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2011年8月の記事

2011.08.31

新しい命、消えた命(3)

平蔵(へいぞう 39歳)が大切にしていた掌中の宝を運命という不可避な力によって奪われ、つづいて新しい珠を偶然に手にしたこの天明4年(1784)---。

歴史は、もう一人の命の灯を消していた。

老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 66歳)の嫡男で若年寄の山城守意知(おきとも 36歳)である。

この半ば計画的ともいえる事件については、すでに何回も触れているので、それらにリンクを張りながら、すすめていきたい。

いろんな人がこの事件の経緯を描写しているが、憶測と枝葉はともかく、基になっているのは『徳川実紀』の3月24日の記述であるようにおもうので、なるべく忠実に、いまふうの文にしてみよう。

この日、いつものとおり、午後2時近くに業務を終えた老中たちがご用の間から退出した。

ちゅうすけ注】この時の老中は次のとおり。
 松平周防守康福(やすよし 66歳 6万石余)
 田沼主殿頭意次(おきつぐ 66歳 4万7000石)
 酒井飛騨守忠香(ただか 71歳 1万石) 
 久世出雲守広明(ひろあきら 54歳 5万8000石)

この退出時に田沼意次もいたかどうかの記述はない。
いたとしたら、佐野善左衛門はなぜ、諸施策の主の意次を狙わなかったか。

老中たちの退出につづき、若年寄たちも退出しようと連れだって中の間から桔梗の間へさしかかった。

ちゅうすけ注】この時の若年寄は以下のとおり。
 酒井石見守忠休(ただよし 71歳 2万5000石)
 米倉丹後守昌晴(まさはる 57歳 1万2000石)
 太田備後守資愛(すけよし 46歳 )
 加納遠江守久堅(ひさかた 74歳 1万石)
 田沼山城守意知(おきとも 36歳 5000俵)

加納遠江守久堅は残り番で居残っていた。

その時、新番組の番士の佐野善左衛門政言(まさこと 30代? 500石)が詰所から走り出てき、刀を抜いて田沼山城守意知に切りかかった。
意知は殿中をはばかったか、脇差を鞘ごと腰から抜き、しばらく防いでいたが、その場に居あわせていた者は、咄嗟のことでもあり、誰も佐野を押さえようとせず、ただ、騒いでいるだけだったのに、大目付・松平対馬守忠郷(たださと 70歳 1000石)がかけつけてき、善左衛門を組みふせたところへ、目付・柳生主膳正久通(ひさみち 41歳 600石)打ちあい、ともに政言をとらえ、獄へ送った。(中略)
 
この日、多くの若ものもありし中に、七十にあまりつる対馬忠郷が、善左衛門をくみ伏し挙動人々感じあえり。

参照】松浦静山は別の経緯(すじがき)を伝えている。
2006も年11月27日[『甲子夜話』巻1-7

酒井石見守忠休の『寛政譜』に、「(天明)四年四月七日、さきに営中にをいて佐野善左衛門政言、田沼山城守意知に傷つけしとき、処置よろしからざるむね御気色をかうぶり、御前をはばかり、十四日ゆるさる」の記述にあるとおり、意知と連れだっていた若年寄たちの全員、同じ処分を受けたことが『翁草』に引用されている。

実紀』のつづき。
(同年4月7日)目付・跡部大膳良久(よしひさ 44歳 2500石)、松平田宮恒隆(つねたか 67歳 500石)は、同じ時まぢかくありながら、佐野善左衛門政言をとりしづめず、ほどへだたりし対馬守忠郷とらへ得しかば、その職にたえずとて、寄合に貶(おと)せらる。(中略)

寄合とは、無役のことである。

このほか、大目付や町奉行などが注意をうけた。
田沼老中の意向が感じられる。

山城守意知は重傷で、数日後にみまかった。
神沢杜口(かんざわ とこう)(1710~95)の『翁草』は、即死説も付している。

政治家としての意次を高く評価している一人---郷土史家・後藤一朗さん『田沼意次その虚実』にリンクを張っておく。

参照】2007年11月26日[田沼意次その虚実] (

長崎出島のオランダ商館長チチングの見解もついでに---。
参照】2009年2月12日[一橋治済の陰謀説


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(若年寄・酒井岩見守忠休の個人譜)

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2011.08.30

新しい命、消えた命(2)

「世間が噂しているとおりの、男とおんなの仲になりたい」
奈々(なな 17歳)につめよられたが、里貴(りき 享年40歳)との10年におよんだ潤いのあった想いい出が忘れられない平蔵(へいぞう 39歳)とすると、迫られられても、その気にはなれなかった。

奈々が独り寝をしている亀久町の家を訪れないようにしたいのだが、飢饉で客数が減っている〔季四〕のことも気になり、つい、あれこれの話を聴いてやりたくなり、顔をだし、連れだって帰ることも少なくない。

ともにかえった夜の奈々は、新しくつくった桜色の腰丈の寝衣で酒を酌みかわしはするが、
平蔵里貴とのあいだにつくりあげた世界をこわさないように気づかいするようになっていた。

ときには欲望が抑えきれくなる夜もないではないらしい。

裏の旗本・水野万之助忠候(ただもり 31歳 2800石)の下屋敷の裏庭の草むらからかすかに聞こえてくる秋虫の名残り声に紀州の村を思いだしたか、
(くら)さん。いっしょに行水しょ」

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(国貞『仇討湯尾峠孫杓子』 写し:ちゅうすけ)

そういえば去年の秋口、里貴が倒れてからこっち、裏庭で行水をしたことはなかった。

「大たらいはかわききってい、つかえないのではないか?」

2人がいっしょに浴(つか)っても底が抜けないような、特別あつらえの大たらいであった。

「たが締めなおし、だしといた。お(くら 65歳)婆ぁさんが釜いっぱいに湯をたぎらせてくれとるし---)

拒んでばかりいては、奈々も働く気持ちが減退するであろう。
混浴行水しても、興奮しないだけの自信はあった。
腰丈の寝衣で片膝立てで太股の奥まで真向かいから見せつけられても起立させない訓練をつんできていた。
剣術で、相手を静視するコツであった。

「よし。浴びよう。先に湯加減をみておけ」
なんのことはない、大たらいから細板の簀子(すのこ)まで敷きつめてあった。

湯を胸元にかけながら、奈々が待っていた。
太股のわずかばかりの絹糸が、さざ波にゆれているのも気にならなかった。

昂ぶっていないのを見せつけるように平蔵も前を隠さずに、たらいをまたいだ。
両足をいれ、向いあい、あぐらをかいて腰を沈めた---
その瞬間---底が抜け、周りを支えていた木片がばらばになり、仰天した奈々が抱きついてきた。

湯はすっかり流れ、座ったまま裸で抱きあっている2人の腰を結びつけているように竹を編んだ締め輪がひっかかっているだけ---。

胸と胸、腹と腹、秘部と秘部がくっつきあったのは、予想の外(ほか)であった。
偶発の珍事に、平蔵の自制がすっとんだ。

平蔵のものが目を覚ましているのを感じた奈々が、足を平蔵の腰に巻きつけた。
双腕は互いに抱きあっていた。

奈々が口を吸った。
平蔵も応えた。
「このままでは風邪をひく。これから先は閨(ねや)で---」

平蔵が両腕で肩と太腿を抱きあげ、運んだ。

ほとんど消えていたが水滴をぬぐい、布団を敷き終えた奈々を引き寄せ、拭いた。
そのあいだ、神妙な顔つきで平蔵の昂揚しているものをつかんでいた。


初めての体験なのに、平蔵の発射したものをしっかり受けとめたことを感じとったらしく、奈々がささやいた。
「男とおんなの仲って、こないなことやったんや」

つづけて、ぽつりも洩らした。
「きつい廻り道やった」
「廻り道には、たのしめる風景も多いってこと」

白い肌が桜色に染まってくるところは里貴にそっくりと感じつつ、人生50年、あと10年、この珠を、どう「上品(じょうほん)のむすめ」に育てあげるか---思いもよらなかった楽しみができたと、胸の中でつぶやいていた。

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(歌麿『上品の娘』 奈々のイメージ)


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2011.08.29

新しい命、消えた命

「おんなの子でした」
辰蔵(たつぞう 15歳)が、ほころびそうになる表情をおさえて、平蔵(へいぞう 39歳)に告げた。

「尼どのは息災か?」
「お蔭をもちまして、いたって健やかです」

月輪尼(がちりんに 24歳)は、7ヶ月の孕み腹を他人目から隠すため、芝・新銭座の中村立泉(りゅうせん 60歳)医師の離れに寄留していた。

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(芝新銭座 赤○=井上立泉屋敷 近江屋板)

ちゅうすけ注)尾張屋板では「井上」とのみ記されているから、池波さんはシメシメ--と決めたのかもしれないが、近江屋板では「井上因碩」とある。まあ、切絵図は平蔵の時代よりはるか後年のものだから、立泉先生の孫あたりが「因碩」を名乗ったと考えておこう。

当初、平蔵は、多紀安長元簡(もとやす 30歳)を頼り、神田佐久間町の躋寿館(せいじゅかん)の病室をあてにしていたが、大勢の塾生が出入しているから、いつ、尼の剃髪と懐胎の異様さが話題にならないともかぎらないといわれ、亡父の旧友・立泉表番医に相談した。

(てつ)どのの、ややか?」
立泉医師は、平蔵が14歳で、三島宿のお芙沙(ふさ 25歳=当時)によって男になった時、宣雄に頼まれて事後の診察をしたことがあった。

参照】2007年8月9日[銕三郎、脱皮] (

「ややの父親は、(たつ)でして---」
辰蔵(たつぞう)どのは、うちの孫とおない齢であったような---」
「はい。15歳です」
「父ごに似て、手ばやいの---」

恐れいった体(てい)で事情を打ち明けると、うれしげに承諾してくれた。
旧友の孫の苦境を助けることに意義を感じたのであろう。
(そういえば、宣雄(のぶお)どのも、知行地の村長(むらおさ)のむすめを孕ませたご仁であったな)

長谷川家に新しい命がさずかったこの年(天明4年 1784)の夏、一つの命の灯(ひ)が消えた。
衰弱しきっていた里貴(りき 40歳)は、夏が越せなかった。

このことを予期した平蔵は、女中師範のお(えい 52歳)が、約束どおりに〔橘屋〕へ引きあげるとき、引き締め策を奈々(なな 17歳)に伝え、女中寮住いの4人で切りもりすること、昼飯と夕餉だけで採算がとれるように見積れと指示していた。

若女将として切りもりをまかされた奈々は、顔つきまで変わった。
きびきびと齢上の女中たちに指示をとばし、客の気をそらさないばかりか、木挽町(こびきちょう)の田沼老中(66歳)の中屋敷をとり仕切っている於佳慈(かじ 34歳)へのあいさつも欠かしはしなかった。

田沼老中の息だけでなく、元手も入っているといった風評が店にとって援助になるとともに、自分への誘惑が防げると、察しがついたようであった。
おんなの直感といえばよかろうか。


里貴と同じ紀州藩内の村の生まれであることを売りこむことも忘れなかった。
里貴の元夫が、紀州から田安家へつけられた藩士であることは、貴志の村ではだれでもしっていた。

しかも、佳慈には、
「うちの(へい)旦那も、お渡りをお待ちしております」
躰の関係を匂わせた。

里貴の四十九日忌を深川・奥川橋の万福院ですませた。
ここは高野山真言宗で、藍玉の〔阿波屋〕の事件で住職・円海(えんかい 68歳=当時)老師と面識ができてい、貴志村も高野山真言宗ということであったので、葬儀も遺骨の預かりも頼んだ。

参照】2010228[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] (

黒江町筋の料理屋で精進おとしの夕餉(ゆうげ)をとり、権七(ごんしち 52歳)、船宿〔黒舟〕のお(きん 40歳)、松造・お粂(よしぞう 32歳 くめ 42歳)夫婦、今戸橋の元締の今助・千浪(いますけ 33歳 ちなみ 41歳)夫婦などと別れ、奈々と亀久町の家へ帰ってくると、奈々は荷をすべて階下へおろしていた。

「四十九日忌も終ったし、いつまでも下を空けておくのも無用心ですから---」
さっさと腰丈の黒っぽい寝衣に着替え、片口に酒を注いだ。

「お(せん 25歳)さん、こなかったね」
奈々が杯がわりの小椀ごし、艶っぽい双眸(りょうめ)で意味ありげに平蔵を瞶(みつめ)た。

片立てひざの奥、まばらな絹糸がすっかり、成人のおんななみの丈になっていた。

は、里貴が息を引きとった翌日まで、あれこれ手伝っていた。
「次の患(わずら)い人に、手が離せなかったのだろうよ」

「うち、(くら)さんがおさんを抱きはってん、.しってた」
「やむをえなかった---」
「ええの。里貴おばさまはしらへんかったよって、救われた、おもう」
「そうだな」
「うち、里貴おばさんがいるあいだは、さんとできたらあかん、おもうてきた」
「いまだって、そうだ」
「うそ---」
「うそじゃない。奈々は若い。われは年寄りだ。奈々にはふさわしくない」
「好きあうことに、齢 あらへん」
「幾つちがうとおもっているんだ---?」
「たった、23」
「たった---ではない。23も、だ」

「みんな、うちら、できてる、おもうてる」
「おもいたい手合いには、おもわせておけばよい」
「おもわれてるとおりに、なりたい---」


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2011.08.28

辰蔵と月輪尼(がちりんに)(9)

「父から、辻番所をめぐりを解くというお許しがでた」
辰蔵(たつぞう 15歳)が、並んで仰臥(ぎようが)している月輪尼(がちりんに 24歳)へ報じた。

「そら、よろしおした」
長谷川家で公認になってから、月輪尼の姉さん女房気どりが濃くなっていた。

ゆっくり裸身をおこし、枕元に脱いでおいた刺し子の腹巻をつけ、また横になった。
(たえ)お婆はんの手作りやよって、仇や疎かにできしまへんやろ。しっかり温めて、ええやや子産まんと---」

