まる2週前の3日(日曜日)、恒例・静岡の[鬼平クラス]は、文庫巻16[見張りの糸]がテキストであった。
梗概(あらすじ)はあらためて記すまでもないとおもうが、東海道の出口、芝田町6丁目、三田八幡宮の鳥居脇の茶店〔大黒屋〕が、盗賊〔狢(むじな)〕の豊蔵(とよぞう すでに歿)の弟で、〔稲荷(いなり)〕の金太郎(きんたろう 50がらみ)の盗人宿の一つであることをつきとめ、彦十が手柄をたてた。
さっそくに、その見張り所として、向いの仏具店〔和泉屋〕の2階が借りられた。
この〔和泉屋〕は店名が示すとおり、上方の出身で、15年ほど前に江戸へきて、いまの店を開いた。
主人は忠兵衛(ちゅうべえ 70歳近い)、息子は源四郎(げんしろう 40歳すぎ)とその女房お弓(ゆみ)、使用人は太助(たすけ 40代半ば)---だが、素性は上方から中国筋へかけて盗(つとめ)ていた〔堂ヶ原(どうがはら)〕一味であった。
そのことを鬼平へ告げたのは、かつて鬼平の亡父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が京都西町奉行だったときに与力として支えた浦部源四郎で、その後、〔堂ヶ原〕一味にはさんざん煮え湯をまされていたという設定。
この物語は、『鬼平半科帳』の連載が『オール讀物』で始まってから9年半、101話目にあたる(長編の各章を1話と計算して)。
それだけに、レギュラー、準レギュラーの与力、同心、密偵たちのディテールは記述する必要がないほど読み手がこころえてい、その分、物語はテンポよくすすめられ、400字詰原稿用紙で100枚にもおよぼうかという中篇になっている。
---が、この篇でちゅうすけがこだわったのは、見張り所を火盗改メに用立て、しかも盗みから15年も前に足を洗っていた忠兵衛親子を、結末で処刑の場へ送ったらしい点。
盗みから密偵に転じた者は、〔相模(さがみ)〕彦十、〔小房(こぶさ)〕の粂八(くめはち)、伊三次(いさじ)、おまさ、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう)、〔関宿(せきやど)の利八(りはち [山吹屋お勝])、 〔帯川(おびかわ)〕の源助(げんすけ [穴])、〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛(もへえ [穴])など40人にものぼる。
ほかにも、老齢でゆるされているのが〔浜崎(はまざき)〕の友五郎(ともごろう [大川の隠居])、 〔猿皮(さるかわ)]の小兵衛(こへえ [はさみ撃ち])など。
法の適用にあたって「一事両様」ぶりで江戸町人の喝采をえていたのが火盗改メ長官(おかしら)・長谷川平蔵なのだから、〔和泉屋〕の店主こと〔堂ヶ原〕の忠兵衛の処置になにぶんの手ごころが加えられてもよかったと感じたのである。
【参照】2011年3月28日[ちゅうすけのひとり言] (68)
そのついでに、江戸時代の時効の制度に目をむけた。
開いたのはいつかも紹介した、福永英男さんの労作私家版[『御定書(おさだめがき)百箇条』を読む](2001)である。
福永さんにはあとで了解らとりつけめとして、やさくし解説してあるから、主要箇所をを引用してみよう。
第18条 旧悪(きゅうあく)御仕置の事
旧悪」=現在の公訴時効に近い制度。一定の期間経過によって、もはや真犯人であることが判明しても司直から訴追されない。これを「旧悪になる」といった。現在の公訴時効は次のとおり(刑事訴訟法)。
第250条〔公訴時効期間〕時効は、左の期間を経過することによって完成する。
1 死刑にあたる罪については15年
2 無期の懲役又は禁偏にあたる罪については10年
3 長期10年以上の懲役又は禁鋼にあたる罪については7年
4 長期10年未満の懲役又は禁偏にあたる罪については5年
5 長期5年未満の懲役若しくは禁鋼又は罰金にあたる罪については3年
6 拘留又は科料にあたる罪については1年
江戸時代のそれは、意外に短くて12ヶ月とされていた。1年といわず12ヶ月といったわけは、閏(うるう)月が入る年があるからで、実質は今の1年より短い場合が多い。
12ヶ月経過した犯罪以「旧悪」となって通常は訴追しない。
しかし、次に列記する犯罪は凶悪とみなしてその恩典外にする。
逆に、12ヶ月月で公訴時効とならない罪については、打ち切りにする期間は何も規定されていない。
永久に続く(実際は犯人死亡の時まで)。
当時はたいていの犯罪は、12ヶ月以内で捜査の見切りをつけることにしていた。
それ以上長引かせてもあまり効果がないと考えていたのであろう。
1 (追加・延享元年(1744)極)
一、逆罪の者
(寛保3年(1743)極)
一、邪曲にて人を殺し候者
(寛保2年(1742)極)
一、火附
(同)
一、徒党致し人家へ押し込み候者
(寛保2年・延享元年極)
追剥(おいはぎ)並びに人家へ忍び入り盗人
(追加・延享元年極)
一、すべて公儀の御法度(はっと)に背き死罪以上の科に行わるべき者
但し、役儀に付きて私欲(にて)押領致し候者は、軽く候とも相応の咎めこれあるべき事。
(追加・寛保3年極)
一、悪事これあり、永尋ね申し付け置き候者
(延享元年極)
右は旧悪に候とも御仕置伺い申すべく候。このほかの科(で)、一旦悪事致し候ともその後相止め候よしこれを申し、もっともほかの沙汰もこれなきにおいては、十二か月以上の旧悪は咎に及ばざる事。
但し、十二か月内より吟味(に)取りかかり、十二か月以後吟味済み候とも旧悪には相立てざる事。
著者の注解のつづき
邪曲にて人を殺し…」=けんかでの傷害致死などは含まれない。私欲にかられての計画的殺人をいう。
盗みでも侵入盗、強盗は凶悪視し、旧悪の恩典を除外している。
棹尾の但し書は、12ヶ月以内に端緒を得て捜査に入ったが結審の時点では12ヶ月を超えていた場合
に旧悪の恩典はない旨を念のため規定したもの。けだし当然のこと。
〔堂ヶ原〕の忠兵衛は、盗(つとめ)のときに女犯・殺傷した者を、一味の掟てを破ったとして私刑で刺殺しているから、犯さず、殺さず、貧しきからは盗まずの正統派であったらしいことが書かれている。
にもかかわらず、鬼平が御定書とおりの処置をとったのは、23年前の京都での[艶婦の毒]に描かれた女盗・お豊との一件に義理立てしたのであろうか。
【ちゅうすけ注】このクラスで、市川恭行さんのお手配で、初めて[見張りの糸]のDVDを鑑賞した。
テレビは文庫に収録順に放送されていないから、観る側は[艶婦の毒]での浦部与力のことなど覚えていまい。
その役は井関録之助にふられていた。
映像化の脚本家も、〔堂ヶ原〕忠兵衛に同情したらしく、処刑をしていなかった。
舞台は三田八幡の前ではなく本所相生町。相生町といえば、五郎蔵、おまさ、宗平の住いがあるが、登場したのはおまさのみ。
近くの両国橋ぞいにある駒留橋ぎわの超高級料亭〔万八〕が登場するのはいいが、下足番もいないような出入自由の安っぽい店に格落ちしていたのはいただけない。
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