蓮華院の月輪尼(がちりんに)(5)
翌日。
「松造(よしぞう 33歳)。休仕届けを牟礼(むれい 郷右衛門勝孟 かつたけ 64歳)与(くみ 組)頭へ差し出してきてくれ。われは火急の用で多紀(安長元簡 もとやす 29歳)どのと面談したいことが出来(し(ったい)した」
里貴(りき 39歳)の容態が急変でもしたのかと心配顔の松造に、頭(こうべ)をふってそうではないことを伝えた。
なにごとかと構え顔の多紀元簡は、病人の回復遅々てしてすすまないことを通りいっぺんに詫びたあと、口ごもりながら、
「薬は万端のはずですが、どうも、病巣がわからないのです」
「お専(せん 24歳)どのには、昼夜をわかたずに看護いただき、感謝の言葉もありませぬ」
「お気づかいくださるな。あれも、気持ちよくつとめさせていただいているというております」
元簡が初日に処方した薬草の品書きを見分した表番医・中村立泉(りゅうせん 69歳)は、おれが診(み)ても同じ処方になるとの言辞をもらったことは、明かしていない。
医師としての元簡の衿持(きょうじ)を傷つけるとおもったからであった。
平蔵(へいぞう 38歳)としては、里貴の病状は口実で、お専の辞職の事前封じの訪問であった。
躋寿館(せいじゅかん)のある神田佐久間町を出ると、和泉橋詰から舟を雇い、神田川をさかのぼって江戸川の江戸川橋詰まで揺られた。
江戸川橋から護国寺まで音羽(おとわ)町を9丁北行し、東へ折れると富士見坂下が護持院であった。
庵主(あんじゅ)・月輪尼(がちりんに 23歳)は、まるで待っていたように柔和な笑顔で迎えた。
「昨日、申しわすれたことがござって---」
「なんでおます---?」
「昨日、比丘尼どのは和州・長谷寺で修験されたと申されました」
「あい。長谷川家のご先祖が数代、旦那をおつとめどした」
「ご承知でしたか?」
「ご支族がいまでも旦那をおつとめどす」
「深い縁(えにし)を感じます」
「ほんに---」
「ところが、わが先祖は、初瀬(はつせ)村を出て三河へ移り住んでより、誰ひとり、尋ねた者がおりませぬ」
長谷寺は初瀬(はせ)山(548m)の中腹にあること。
観音信仰に篤い都の公家の信仰参詣が多いこと。
とりわけ、女性の参詣人が多いこと。
それゆえ、受戒を長谷寺で受けたこと。
古い文書には、初瀬川渓谷の北側が泊瀬(はつせ)の里とも記録されているが、いまは「はせ」と呼んでいること。
たぶん、最初の瀬のあたりだったからであろう。
村をでていった長谷川家が「はつせ」と語りつたえているのは、それだけ早くに次の栄誉を求めた進取の気性にとんだ氏族であった証拠であること。
細長く深い渓谷だから、初瀬に、陰口(こもりく)という地名のあること。
土形(ひぢかたの)娘子(をとめ)を泊瀬山に火葬(やきはぶ)る時、柿本人朝臣人麿の作る歌
陰口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ
「御師。豚児に初瀬を訪れさてみようとおもうのですが---」
「40日の旅になりょうりますなあ。それに、いまからやと、正月がかかりますえ」
「年があけると、15歳、元服となります」
「うちは、24歳や」
「来年は40歳になるおなごが伏せっております。ついでのおりにご祈祷いただけましょうか?」
「おつとめしまひょ」
平蔵が紙包をすべらせた。
2両(32万円)包まれていた。
比丘尼は軽く会釈し、紙包のまま、小さな沙弥壇(しゃみ)へ奉納し、念仏を唱えた。
| 固定リンク
「079銕三郎・平蔵とおんなたち」カテゴリの記事
- 与詩(よし)を迎えに(39)(2008.02.02)
- 本陣・〔中尾〕の若女将お三津(3)(2011.05.08)
- 日信尼の煩悩(2011.01.21)
- 貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)(8)(2009.10.26)
- 蓮華院の月輪尼(がちりんに)(6)(2011.08.15)
コメント
月輪尼と長谷川家が初瀬でめでたくつながりました。
>陰口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ
万葉まで登場。
投稿: kayo | 2011.08.14 06:26
月輪尼は京の公卿の家の育ちですから、万葉や新古今の心得もあるのですね。辰蔵にはもったいないくらいの相手ですが、敬尼に接することにより、セックスもですが、礼法に磨きがかかりました。
将軍・家斉の御納戸になったのも人品が月輪尼との接触で磨かれたためかもしれません。
投稿: ちゅうすけ | 2011.08.14 07:44