なな 16歳)が、また、なにかやったのか?」
腰丈の寝衣に着替え、右ひざを立てている里貴に、酌をしてやりながら平蔵(へいぞう 38)が質(ただ)した。

今月の森田座がよさそうだといった女客に同伴をねだったのだという。
その女客は、土地(ところ)の海辺大工町高橋(たかばし)ぎわの老舗の薬種(くすりだね)問屋〔久保田屋〕の女将・お筆(ふで 42歳)で、血の道の妙薬〔回生散〕を〔:化粧(けわい)読みうり〕のお披露目枠に載せて大当たりをとっていた。

お披露目枠をすすめたのも〔季四〕につないだのも、もちろん〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代の雄太(ゆうた 49歳)であった。

は芝居好きというより、役者買いのうわさがあった。

里貴のことばを借りると、いまの奈々ときたら、
「怖いものしらずの小雀みたいに、なんでもしりたがるのですから---」
こぼして、
「紀州の貴志村とちがい、江戸には悪者も少なくないってことを、(てつ)さまからいって聞かせてくださいませ」
里貴を心配させることで、いるってことを示しているのかもしれないぞ」
「ねんねではあるまいし、冗談ではありません」


「貴志村では、どういう暮らしぶりであったのだ?」
丹生(にう)のご隠居さまの小間使いにあがっていたとか---」
「なんだい、その、丹生のご隠居というのは---?」

丹生明神は、女人禁制」の高野山で、唯一、山の女神として祀られていた。
丹生さま]と呼ばれた現世の女性(にょしょう)が、山中の霊場ではなく、貴志村の近くに侘びずまいし、代々、独り身をまもっていた。
だから、子はない。
どこからか幼女がもらわれてきては身分を継いでいた。

「それなら、庭訓(ていきん しつけ)もこころえておろうに---」
「それが、気ままなだけの老婆であったと聞いています」
「行儀作法ができていないでは、茶寮[季四〕の若女将はつとまらないな」

平蔵が提案した。
ニッ目ノ橋南の弥勒寺の裏手、辰蔵(たつぞう 14歳)がこのあいだまで礼法を教わっていた、勘定見習・山田銀四郎善行(よしゆき 41歳 150俵)の実母のところへ通わせてみたらたらどうかと。

参照】20101031~[勘定見習・山田銀四郎善行] () () () (

話がまとまったところへ、奈々が戻ってきた。
「遅そなったけど、お芝居のことで、長谷川のおっちゃ---おじさまに訊きたいことがでたん。着替えてから来ます」
裏庭側の階段を音をたててあがっていった。

これですから---と訴える目で頭をふりふり里貴が、
「一日も早く、そのしつけのおっ師匠さんのお世話に---」

降りてきた奈々は、腰丈の寝衣でなく、ふつうの部屋着であった。
「夕餉(ゆうげ)は?」
「〔久保田屋〕はんのご寮(りょ)はんの用事すむのを待っとるあいだに、お伴の女中はんといっしょに食べまました」
「それでは、寝酒か---?」

平蔵が大徳利から注ぎたした片口をむけると、すばやく食器棚から自分の飯椀をおろし、
「おっち---おじさま。寺子屋いうお芝居、しってる?」
「菅原伝授手習鑑(すがはら でんじゅ てならいかがみ)か?」


参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] ()() () () () ()  (


| | コメント (0)

2011.07.14

奈々という乙女(6)

天明3年(1783)5月8日五ッ(午後8時)ちょっと前---。

半鐘が早鐘(はやがね)を打ちはじめた。

腰丈の寝衣で右膝を立てて呑んでいた里貴(りき 39歳)が、
「近いそう---」
つぶやき、盃代わりの小茶椀を置き、
奈々(なな 16歳)、2階から見てきて」
平蔵(へいぞう 38歳)も同時に立った。
奈々では、土地勘がおぼつかない」

2階で起居している奈々を先に上がらせた。
里貴ゆずりの腰丈の寝衣だけの真っ白い太腿が、平蔵の目の前でゆれた。
意識しているのであろう、奈々はわざとゆっくりの足運びにしていた。

2階は、明かりが消してあった。
西側の障子に映った薄紅の明かりが目じるしになった。

暗いのをいいことに、奈々平蔵の腕にすがった。

障子をあけ、たしかめた。
「大川べりの佐賀町あたりかな」
炎のほうを見たまま、
「お店は大丈夫やろか?」
「7丁(800m)は離れておるし、店とのあいだには 樹木の多い海福寺や心行寺といった寺々や、油堀川の支堀(えだぼり)もあるから、まず、大丈夫とおもうが---」

ちゅうすけ注】茶寮〔季四〕は冬木町寺裏という地名のごとく、油堀川の枝堀をはさんだ向うに、平蔵忠吾が好物にしている一本うどんの〔豊島屋〕が門前にある海福寺、文庫巻6[盗賊人相書]で住職が絵師・石田竹仙に肖像画を描かせた心行寺p218 新装版p228 などの寺院群がそれぞれの広い墓域をさらしている。

奈々が階段の降り口から下へ大声で、
「佐賀町あたりやってぇ。そんでも、おっちゃ---おじさまが、持ち出すもんをまとめておけってぇ---」

告げると、平蔵の横へきて右腕をかかえこみ、左の胸のふくらみへあてた、
「荷をまとめておけ、なんていってないぞ」
「そやけど、そのほうがええやん」
見あげるように瞶(み)つめる双眸(りょうめ)に、ちらりと紅炎が映った。