そのときにも外そうとしないのを、
「腹あたりがごわごわしていて、気がのらぬ」
辰蔵がきらったために、ようやく外した腹巻であった。

「5ヶ月になったら、ちゃんとした腹帯を(たっ)はんと金比羅はんへ行(い)て、授かったらええゆうてくれはりましたんえ」
「真言宗の比丘尼の(ゆき)が金比羅宮へ参詣してもいいのか?」

とは、清華格の公卿の家の六女としての月輪尼の俗名であった。
睦みの頂上では、
ゆき---ゆき
呼びかけている。

知識のうすい辰蔵に、金比羅はもともと仏教の12神将のうちのコンピーラがなまって海の守神になったもので、「航海、海---産み---妊婦の腹帯」となったのではないかと披露した。

は、広智深識だからなあ」
そのほうではかなわないと、辰蔵はあきらめていた。
(こころの的を射ること、つぼを射ぬくことなら---)


[懐胎すること十月(じゅふげつ)、迅速にして停(とどま)らず。
月満ち時に臨(のぞ)んで業風(ごつぷう)催促す。
生るる日にあたり、遍躰(へんたい)酸疼(しゅんとう)し、
骨節(こっせつ)分離して千支(せんし)倶(とも)に解(と)く、
中心悶絶(もんぜつ)して死活いまだ分(わか)たず。
------------]

産褥が軽く、短くなるための『父母恩重(おんぢう)経』の唱句と、月輪尼は信じていた。

「あ、動きはった---ここんとこ、お父ごの訪れがしげしげやよってに、もろ手ぇあげてよろこんではんねんよ」

7ヶ月目からの潜(ひそ)み場所は手あてがついたから、大船に乗ったつもりで安心しているがいい、といってくれた平蔵(へいぞう 39歳)に、すべてをまかしきっていた。

親しく言葉をかわしてみると、平蔵は頼りになる父ごであった。
(もっと早うに知りあったら、もしやすると、この人のほうを、ややの父親にしたかもしれへん)

参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () () () () () (

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2011.08.27

辰蔵と月輪尼(がちりんに)(8)

「うちがお訪ねしましたんは、ややを産みおとすこと、ご容認いただけんのかどうかの一点どす」
祖母・(たえ 59歳)に双眸(りょうめ)をすえつけ、月輪尼(がちりんに)が問いかけた。
さすがに長谷寺で修験を積んできているだけあり、ふだんの施療のおんなたちにみせる柔和さはなかった。

「ややは、おんな独りではつくれられしまへん。殿方の愛液をうけるよっさずかれます,ねん。その愛液を頂戴させてくれはるお方に、うちは(たっ)はんをえらびましたん。育てるおあしのことやおへん。よい種のことをいうてます」

久栄(ひさえ 32歳)が受けた。
月輪尼さま。長谷川家辰蔵も産んでほしいとお願いしましたなら、尼さまはそのまま月が満ちるまで、庵でお過ごしになるお考えでございましょうか? 護持院側が黙認してくれましょうか?」

平蔵が割って入った。
「待て。まず、決められることから決めていこう。辰蔵。産んでほしいか?」
「はい。2人でつくったややですから---」

久栄はどうじゃ?」
「15歳の子が産ませたという上っ方やお歴々の覚えがそこなわれなければ---」

「お婆は---?」
「継(つ)ぎ木の長谷川家の隠れた伝統をよくぞまもってくれたと、をほめてやるわい」

「最後にわれだが、まず、辰蔵に訊きたい。比丘尼と祝言をあげる気持ちはあるか?」
「------」

たまらず、月輪尼が口をはさんだ。
「うちは、はんと夫婦(めおと)になる気ぃはおへん。気も躰もおうた友だちとして、末なごう、おつきあいしていきたい、おもぅてます」

「拙が家督するまで、待ってくれるならば、ともに生きたいものです」
「あ、はははは。われの死を待っておるのじゃな---?」

辰蔵が少年らしく首をちぢめると、月輪尼が姉さん女房然と、
長谷川さま。はんは、父ごに早く隠居していただいて、お好きなことに歳月をあててほしぃ、孝行をいうてはるんどす」

「奇特な気持ち、ありがたくいただいておくが、月輪尼どの。ややのことは、本山にしれれば姦淫の破戒ということで追放になるのではござらぬか?」
「実家の力もおよばへんでひょ」

「では、ことはすべて内密に運ぶのが最良とおもわれる」
婆が、
「比丘尼さんのその衣装だと、7ヶ月までは隠しおうせるな。孕み8ヶ月から産み月までの2ヶ月のあいだ身を隠し、なにくわぬ顔で庵へ戻る」
「妙案だ。実現方を考えてみよう」

「やや---は?」
長谷川家の子としてとどける」
「あ---」
参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () () () () () (


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2011.08.26

辰蔵と月輪尼(がちりんに)(7)

舟上の月輪尼(がちりんに)は、顔を隠すための網代笠(あじろがさ)をときどきあげては、1枚だけはずされた障子のあいだからのぞのける、路上からとは異なる江戸の眺めに嘆声をもらしつづけた。

こときとばかりと辰蔵(たつぞう 15歳)が、くぐりぬける橋やあれこれの建物を講釈する声を、老練な船頭・辰五郎(たつごろう 55歳)が耳にいれながら笑顔で合点していた。

舟は、母体のためにゆれが少なく寒風も吹きこない中型の屋根舟を権七(ごんしち 52歳)が手くばりした。

_150この日の月輪尼は、白衣の上に墨染めの法衣をまとい、淡い色の頭巾でつつんだ、ふつうのの尼僧姿であった。
そのために、色白でととのった公家顔が引きたち、齢も2,3歳若くみせていた。

辰蔵の母・久栄(ひさえ 32歳)によい印象をもってもらいたいとのこころばえであったろう。

大川から竪川(たてかわ)を東行し、横川へはいるとすぐに菊川橋であった。
町名は、遠江国の菊川郷の武士たちが賜ったことによると、いわなくてもいい講釈をしたのは、辰蔵も嬉しくて仕方がなかったのであろう。

菊川橋のたもとでは、松造(よしぞう 35歳)が出迎えた。 
一人でも多く顔見知りがいたほうが、月輪尼がくつろごうとの、平蔵(へいぞう 39歳)のこころくばりでもあった。

その松造辰蔵に耳打ちした。
「門番たちの目をごまかすために、若は、寸時遅れて独りでお帰りになるようにとの、殿のおいいつけで゜ございました」

月輪尼を先導した。
菊川橋から長谷川邸は1丁(100m余)の距離しかなかった。

松造が案内していたので、門番は目礼したのみで通した。

書院には、平蔵久栄(ひさえ 32歳)と(たえ 59歳)がいた。

が口をきった。
「齢寄りは気が短くてのう、辛抱ができませんのじゃ」

歯抜けの口でもぐもぐとしゃべったことの要点を記すと---、
長谷川家は、の亡夫・七代目から本筋ではなくなったが、その経緯は、五代目の末弟・宣有(のぶあり)どのが病身で、養子にでられず兄の厄介になっておったが、看病にきていた備中・松山藩の浪人・三原なにがし氏のむすめごに婚儀もしないで手をつけ、生まれたのが、のちに七代目を継いだ宣雄(のぶお 享年55歳)で、京都東町奉行にまで出世した人であった。

七代目・宣雄は20歳代の後半、まだ厄介の身分で、の実家・上総(かずさ)国武射郡の知行地、寺崎村の村長(むらおさ)の戸村五左衛門の離れに寄宿し、新田開発の指導をあたっているうち、身のまわりの世話をしておった(20歳)に、婚儀ぬきで、銕三郎(てつさぶろう)をはらませた。

いや、宣雄は2年まえから乳くりあい、村長の家でもあきらめていたのだが、ややができたらほってはおけない。

は家女の身分でふくらんだお腹をつきだし、宣雄にくっついて赤坂築地の家で銕三郎を産んだ。
長谷川家直系の六代目・宣尹(のぶたた 32歳=当時)は、病気がちの叔父・宣有とその子の宣雄(27歳=当時)の母 、宣雄の手つき娘・のお腹の子---すなわち現在の八代目・平蔵宣以と、厄介の3階建てをしょいこんだ。

病気がちで出仕も休みがちであった六代目・宣尹は、2年後に病没、厄介であった従弟・宣雄(30=当時)が、宣尹の実妹・波津(はつ 30歳=当時)の婿養子となって家禄を継いだ。

参照】2008年4月8日~[寛政重修諸家譜] (14) (15) (16) (17) (18

「つまり、長谷川の家系は、六代目・宣尹という直系から、五代目の末弟・宣有(のぶあり)の、婚儀をしないでややをつくる系統へ移ったというわけ。

だから、ここに控えおる、八代目として将来を嘱目されておる平蔵宣以(のぶため)も、18歳のときに、縁切り寺へ入って尼になる人妻(21歳=当時)に、ややをつくってしまった。
その尼は、鎌倉の東慶手とかいうところで無事にややを産ませてもらった。

そうしたら、またも、比丘尼さんがやや、ときた。
長谷川側は、15歳の辰蔵
銕三郎 の18歳よりも、3つも若がえっている。

月輪尼が産む子が男子だったらその子、12歳でややをつくることになるのか(苦笑)。

月輪尼が端正な顔に笑いをうかべた。

ちゅうすけ注】の予想を裏切り、月輪尼が産んだのは女子であったとおもわれる。

参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () () () () () (


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2011.08.25

辰蔵と月輪尼(がちりんに)(6)

「そうか、ややをつくったか---」
辰蔵(たつぞう 15歳)から月輪尼(がちりんに 24歳)の懐妊をうちあけられた平蔵(へいぞう 39歳)は、しばらくは遠くを眺めるような目つきで、つづく言葉を掌で制した。

「奥とともに聴きたい」
辰蔵が母に声をかけに去っても、しばらく呆然としていた。
20年ほど前に、阿記(あき 21歳=当時)の口から「身ごもったかもしれない」といわれた夜のことを回想していたからであった。

参照】2008年2月1日~[与詩(よし)を迎えに] (38) (40) (41
2008年3月19日~[於嘉根(おかね)という名の女の子] () () ( (
  
辰蔵の種を宿したのは比丘尼どのでな、いささか、厄介ではある」
久栄(ひさえ 32歳)は、泰然と聞きながし、
辰蔵にも、そのような甲斐性がありましたか」

「おいおい---」
場違いな合いの手を平蔵が発した。

察するに旅荘〔甲斐山〕でのお(せん 25歳)とのことを持ち出されたと勘違いでもしたか。
しかし、おの昂ぶりを鎮めたことをとがめるなら里貴(りき 40歳)であろう。
平蔵どの、月輪尼の懐妊によほどに混乱したとみえる。

「なにはともあれ、ご本人からお覚悟をお聴きせぬいことには、なにごともすすみませぬ」
「覚悟---」
母の言葉に、辰蔵が息を呑んだ。

「なにをうろたえているのです。ややを孕んだのは色欲を禁じられている尼僧ですよ。その父ごが長谷川の嫡男としれたら、世間はなんと噂しますか」

「そうじゃな、秘さねばならぬ。だれか、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 52歳)どんに足労を頼んでくるように---」
咄嗟に反応したのは、さすが、平蔵であった。


「若に、ややが---それは祝着至極になこと」
こぼれんばかりの笑顔で辰蔵を瞶(み)た。

「それが、ちと、他人目をはばかるお人でな」
大塚の護持院前から屋敷まで駕篭を頼むというと、孕み月を訊き、
「そのころが、いちばん流れやすいのでやす。山駕篭や長駕篭はよくありやせん。江戸川橋から菊川橋まで黒舟にいたしやしょう。江戸川橋まではお歩きになったほうが、お腹(なか)のややのためにはよろしいかと」
山駕篭での見聞きが豊富だったことを示した。

「護持院から舟までは拙が添います」
「あたりj前のことを口にするでない」
平蔵久栄の手前、辰蔵を叱った。

その夜、平蔵の寝間では、久栄が、
「血筋はあらそえませぬ」
「なにをいうか、久栄の躰にお徴(しるし)を---とねだったくせに---」

参照】2008年12月18日~[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」] () () () (

「いいえ。尼僧好みの旧悪をいっております」

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () () () () (

2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

2011年1月21日[日信尼の煩悩

2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () () () () () (

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2011.08.24

辰蔵と月輪尼(がちりんに)(5)

「いま、入っていって、ややが驚かないかな?」
辰蔵(たつぞう 15歳)の心配はもっともであった。

(はつ 12歳)、於(きよ 9歳)、銕五郎(てつごろう 4歳)を身ごもったときの母・久栄(ひさえ 32歳)の腹のふくらみ具合は見ていたが、父といつまで閨(ねや)を共にしていたかなどということはかんがえたことはなかった。

その点、月輪尼(がちりんに 24歳)のほうは耳年増であった。
京都の御所近くの屋敷では、昨夜の卿がおわたりになったのは、9ヶ月にもなっている茜(あかね)の局(つぼね)であった---とはしたない下女たちのうわさ話を耳にして育っていた。
おわたりとはいうものの、じつは、卿の寝所へ呼ばれるだけのことではあったが。

いつも施療の部屋であったが、庭側の襖はあけてあり、障子をとおして冬の冴えた陽差しがながれこんでいた。
火鉢で暖めてあるとはいえ、素ッ裸だといささか寒い季節であったから、このごろは2人とも寝衣を羽織ったが、腰紐はつかわなかった。

辰蔵は、月輪尼の臍(へそ)のあたのりをなぜてやりながら、
「いつ、宿ったかわかるのかな---?」
言葉づかいまで、腹の中の子の父親らしくなっていた。

「おなごにはわかります」
「いつだった---?」

はんが、寝台(ねだい)の裸の人のこと、告白しィはった日---」

参照】2011年8月6日[辰蔵のいい分] (
2011年5月21日[平蔵、書状を認めた] (
2011年5月22日[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () () (
2011年5月21日[[化粧(けわい)読みうり]西駿河板] (
ec0.html">70)

「夢の中のことといっていたが---」
「夢うつつ---いうやおへんか。仏のお告げは、みーんな、夢うつつ---でも、月のものがのうなったんは、あれからでおます」

「では、おれたちの子に、あいさつに参ろう」
「いまさらのあらたまってのあいさつは、けったいどすえ。もう、20たびも顔合わせ、すんではりますもん」
「あ、ははは」
「お、ほほほ」


