新しい命、消えた命(3)
平蔵(へいぞう 39歳)が大切にしていた掌中の宝を運命という不可避な力によって奪われ、つづいて新しい珠を偶然に手にしたこの天明4年(1784)---。
歴史は、もう一人の命の灯を消していた。
老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 66歳)の嫡男で若年寄の山城守意知(おきとも 36歳)である。
この半ば計画的ともいえる事件については、すでに何回も触れているので、それらにリンクを張りながら、すすめていきたい。
いろんな人がこの事件の経緯を描写しているが、憶測と枝葉はともかく、基になっているのは『徳川実紀』の3月24日の記述であるようにおもうので、なるべく忠実に、いまふうの文にしてみよう。
この日、いつものとおり、午後2時近くに業務を終えた老中たちがご用の間から退出した。
【ちゅうすけ注】この時の老中は次のとおり。
松平周防守康福(やすよし 66歳 6万石余)
田沼主殿頭意次(おきつぐ 66歳 4万7000石)
酒井飛騨守忠香(ただか 71歳 1万石)
久世出雲守広明(ひろあきら 54歳 5万8000石)
この退出時に田沼意次もいたかどうかの記述はない。
いたとしたら、佐野善左衛門はなぜ、諸施策の主の意次を狙わなかったか。
老中たちの退出につづき、若年寄たちも退出しようと連れだって中の間から桔梗の間へさしかかった。
【ちゅうすけ注】この時の若年寄は以下のとおり。
酒井石見守忠休(ただよし 71歳 2万5000石)
米倉丹後守昌晴(まさはる 57歳 1万2000石)
太田備後守資愛(すけよし 46歳 )
加納遠江守久堅(ひさかた 74歳 1万石)
田沼山城守意知(おきとも 36歳 5000俵)
加納遠江守久堅は残り番で居残っていた。
その時、新番組の番士の佐野善左衛門政言(まさこと 30代? 500石)が詰所から走り出てき、刀を抜いて田沼山城守意知に切りかかった。
意知は殿中をはばかったか、脇差を鞘ごと腰から抜き、しばらく防いでいたが、その場に居あわせていた者は、咄嗟のことでもあり、誰も佐野を押さえようとせず、ただ、騒いでいるだけだったのに、大目付・松平対馬守忠郷(たださと 70歳 1000石)がかけつけてき、善左衛門を組みふせたところへ、目付・柳生主膳正久通(ひさみち 41歳 600石)打ちあい、ともに政言をとらえ、獄へ送った。(中略)
この日、多くの若ものもありし中に、七十にあまりつる対馬忠郷が、善左衛門をくみ伏し挙動人々感じあえり。
【参照】松浦静山は別の経緯(すじがき)を伝えている。
2006も年11月27日[『甲子夜話』巻1-7]
酒井石見守忠休の『寛政譜』に、「(天明)四年四月七日、さきに営中にをいて佐野善左衛門政言、田沼山城守意知に傷つけしとき、処置よろしからざるむね御気色をかうぶり、御前をはばかり、十四日ゆるさる」の記述にあるとおり、意知と連れだっていた若年寄たちの全員、同じ処分を受けたことが『翁草』に引用されている。
『実紀』のつづき。
(同年4月7日)目付・跡部大膳良久(よしひさ 44歳 2500石)、松平田宮恒隆(つねたか 67歳 500石)は、同じ時まぢかくありながら、佐野善左衛門政言をとりしづめず、ほどへだたりし対馬守忠郷とらへ得しかば、その職にたえずとて、寄合に貶(おと)せらる。(中略)
寄合とは、無役のことである。
このほか、大目付や町奉行などが注意をうけた。
田沼老中の意向が感じられる。
山城守意知は重傷で、数日後にみまかった。
神沢杜口(かんざわ とこう)(1710~95)の『翁草』は、即死説も付している。
政治家としての意次を高く評価している一人---郷土史家・後藤一朗さん『田沼意次その虚実』にリンクを張っておく。
【参照】2007年11月26日[田沼意次その虚実] (3)
長崎出島のオランダ商館長チチングの見解もついでに---。
【参照】2009年2月12日[一橋治済の陰謀説]
(若年寄・酒井岩見守忠休の個人譜)
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