「悪い子だ」
「なら、お尻(いど)、たたいて---」
右手で腰丈の寝衣の裾をまくった。
暗い部屋の中に白い臀部(でんぶ)があらわになった。

「尻が風邪をひくぞ」
平蔵が裾をつまみ、そっとおろした。

「あ、おっ---おじさまの指、触った」
「触れてなんかいない」
里貴おばちゃんにいいつけようっと」
「いいかげんにしなさい」

くっくっと笑う奈々がすがりついた。

階段に足音がし、手提げ行灯をもった里貴が上がってきた。

奈々がすばやく離れ、ゆれていた大きな影が割れた。

「見て。炎がすごいの」
2人のぎこちない挙動を感じた里貴は、冷静に、
(てつ)さま。三ッ目通りのお屋敷でも、心配しておられましょう。とりあえず、ご帰館なされたほうがよろしいかと---}
「いや、そうはいくまい。屋敷には家士どもや総領の辰蔵(たつぞう 14歳)もいることだ。ぬかりはあるまい。しかし、ここは里貴と、ところ不馴れな奈々のみである。われが護ってやらなければ、ほかに護る者がいない」

寄りそった里貴が、平蔵の手をにぎりしめた。

「おじさまとおばゃんは、そういう仲やったんや」
奈々が、しみじみとつぶやいた。

ちゅうすけ注】この天明3年5月8日の火災を『武江年表』は、「深川邊大火」とのみ記している。
昭和32年(1957)と平成9年(1997)刊の『江東区史』はどちらも記録していない。昭和30年(1955)のガリ版刷り『江東区年表考』が『武江年表』をそっくり転写しているのみである。明治31年(1898)12月の『風俗画報』の「江戸の華」も記載してない。あとは消防博物館をあたるしかないか。

参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] ()() () () () () () 

| | コメント (0)

2011.07.13

奈々という乙女(5)

3合(550ml)ほども呑み、肴もけっこうつまんだ奈々(なな 16歳)が、
「おいしかった、おもろかった。ご馳走さんでした。長谷川のおっちゃ---おじさま、里貴おばちゃん、おやすみ」
腰丈の寝衣のまま、脱いだ着物をかえて2階へ引きあげたのは、五ッ(午後8時)ちょっと前であった。

器類を流しの桶へつけたままで、里貴(りき 39歳)が寝室へ行灯(あんどん)を移し、いつものように芯をあげて明るくした。
「豪快な子だな」

平蔵(38歳)が横になりながらささやくと、
「豪快すぎます。(てつ)さまのほうを向いて素裸になり、着替えるなんて---」
「まだ、子ども気分が抜けないのであろうよ。うちの(きよ 8歳)も、風呂あがりのとき素裸で廊下をあるいておるぞ」

「8歳ではありません。倍の16歳です。月のものも1年前からはじまっています」
添い寝し、
さまが脚の長さ計りで、奈々の秘所へ手の甲をおあてになったとき、息がとまりました」
「湯帰りにしては冷やっこかったぞ」
「私のは---?」

「このように燃えておった」
「う、ふふふ---」

里貴のほうが明らかに勝っておったことが、もう2つあった」
「なんでしょう?」

「上つき」
「好女(こうじょ)の条件の一つでした。2つ目は---」

「ここの絹糸の寸法よ。奈々のは生えかかり。里貴のは、摩(す)りあいで細くなり、しなやか」
「もっと摩りあい、うんとしなやかにしてくださいませ」

若い奈々の出現が39歳の里貴に火をつけたらしく、念入りの摩りあいで果てた。


「一昨年の与板藩内への探りもののようなお頼まれごとはございませんか?」
「路銀は頼んだ藩持ちで、前後にお忍びの泊まりをはさむ---というのか?」
「嶋田宿のときは、池上での一泊だけでしたから---」


参照】2011年3月5日~[与板への旅] () ()  (18) (19
2011年4月22日[古川薬師堂] (
2011年7月9日~[奈々という乙女] () () () () () () () 

| | コメント (0)

2011.07.12

奈々という乙女(4)

「ただいまぁ---」
湯屋から帰った奈々が玄関から声をかけた。
「ちょっと、お邪魔してええすか?」

「馴れさすなら、早いほうがいい」
平蔵(へいぞう 38歳)のつぶやきに肯首した里貴(りき 39歳)が、
「かまわないよ」

「あ、お酒---」
里貴の隣りに右ひざを立てて座りこんだ浴衣の奈々の歓声に、
「呑(い)けるのか?」
「うん。ちょっと---」

平蔵が自分の小茶碗に注いで差しだすと、
「いただきますぅ」
里貴にあいさつし、
「あ、里貴おばちゃんの浴衣、ええわぁ」
はしゃぎながら、一気に呑みほし、
「うちも着てみたい」

平蔵がたしなめた。
奈々。紀州ことばはしばらくはしょうがないが、長谷川のおっちゃん、だけはなおしてくれ」
「どないに---?」
「そうだな。長谷川のおじさま、とでも---」
「うん」

里貴が立って押入れの中をさがしながら、
奈々、も一つ。うん、もやめて---」
「--------?」
「あい---なら、おぼこくて、可愛げぇがあるかも」
「あい」
3人で笑いころげた。

「着古しだけど---}
里貴が1年ほど前に尾張町の〔恵比寿屋〕呉服店であつらえた黒っぽい腰丈の寝衣を手わたすと、 止めるまもなくその場で、平蔵のほうを正面したまま、素裸をさらし、羽織った。
甚平の上衣だけのような寝衣である。
どうかすると、尻が丸だしになる。