「よく、身ごもってくれた。あらためて礼をいわせてもらう。2人の子が生まれるというだけで、浅間の山焼けの黒い煙が晴れた気分だ」
「悦んでくれはって、うれしおす」
「喜ばいでか。そろそろ、父上、母上に告げなければならぬ。わが屋敷へ参れる日は---?」
「いつかて---」
「そうもいくまい。父上の非番の日がいい。4日後、施療を断っておけ。駕篭をまわす。五ッ(午前8時)でよいな?」

参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () () () () () (


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2011.08.23

辰蔵と月輪尼(がちりんに)(4)

長谷川。胴造りがしっかりしてきたな。心が安定してきた徴しだ」
師の布施十兵衛良知(よしのり 42歳 300俵)が、励ますように褒めた。
天明4年(1784)が明けての初稽古であった。

師にいわれるまでもなく、辰蔵(たつぞう 15歳)は自らも落ち着きがでてきたことを悟っていた。
月輪尼(がちりんに 24歳)とのあいだが安定しているからだとわかっていた。

施療に名を借りた庵での出事(でごと 交合)もつづいてい、待っている患者がいないのをいいことに、比丘尼はその時の声を高めはじめていた。
声を高めることで、快感がさらに昂まるようであった。
五感全部をつかって躰を解きはなっていた。
月輪尼の声で、辰蔵も自信を強めてきていた。

それが弓術にも反映していたのであった。

布施師も、辰蔵の体の変わりようには気づいていた。
鉄条入りの木刀を朝夕300回ずつ振りぬいていることは、平蔵(へいぞう 39歳)から伝え聴いていたし、むすめ・於丹而(にじ 14歳)への思慕をきっぱりあきらめたらしいこともたしかめた。

そうすると、新しいおんなができたとしかかんがえられない。
ま、それはそれでいいのではないか。
いまの落ち着きようから見て、紛糾しそうなあいだがらのおんなでないことは察しがついていた。

この日の行射では、10射とも的を射抜き、うち5矢が中心に集まっていた。
(若者の成長は若竹のごとし、だ)

布施
「今年からは、さらに強弓にしてもいいな」
励まして帰した。

布施邸の牛込白銀(うしごめしろかね)町から大塚の富士見坂下の蓮華院までは18丁(2km)あるかなしであった。

ちゅうすけ注】このころ江戸には、富士見坂と呼ばれる坂は10指にあまるほどあった。現在は、半分だけ山容が望める坂が一つだけである。

いつも弓の帰りには立ち寄るので、月輪尼は甘いものをととのえて待っていた。
品定めをしながら口をついてでるのは、、『父母恩重(おんぢゅ)経』の一節---

[母は児(こ)を見て歓び児は母を見て喜ぶ]

口ずさむたびに苦笑した。
辰蔵とのあいだは、それほど、母と子のよう慈愛で結ばれているといってもよかった。

しかし、今日の訪れを待つ気分は特別であった。

「ややができました」
告げた時の辰蔵の顔を想像するたびに頬がゆるんだ。
(15歳で一児の父---)

あのことの前に告げるべきか、事後のほうが静かに聴いてくれるか、迷うことも楽しかった。

辰蔵がいつものように、弓袋や箙(えびら)などを持ってあらわれた。
用具を入り口の脇におかせ、手をとって沙弥壇(しゃみだん)の前に座らせた。

茶と点心を供し、両手をついて躰をかたむけ、
(たっ)はん。おめでとはん」
きょとんとしている辰蔵に、
(たっ)はんは、お父ごにならはりましたんえ」
「なに---?」
「ややができましたん」
「------」

参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () (5) () () () (

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2011.08.22

辰蔵と月輪尼(がちりんに)(3)

「こないして、並んで歩いてるところ看(み)ィはった人は、姉弟(きょうだい)、おもわはるやろなぁ。好きどうしやしったら、驚かはる」
月輪尼(がちりんに 23歳)は、初めての並んでの外歩きに、気持ちが昂(たかぶ)っていた。

六ッ(午後6時---というより日没時)に近いかわたれどきで、上背は辰蔵(たつぞう 14歳)が2寸(6cm)は高かったし、提灯にはまだ灯をいれてなかったから顔をたしかめる者はいず、尼僧のほうが齢上とは察しがつかなかったろう。

月輪尼には、齢が9つも下の徳川の武家の子と並んで歩いている快感があった。

小石川清水谷で提灯の灯を借り、伝通院の参道前から安藤坂をくだるときには暗闇をいいことに手をつなぎ、小石川門から三崎稲荷社の脇路地のぜんざい屋〔若桜(わかさ)〕の2階の小座敷へあがった。

「半刻(はんとき 1時間)は100文(4000円)であったな?」
月輪尼がくれた2朱銀(2万円)を、辰蔵がものなれたふうな口調でわたすと、小女は愛想笑いもしないで、
「お釣りは、ぜんざいをお持ちしたときにしますか、お帰りのときに清算なさいますか?」
意味をとりかねた辰蔵がまごつていると、気をきかせた月輪尼
「帰りの清算に---」

小女が降りていったのをたしかめてから、
「こないな店やと、初めに告げたのより延ばす客が多いんやないの」
小座敷の隅にたたんである布団と枕を見ながら月輪尼が笑った。

「初めてあがったもので---」
「そんなはんが、うち、好き。可愛い---」

ぜんざいがくるまで、神田川を上下する行灯に灯をいれた荷舟を窓から眺め、お互い尻をさぐりあった。

ぜんざいがきても、食後に口がすすげないことに気づき、どちらも手をつけなかった。

「袴を脱いで---」
月輪尼は、すでにその場面を描いていた。

「ふとんにもたれ、脚をのばして---」
辰蔵の着物を割りひろげ、自分も法衣の裾をまくりながら、
「こんなんやったら、庵で---」
いいかけ、それではうぶな辰蔵の志を無にすると気づき、
「庵でとは、違うた気分で楽しめそう---」

しっかり、半刻近くつぶし、帰りぎわにだされた釣りから15文(600円)を小女につかませたのも月輪尼であった。

護持院まで送りながら、
「近くの雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕で精進料理をたのしむのだった---」
「次に、行きまひょ。でも、いい世間勉強にもなりましたぇ」

大人ぶる辰蔵が、それこそ、抱きしめたいほど、月輪尼には可愛くおもえた。

庵に入りながら、『父母恩重(おんぢゅ)経』の一節を読経していた。
[母は児(こ)を見て歓び児は母を見て喜ぶ]

参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () () () () () (

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2011.08.21

辰蔵と月輪尼(がちりんに)(2)

(たっ)はんのお父ごが通じはっていた貞妙尼'(じょみょうに)はんどすけど、そら、もう、綺麗や尼はんやったてえ」
「会ったことはありませぬ。母も会ってないとおもいます」
ことが果て、仰臥(ぎょうが)した裸身を覆っ上布団の中では、手をにぎりあって話している。

「そら、そや。夫と通じるおごなに妻が出会うて、ただですむはず、おへんわなぁ」
「そうかも---」

はん、うちがよその男と寝とぅるとこ見ぃはったら---?」
「刺し殺す---」
「どっちを---?」
「------」

「うち---? 男---?」
(ゆき)のほう---」
「うれしい。そないまで、一つになってくれてはるねんなぁ」

敬尼(ゆきあま 23歳)が辰蔵(たつぞう 14歳)にかぶさった。

躰は大人なみでも、こういう男女のかけひきになると、辰蔵はまだ少年であった。
とりわけ月輪尼(がちりんに)は、育ちが公卿(くぎょう)の家だから、手練手管は幼いときから仕込まれている。

公卿は、摂家につぐ清華の家までの上位の公家(くげ)の尊称であった。
気位は高いが、幕府が給してくれている食禄は多くはなく、いろんな利権を捜していた。

の父は公卿だが、母は奉公にあがっていた商家のむすめであった。
のような脇腹のむすめは6人もいたが、うち女官の職につくことがかなったのは2人にすぎなかった。
が、長谷寺へ入って尼になるといった時には、婚儀の出費が助かると喜ばれた。

だから、読経と問答だけという、薬草代の支払いもない施療ではいってくる銭を自分で使えるいまの暮らしぶりは、願ってもないものといえた。

辰蔵が京都で暮らしたのは3歳の終りから4歳の半ばまでであったから、公家の内情はほとんど見聞きしていない。
が公卿の家の媛(ひめ)ということと真言密教を修めているということで、貴種とうやまっていた。

経験が浅い辰蔵には、閨房での大胆な所作が、天真爛漫に映った。

はん。お小遣い、あげよか---?」
(受けとってくれれば、つなぎとめられるばかりか、上から扱うこともできそうだ)

辰蔵は、首をふった。
はんとこのお父ごから寄進された祈祷代、半分、使ってぇ---」
甘えてみたら、乗ってきた。

「はい、2分(ぶ 8万円)」
最初の分配としては多すぎるとおもったが、じつは4分の1でしかなかった。

「なんぞ、おいしいもん、おごってぇ---」
また、甘えた。
齢下の男をいい気にさせるには、甘えるにかぎる。

「でも、法衣やさかい、精進さんで---」
辰蔵には、そんな知識はなかった。

「水道橋に、ちょっとしたぜんざい屋があるけど---」
「行きまひょ。たのしみやわぁ」

弓術の弟弟子の建部市十郎(いちじゅうろう 12歳=当時)が師範の布施師のむすめ・於丹而(にじ 12=当時)を連れこんだぜんざい屋〔若桜(わかさ)〕しかおもいつかなかった。
(こんど、市汁郎に会ったら、いろいろな店を訊きだしておこう。しかし、おれは、抱いているおんなを連れこむのだぞ)

参照】2011年6月11日[辰蔵、失恋] (

笑ってはいけない。
辰蔵なりに少年の気負いを発揮しているのだ。

あの時の失意が嶋田宿への旅を呼び、あの場でのお小夜(さよ 23歳)の性的欲望から回復するために辰蔵は、月輪尼の施療にゆきついたのだ。
因があれば、果が生まれる。

参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () () () () () (

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2011.08.20

辰蔵と月輪尼(がちりんに)

(たっ)はん。初瀬(はせ)村への旅程、決まらはりましたん?」
「いえ。まだです」
「しんどぅおすなあ。はんの旅程にあわせ、うちも京の実家(さと)へ帰ってみよ、おもうてますん」
いまでは、月輪尼(がちりんに 23歳)は、3日ごとに施療の名目でやってくる辰蔵(14歳)の時刻を八ッ半(午後3時)に決め、以降の来診は受けないことにしていた。

9歳も齢下の辰蔵ながら、背丈は成人なみだし、腕の筋肉も鉄条入りの木刀の素振りのかいがあり、月輪尼をかるがると抱きあげ、閨(ねや)の床まではこぶことができた。

参照】2008年月12日[高杉銀平師] (3
2011年6月9日[辰蔵の射術] (

辰蔵をあきらめることは放念、おのれの生身(なまみ)の悦びをたのしむことこそ法悦と独り決めしていた。

施療がたび重なってきているので、施療部屋を兼ねた閨(ねや)へ入るのも急がない。
茶を喫(の)み、富士見坂上の茶店〔高瀬川〕からとどく点心を賞しながらの会話にふけった。

「大爺ぃはんがお奉行はんやってはったとき、はんも京へ---?」
「はい。4歳でしたから、ほとんど覚えがないのですが、桜花を観にいったのと、父が比丘尼---あっ---」
「かめへん。遠慮せんとお話しぃ---」

参照】2009年10月15日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (

辰蔵は懸命に記憶をたぐった。
「なんとか式部という官女さんが隠棲していた寺の比丘尼---」
「わかった。和泉式部はんやったら、誠心院はんやろ」
「そこの庵主(あんじゅ)さんに貢いでいると、母がこぼしていたことをかすかに覚えています」

日輪尼も、無暴な性的陵辱を受ける前の晴れやかだった13歳の少女へ戻った。
「10年前の誠心院の庵主はんいわはったら---不慮の落命しぃはった---貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)はん---」

参照】2009年10月19 日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

「比丘尼さんの法号まではしらないのですが、町奉行であった備中・大爺ぃさんが探索を差配したと聞きました」
「亡くなりならはった貞妙はんとはんのお父ごが極楽してはったいうのんも、うちとはん、輪廻(りんね)やなあ---」

2人は流し場に並び、房楊枝で点心の甘味を落とし、口をすすぎ、暗い施療の間へ入る。

このところの施療を受ける手順---下帯一つになって寝た辰蔵を、掛け布団で覆った比丘尼が、「父母恩重(おんじゅう)経」を唱えながら法衣を脱ぎ、桜色の湯文字を巻いて横に添うた。

[----------
父母の恩、いかが報ずへき。
東西の隣里(りんり)に行来(ぎょうらい)して井竈(せいそう)し、
碓磨(たいま)するにいたり、時ならずして家に還(かえ)る]

辰蔵の下帯が掛け布団の外へ投げ出される。

「-----------
母すなはち心驚き両の乳、流れ出(い)づ]

「そなた、乳をふくむか---?」
「はい」

月輪尼の湯文字が布団から外に出される。

「乳の味は---?」
「甘露です」

はんのややを孕み、そのうち、ややが吸うてくれまひょ」
「はい」

「ややがほいしい---?」
「いますぐは、困ります」

「尼も、困る。孕み尼がいられるのは、東慶寺だけと聞いてぇます」
「しかし---}

「止(や)まる---?」
「止まりませぬ」

「尼も、止められたら難儀や」
「つづけます」

「京までは15泊---いまから、たのしみ---」
「たのしみです」

上の布団が蹴飛ばされた。

参照】2011年08月21日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] () () () () () () () (

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2011.08.19

銕三郎が盗賊をつくった?

