女中師範役のお栄(えい)
「女将さん。お栄(えい)と申します。老いぼれではございますが、雑司ヶ谷の〔橘屋〕さんでの25年があいだに身につけたものの中で、〔季四〕さんにふさわしいことを新しい女中衆にしつけていこうとおもっております。どうか、ごゆっくりご静養くださいませ」
亀久町の病間で、臨時女中頭のお粂(くめ 43歳)、奈々(なな 16歳)も同席のところで、お栄(51歳)が白髪まじりの頭をさげた。
平蔵(へいぞう 38歳)が〔橘屋〕忠兵衛(2代目 40がらみ)に頼みこみ、半年の約束でお栄を借りうけた。
裏が接している旗本・水野万之助忠候(ただもり 30歳 2800石)の下屋敷の北端を200坪借りうけ、生垣で仕切り、個室が5部屋と炊事場と共用の広間の寮が組みあがっていた。
奥の個室にはお栄が雑司ヶ谷から移ってきた。
【参照】2011年7月17日~[天明3年(1783)の暗雲] (5) (6) (7) (8)
女中は、紀州の貴志村から2人、お栄の信州・佐久から2人、いずれも、17歳から20歳前のむすめたちが地元から推薦され、入寮した。
選抜の基準は、見栄(みば)えもだが、むしろに機転に重きがおかれたらしかった。
女中師範のお栄は、これまでいた通いの女中4人に新人4人をまぜて4人ずつの2組をつくり、一つの組の頭に奈々をあて、もう一つの頭に自分がおさまった。
2組のうちの昼組にあたった者は、五ッ(午前8時)に揃い、掃除・水かけして四ッ(午前10時)から八ッ半(午後3時)まで客室に奉仕、晩組は八ッ半に出てきて身づくろいをととのえ、六ッ半(午後7時)からあと片付け。
それぞれ、出までに湯屋と髪結いをすませておくこと、きれいな下着を身につけることをいいわたされた。
寮へ入ったむすめたちは、決まった男のほかは部屋へ入れない、とくに客はいれないことを誓わされた。
誓わされても、田舎からでてきたばかりで、きまった男がいるはずはなかったから、むすめたちは仲間をじろじろ観察しあうだけであった。
お栄は、板場も2組制にし、1組は〔橘屋〕から連れてきた。
浅間山の焼き出しで、〔橘屋〕のような高級な店の入りが減っていたから、忠兵衛としても助かった。
さらにお栄は、〔季四〕が支堀に面してい、船着場があることを利用し、漁師や畑作り農家かにじかにとどけさせた。
もちろん、彼らがそれまで納めていたそれぞれの問屋へは、5分(5パーセント)の口銭を支払うことで話をつけた。
〔季四〕の食材は新鮮---という評判がほしかっただけであった。
お栄がきてから、〔季四〕は若返えったと、客たちに喜ばれた。
白髪まじりのお栄と、10代後半の女中たちとの差が目立っただけのことであったが、お栄としては、里貴の病床が長引いていることから、すこしでも客の印象をそらすことが狙いであった。
仕入れの代金、女中たちや板場の料理人たちの手当て、寮の経費などをさし引いても、利益は前の倍以上あがった。
里貴は、その半分を、寮生活をしているむすめたちの着物代に差しだすように奈々にいいつけた。
もちろん、奈々の着物代はべつに渡していた。
新しい着物が買ってもらえるとなると、むすめたちの働きぶりは、いちだんと生き生きとしてくる。
化粧(けわい)のあれこれは、お勝(かつ 43歳)が指南をしている日本橋通り3丁目箔屋町の〔福田屋〕が、ぜったいにほかへ洩らさないことと転売しないことを誓わせてから全品2割5分(25パーセント)引きときめ、お勝の助手を派遣し、むすめたちそれぞれの顔形に似合った指導をした。
2割5分引いても、下地用の化粧水の使用量が多かったし、座敷でおんな客に店名をいわせたから、〔福田屋〕に損はなかった。
しばらくすると、地元の永代寺門前仲町の〔紅屋〕が、〔丸太橋(まるたばし)〕の元締代理の雄太(ゆうた 49歳)を通し、女中衆の半分でも、うちの店の品を使ってくれといってきた。
雄太のところの〔化粧(けわい)指南読みうり〕のお披露目枠を定買いしている〔紅屋〕のことなので、そうした。
が、すぐに、女中衆が口づたえのお披露目につかえることを元締衆につたえ、化粧品と衣類と甘いもののお披露目料をきめた。
座敷での披露目料の半分は女中衆へ渡したので、おんなたちも張り切ったが、訊かれるまでこちらからは話題にしないという決めを、女中たちに約束させなければならなかっただけ、手間であった。
しかし、効果は目に見えてあがった。
それには〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)の風聞かわら板が大きくものを言った。
紋次は、お勝のためになればと、提灯記事を書いただけなのだが---。
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コメント
里貴の危機に、さっとお栄を手あてするあたりの平蔵さんのお手並みは、とても武士とは思えない。権七や元締たちと親しくつきあって世間がわかっている証拠です。幕府がこの平蔵さんに火盗改として目をつけなかったらどうかしています。
投稿: 左衛門佐 | 2011.08.09 05:40
>左衛門佐 さん
そうなんです、火盗改メになった平蔵が密貞を使っていたことは、政敵・森山源五郎孝盛がちゃんと書き残しているから間違いないところです。
しかし、その思いつきはどこから来たかということを考えると、突然思いついたわけではないでしょう。
継母のいじめで20代にぐれていたというのは、池波さんの創作です。
だって史実では、継母・波津は銕三郎が5歳のときに病死しているのですから、継子いじめなんて、あるわけがないのです。
とすると、別の要因があったはず---で、経済という観点から〔化粧(けわい)指南読みうり〕を考えつきました。元締たちに仮店からのあがりばかりでなく、風評と広告でかせぐことを教えました。
平蔵の側からいうと、彼らがつかんくる情報が業務に役立つ---というわけ。
そのネットをもっとひろげるために、なにをしたか、いま、考察しているところです。
投稿: ちゅうすけ | 2011.08.09 12:52