平蔵の視線は、いやでも太股へ走った。
無毛に近かったが、5分(1.5cm)ばかりの絹糸がまばらに伸びかかっていた。
里貴おばちゃん、来てよ。脊比べ---」
里貴を並ばせ、
長谷川のおっち---おじさま、どっちが高い?」

仕方なく平蔵も立ち、2人の頭へ掌をのせ、
里貴のほうが7分(2cm)ほど、上かな」

「うぅうん、頭の高さと違ごて。脚の長さくらべや。村だと、うちらみんな、脚の長さ気にしてんのよ。股のつけ根からくらべてみて」

誘われた平蔵が仕方なく、2人の半開きした股ぐらへ手の甲をさしいれ、しっかり凝視、
「こっちは、奈々が1寸5分(4.5cm)ばかり、高い」

「うれしっ。うちのほうが小股がきれあがってんのやわあ」
「なんだ、その、小股がきれているとかいうのは---?」
「きれてんのと違ごて、きれあがっとんの。上方(かみがた)で胴より脚のほうが長いおんなのことを上つきゆうて上等なんやわ」
「上つき---?」
「しらんわ---」

参照】20101222[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

「全身の丈は里貴、脚長は奈々---それぞれの勝者に酒をとらせよう」
平蔵がおどけて注いでやったが、里貴はうかない表情をしていた。


ちゅうすけ補】「小股が切れあがった」について、過去、ちゅうすけのホームページに寄せられたコメント。
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/board/waiwai/board_omasa.html おまさのところを飛ばしてお読みのほどを。

http://homepage1.nifty.com/shimizumon/board/index8.html


参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] () () () () () () () 

| | コメント (2)

2011.07.11

奈々という乙女(3)

3日後の夜---。

奈々(なな 16歳)の目に、江戸はどのように映ったかな?」
奈々のことが気になっていたが、そのそぶりはみせず、あたりさわりのない話題をだした。

「霖雨(りんう)ぎみの空模様だからでしょうか、お江戸は、なんだか暗っぽいようにおもえます。いつもこうなんでございましょうか?」
(さすが16歳の乙女、肌あたりの変化に敏感だな)

「いや、いつもの年のご府内はこうではない」

江戸から35,6里(140km)ほど北の、上州と信州との国ざかいに、つねに白煙を吐いている浅間山という山があり、何百年かおきに火を噴いてきておるが、今年あたりがどうもその年にあたっているらしく、灰の噴きだしが多くなっておる。そのせいで、江戸もその近辺も昼間でもそれとなく薄暗くおもえる。

平蔵の説明に、眉根を寄せた表情が少女のそれではなく、大人顔だと感じたが、2代目女将という大役をふられての大人ぶりかともおもった。

奈々をひとりで湯屋へ送りだすと、里貴(りき 39歳)はさっそくに腰丈けの紅花染めの寝衣に着替え、酒になった。

奈々を生娘(きむすめ)とみるか」
里貴の目を訊いてみたいおもいを打ち消すのに、平蔵は苦労し、代わりに、
里貴も16歳のときは奈々のように大人っぽかったか?」
「大人っぽい---?」
「その、肌の艶とか、乳房のふくらみとか---」
「内股の生えかげんもお訊きになりたいのですか? あの子の肌の青白さは貴志村のむすめのものですから、内股も私と同じでしょう」
「銭湯で、珍しがられなければよいが---」
「おかしな心配のなさりよう」

このころの銭湯は男女混浴であったから、湯文字をしたまま湯舟に浸(つ)かるむすめも少なくなかった。

「湯文字の替えももたせ、使いようも教えております」
里貴も湯文字をつけて浸かっているのか?」
「私は朝風呂ですから、客はご隠居さんばかりです」

「それでも、見とれる爺ぃもいよう」
「妬いていただき、うれしゅうございます。こんど、行水のとき、湯文字でごいっしょいたしましょうか」
「それにはおよばぬ。それにしても、奈々、長湯だな」

「迎えにいっておやりになりますか?」
里貴こそ、妬いているではないのか」
「ご冗談を。16歳の小むすめなどに妬きません」

寝間へ移る前のじゃれあいも、2人には前戯のたしかな一つであった。


参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] () () () () () () () 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011.07.10

奈々という乙女(2)

(こんなに純粋な乙女が、この世にいたのか!)
奈々(なな 16歳)に会ったとき、その澄みきった双眸(りょうめ)で瞶(み)つめられ、正直、平蔵(へいぞう 38歳)は動揺した。

顔こそ長旅ですこし赤くは日焼けしているが、袖口からこぼれた手首の奥の肌の白さは、出あったころの里貴(りき 39歳)にもまして透明で、うっかりさわると皮膚が裂けるのではとおもえるほどに帳りがあった。

参照里貴との出会い 2009年12月22日[夏目藤四郎信栄(のぶひさ)] (
2009年12月22日~[茶寮〔貴志〕のお里貴(りき) () (

立てた右ひざに両掌をそろえた志貴村ふうの正座で、頭をかるく下げ、
長谷川のおじさま。里貴伯母さまどうように、お引きまわしくださいませ」

里貴からちらりと平蔵へ返した瞳の流し方が色っぽく、とても16歳の乙女のものとはおもえなかった。

16歳の少女といえば、15年前、甲州街道の深大寺(しんだいじ)の茶店の前で出会った久栄(ひさえ)がそうであった。

参照】2008年9月8日[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] (

銕三郎(てつさぶろう)を名のっていたあの時の平蔵は23歳で、お芙佐(ふさ 25歳=その時)と阿記(あき 21歳=その時)との性的経験者としての目で久栄という処女(おとめ)を観たわけではないが、いまの奈々の色気とくらべると、久栄は未熟な童女だったといってよかった。