8月7日(日曜日)午後のJR静岡駅ビル・SBS学苑パルシェでの[鬼平クラス]の報告。

テキストは聖典の文庫巻16[霜夜(しもよ)]。
クラスの市川さんからお借りしたビデオのタイトルは[うんぷてんぷ]。

ストーリーは少し変わってい、高杉道場の同門で、剣技には見どころがあった池田又四郎(17,8歳)が、突然、行方しれずになったが、20t数年ぶりに見つけてみると、盗賊の一味にくわわっていた。

又四郎銕三郎(てつさぶろう 23,4歳 のちの平蔵)の前から姿を消したのは、銕三郎が義母・波津(はつ)を殺害する決心をし、又四郎長谷川家の養子となって家名をつぐようにたのんだところ、断ったばかりか、「それはいけませぬ」と制止した。

それで、銕三郎は義母殺害の計画はあきらめ、又四郎によそよそしくしたのを、銕三郎に性的なあこがれをもっていた又四郎は見放された受けとり、悲観・出奔したのであった。

銕三郎が義母の殺害を企んだのは、嫡子である自分を廃嫡し、縁続きの永倉家からなまくらな亀三郎を養子にむかえようとしたから---という設定。

いく度も断っているように、史実と小説は別ジャンルのものである。
小説は、作家の想像力、創作力の産物である。

しかし、鬼平---長谷川平蔵は実在した人物である。
しかも、徳川幕府きっての火盗改メであった。

池波さんも、その史実をしって創作意欲をもやし、代表作の一つとしてシリーズを書きつないだ。
もちろん、いまのような人気をえたには、中村吉右衛門さんをえた映像化チームの功績も大きい。

史実は、もうすこし調べられてもよかった。
池波さんに言っているのではなく、池波さんの取材を補助した人がいればそのリサーチャー、連載をもらった編集部の池波さん担当だった人、いまさらながら---『寛政重修諸家譜』を確認するくらいのことはしてほしかった。

あるいは、長谷川平蔵家の菩提寺である戒行寺の過去帳---;霊位簿も調べに行ってほしかった---なんて、ぼく自身もじかに見てないから、大きなことはいえない。

じつは、戒行寺に記念碑を実現した一人---釣 洋一さんからデータをいただいた。

_360_2
(釣 洋一氏による戒行寺長谷川家の霊位簿の一部。赤○=波津)


寛延3年(1750)7月15日歿 とある。
銕三郎は延享3年(1746)の生まれだから、5歳のときに死別したことになる。

参照】2006年5月18日[長生きさせられた波津
2007年4月20日[寛政重修諸家譜] (16

ということは、永倉家からの養子うんぬんもありえないばかりか、『寛政譜』には、亀三郎に該当する人物がいない。

だから、廃嫡もなければ、養子の話もありえない。

ただし、小説での池田又三郎の出奔の原因は別につくれば、ストーリーはほとんどそのままに生かせよう。
霜夜]の主題の一つは、妻の妹とできてしまい、その妹が盗賊の世界から足を洗って生きているのを助けるために、自分が属していた〔須の浦(すのうら)〕の徳松(とくまつ)一味を殺害するところにある。

交わったおんなを救うために斬り死にするのも、美しい、共感をよぶ死に方であろう。

これとは別に、池波さんがこのストーリーを組みたてるのに、『江戸名所図会』を巧みに使っているのを、下の3点をながめながら、聖典を読かえしていただきたい。

0522_360
湊稲荷 塗り絵師:ちゅうすけ)


0542_360
寒橋(明石橋) 塗り絵師:ちゅうすけ)


575_360
砂村元八幡宮 塗り絵師:ちゅうすけ)


池田又四郎にまず斬って棄てられる盗賊一味の2人の素性のリサーチ---
〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛(くへえ)

〔栗原(くりはら)〕の常吉(つねきち)


参照】2008年7月13日[池田又四郎(またしろう)]


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2011.08.18

新与頭(くみがしら)・中川左平太昌栄

天明4年の年賀まわりは、気が重かった。

平蔵(へいぞう 明けて39歳)が西丸・書院番4の組に配属になってこのかた12年、蔭になり日向(ひなた)になって支えてくれた与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 64歳 800俵)が風邪をこじらせて臥せったままであった。
齢が齢だけに、余病の心配があった。

訪れなれた牛込築土下五軒町の屋敷で、年賀のあいさつだけで帰るつもりであったが、嫡男・千助勝昌(かつまさ 明けて24歳)に招きあげられた。
「与頭が、どうしても、お目にかかりたいと申しております」

めっきり頬がおちた郷右衛門は、それでも目をかけてきた平蔵に、
「風邪がなおり次第、致仕(ちし)前に、里貴(りき 明けて40歳)女将の見舞い行くつもりであった。よろしく、伝えておいてくだされ」
「組は、まだ、与頭どののご経験を必要としております。致仕だなんて、とんでもございませぬ」

「いや。後任には、あしかけ26年、われらの組で番士を勤めてきている中川左平太昌栄 まさよし 明けて45歳)うじをお(番)頭へ推しておいた。このこと、秘して年賀にまわっておくように---」

それから、耳をかせとつぶやくようにいい、
「そこもとを、徒(かち)の組頭にと、3人の与頭の内諾をえておいた」
「はっ---」

郷右衛門は、西丸のほかの書院番の与頭との懇親の会場に〔季四〕をあて、それとなく後ろ支えをしてくれてきていた。
それだけ、平蔵の特異な器量を買ってくれていたといえる。

参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () () (
2010年4月23日~[女将・里貴(りき)のお手並み] () () (
2011年3月4日[西丸の重役] (
2011年3月5日[与板への旅] (

3人の与頭たちへの根まわしがすんでいるということは、番頭や西丸の若年寄への耳にも入れてあるということであろう。

それから10日たらずで郷右衛門勝孟は永眠した。
葬儀に列した帰り、里貴を見舞ったが、勝孟の死を告げるのはひかえた。
気落ちさせることが病状をすすめると判断したからであった。

閏正月8日、中川左平太昌栄が後任として発令された。
平蔵は、先輩の昇進をすなおに祝ったが、〔季四〕には招かなかった。


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(中川左平太昌栄の個人譜)


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2011.08.17

蓮華院の月輪尼(がちりんに)(8)

「昨夜、お(せん)の笑顔は童女のようで、齢が10歳は若くなるとおっしゃってくださいました。童女か一人前のおなごか、お試しになってみてください」
つま先立ちになり、平蔵(へいぞう 38歳)の肩においた手で躰を支え、耳元てささやいた。

「その、われの言葉にはいつわりはない。だが、ここで試みるわけにはまいらぬ」
「患(わずら)いの人は、ちゃぼとけい草であと2刻(4時間)はお目がさめません」
腰を抱き、すりつけてきた。

「気持ちはわかる。だが、ここではあの匂いがのころう。病人は五感が敏感になると聞いておる」
「外へまいりましょう。1刻半で戻れば---」
腰にまわしている腕に力がこもった。

「2階の行灯を消してくる。病室の行灯を弱め、病人の手のととかないところへ移し、昼着に着替えて玄関で待て---」
多紀元簡(もとやす 29歳)へのことづけが無駄になったか)

奈々は着物の前をはだけ、大股をひろげて眠っていた。
寝衣をかけてやり、行灯を消すと、一瞬のうちに暗闇に溶けた。


行き先は、浄心寺裏の山本町の宗徒旅荘〔甲斐山〕しかなかった。
先ほど、奈々を支えてわたった亀久橋を、こんどはおとならんで逆にわたった。
1丁半(150,m)ほどであった。

_360_2
(緑○=茶寮〔季四〕、青○=里貴宅、赤○=旅荘〔甲州山〕 近江屋板)


風呂と酒を頼んだ。

箱形の板の湯舟で、向き合った。
の裸躰は、乳房は盛り上がっていたが、子を産んでいないために乳頭は小さく、左のは房にめりこんでいた。
腕をのばし、つまんで引きだし、もんでいると硬くなり、つきでてきた、
「いつも、こうか---?」
「ですから、男にはめったに胸を見せません」
の息つがいが昂ぶるのがわかった。

挙立してきたものに、おが触った。
「待ちきれません」

_360
(長谷寺の塔と桜)

同じ時刻---;蓮華院の沙弥壇(しゃみだん)の前。

ふだんは秘して手をとおさない淡い桜色の短い寝衣をまとった月輪尼(がちりんに)が、懺悔といてうより法悦に浸(ひた)りきったように唱えていた。

観世音菩薩さま。
また、きょうも抱いてしまいました。

あの子を見ると、初瀬(はせ)村で修験中にふとしたことから睦みあった、長谷川藤太宣久(のぶひさ 21歳=当時)がおもいうかび、どうしても抱かずにはいられなくなるのです。

宣久とは、初瀬川の隠口(こもりく)の渕で、秋の夜、大伴坂上郎女の、

 隠口の泊瀬(はつせ)の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも

初瀬川の渕で湯文字ひとつで水浴びして吟じていた時に、闖入してきた裸体の若者でした。
十九夜の月光の下、水をかきわけてき、私を掴むと、湯文字を奪いとり、抱きあげました。

そして、乳房を吸われているうちに、おもわず、若者の首に腕をまきつけてしまったのです。
若者は名乗りました。
長谷川の嫡男・宣久です。この3夜、比丘尼の水浴みを盗み看ておりましたが、今夜の月光の下の裸身があまりに美しいので、たまらず---」
宣久は、抱いたまま、唇を秘部へ移し、舌をやさしくふるわせました。

「どこで覚えたの?」

私は訊きました。
宣久は、応える代わり,に、

 隠口の泊瀬(はつせ)の山に照る月は盈戻(みちかけ)しけり人の常無き

宣久は、私が14歳のときに受けた性の傷をさっぱりと癒してくれました。
それからは、夜の水浴びが待ちどおしくなったものの、永くはつづきませんでした。

密会は、長谷川一族のしるところとなり、長谷寺の長老へ告げられ、私は禁足させられました。
放逐でなく下知すんだのは、都の朝廷における父の権力のお蔭でした。

宣久の面影を色濃くにじませたあの子をあきらめることはできません。
一夜でもいいから、いっしょに眠りたい。

終りそうもない性の煩悩地獄です。
でも、こうした煩悩に苦しむ者がいればこそ、観音さまはおあらわれくださったのでございましょう。
お許しください。 

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2011.08.16

蓮華院の月輪尼(がちりんに)(7)

〔外出着(そとゆきぎ)に着替えるのん、面倒やしィ---」
奈々(なな 16歳)のいい分をとおし、歩いて2丁と離れていない、〔季四〕の裏手の支堀ごし、海福寺門前の一本うどんの〔豊島屋〕にした。

577
(海福寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


上方育ちの奈々が、蕎麦よりうどんのほうが口慣れしているのと、一本うどんははじめてということもあった。

〔五鉄〕もかんがえないでもなかったが、久栄(ひさえ 31歳)と顔なじみの三次郎(さんじろう 33歳)に奈々を引きあわすのは、もっと先でいいようにおもえたので、見合わせた。
もっとも三次郎は、お(りょう 享年33歳)も見知っていたが---。

参照】2008年11月23日[〔五鉄〕のしゃもの肝の甘醤油煮

〔豊島屋〕では、奥の離れと酒を頼んだ。
「外で、おじさまと2人でお酒を呑むの、初めて。なんや、逢引きしている感じ---」
「昨夜のこと、お(せん 24歳)は、酔いつぶれていても察していたかもな」
「自分があんな恥ずかしい姿態をさらしたんやし---」
「おのことはいえまい? 奈々も見せたのだから」
「ぷっ。おじさまが最初(はな)に見せたんちゃう? そやよって、おあいこにしたん」

話とともに酒がすすんだ。
一本うどんがきたときには、奈々はかなり酩酊していた。

Ipponudon

「太い。10歳の男の子のおちんぽほどの太さ---」
「見たのか?」
「村の子は、みんな平気なん」

奈々も見せたか?」
「月の徴(しる)しがはじまるまでは、見せていたかも---」
「よく、無事でこられたな」
「危ないのは、男の子より、婆さのほう---」
「山の女神の丹生(にう)さまか?」
「あ、その話、なし---」
奈々が泣くような声でさえぎった。

参照】2011年7月15日[奈々という乙女] (

それでほぼ察した平蔵は、さっと話題を、月輪尼(がつりんに)に転じた。
奈々は、里貴おばさんには教えないと誓えるか?」
「おじさまの新しいおんなのことだと、誓えない」
「われのおんなではない。辰蔵のおんなだ」
「そんなら、誓える。おもしろさそう。わくわくしてきた」

真言密教の秘法で、夢の中で交接した気持ちにさせるのだというと、双眸(りょうめ)を輝かせ、
〔自分がおもっている男の人と、している気持ちになれるの?」
「そのようだ」
「わあ、いい、いい。奈々も受けたい」
「誰と、するのだ---?」
「教えたら、おしさま、連れていってくれる---?」
「うむ」

「いやだ、いえない。自分で夢の中でするから、いい---」

本気でふらついているのか、演技なのか、平蔵もはかりかねたが、亀久町の家へまっすぐに帰ると、おや遅組の寮のむすめたちに会いそうな時刻だったので、奈々の乳房を右腕に感じながら、遠回りし、3丁ですむところを倍も歩いた。
不思議なことに、奈々は黙したまま双眼(りょうめ)をつむり、陶酔したようにもたれかかっていた。

帰りつくと、寝着のおが出迎え、行灯の火で蝋燭を点(とも)してわたし、そのまま病間へ引き下がった。
裏の階段を、平蔵奈々の尻を片手で押しながら、のぼった。

布団をのべ、奈々の帯を解き、着物のまま抱きあげてそっと寝かし、階段をおりると、下におが立っていた。

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2011.08.15

蓮華院の月輪尼(がちりんに)(6)

護持院の惣門を出ようとして、富士見坂を下ってきた辰蔵(たつぞう 14歳)の姿をみかけた。
春日通りの近道をたどったらしい。
足取りが生き生きしていた。

扉に身を隠した。
月輪尼(がちりんに 23歳)に会えば、われがきたことは発覚(ばれ)る。われからいうより比丘尼の口から聴かされたほうが、辰蔵の齢ごろだと素直にうけとるであろう)
平蔵(へいぞう 38歳)の即断であった。

覚えがあった。
父・宣雄の独創ぶりが褒(ほ)められると、誇らしい気持ちとともに、妬(ねた)ましいさがその倍も湧いたものだ。
いや、父を尊敬しないというのではなく、超えなければならない高みにふるえるのかもしれなかった。

参照】2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] () () (
 
(われは辰蔵にとって、亡父・宣雄(のぶお 享年=55歳)ほど考え深い父親ではないかもしれない。亡父は、少年のわれを、老中を罷免された前老中・本多伯耆守正珍 まさよし 50歳=当時 前田中藩主)侯にお目通りさせてくれていた)

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

翌年、宣雄銕三郎(てつさぶろう 14歳)を駿州・田中城と長谷川家のかつての拠点・小川(こがわ)へ旅をさせ、箱根で〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう)との生涯にわたる因縁ができたし、三島宿では若後家・お芙沙ふさ 25歳)から性の手ほどきをうけた。

兄者格として、佐野与八郎政親(まさちか 25歳=当時 1100石)を頼んでもくれた。

参照】2007年6月5日~[佐野与八郎政親] (1) (2

(そうだ、辰蔵に指南役をつけねば---)
このとき、性の指南役として月輪尼平蔵がかんがえていたかどうかは、ちゅうすけにはわからない。

辰蔵がいそいそと惣門をくぐり、蓮華院のほうへ消えるのを見とどけ、江戸川橋下に待たしていた小舟で、亀久町の里貴(りき 39歳)の病床へ座った。


看護婦のお(せん 24歳)は昨晩の醜態をおぼえていないのか、いつもと変わらない几帳面な所作で里貴の世話をしているので、胸をなでおろした。

ゆうべ、奈々(なな 16歳)が頭(かしら)をしている座敷女中の4人組が、きょうから昼づとめに代わるといっていたから、帰ってくるのは七ッ(午後4時)前であろう。

湯を手桶に入れてき、
「お躰をお拭きします」
が布団をめくり、里貴の寝衣の帯紐をほどいた。

光を透かすほどに青白かった胸元は、白いことは白いが艶がなく、どことなく萎(しぼ)んだでいるようであった。
「毎日のことか---?」
「はい。毎日拭かないと、匂います」
平蔵の問いかけに応えながらも、おの手はとまらなかった。

胸から腹、横たえて背中をすませたおが、手拭を湯につけなおしながら、平蔵に視線を流した。
下腹から脚にとりかかるらしいと察し、表の部屋へ移った。

(そうか、この拭きで、里貴の局所の絹糸の本数を数えたな)
苦笑するとともに、できることならわれの手で清めてやりたいとおもいもし、今朝方、多紀安長元簡(もとやす 29歳)に吹きこんでおいたから、おが辞めると申しでるはずはないと断じた。

奈々が帰ってきた。

奈々。おかしい話というのを、里貴にも聴かせてやろう」

普段着に着替えて降りてき、女中師範のお(えい 51歳)が4人組の座敷女中の名を、おお春、お、お、おに変えたことを話した。
「お店の名が〔季四〕で、女中が4人だからちょうどいいって」
里貴が苦しげに笑った。

その笑いを、平蔵は承諾と受けとめた。
(おも、〔季四〕のためによかれと考えてくれている)

A_120「しかし、おが2人、おが2人では、どちらのおか、混乱するのでは---?」
平蔵が呈した疑問に、
「それはうちうちのことやから、ええ,ねん。うちうちやと、奈々の組のむすめ(こ)は同じ名前のこよりはちいとは若いよって、初春(はつはる)、初夏(はつなつ)、初秋(はつあき)、初冬(はつふゆ)って呼びあうん」
里貴がまた笑った。

「おお師範はんのすごいとこは、女中衆の座敷着を無地にきめ、おは若葉色、おはつゆくさ色(水色系)、おはべに色、お冬はりんどう色(藤色系)に決めはったこと。寒ければ袷(あわせ)、 暑ければ絽(ろ)ということもあるやろけんど、年中、ひと色ですせられるから、着物代が:倹約できるゆうて---」
里貴は、笑いよりもあきれ顔であった。

が、里貴に薬湯をあてがい、しばらくして薬が効いて眠りにお落ちると、
「殿さま。奈々さまをお連れになり、どこか美味しい店でお召しあがりになっきてください」

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2011.08.14

蓮華院の月輪尼(がちりんに)(5)

翌日。

松造(よしぞう 33歳)。休仕届けを牟礼(むれい 郷右衛門勝孟 かつたけ 64歳)与(くみ 組)頭へ差し出してきてくれ。われは火急の用で多紀(安長元簡 もとやす 29歳)どのと面談したいことが出来(し(ったい)した」

里貴(りき 39歳)の容態が急変でもしたのかと心配顔の松造に、頭(こうべ)をふってそうではないことを伝えた。


なにごとかと構え顔の多紀元簡は、病人の回復遅々てしてすすまないことを通りいっぺんに詫びたあと、口ごもりながら、
「薬は万端のはずですが、どうも、病巣がわからないのです」
「お(せん 24歳)どのには、昼夜をわかたずに看護いただき、感謝の言葉もありませぬ」
「お気づかいくださるな。あれも、気持ちよくつとめさせていただいているというております」

元簡が初日に処方した薬草の品書きを見分した表番医・中村立泉(りゅうせん 69歳)は、おれが診(み)ても同じ処方になるとの言辞をもらったことは、明かしていない。
医師としての元簡の衿持(きょうじ)を傷つけるとおもったからであった。

平蔵(へいぞう 38歳)としては、里貴の病状は口実で、おの辞職の事前封じの訪問であった。

躋寿館(せいじゅかん)のある神田佐久間町を出ると、和泉橋詰から舟を雇い、神田川をさかのぼって江戸川の江戸川橋詰まで揺られた。

江戸川橋から護国寺まで音羽(おとわ)町を9丁北行し、東へ折れると富士見坂下が護持院であった。

庵主(あんじゅ)・月輪尼(がちりんに 23歳)は、まるで待っていたように柔和な笑顔で迎えた。

「昨日、申しわすれたことがござって---」
「なんでおます---?」
「昨日、比丘尼どのは和州・長谷寺で修験されたと申されました」
「あい。長谷川家のご先祖が数代、旦那をおつとめどした」

「ご承知でしたか?」
「ご支族がいまでも旦那をおつとめどす」
「深い縁(えにし)を感じます」
「ほんに---」

「ところが、わが先祖は、初瀬(はつせ)村を出て三河へ移り住んでより、誰ひとり、尋ねた者がおりませぬ」

長谷寺は初瀬(はせ)山(548m)の中腹にあること。
観音信仰に篤い都の公家の信仰参詣が多いこと。
とりわけ、女性の参詣人が多いこと。
それゆえ、受戒を長谷寺で受けたこと。
古い文書には、初瀬川渓谷の北側が泊瀬(はつせ)の里とも記録されているが、いまは「はせ」と呼んでいること。
たぶん、最初の瀬のあたりだったからであろう。
村をでていった長谷川家が「はつせ」と語りつたえているのは、それだけ早くに次の栄誉を求めた進取の気性にとんだ氏族であった証拠であること。

細長く深い渓谷だから、初瀬に、陰口(こもりく)という地名のあること。

  土形(ひぢかたの)娘子(をとめ)を泊瀬山に火葬(やきはぶ)る時、柿本人朝臣人麿の作る歌
 陰口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ

「御師。豚児に初瀬を訪れさてみようとおもうのですが---」
「40日の旅になりょうりますなあ。それに、いまからやと、正月がかかりますえ」
「年があけると、15歳、元服となります」
「うちは、24歳や」

「来年は40歳になるおなごが伏せっております。ついでのおりにご祈祷いただけましょうか?」
「おつとめしまひょ」

平蔵が紙包をすべらせた。
2両(32万円)包まれていた。

比丘尼は軽く会釈し、紙包のまま、小さな沙弥壇(しゃみ)へ奉納し、念仏を唱えた。

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2011.08.13

蓮華院の月輪尼(がちりんに)(4)

「おじさま--」
奈々(なな 16歳)がかすかに声を発した。

奈々。そうではないのだ。ここへこい」
平蔵(へいぞう 38歳)が小声で呼んだ。

近づいた奈々へ、
「手を貸せ、お(せん 24歳)を寝転がす」

2人して膝から降ろし、寝させ、裾をあわせ、
奈々。そなたも心得ていよう、出事(でごと)のことは---」
平蔵は裾をひらき、下帯の前を片寄せ、
「このとおり、起きてもおらぬ」
示した。

「わかった。おじさま、上で呑みなおそ」
片口に注ぎたし、小椀を2ヶかかえ、玄関へまわろうとする奈々を引きとめ、
里貴(りき 39歳)は眠り薬で深く眠っておる」
寝間から薄布団をとってきておにかけ、行灯を持ち、里貴の寝息をたしかめ、2人で上階へ直行した。

落ちつくと、
奈々。さっき見たものは忘れよ。そうしないと、おがこの家におられなくなる。困るのは、奈々とわれだ」
「そやね。忘れよぅ」

お互い小椀に口をつけたところで、
「おじさま。お願い、おじさまのもの、もう一度、見せて---」
「見て、どうする---?」
「よく、見たいん---」
「おかしな乙女(こ)だ」
「うん、怪(け)ったい乙女(こ)やの、うち---」

硬直しないことを念じながら、裾を割った。
息をつめた奈々が、双眸(りょうめ)を輝かせて瞶め、つばを呑みこんだ。

「あ、動いた」
むくむくと挙立してしまった。

奈々に驚いたんね---ええ子やん、ええ子や」
触(さわ)られた。
ますます、反りかえった。

奈々のんに会わせてあげっから、ちょい待ちィ---」
帯を解きはじめた。

奈々。よしなさい」
「でも、おじさまのん、奈々に会いたがっとるやん」
いいながらも、着ているものをすっかり脱ぎすて、腰丈の閨衣(ねやい)をはおっただけで片膝を立て、座った。

「ええ子、見てみぃ、奈々よ。あいさつ、しい。あ、ぴくぴく、あいさつしとぅる。可愛いィ---」
手をのばして引き寄せようとしたので、平蔵があわてた。、

「もう、遅い。帰らないと、木戸が閉る---」
「つまらへん。おもろい話、聴かせてあげよおもうて、ごっつうせいて帰ってきたんよ---」
「明日、里貴といっしょに聞く」

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2011.08.12

蓮華院の月輪尼(がちりんに)(3)

「行って、添うてやるがよい」
蓮華院の襖をしめきった施療の部屋で、月輪尼(がちりんに 23歳)にいわれた平蔵(へいぞう 38歳)は、看護婦のお(せん 24歳)に、
「大事ないゆえ、しばし、座をはずしていてくれ」

不審顔のおにうなずきかえし、消えると襖をしめ、着物を脱いだ。
その気配を、里貴(りき 39歳)が弱々しい笑みでうけとめた。

下帯もとり、里貴の横に添った。
掌で秘部を蓋うと、うめいた里貴が腰をあげてきた。
「無理をしなくていい」
「でも、うれしい、のです」
口を寄せてきた。
「じっとしておれ」
口は薬湯の匂いが強くかった。

里貴が、平蔵の硬くなっていないものをつまんだ。
「ごめんなさい」
「いいのだ。よくなれば、いくらでもできる。われたちは、まだ若いのだ」
かすかに笑み、うなずいた。

平蔵の耳には、
(そなたには、その女性の夜叉の形相が見えないようじゃ)
月輪尼の声が、社頭の大鈴のそれのように響いた。

ふっと、15年前の芦ノ湯村の病室が浮かんだ。

参照】2008年7月27日[明和4年(1767)の銕三郎] (11) (12

阿記(あき 25歳=当時)の茂みは濃かったが、里貴の少ない絹糸になじむと、こっちのほうが無防備ですむし、快くなっていた。
多紀安長元簡(もとやす 29歳)から好女(こうじょ)説を聞いたせいもたぶんにあろう。

参照】2010年12月25日[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] (

里貴の寝息を耳にした。
そっと抜け、着衣をととのえ、隣部屋で待っていたおに、
「すまなかった。眠ったようだ。多紀安長元簡 もとやす 29歳)医には、このこと、告げるでない」

片口から小椀に注ぎ、
「ま、すこし、呑(や)るがいい」

は呑(い)ける口らしく、喉を鳴らした。
「呑けるじゃないか」
注ぐと、初めて笑みをみせ、
多紀先生には、内緒にお願いします」

「どこで、覚えたかの?」
「先夫が大酒ぐらいだったもので、つい---」
「それが離縁の因(もと)かな?」
「いいえ。ほかのおんなを孕ませたのです」
「そこもと、子は---?」
「できませんでした」

「余計なことを訊いたようだ」
「そんなとはありません。でも、こちらを拝見していますと、うらやましくて---」
「なにが---?」
「患い人(びと)を安心おさせになることに一所懸命ですもの」

3杯目の多めに注がれた椀を置き、
「患い人にお寝(やす)み前の用をすませていただいてきます」


両手を濡れ手拭いで清めながら、
「お眠りが深くなるお薬をさしあげておきました」
「とけい草か、なにか---?」

参照】2010年2月26日[とけい草

「ご存じなのですか。南蛮渡りのちゃぼとけ草のほうです」
「さすがに、躋寿館(せいじゅかん)---」

大きな笑みで4杯目を受けたので、つい、うっかり、
「おどのの笑顔は童女のごとくで、齢が10歳は若くなる」
ほんとうのことだったが、お世辞にとられたようだ。

「14歳だと、下はまだ生えそろいませんが、17歳なら立派な眺めですよ」
(あ、酔っているな)
平蔵が気づいたときは遅かった。

酔いが羞恥をおさえきれなくなっていた。
立って、裾をまくり股を見せた。
「こちらのの女将さんのは無いにひとしいですが、おさんのは17歳から黒々です」

ちゃんと立っていられなく、ゆらゆらゆれながら開帳していたが、ひらいたままで、平蔵の膝にくずれこんだ。

そのとき、奈々(なな 16歳)が帰ってき、棒立ちで醜態場を凝視した。
(夜叉とは、このことだ)

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2011.08.11

蓮華院の月輪尼(がちりんに)(2)