奈々は、ほんとうに未通の乙女であろうか?)
平蔵は疑念をおさえ、
奈々。われと里貴とのことは、存じておろうな」

笑いをふくんだ上目づかいで瞶(み)つめ返し、
「うん。仲ええと、はいてます」
色っぽい視線を、里貴へまた流した。

里貴おばちゃん、村へ帰ってからずっと、左隣に陰膳(かげぜん)置いて、食事中、話かけてると、村では評判やった」
「あ、奈々、なんてことを---」
里貴が顔を赤くそめてさえぎったが、遅かった。

「そやから、奈々も、長谷川のおっちゃんに会えるのん、楽しみやったです」

「これ、奈々。おぬしは、里貴おばの跡継ぎとして江戸へ参ったはず。いうなれば、里貴おばの養女のようなものだ」
「うん---。気ィに入らるようにやるりつもりでです」

里貴の仕事を存じおろう?」
「料理茶屋の女将さんと---」
「その、料理茶屋の女将の心得の第一は、見聞きしたことを洩らさないことである」

「うん---。里貴おばちゃん、堪忍や」
深ぶかと下げた頭をあげると、肩すくめ、小舌をちょろりとだしたところは16歳の乙女というより、10歳の少女のごとくであったが、平蔵の目には、それが男を意識した演技に見えた。


参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] () () () () () () () 

| | コメント (0)

2011.07.09

奈々という乙女

「やっと、片づきました。これで、奈々(なな 16歳)がいつ着いても大丈夫です」

奈々は、いまごろ、大井川の川止めにあっていなければ嶋田宿か藤沢宿であろう。

紀州・貴志村の村長(むらおさ)のところの下僕の吾平(ごへえ 52歳)が従っているが、平蔵(へいぞう 38歳)も、嶋田からこっちは箱根の荷運び雲助の顔役であった権七(ごんしち 51歳)の線と、小田原の〔宮前(みやまえ)〕の徳右衛門(とくえもん 60歳)貸元のつながりで、道中の安全はひそかに手くばりされていた。

里貴(りき 39歳)もそちらは平蔵に頼りきり、自分は茶寮〔季四〕の女将としての務めのほかは、奈々との新しい住いのととのえにかかりきってい、引越しの最後の荷が、天明3年(1783)3月5日(旧暦)に移された。

これまでの住まいの藤ノ棚から亀久町の南端の新居までは、仙台堀に架かっている亀久橋をわたって1丁(100m強)あるかどうかなのに10日ばかりもかかってしまったのは、この年は春さきから雨つづきで、やみまをぬっての運びになったからであった。

もっとも、里貴がため息まじりにこぼしたように、
「増やすまい、ふやすまいとこころがけていても、おんなが独りで5年も暮らしていると、自然と、しがらみが増えてしまうものなんですねえ」

「しがらみとは、よくもいったものよ。われとの仲も、しがらみのように10年近くになる--」
平蔵が冷やかすと、
(てつ)さまとのこのことは、きのう出来あったばかりのおんなと男のように新味に満ちております」

荷がそれぞれしかるべき位置へおさまった夜、寝衣で冷酒を酌みかわしていた。

「階段を裏庭側に付けかえたのは、妙案であったな」
「せっかく、玄関から裏庭まで通じた三和土(たたき)の通路があるんですもの、2階への出入りは下の居間を通らないで裏から上がってもらうようにしなければ---」

三和土の通路は、近在の砂村の農家が下(しも)のものを汲みとりにきたときに使うための通路でもあった。

裏庭にはきちんと塀をめぐらせたが、裏庭からは出入できない。
というのは、旗本・水野万之助忠候(ただもり 30歳 2800石)の下屋敷で、守り番の老夫婦が母屋に住んでいるだけで、物音ひとつ聞こえてこなかった。

「16歳の奈々に、われらの関係(あいだがら)を、どう、話すつもりかな?」
「話すまでもありません。16歳なのだから、見ていれば、わかります」
「そういうものかな---」
「おんなと男のあいだのことは、あるようにしかあれないことくらい、分別がつく齢ごろです。、なにごとも語りあえる男友だち、支えの人として、さまは私になくてはならない人なのです」

「ただ、裸で抱きあっているところは見せたくはない---」
「いっしょに行水するところは見せたっていいでしょう。村では、夫婦(めおと)がいっしょに浴(つ)かっていますもの」
「それが、元の国でのしきたりでもあるのか?」
「村では、そうでした」

貴志村は、はるかむかしに半島から渡来した人たちが、故郷での暮らしぶりをかたくなに守り伝えていた。

「睦みごとのときにあげる声は---?」
「母親のそれを耳にしても、聞かなかった顔をしているのが、村のしきたりです」
「われらは夫婦ではないが---」
「夫婦を超えている2人です」
「ふむ。奈々がそこまで得心してくれるといいが---」
さまに接すれば、ちゃんとしたおんなの子なら、得心しますとも」


参照】2011年7月9日~[奈々という乙女] () () () () () () () 

| | コメント (0)

2011.07.08

ちゅうすけのひとり言(72)

2004年12月下旬にこのブログを立ち上げた。
以来、6年と7ヶ月--2,500回ももうすぐ通過する。

ページ・ヴュー900,000ページもあと3~4ヶ月で通過しそう。

これまで、1日も休むことなく更新をつづけたから、いまさら夏休みもとれない。
こんなにつづけられるとは、ちゅうすけ自身も思っていなかった。

元来が飽きっぽい性格なのである。

これほどつづけられたのは、アクセスしてくださっている方の励ましのお言葉による。


さて、一服いれて、これまでで、自分がもっとも気にいっているコンテンツをふりかえってみた。
順位は関係なく列挙すると(オレンジ文字←クリック)、

ーつでも、二つでも、お楽しみいただければ、幸い。


〔朝熊(あさくま)〕の伊三次:  2005.01.21

寛政7年(1795)5月6日の長谷川家 2006.o6.25

高杉銀平師 () 2008.05.12

佐嶋忠介の真の功績 2006.o4.12

おまさと又太郎 () () 