半月が青く輝いたその夜---。

大塚の筑波山護持院の本堂の前、人びとが「カニの池」と呼んでいる小さな泉に月が映っている刻限に、月輪尼(がちりんに 23歳)が佇み、池の月に向かって口の中でぶつぶつと懺悔(ざんげ)していることを平蔵(へいぞう 38歳)はしらなかった。

観世音菩薩さま。うちは、ひとりの父ごを欺きました。

_360
(比丘尼が受戒した和州・長谷寺の本尊・十一面観世音菩薩)


その父ごの祖先は、比丘尼が受戒(じゅかい)させていだいた総本山・長谷寺の村で、家名を長谷川と名乗った武家でありました。

父ごの嫡男が施療を求めてまいりましたとき、その深い縁(えにし)の若者に、うちの下腹が燃えたのでした。

観世音菩薩さまもお見通しのとおり、うちは、公卿の家の媛(ひめ)として育ち、14歳の春にある男に無理やり乙女の徴しを奪われました。

それからは世をうとい、男をうらみ、わが身を呪っていましたが、神泉苑の老師に、おんなは男によって人をつくり、男はおんなによって人となると教えられ、長谷寺を指されました。

参照】2009年11月18日[三歩、退(ひ)け、一歩出よ。] (

その若者は、性への執着がひとかたなぬおんなによって修羅道に落ちかけておりました。
えにしの子を救ってやるのは、うちしかないと思いました。

うちも、男の性への妄執(もうしつ)のいきにえになったものです。
これを救いみちびいてやらねば、とおもいたったときには、裸になって抱いておりました。

うちは、その若者によって、思い出をよみがえらせたかったのかもしれません。

_140幸い、若者を縛っていたおんなの妄念は消えましたが、こんどはうちの躰が妄執の池に漬かりそうです。

若者の父ごには、若者を抱いたことは告げておりませぬ。
だぶん、父ごは推察しているとおもいますが、早くあきらめさせてやってくれと願っているように見えました。

あきらめるのは若者ではなく、うち、です。
あの若者の、育ちざかりのの獣のような匂いをかぐと、せつのうて、いとしゅうて、芯がもえ、下腹が熱くなってしまいます。

真言密教道には、おんなの昂まりを鎮める秘法はないのでございましょうか。

どうすれば、あきられめられましょうや?
お教えください。

月輪尼は、眉根をよせて観世音菩薩にすがっていた。
しかし、煩悩の道は、長谷寺の登廊のように長かろう。

_360_2
(和州・長谷寺登廊下)


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2011.08.10

蓮華院の月輪尼(がちりんに)

「お見舞いが遅くなりました」
音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 57歳)とお多美(たみ 42歳)夫婦が里貴(りき 39歳)を見舞ったのは11月の初旬で、倒れてから3ヶ月も経っていた。

もちろん、それまで、病人の口にあいそうな月々の水菓子(くだもの)はとどけてきてはいた。
顔を見せるのをひかえていたのは、里貴がやつれた姿を見られるのは嫌がるであろうと、お多美が気をきかせていたからであった。

しかし、会う相手は里貴ではなく長谷川さまだと、こんどだけは重右衛門がきかなかった。
それほど平蔵(へいぞう 38歳)は、暇さえあれば里貴の枕元につめていた。

重右衛門が口をききかけると、目顔で別室を指した。

「じつは、辰蔵(たつぞう 14歳)さまのことでございやす」
「あれの辻番所巡りでは、元締衆に厄介をかけていたようで、まことに相済まないとおもっておる」
「とんでもございやせん。そのことでは、みなみなの衆が、すすんでお手伝いをいたしました。じつは---」

辰蔵の気ふさぎによかれと、蓮華院の庵主(あんじゅ)・月輪尼(がちりんに 23歳)を引きあせて施療をうけさせたところ、真言密教の秘法に縛られたようで、慙愧(ざんき)のきわみと恥いっていると告白した。

「真言密教の秘法---?」
〔夢ごこちの中で女躰(にょたい)と交接し、精を放ちつくすのだそうでやす」
゛は、ははは。夢精だな」
「殿さま。笑いごとではすみません。辰蔵さまはお変わりありやせんか?」
「明るさが戻ったと、室は喜んでおったが---」

(たつ)の新しいいおなごがよりに選って比丘尼---? ありえないことではない。げんにわれが27歳のときにいとも簡単に貞妙尼(じみように)と睦んでしまったではないか)

参照】2009年10月14日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (

「殿さまも、百もご承知のことと存じやすが、男とおんなが世間の垣根を越えるのは、理屈なんかではありやせん。性の慾は簡単に燃えあがりよるです」
「で、その比丘尼どのは、いずこの---?」


音羽}の元締のすすめで訪れたというと、月輪尼はあどけなく微笑み、
(たっ)はんの父ごはんでおすか? お顔がよう似てはる---」
辰蔵の悩みごとを解いていただいたようで、お礼に参じました」
「すっかり、癒(い)えたわけやおへん。あと、もうちょびっと施療うけさせてあげておくれやすか」

「ところで、比丘尼どのは真言密教の修験を、いづこでお積みになりましたか?」
「和州・長谷寺で---」
「ほう---」

笑みをかえした月輪尼が、
「親ごはんも悩みがおありと、お顔にだしてはりますが、施療をお望みで---?」
「お差支えなければ---」

つづきの間へみちびかれ、羽織袴はもとより、帯も解いて寝るようにいわれ、そうした。
襖が閉められ、香木が焚かれ、比丘尼の鈴をころがすような読経が始められた。

[自在菩薩------
舎利子(しゃりし)。色不異空(しきふいくう)。 空不異色。
色即是空(しきそくぜくう)。空即是色。
------------

舎利子。是諸法空相(ぜしょほうくうそう)。不生不滅(ふしょうふめつ)。
不垢不浄(ふくふじょう)。不増不減(ふぞうふげん)。
------------]

「そなたは幾歳のときに女躰(にょたい)を識(し)ったか---?」
「14歳です」

「相手の女性(にょうしょう)は幾歳であったか---?」
「25歳と聞きした」

「どのようにして知りあったか---?」
「女性の父ごに引きあわされました」

「人の妻であったのか---?」
「さにあらず。夫を逝かせたばかりでした」

「そなたは、その女性のことを、いまでもおもいだすことがあるか---?」
「いい初体験をさせてもらったと、感謝しております」

「双方、幸せな体験であったのだな---?」
「あのようなこと、辰蔵にもとのぞんでおりました」

「よい父ごよ」
「そうでありたいと願っております」

(たっ)はん、そなたのおもいどおりにはいかなかった---」
「はい」

「人の世とは、そういうもの」
「あいわかりましてございます」

「いま、そなたが内室のほかに睦んでいる女性(にょうしょう)は---?」
「やはり、夫を逝かせたおなごです」

「では、そなたは功徳をほどこしていることになるな---?」
「功徳---?」

「さよう。おんなは男なしでは生きられない」
「そうかも---」

「睦んできている女性は、病んで、そなたに助けを求めてもだえておるな---?」
「もだえて---?」

「そなたには、その女性の夜叉の形相が見えないようじゃな----?」
「見えませぬ」

「行って、添うてやるがよい」
「しかと---」


[----------
菩提薩婆訶(ぼだいそわか)。般若心経(はんにゃしんきょう)]

庭側の襖がひらかれ、光が部屋へ満ちた。

平蔵は額の汗を懐紙でぬぐい、いつのまに移ったのか庭側へ端然と坐し、微笑んでいる月輪尼へ頭をさげた。
比丘尼の脊には後光がさしているようであった。

辰蔵をよろしょゅうにお導きくだされ」


護持院の楼門をで、音羽通りを重右衛門の家へ足をはこんだ平蔵が、元締にいいきった。
「辰蔵の施療は、比丘尼どのにまかせておけばよい。抱きあったとおもっているのは辰蔵だけよ」

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2011.08.09

女中師範役のお栄(えい)

「女将さん。お(えい)と申します。老いぼれではございますが、雑司ヶ谷の〔橘屋〕さんでの25年があいだに身につけたものの中で、〔季四〕さんにふさわしいことを新しい女中衆にしつけていこうとおもっております。どうか、ごゆっくりご静養くださいませ」
亀久町の病間で、臨時女中頭のお(くめ 43歳)、奈々(なな 16歳)も同席のところで、お(51歳)が白髪まじりの頭をさげた。

平蔵(へいぞう 38歳)が〔橘屋〕忠兵衛(2代目 40がらみ)に頼みこみ、半年の約束でおを借りうけた。
裏が接している旗本・水野万之助忠候(ただもり 30歳 2800石)の下屋敷の北端を200坪借りうけ、生垣で仕切り、個室が5部屋と炊事場と共用の広間の寮が組みあがっていた。

奥の個室にはおが雑司ヶ谷から移ってきた。

参照】2011年7月17日~[天明3年(1783)の暗雲] () () () () 

女中は、紀州の貴志村から2人、おの信州・佐久から2人、いずれも、17歳から20歳前のむすめたちが地元から推薦され、入寮した。

選抜の基準は、見栄(みば)えもだが、むしろに機転に重きがおかれたらしかった。

女中師範のおは、これまでいた通いの女中4人に新人4人をまぜて4人ずつの2組をつくり、一つの組の頭に奈々をあて、もう一つの頭に自分がおさまった。

2組のうちの昼組にあたった者は、五ッ(午前8時)に揃い、掃除・水かけして四ッ(午前10時)から八ッ半(午後3時)まで客室に奉仕、晩組は八ッ半に出てきて身づくろいをととのえ、六ッ半(午後7時)からあと片付け。

それぞれ、出までに湯屋と髪結いをすませておくこと、きれいな下着を身につけることをいいわたされた。

寮へ入ったむすめたちは、決まった男のほかは部屋へ入れない、とくに客はいれないことを誓わされた。
誓わされても、田舎からでてきたばかりで、きまった男がいるはずはなかったから、むすめたちは仲間をじろじろ観察しあうだけであった。

は、板場も2組制にし、1組は〔橘屋〕から連れてきた。
浅間山の焼き出しで、〔橘屋〕のような高級な店の入りが減っていたから、忠兵衛としても助かった。

さらにおは、〔季四〕が支堀に面してい、船着場があることを利用し、漁師や畑作り農家かにじかにとどけさせた。
もちろん、彼らがそれまで納めていたそれぞれの問屋へは、5分(5パーセント)の口銭を支払うことで話をつけた。
〔季四〕の食材は新鮮---という評判がほしかっただけであった。

がきてから、〔季四〕は若返えったと、客たちに喜ばれた。
白髪まじりのおと、10代後半の女中たちとの差が目立っただけのことであったが、おとしては、里貴の病床が長引いていることから、すこしでも客の印象をそらすことが狙いであった。

仕入れの代金、女中たちや板場の料理人たちの手当て、寮の経費などをさし引いても、利益は前の倍以上あがった。

里貴は、その半分を、寮生活をしているむすめたちの着物代に差しだすように奈々にいいつけた。
もちろん、奈々の着物代はべつに渡していた。

新しい着物が買ってもらえるとなると、むすめたちの働きぶりは、いちだんと生き生きとしてくる。

化粧(けわい)のあれこれは、お(かつ 43歳)が指南をしている日本橋通り3丁目箔屋町の〔福田屋〕が、ぜったいにほかへ洩らさないことと転売しないことを誓わせてから全品2割5分(25パーセント)引きときめ、おの助手を派遣し、むすめたちそれぞれの顔形に似合った指導をした。
2割5分引いても、下地用の化粧水の使用量が多かったし、座敷でおんな客に店名をいわせたから、〔福田屋〕に損はなかった。

しばらくすると、地元の永代寺門前仲町の〔紅屋〕が、〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代理の雄太(ゆうた 49歳)を通し、女中衆の半分でも、うちの店の品を使ってくれといってきた。
雄太のところの〔化粧(けわい)指南読みうり〕のお披露目枠を定買いしている〔紅屋〕のことなので、そうした。

が、すぐに、女中衆が口づたえのお披露目につかえることを元締衆につたえ、化粧品と衣類と甘いもののお披露目料をきめた。
座敷での披露目料の半分は女中衆へ渡したので、おんなたちも張り切ったが、訊かれるまでこちらからは話題にしないという決めを、女中たちに約束させなければならなかっただけ、手間であった。

しかし、効果は目に見えてあがった。
それには〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)の風聞かわら板が大きくものを言った。
紋次は、おのためになればと、提灯記事を書いただけなのだが---。

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2011.08.08

辰蔵のいい分(11)

(たっ)はん。目ぇ、さましぃ---」
遠いところから呼びかけられたような気がし、辰蔵(たつぞう 14歳)は意識をもどした。

ずきんをとって剃りあげた青い頭の月輪尼(がちりんに 22歳)の瓜実形のととのった顔が見下ろしていた。
「御師(おんし)---」
(ゆき)と呼ぶ約束やったんおへん?」
澄んだ目がゆっくりと微笑んだ。

「あれは、夢の中での約束では---?」
はんだけに洩らした、仏門に入れてもらう前の名ぁでおます」
「すると、、ゆき---と呼びかけたのは---?」
「はい、きちんとうけとめてたん、裸躰が応えてましたやろ」
「夢ではなかった---」

なんとなく月輪尼から艶っぽい感じをうけた。
比丘尼の略装である.白っぽい中根衣(なかねげ)に、桜色の腰巻をまいているからだとわかった。

月輪---さま。腰巻が色っぽい」
「ときとどき、おんなに戻りとうなるときがおますねん。そないなとき、巻いてみたりして---」
「おんなに戻る---?」
はんみたいな、可愛らしい子に出会うたとき---」

の唇が招く形に丸まり、両手をひろげた。

辰蔵がとびこむと、抱いたまま倒れた。
帯をはずしていた辰蔵の前はひらききっていた。

「よそにいうたら、あきまへんえ」


辰蔵の顔つきが変わりました」
遅く帰ってき、すぐに床へ入った平蔵(へいぞう 38歳)の左横へ、黙ってすべりこんだ久栄(ひさえ 31歳)が、脚をからませ、甘えた。

「どう変わった---?」
「1年前の明るさが戻り、さらに、これまで感じなかった男っぽさが匂うようになりました」
「おんなでもつくったかな---?」
「難儀なおなごでなければよろしいのですが---」

朝まで、久栄は自分の寝所へ引きあげなかった。

翌朝。

鉄条入りの木刀の振っていた辰蔵の脇へあらわれた平蔵が、
布施十兵衛良知 よしのり 41歳 300俵)のご息女---なんというたかな---?」
丹而(にじ 13歳)どのですか---」
振る腕もとめずに応えた。

「そうじゃ、その丹而どのに、婿が内定したそうじゃ」
「それは、重畳---」
「それがな、おぬしと同い年の14歳での---」
「別におかしくはございませぬが---」
あいかわらず、腕はとまらない。

「まあ、婿入りは3年先になるそうじゃが---」
「拙には、なんのかかわりもございませぬ」
父親を無視して振りつづけた。

(これは、間違いなく、新しいおんなができておる。奈々(なな 16歳)熱も冷(さ)めたらしいな)

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2011.08.07

辰蔵のいい分(10)

つぎの施療は7日あとと告げられていた。

府内の辻番所をまわりながら、耳の奥では、月輪尼(がちりんに 23歳)---いや、いまでは(ゆき)の俗名で呼びかけているおんなの読経が聞こえていた。

[かくのごとく我れ聞く(如是我聞)
------------]

[-----------
母の恩を討論するに旱天(こうてん)きわまりなし。
嗚呼(ああ)慈母いかんが報ずべき。
もし孝順(じじゅん)慈孝(じこう)の子あり。
よく父母のために福をなし経を造(つく)り。
あるいは七月十五日、僧(ぞう)自恣(じし)の日をもって、
よく仏盤、および盂蘭盆(うらぼん)を造りて、
仏および僧に献ずれば、
果を得ること無量にして、よく父母の恩に報ず。

-------------
-------------]

(そういえば、比丘尼(びくに)---(ゆき)どのへの施療代はまだ払っていない)

辰蔵(たつぞう 14歳)は、いい口実ができたとばかりに大塚の護持院へ向いかけ、あわてて紙入れをあらためた。

辻番所めぐりを命じられて20日ばかりしか経っていず、紙入れには3朱(3万円)と小銭がいくばくかしかのこっていなかった。
これでも、ずいぶん節約してきたつもりであった。

昼飯は屋敷から握り飯、茶は今戸の元締・〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 36歳)が、
「お父上に、ひとかたならぬ恩義のある者たちですから、若さまがお顔をお見せになれば、みんな、大喜びでもてなしましょう」
巡回の途中に訪問してみると、どこの元締も歓待してくれ、中には酒を出すところさえあった。


蓮華院に月輪尼(がちりんに)の庵を訪うと、先客の30すぎの女が2人い、ちょうど施療がおわったところらしく、例の部屋から敬尼(よしあま)と患い人がでてきたところであった。

25歳前後とおぼしい「患い」人のほうは、上気したようにふらついた足取りで礼をいい、帰っていった。

辰蔵に目をとめた尼は笑顔を殺し、
「寺院の前の富士見坂をのぼりきる手前に〔高瀬川〕いう京菓子だしてる茶店がおますねん。あしこで小半刻(30分)ほどつぶしておくれやすか。付けはうちへ、いうとくれやす」


富士見坂と名づけられているだけに坂上の真正面に、初冬の青空に雪を冠している霊峰がのぞめた。

見とれながら、1年ほど前の東海道の旅の原宿あたりの風景がよみがかえった。

14
(広重 『東海道五十三次』 原宿)


つづいて嶋田宿でのお小夜(さよ 22歳=当時)が櫓炬燵に寝、手鏡に秘部を映させている図が浮かんだが、憤りはきれいに消えていることに驚いた。

〔高瀬川〕ののれんを分けようとしとして、店内から出てきたおんなが人相絵のお賀茂(かも 46歳)によく似ているので、はっとしたが小半刻を庵主と約束していることでもあり、あきらめるしかなかった。

お茶を給仕している小女に、
「いましがた出て行った大年増は、久しくあっていない親戚の叔母に似ていたようだが、この近くの人か?」
「いいえ。でも、〔高瀬川〕という店名と京菓子がなつかしいとおっしゃり、月餅を6ヶもお求めいただきました」

(しまった、尾行(つ)けて住いをあてれば、父上から1分(ぶ 4万円)、いや、2分はもらえたかもしれない。が、ここで見かけたからには、あたりの辻番所できっと割れるにちがいない。それには、こちらの素性を隠すことだ。みすみす茶代を使うのは腹だたしいが、拙があのおんなことを尋ねたと、小女がしゃべったら元も子なくなる。茶代を庵主に付けてはならぬ)

庵へ戻ってみると、待ち客はいなくなっていた。
はん。施療まであと3ヶ日おます。どないかしぃはりましたんか?」
「施療料をお支払いしていないことをおもいだしました。手元には3朱しか持ち合わせがありませぬ。いかほどかわかれば、あすにでもおとどけいたします」

「けったいや。そんなんは、〔音羽(おとわ)〕の元締はんから、ぎょうさんお預かりしてますんえ。小遣いが足らへんのやったら、預かり金から渡してあげまひょか?」

双方、きょとんとしたおもいでいたが、気がつくと声をあげて笑っていた。

「せっかくやから、施療しまひょ」


[かくのごとく我れ聞く(如是我聞)
------------

父母の恩徳に十種あり、何等(なんら)をか十となす。
一(いつ)に懐担(かいたん)主語の恩。
ニには臨産受苦の恩。
三には生子しょうし)忘憂(ぼうゆう)の恩。

-----------
-----------]

「嶋田宿からのち、女躰の不思議は---?」
「消えたともいえ、さらに深まったともいえます」

「消えたのは---?」
「馬や猫の仕組みと変わらないようだてと---」

「不思議が深まったのは---?」
「違う女躰へ入ったとき、感じがまるで違いました。この違いがなんだったのか、解けませぬ」

「嶋田宿からのち、女躰を抱いた---?」
「はい、4ヶ日前です」

「どこで---?」
「こちらです」

「誰を---?」
女(ゆきじょ)です」

「そのようなおなごきは、この庵にはおらぬが---?」
「いいえ。庵主(あんじゅ)さまの得度前の、現身(うつせみ)の世でのお名とお聞きしました」

「そなたは夢をみておったのではないか---?」
「否。まぼろしではなく、ちゃんと放射しました」

女の玉道へか---?」
「はい。そうおもいます」

「では、女とやらが、いまいちど、添い寝をする。抱いてみよ」

さわさわと衣(ころも)を脱する気配があり、白い裸身の敬女が横に寝た。

辰蔵が腰を抱きよせると、前身をくっつげた。
黒髪のないうなじを支え、口をあわし、舌をさしこむと、まさりぐりに応えた。

辰蔵の指が、小さなた乳頭をなぶると、嘆声がこほれた。
4ヶ日前と異なり、敬女はすべて受身であった。

指で茂みの中が、あふれるほどに潤っていることが感じとれた。
上にまたがり、そこを吸った。
敬女も辰蔵の太棒をくわえた。


[-------------
一生にあゆらゆる、十悪五逆、無間(むけん)の重罪も並びに消滅することを得ん]


『父母恩重(おんじゅう)経』の読経がおわったとき、辰蔵は軽いいびきをたてて眠りこけていた。

月輪尼は、端坐をくずしていなかった。


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2011.08.06

辰蔵のいい分(9)

「不思議です。 御師にお会いした日から、こころが解きはなたれたように、こだわりが薄らぎました」

3日目、辰蔵(たつぞう 14歳)が素直に月輪尼(がちりんに 23歳)に告げた。

独り居のときにだけに尼僧にゆるされる略装の中価衣(なかげね)姿の月輪尼が、柔らかな微笑でうけた。
もちろん辰蔵は、長襦袢のような中価衣の意味は知らない。

「きょうは、あとの施療の人をとってぇへんよって、刻(とき)はぎょうさんおます。ゆっくりまいりまひょ」

先日のように外の光と音が遮断され、まったく2人きりの世界になった次の間には、異様な匂いが満ちていた。
ひと口でいうと、森のなかの獣(けもの)の巣が発する匂いに似ていた。

歌うような「父母恩重(おんじゅう)経の読経がはじまった。

[かくのごとく我れ聞く(如是我聞)。
------------]

[-----------
飢(うゆ)る時、食を須(もち)ふるに母にあらざれば哺(ほ)せず。
喝(かわ)く時、飲(いん)を須(もち)ふるに母にあらざれば乳(iにゅう)せず。
母飢(うゑ)にあたる時も、苦(にが)きを呑んで甘きを吐き、乾(かわ)けるをおして湿(うるほ)へるに就(つ)く父にあらざれば親しからず。
母にあらざれば養なはず]

辰蔵には、月輪尼の声が仏のものに聞こえ、酔っていた。

[----------
-----------]

酔いが心地よくなったとき、
「そなたを天空にまいあがらせた女躰(にょたい)を、うとわしくおもいはじめたのは---?」
「櫓炬燵が並べられた時からです」

「櫓炬燵がどうしたのかな?」
「その上に板の覆いとふとんが載せられ、素ッ裸のおんなは仰臥しました」

「外(とつ)国---唐天竺(からてんじく)では寝台(ねだい)というて、珍しくはない。その寝台を閨(ねや)ごとの小道具として重宝しているそうな」
「おんなを有頂点にするための閨(ねや)ごとの小道具でした」

「おんなは閨ごとの因果として、産む苦しみをさずかっておる。閨ごとの楽しみを、百、千もとめて、どこがおかしい?」
「そのための道具の一つとして、拙が使われました」

「そなたも楽しんだ---?」
「はい。しかし、前夜のほうに、より快楽がありました」

「おんなは陰じゃ---陰を堪能させてこそ、陽の生きがいというものではないのか?」
「------」

「陰がそこに行く」
白い裸身の月輪尼が上にかぶさり、辰蔵のものをみちびいた。
上のままゆっくりと腰をゆすり、やがてうめきはじめた。

「ああ、御師(おんし)---」
(ゆき)です、と呼んで。(たっ)はん、可愛い---」
---::ゆきっ--いい」
---たつゥ--おお、すごいィ」


部屋が明るくなった。
庭側の襖があけられたのだ。

月臨尼がかぶさってきたときの辰蔵も裸で応じていたのに、いいまは帯をはずした着物のままで寝ていた。
着物の裾がいささか乱れてはいたが---。

は、問いかけをはじめるまえと同じ中価衣の姿で端坐していたものの、顔の桜色が鎮まっていなかった。

起き上がろうとすると、月臨尼がはさみ紙を手渡し、
「おことのものをようく、ぬぐっておおきなさい」

下帯は汚れていた。

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2011.08.05

辰蔵のいい分(8)

「それは、月輪尼(がちりんに)さまへお引きあわせかるのが良策とおもう」
二代目〔木賊(とぐさ)〕の今助(いますけ 36歳)から相談をもちかけられた〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 57歳)が、たちどころにすすめた。
月輪尼さま---?」
「大塚の護持院に庵をお結びになられている庵主(あんじゅ)さまでしてな。ご法話でこころの病いをおなおしになると、たいそうな評判です」

394_360
大塚 護持院 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


このような経緯(いきさつ)で、辰蔵(たつぞう 14歳)は月輪尼の施療をうけることになった。
初日は、重右衛門がつきそった。

月輪尼は20歳前のむすめのように若く見え、みずみずしく張りきった白い肌と澄んだ瞳の尼僧であった。
じつは、23歳であった。
19歳で受戒(じゅかい)し、庵主となって1年と経っていない。


ちゅうすけ注:平蔵(へいぞう 38歳)であったら、誠心院(じょうしんいん)の庵主・貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)の輪廻(りんね)かと驚いたろう)

辰蔵はむろん、平蔵貞妙尼の破戒の過去はしらない。

参照】20091011~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] () () () () () () (

父と親しい〔音羽〕の元締から、京都のさるお公卿(くぎょう)さまの姫であったお人とだけ聞かされていたから、
(さすがに穢れのない美しいお方だな。面影がどこか奈々(なな 16歳)どのに似ておる)

辰蔵は気づいていたかどうか、若年増のすまし顔に、胸中でひそかに投げつけていた、
(あのときには夜叉に化けるくせに---)
罵声が湧いてこなかった。

辰蔵だけがのこると、つづきの間の厚い床布団が敷かれた部屋へみちびかれ、行灯を点(とも)すと襖をしめ、外からの明かりを断った。

「だれも聞いてぇやおまへん。袴とり、帯はずし、横になり、おくつろぎやす」
澄んだ鈴のような声であった。

不審顔ながら、指示どおりに仰向けに転がると、
「喉が乾きはっら枕元の水で潤しやす。眠(ね)てもうたかてかめしまへん。おもいつくまま応えはったらよろし」

歌うように「父母恩重(おんじゅう)経」が読経された。

[かくのごとく我れ聞く(如是我聞)
------------]

辰蔵には、天空から降ってくる天女のささやきのようにおもえた。

[------------
仏の言(のたま)わく、ひと生まれて世にある、父母(ちちはは)を親となす。
父にあらざれば生まれず。母にあらざれば育たず。
これをもって母胎(もたい)に寄託して懐娠すること10月(じゅうがつ)、歳(とし)満ち月充(み)ちて憂愁(うしゅう)してともに啼(な)く。

生まれて草上(そうじょう)に堕(おつ)れば父母養育して闌車(らんしゃ)に臥(ふ)せ着(つ)く。
父母懐抱(かいほう)して和々(わわ)として声を弄(ろう)するに、笑(わらい)を含んで、いまだ語(ものい)はず。
--------------
--------------]

辰蔵は、躰が浮きあがり、宙をただよっている気分であった。

「そなたが、女躰(にょたい)に親しんだのは、幾歳のときであったかの?」
仏に訊かれた気分で、
「13歳でした」

「始まりは?」
「汗を流せとすすめ、湯殿へ導かれました---」

「そなたのものがその気を示したのであろう?」
「むこうも湯文字をはずしましたゆえ---そのようになりました」

「初めてのそなた、よくも玉門がくぐれれたの」
「むこうの案内にしたがってくぐりました」

「そのものの名は---?」
「お小夜(さよ)」

「齢は--?」
「22歳とか」

天の声が、かすかに、
「---ふう」
ため息を洩らしたようであった。

「どのようなものであったかの?」
「それが、よくはわからないのです。なにも教えてくれなかったのです」

「きょうは、これまで---」
奥側の襖が開かれ、次の間の障子が中庭の光りを映していた。

「いかが? 3日後にも法会をうけはりますかの?」
にこやかに訊かれた。
「ぜひ。なにやら、気が軽くなりました」


参照】[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

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2011.08.04

辰蔵のいい分(7)