松平賢(よし)丸定信 2010.03.29

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その1) 2005.4.16

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その2) 2005.4.18

茶寮〔貴志〕のお里貴 () 2010.3.30

現代語訳『よしの冊子』 (まとめ 2
 2009.08.17

〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵 2005.03.15

〔殿(との)さま〕栄五郎 () 2010.07.06

ほかにもいくつかあるから、日をあらためて、また---。

| | コメント (2)

2011.07.07

おまさのお産(10)

佐倉藩の江戸屋敷経由の志田数馬(かずま 30歳)からの書状には、忠助(ちゅうすけ)のむすめが出産をした家はすぐにとどけでがあった。
本佐倉(:現・千葉県印旛郡酒々井(しすい)町本佐倉)の農家・おかねのところであったが、姪・おまさは産褥の床あげをするとまもなく、ややの養育費をたっぷり預けて消えたという。
1ヶ月半も前のことであったらしい。

かねおまさの母親・おみつ(美津)の妹とも記されていた。

ちゅうすけ注】酒々井村のおかねのことは、『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]p111 新装版p118

嶋田宿で、おまさ(26歳)に似た黒い双眸(りょうめ)と心もち受け唇の本陣の若女将(22歳)から名はお三津(みつ )と打ち明けられたとき、耳にしたことのある名だとおもったが、
(そうだ、おまさの亡母がお美津(みつ)であった)

参照】2009年3月14日[東京都の出身と不明の盗人
2005年3月3日[女密偵おまさの年賦

おまさが産後1ヶ月ほどでややを預けて村を出ていったと知り、
(それほどに情が剛(つよ)いおんなとはおもわなかった)

平蔵はすぐに自分を訂正した。
(われとて、お嘉根(かね)を養女にだしたではないか)
育っていれば19歳---嫁にいっいるかもしれない年齢のお嘉根である。

猿使い師は〔口明神(くちみょうじん)〕の孫八(まごはち 45歳)と称しているとおり、佐倉城の東方、口天神の社がある将門(まさかど)郷の生まれで、猿芝居をしながらの旅まわりで稼いでいたが、2年ほどまえに生地へ戻り、2匹の猿とともに暮らしていた。

孫八を見張っていると、杓子尾余(しゃくしびよう)長屋の座頭・岩の市(いわのいち 40歳)を訪ねたので、両者を捕らえ、糾問したところ、罪状を吐いた。

猿に盗ませた32両(512万円)は折半してい、孫八はほとんどを使い果たしていたが、岩の市が寝間の床下に溜めこんでいた56両(896万円)から被害額をそれぞれの店へ戻し、残りは藩庫へ納めた。


この事件の終焉には、2つの後日譚があった。

その一。解決の経緯を言上された佐倉藩主・堀田相模守正順(まさあり 39歳 11万石 奏者番)の鶴の一声---
「余に恥をかかせるでない。件の家々から長谷川うじへの礼金をあつめよ」

5店はすんなりと1両(16万円)ずつ差し出した。
藩主・正順の産みの母の実家---町田多膳方だけは、その必要なし、と藩主の意見を無視したらしい。

この礼金にはおまけがついた。
佐倉町奉行所が、犯人・猿使いと岩の市を入獄させたが、実行犯の猿を牢に入れたのは前例がない。
ついては、猿の餌代として、戻し金のうちから1朱(しゅ 1万円)ずつ拠出させた。
猿たちはその前日に処分されてい、集まった1分1朱(5万円)は、志田数馬ほか、与力たちが軍鶏なべをつついた支払いに化けたとのうわさがしばらく消えなかった。

そのニ。佐倉藩の下知によるおまさの縁家探しで、労せずして酒々井村のおかねの所在を知りえた久栄(ひさえ 31歳)一行は、ほんのいっとき立ちより、ややの衣類をわたしただけで、さっさと成田街道へ戻り、不動への旅をたのしんだ。

与詩(よし 26歳)が久栄に洩らした言葉---、
(てつ)兄さんも、案外、知恵者だこと。佐倉藩を盗人探しにことよせてこき使ってしまったんですもの」
(旅には、おむつを忘れるなっていったのは許せない。ええ、おむつは持ちましたとも。でも、ぜーんぶ、おかねさんのとこのややへ置いてきましたよ、「てつ」って縫いとり文字をつけたのを---)

参照】2008年1月6日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (24) (26) (30

久栄・与詩たちの路銀は、被害店が差し出した礼金5両によっていた。
うち、1両(16万円)は平蔵のいつけで、猿使いと座頭の供養料として、平蔵の名で成田不動堂へ寄進された記録が新勝寺にのこっていた。

| | コメント (0)

2011.07.06

おまさのお産(9)

志田どの。くれぐれも手順をお間違えなきように。町方、在方の長(おさ)か肝入りを集める---」
平蔵(へいぞう 38歳)の言葉を引きとった志田数弥(かずや 30歳)が、
「領内の酒々井(しゅすい)村出の忠助のむすめがややを産みに戻ったが、存じよりの者はいないか、手くばりをさせる。つけたしのように、もしかすると猿使い師といっしょかもしれないようだから、そっちから調べる手立てもありそうだととぼける---のですな?」