内輪の顔合わせ---が昼食の理由(わけ)であったが、膳がととのい、箸をとるとすぐに、今助(いますけ 36歳)が呼ばれて席をはずした。

小浪(こなみ 44歳)だけが話し相手であったが、30歳もの齢のへだたりを辰蔵(たつぞう 14歳)に感じさせなかったのは、問いかけるばかりで、小浪のほうから話題を持ちださなかったからであった。
問いかけも、平蔵(へいぞう 38歳)の日常についてのことにかぎられていたから、辰蔵のほうもとぎれることなく応えられた。

〔季四〕のことには、まったく触れなかった。

その小浪も呼ばれ、辰蔵だけがのこされ、所在なさに料理をついばんでいると、2人そろって戻ってきた。

「若さまがお尋ねの〔荒神こうじん)〕の助太郎夫婦(めおと)の件は手前どもも、長谷川のお殿さまからおうかがいしておりやす。こうなったら、若さまと手を組んで参りやす。江戸の元締衆がお手伝いいたしやすから、気易くお声をおかけになってくだせえ」
言葉づかいはぞんざいだが、辰蔵は誠意を感じとった。

で、つい、奈々(なな 16歳)のゆくえを探してもいると打ちあけてしまった。
今助夫妻がうなずき、目とをかわしあったのを辰蔵は承知と誤解してしまった。

先刻、松造(よしぞう 32歳)の名をだしたとき、今助が席をはずしたことを辰蔵は気にもとめていなかったが、今助はすぐに遣いを御厩河岸の〔三文(さんもん)茶房〕へ平蔵の真意を訊せにやっていたのであった。

そして、辰蔵が13歳のおわりに嶋田宿で男の仲間入りをしながら不機嫌になったこと、奈々里貴(りき 39歳)の跡継ぎとして紀州から呼ばれていること、その里貴が病いに倒れたことを知った。

奈々をあきらめさせるために辰蔵に〔荒神〕の助太郎索(さが)しをあてがったらしいと推測がついた。

小浪の提案は、奈々に代わるおんなをちらつかせることであったが、さて、長谷川の家名に傷がつかず、後をひかない相手となると、とっさにはおもいつかなかった。

食後のお茶をすすめながら、それとなく嶋田宿のことを話題にのせてみた。
小浪は、現役(いきばたらき)だったとき、本通りの袋物の〔四条屋〕へ引きこみに入っていたから、本陣〔中尾(置塩)〕のまわりの地理も記憶していた。

辰蔵を男にしたお小夜(さよ 22歳)というおんなの家の所在は訊きだしたが、さらには立ち入らなかった。

「おんなは突然、天女から夜叉に変身するので信じられない」
辰蔵が女性観を口にしたとき、小浪は、
「だからこそ、男がいばっている荒海をわたっていけるのですよ」
笑いでごまかして、辰蔵の一本気を軽くいなした。

長谷川の殿さまとは先代からのお付きあいだから、ここをご自分の家とおもい、いつなりと、茶なり食事に立ち寄ってほしいとの言葉で辰蔵を送りだしたあとの今助夫婦の会話。

辰蔵ぼん、お小夜はんにどないな色事を教えられはったんやろ?」
「よほどにこたえたらしいな。天女から夜叉---」
「あのことでこころに傷うけるのんは、おなごにきまってや、おもうてましたん---」
小浪が男たちから受けた仕打ちを聞かされ、わしが立ちなおらせてみせると力んだ---」

参照】20081219[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」]
 (

「おかしゅうおもいましてんけど---」
「抱いたら、こんなにいいものかと、うわごとを洩らしていた」
「ほんま、そないどしたんどすえ」

「このお人、芯からやさしゅう扱うてくれてはる---そやよってに、うちかて芯から感じてしもうたんどす」
「照れるから、もう、いうな。それより、長谷川さまの若のこころをいやしてあけられるおんなはいないものか」
「〔音羽(おとわ)〕の元締はんに相談してみィはったらどないどす?」

参照】2008年10月28日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] () (2) (3) (4) (5) (6) (7)

2010年8月19日~茶店〔小浪〕の女将・小浪 (イ) (ロ) (ハ) (ニ) (ホ) (へ)


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2011.08.03

辰蔵のいい分(6)

「父上が、なにゆえに、このような仕事を私に押しつけられたのか、納得がいかない」
辰蔵(たつぞう 14歳)のぼやきの聞き役をつとめているのは、松造(よしぞう 32歳)であった。
10歳年上の女房・お(くめ 42歳)が、かつての上司・里貴(りき 39歳)が全快するまでの約束で茶寮〔季四〕の女将代理というか女中頭として行っているので、御米蔵の北の三好町・御厩河岸の〔三文(さんもん)茶房〕の臨時亭主を勤めている。

看板むすめとはいえ、16歳のお(つう)にはおの代わりは、まだ荷が重いとみた平蔵(へいぞう 38歳)が決断したのであった。

市中の辻番所へ〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう 65歳=推測)の似顔絵をみせてまわっている辰蔵とすれば、途中で一休みしてくつろげるのは、いまのところ、
長谷川家の家士に昇格している松造の茶房と、神楽坂上・善国寺毘沙門堂前の茶店しかなかった。

まわり始めて、まだ5日であった。
5日で1朱(1万円)fは、1日あたり250文(2000円)だから、美人をそろえている割高な並び茶店へは入れなかった。
もちろん、昼の握り飯は屋敷の女中につくらせ、昼飯代はうかせていた。

「若。ここから近い今戸橋ぎわの料亭〔銀波楼〕の今助(いますけ 36歳)元締はご存じですか?」
「そういえば、いちど、奥方と屋敷へ年詞にきたことがあった---」
「訪ねてごらんなさいまし。きっと収穫がございますよ。それから、両国広小路では読みうり屋の紋次(もんじ 40歳)兄ぃ。ほかにも、ところところの顔ききの衆を書き出しおきますから、お帰りのときにお寄りください。

松造もおも、辰蔵奈々(なな 16歳)との経緯(いきさつ)を聞かされていたので、まったく触れなかった。


大川沿いの道を北へ15丁ばかりで、山谷堀(さんやぼり)に架かっている今戸橋であった。
山谷堀の南土手が日本堤(にほんづつみ)で、新吉原の大門(おおもん)へ通じていることは、塾仲間の雑話で辰蔵も聞きかじっていたが、目にしたのは初めてであった。

新吉原の性戯に長けた遊女たちは、いまの辰蔵には興味がなかった。
嶋田宿の2日目にお小夜(さよ 22歳)がみせた地獄のような快楽の反動から、奈々(なな 16歳)の青々しさに参っていたのだ。

〔銀波楼〕で女中に、南本所三ッ目の通りに屋敷がある長谷川と告げただけで、女将の小浪(こなみ 44歳)が微笑とともにあらわれた。
齢はいっているが、年齢を感じさせない不思議な女性(にょしょう)だなとおもっているうちに、大川が見わたせる部屋へ案内され、いささかびびった。

「あの、御厩河岸の茶店の松造(どのをつけるかどうかで一瞬迷い)どのに紹介されて---」
口ごもると、
「あれ。松造はん、お屋敷を退(ひ)きはりましたんどすか?」
適当にあいの手をはさみながら、女中になにやら指示をしていた。

松造が〔三文(さかもん)茶房〕にいるわけを説明すると、あそこはこの〔銀波楼〕の持物で、自分がおんな主人であったが、おさんに売ったのだとか打ちあけているあいだに、元締の今助があらわれた。

「若さま、ようこそお運びくださいました。して、ご用の筋は---?」
父親から強制された用件を応えると、うなずきながら小波と目をかわし、
「お昼でも、ゆっくりと召しあがっていてください」
席を立った。

「あの、そのようなつもりでは---」
懐勘定をしてうろたえた辰蔵に、
「若はん。おこころづかいはいらしまへん。きょうは内輪のお顔あわせゆうことですよって---」

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2011.08.02

辰蔵のいい分(5)

辰蔵。父を助けてもらいたい。これから申す3つのうちから、そちの好みのものを選べ」
平蔵(へいぞう 38歳)が、久栄(ひさえ 31歳)の同席のもと、嫡男・辰蔵(たつぞう 14歳)に提示した。

一つ 知行地の上総(かずさ)の武射郡(むしゃこおり)寺崎村(てらさき)の長(おさ)・五左衛門の家へ寄宿し、浅間山の焼き出しによるその後の降灰被害の探査。
寺崎村では、長谷川家分の220石分と、酒井作左衛門政共(まさとも 53歳 500石 うち165石)どのの分も見張ること。
山辺郡(やまべこおり)片貝村では長谷川家の180石分のほかに、本間家黒川家石丸家の計580石分にも目をくばる。
酒井家からは応分の手当てがでよう。

一つ ここに、数年前に板木に彫った盗人〔荒神こうじん)〕の助太郎(すけたろう 65歳=推測)とその女房・お賀茂(かも 46歳=同)の似顔絵と人相書がある。
われがいつか対決と決めておる賊である。
季節は中秋、市中巡回にはふさわしい。
府内の辻番所をのこらずまわり、この両人を見かけたかどうか訊く。

一つ 火盗改メ・(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 43歳)さま組の見習いに入れてもらい、市中身廻りを補する。
われもそなたと同じ齢ごろのとき、本多采女紀品(のりただ 50代=当時 2000石)さまにお願いして巡行したものだ。

参照】2008,年2月20日~[銕三郎(てつさぶろう)、初手柄] () () () (

手当ては、どれをえらぼうとも、われが5日に1朱(1万円)の割でわたす。

もちろん、黄鶴塾と弓術の稽古日ははずす。

辰蔵は、平蔵のもくろみどおり、2番をえらんだ。
独りで動けるから自由がきくことと、行方がしれなくなった奈々(なな 16歳)に出会えるかもしれないとの浅知恵からであった---というは、2番をえらぶや、立ち寄った辻番所の認め書きをもらってくるように指定されたので、奈々に出会えそうな本所や深川ばかりを廻るわけにはいかなかったからである。

辰蔵を疲れさせることで、念頭から奈々への執着が霧散しようというが平蔵の読みであった。

平蔵は、弓術の師・布施十兵衛良知(よしのり 40歳 300俵)が、ちかごろ辰蔵の「会(かい 引きわけから放矢までの心身のバランス)」がよくなったと褒めていたから、さらに腕に力をつけるために、鉄条入り木刀の素ぶりを50回ずつ増やすようにいいつけた。

久栄とすると、平蔵のおもわくまでは察知しなかったが、うっとうしい面持ちの辰蔵が屋敷にいないことで心情がなごみ、その分、ほかの子たちにかまけることができた。

疲労で、辰蔵は爆睡がつづき、夢精もまれになった。

平蔵里貴(りき 39歳)の枕頭での看とりもつづいていた。

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2011.08.01

辰蔵のいい分(4)

待っていても相手の唇がこないので、奈々(なな 16歳)は薄目で、平蔵(へいぞう 38歳)をうかがった。

奈々の両肩をつかんだままの平蔵は、あらわになっている奈々の両の乳房に目をすえていた。
光を透すほどに青白かったふくらみは、ほんのりと淡い桜色に染まりはじめていた。
(昂まりはじめたときの里貴もこうだ。なぜだ? なぶっても、挿(い)れてもいないのに---)

奈々---」
閨(ねや)でのささやきのように呼びかけた。
「あい---」
ひらかれた両眸(りょうめ)は、躰の発火を映したように潤(うる)んでいた。

「おことは、里貴の跡継ぎだ」
「あい---」
「あれ以上の女性(にょしょう)にならねばならない」
「あい---」
「われは、そなたはそれだけの玉だと見ておる」
「う、れ、しい」
「玉は磨かねば輝かない」
「? ---おじさまが磨いて」
「いや。男とおんなのあいだのことではなく、おなごとしての品格のことだ」
「品格---?」
「風格といいかえてもいい。それをそなたはいま、於(よし)お婆(ばば)から学んでいる」
「あそこには、もう、通われへん。辰蔵さまが知ってます」
「だから、お婆に〔季四〕へ来てもらう。権七(ごんしち 51歳)のところのお島(しま 19歳)も、お(くめ 42歳)のむすめのお(つう 16歳)も同門だ」

は、仮りの座敷女中として〔季四〕を手伝っていた。

むすめ同士、競いあえば、伸びもすすむというものだ。

ささやきの対話を終えたとき、腰丈の寝衣からかもでている首筋から頬のあたり、乳房、片膝立てた太腿(ふともも)の向うずねも紅潮しきっていた。

(三歩退(ひ)き、一歩出る)
突然、高杉銀平師の声が降ってきたのには、苦笑した。
高杉先生。いまの場合、五歩退くことはあっても、一歩出ることはありませぬ)

参照】2009年11月17日~[三歩、退(ひ)け、一歩出よ。] ( f="http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/11/post-2274.html">1) () (

このまま突きはなすのは可哀そうとおもったし、男としては心残りでもあったが、
「聞きわけてくれてうれしい。ゆっくり、寝(やす)むがよい」

階段をおりると、暗がりの中で看護のお(せん 24歳)が立っていた。
「お部屋の方がお待ちです」

病床へ座ると、か細く、
奈々がご厄介をおかけしたようで---」
「案ずることではない。辰蔵が待ち伏せて奈々を口説いたそうなので、礼法の手習い教場を店開け前の〔季四〕に変えることにした」
「---よろしゅうに---.」
平蔵の掌をにぎった腕の力は弱々しかった。

秋虫の鳴き音だけがしとどであった。


ちゅうすけ記】奈々の紀州・貴志村ことばは、和歌山出身のアートディレクター・北山隆弘さんの指導をうけています。

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