「さよう。猿使い師がとどけられたら、産婦といっしょではなかったかと、またとぼけ、では捨ておけと関心をはずす」
「じつは、ひそかに見張り、連絡(つなぎ)をつける座頭をあぶりだす---のでしたな」

数弥に、軍鶏の肉が煮えたようだと告げ、酒をすすめた。
本所・二ッ目ノ橋北詰の〔五鉄〕の2階である。
密談と察した三次郎(さんじろう 33歳)が2階を貸切りにしてしまっていた。

平蔵に知恵を貸すように命じた藩主・堀田相模守正順(まさあり 39歳 11万石 奏者番)とすれば、先輩にあたる井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 36歳 与板藩主 2万石)の顔を立てたのと、おもしろ半分でもあったろう。

実情はそうであり、被害金額も少ないとはいえ、藩が事あるごとにご用金を命じている店々であったから、用人つきの志田数弥にすれば、ここで犯人を挙げて藩主のおぼえをよくしたい。
そこで、じきじきに国帰りして経緯を見守るという熱の入れようであった。

壮行の酒食を平蔵がもうけた。
〔五鉄〕の席料と、数馬をニノ橋下から鍛冶橋まで送った黒舟代は平蔵がもった。

おまさの所在がわかれば、との平蔵の知恵貸しであったが、そこは雄藩、体面もあってのことであろう、それなりのこころづかいは用意していた。
与板藩が路銀ともで包んだのと同じ7両(112万円)とわかり、両藩の用人たちの腕前に、平蔵は苦笑した。

志田を見送った帰路、藤ノ棚へ立ち寄り、5両(80万円)を里貴(りき 39歳)へわたし、そろそろ、この近所の2階家が買えるのではないかと訊いた。

「はい。対岸の亀久町の裏に、まあまあの家がみつかったので手付けをうち、裏塀などを新しくしてもらっております。〔黒舟〕さんと〔丸太橋(まるたばし)〕の元締さんのお世話になりました。(てつ)さまからもお礼のお言葉をおかけおきください」
「で、引越しはいつになりそうかな?」
「桃のお節句のあとあたり。そのころには、志貴村に頼んでおいた娘(こ)もきまっていましょう」


参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (


| | コメント (0)

2011.07.05

おまさのお産(8)

「兄さま。母上が、よろしければお茶話に参られよと仰せでございます」
書院で考えごとをしていた平蔵(へいぞう 38歳)に呼びかけたのは、妹の与詩(よし 26歳)であった。

10年前に、三宅半左衛門徳屋(とくいえ 62歳=当時 小十人組)と離婚していた。
このことについての疑問は、下の【参照】に詳述しておいた。

参照】2010年1月5日[与詩の離婚]


離婚後、長谷川の分家で大身の後家・於紀乃(きの)の介護に行っていたが、老女の歿後に戻ってき、これも後家となって10年近い、平蔵の実母・(たえ 58歳)の身のまわりの世話をしていた。
当人は養女として育った長谷川家の居ごこちがよいらしく、当主である兄・平蔵が持ちだす再婚話を拒否しつづけていた。

(てつ)や。与詩のことだがの---」
与詩が母家の台所で茶の用意の用意に座をはずしているので、また、嫁入り話かと、
「どういうわけか、再縁する気持ちがないようです」
「違う、ちがう---あ、中(うち)さん、もそっと右の上がだるうての---」
は、かかりつけの座頭・中の市に按摩(あんま)させていた。

夫・宣雄(のぶお 享年55歳)が存命のころは、先手組頭や京都町奉行の内室らしく格式ばっていたが、その没後、離れに隠居してからというもの、村方(ざいかた)の地がでるらしく、形式よりも実を大切にするようになってきていた。

「う、うー---そこをもそっと強く---そう、じゃ、それ、じゃ。や、与詩のことというのはな、久栄(ひさえ 31歳)がお参りに行くといっている成田不動さんへの旅に、いっしょにやってもらえまいかの?」
与詩がいなくては、母上がご不自由なのでは---?」
「成田詣でというても、往還で4日もあれば足りよう。実家の寺崎村への往復とどっこいどっこいじゃ。4日や5日など、あっというまよ。それより、与詩の気を散じてやることのほうが肝心じゃ」

与詩が茶の用意をして入ってくると、
「たのみましたぞ」


茶を喫しおえて帰る中の市を内玄関まで送りがてら、手をとってやろうとし、
「殿さま。こちらの間取りはしかと覚えております、なまじ、お助けいただきますと、転びかねません」

その言葉でひらめいた。
「座頭どの。寸時、話をききたい」

書院へみちびき、
「通いなれている患家の間取りは、たいてい覚えておるのかな?」
「目が見えるお方の10倍は細心でございましょう」
「というと、口移しで間取りを伝えることもできるかの?」
「お書き写しになさる方がお間違いにならなければ---」

「銭のしまいどころも---?」
「耳で、ほぼ---」


参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (

| | コメント (0)

2011.07.04

おまさのお産(7)

雑司ヶ谷の鬼子母神の一の鳥居の脇に人だかりができていた。

(はつ 11歳)と於(きよ 8歳)がかきわけてのぞきこんだ。
久栄(ひさえ 31歳)、辰蔵(たつぞう 14歳)と先に〔橘屋〕へ参り、ご亭主・忠兵衛(ちゅうべえ 48歳 2代目)どのへあいさつをしておいてくれ」
用人・桑島友之助(とものすけ 51歳)がこころえ、2人をうながし、境内の南ぞいを去った。

2匹の猿が、斬りあいを演じていた。

猿たちはよく訓練されてい、刀を数合あわせると、仇討ちの景ででもあったのだろう、総髪にみせかけた鬘(かつら)をかぶっていた方の猿が倒れたところで、拍手がおきた。

小銭をひねって投げてやった平蔵(へいぞう 38歳)が2人のむすめの肩をおし、散るt観客にあわせてその場をあとにした。

料理茶屋〔橘屋〕で出迎えた仲居師範・お(えい 51歳)に小粒をもたせ、
「鳥居のところででんでこ猿芝居をやっている者に、片づいたらここへ参るように---」
口説いてきてくれ、と行かせた。

案内された離れは、銕三郎(てつさぶろう 22歳=当時)時代に ここの女中・お(なか 33歳=当時)が宿直(とのい)の夜ごとに睦みあった部屋であった。

そのころの思い出はいろいろあるが、強く記憶しているのは、亡父・宣雄(のぶお 49歳=当時)と母・(たえ 42歳=当時)ときたときの2人のやりようであった。

参照】2008年8月19日~[〔橘屋〕のお仲] () () 

宣雄とこころが通じあっていた先代の忠兵衛は、数年前に70何歳かで亡じ、京都で修行していた息子があとを継いで名声を保ってい、紀州藩のご用指定をかわらずにうけていた。

忠兵衛とよもやま話をしていると、おが猿芝居師をみちびいてきた。
立っていった平蔵に、
「先刻は過分の見料を投げていただいた上に、さらにのおこころ遣い、ありがとう存じやす」
礼を述べた猿使い師に、教えこめば猿は、手文庫から小判を3枚、つかんでくることができようか---と訊いた。

「3日も仕込めば、賢い猿(こ)ならできやす」
との応えに、
「3枚は、なにゆえとおもうか?」
「重さでやしょう? 小判をしまう紙入れをどこへつけてやるかにもよりやすが、4枚だと動きが鈍りやしょう」

うなずいた平蔵は礼をいい、とっている宿にはいつまで滞在しているかを尋ねた。


参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (


| | コメント (0)

2011.07.03

おまさのお産(6)

「猫下(おろ)し---か。食い残しのことだが---」
苦笑しながら応えた平蔵(へいぞう 38歳)に松造(よしぞう 32歳)が、
「手前はまた、芸者がややを堕(おろ)したのかと早合点しました」

三味線は猫の革を張っているので、芸者のことを「猫」とも呼んだ。

権七(ごんしち)が受けて、
「長谷川さま。猫ついでですが、猫下しは、猫かぶりかも---}
「猫又婆(ねこまたばばあ)ともいうからなあ。目くらませかもな」

猫又婆ぁとは、貪欲な老婆の蔑称である。
3両はもっと大きな狙い目を隠すための小手先の、猫舌の「猫が茶を飲む」---小癪な技と、きめつけたいのだ。
そういう猫かぶりを、むかしの人は猫辞儀(ねこじぎ)とあざけった。

もちろん、平蔵とて猫談義が言葉あそびであることはこころえていた。
なんでもいい、3両の手がかりが、ひょいとつかめたら---と軽口をつきあったにすぎない。

たとえは悪いが、猫の妻恋(つまごい)---新しいとっかかりを呼んでみたというところかも。

いや、やはり、猫道は抜けた。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻14[殿さま栄五郎]p126 新装版p128 に、〔五鉄〕の裏に細い猫道があると書かれているのを、とりあえず、お確かめいただきたい。

6軒とも、小判の仕舞いどころに錠はつけていなかったかどうかを訊きわすれていたことに気がついた。
肝心なことなのに、どうしてぬかったのか。

もう一つ、猫などなら、縁の下から忍びこめよう---といっても、そこから部屋へ上がるには工夫を要しようが。

仮に猫として、畳などをひっかき痕(あと)をのこさないものか---このことは佐倉へ問いあわせる前に、猫を飼っている誰かにたしかめてみよう。

さん。猫を飼っている知りあいはいないか?」
「猫なら、お(しま 18歳)が三毛を飼っていますが---」
「爪で畳表を傷めないか?」
「それはありません。縁の下の柱で爪を研ぐので困ってはおりますが」
「ふーむ」

思案が、またも迷路に迷いこんだ。
「お坊は、いくつになった?」

平蔵が名づけ親であった。
権七はそのことには触れず、
「明けて、18歳ですよ」
「婿をさがさないとな」


参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (

| | コメント (2)

2011.07.02

おまさのお産(5)

「どうも解(げ)せぬ」

その疑問点を書き並べてみた。

酒蔵[土井〕治兵衛方 弥勒町(みろくまち)    12両(192万円)
呉服舗〔奈良屋〕重太郎方 新(しん)町       3両(48万円)
筆墨商〔紫石(しせき)屋〕吉田伝左衛門 (同町) 5両(80万円)
藩用人・町田多膳方 宮小路(こうじ)         6両96万円)
鉄物問屋〔升屋〕佐平治方 間(あい)之町      3両(48万円)
荒物商〔関屋〕郡右衛門方 (同町)          3両(48万円)

富商の盗難にしては金額が少なすぎる。

下総(しもうさ)国佐倉藩の江戸屋敷で用人つきを勤ている志田数弥(かずや 30歳)に、盗難に気づく日からさかのり、何日前に有り金をあらためたか、また、盗難に気づいたときの残金額を問うあわさせた。

江戸と佐倉は13里半(54Kkm)、藩が設けているご用速飛脚なら、1日たらずでとどく。
3日後には返書がきた。

酒蔵[土井〕    残金32両 改めは1ヶ月前。
呉服舗〔奈良屋〕 残金56両 改めは 2日前。
筆墨商〔紫石屋〕 残金16両 改めは10日前。
藩用人・町田家  返事なし
鉄物問屋〔升屋〕 残金26両 改めは前日。
荒物商〔関屋〕   残金8両  改めは2日前。

「いよいよ奇怪だ。盗んだ金の数倍もの金貨があるのに、残して去る盗賊があるであろうか」
ひとりごちた。

〔紫石屋〕吉田伝左衛門方の5両を除くと、1晩の獲物は3両---酒蔵[土井〕は3両が4回、町田用人邸は2回とみれば、〔紫石(しせき)屋〕は3両と2両だったのではあるまいか。

(なぜに、1晩に3両ぽっきりなのだ? 10両以上盗めば打ち首ということを恐れているわけではあるまい)

営中でも用事がないことをいいことにし、この疑念をつめていた。

下城の帰路、なんということはなしに、深川・黒船橋北詰で町駕篭〔箱根屋〕をやっている権七(ごんしち 51歳)の顔が見たくなった。

考えあぐねたときは、最近はいつもこうであった。

「いいところへお立ち寄りいただきました。こちらからおとどけに参上するつもりで用意しておりました」
商人としての言葉かいがすっかり板についてきていた。

小判3枚に2分金数ヶと小粒が卓の上に並べられた。
〔:化粧(:けわい)読みうり〕の板元料の平蔵の取り分であった。

いつもだと、
「すまぬな」
松造(よしぞう 32歳)にしまわせるだが、この日にかぎり、平蔵はじっと小判を瞶(み)つめていた。

「どうかなさいましたか? くずしておいたほうがよろしかったのでしょうか?」
「そうではない。さん、計(はか)りはあったかな?」
「なにをお計りになりますので?」
「この小判3枚---」

権七の顔色が変わったが、すぐに平静にもどり、
「今日、両替屋でまとめてもらったばかりの小判ですが---」
さん。小判を疑っているのではないのだよ。3両の重さがしりたいのだ」

佐倉の盗難の件を手ばやく話してきかせると、権七は頭をかき、
「失礼いたしました。しかし、小判の山を目の前にして3枚しかくすねないとは、猫に小判ですな」
「猫に小判---。いや、猫下(おろ)し、かも」
松造がきき返した。
「殿。猫下し---とは?」

参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (

| | コメント (0)

2011.07.01

おまさのお産(4)

天明3年(1783)が明けた。

長谷川平蔵宣以(のぶため) 38歳。
久栄(ひさえ) 31歳。
辰蔵(たつぞう) 14歳。
(はつ) 11歳。
(きよ) 8歳。
銕五郎(てつごろう) 3歳。
(たえ) 60歳。

ついでのことに、里貴(りき) 39歳。

新年のごたごたのあいだにも、久栄は下総(しもうさ)国印旛郡(いんばこおり)酒々井(しゅすい)村への旅の支度をすすめていた。

供は、腰元のお芭瑠(はる 20歳)と下僕の日出蔵(ひでぞう 51歳)ときまった。
じつは、芭瑠は婚約がととのい、旅から帰ったら嫁することになり、久栄がついでのことに成田不動の節分会(せつぶんえ)も受けてきたいと望んだので、お芭瑠は嫁げばままなるまいと、平蔵が気をきかせた。

道順は、佐倉藩の用人つき・志田数弥(かずや 30歳)が、小名木川から新川を経由して行徳河岸で下船、八幡へ。さらに船橋、大和田(現・八千代市)、臼井、佐倉を教えた。
ふつうなら宿泊なしの行路だが、おんなの足だと大和田で一泊をおすすめしおくとも。

久栄とお芭瑠のはしゃぎぶりを横目に、平蔵は登城時にもたずさえいる佐倉城下の怪盗の記録を、暇さえあればめくっていた。

最初の盗難は、佐倉城の東の弥勒町(みろくまち)の酒蔵[土井〕治兵衛方で、主人の寝室の違い棚から12両(192万円)が消えていることに気づいたのは、一昨年の暮れであった。

最初は、家族が疑われ、つぎに使用人が詰問されたが、だれも白状しなかった。
疑念が疑念を呼んだが、1ヶ月後に、新町(しんまち)の呉服舗〔奈良屋〕重太郎方でも手文庫から3両(48万円)が消えたので、町奉行所ではどうも怪盗らしいとふんだ。

つづいて同じ町の筆墨商〔紫石(しせき)屋〕吉田伝左衛門方から5両(80万円)が忽然と消えていた。

それからしばにくは怪盗はあらわれなかったが去年の夏の終りごろ、宮前小路の武家屋敷・町田多膳が6両(やられた。
町田用人は現藩主・堀田相模守正順(まさあり 39歳)の生母の舎弟にあたる。
藩主から町奉行所へ叱声がとんだ。

あざ笑うように、つづけさまに間(あい)之町の鉄物問屋〔升屋〕佐平治方と荒物商〔関屋〕郡右衛門方へ侵入し、3両ずつを奪った。

どの家も戸締りが破られた形跡はなかった。
もの音もせず、怪盗の姿を見た者もいなかった。
当初は魔性あつかいされた。

藩の重役の町田家はともかく、魔性が豪商ばかりを選ぶというのが解(:げ)せなかった。

平蔵としては、久栄が酒々井村のついでに、佐倉城下で被害店からききだす問いを考案しなければならなかった。
久栄はこれまで盗賊探索にはかかわっていない。
だから、問いかけもできるだけ簡単なものに練りあげるしかない。

こみ入った質問は、町奉行所の与力にするしかない。


参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () (

| | コメント (2)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »