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2011年9月の記事

2011.09.30

西丸・徒(かち)3の組(2)

「これはひどいな---」
つぶやいた平蔵(へいぞう 40歳)は、黄ばんだ藁半紙に記された身上書を、与(くみ 組とも書く)頭の一人である真野半兵衛(はんべえ 45歳)へわたした。
「おぬしの班の者であろう?」

{あ---飯野六平太(32歳)---このあいだの集りに不参だった徒士(もの)の一人です」
「身上書を届けてきただけでも、えらいッ!」
「はッ---」

「いや、われが手落ちであった」
「は---?」
「未提出は何人かの?」
「3人です」
「たぶん、認(したた)めるべき紙がないのであろう。表祐筆のところで貰い、今宵にでも自宅へ届けてやれ。祐筆のお頭にはわれが話を通しておく」
「はッ」

徒士・飯野六平太の家庭は、老父母、当人夫妻、長男(11歳)をあたまに男子2人に女子1人、奉公人なし。
内職は、老父が刀の柄の糸巻き、当人と妻が提灯づくりに、広くもない組屋敷をあてていた。

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(徒士衆の内職・提灯張り 『風俗画報』 塗り絵師:ちゅうすけ)


借金は寝こんでいる老母のためで、蔵宿の〔伊勢屋次郎兵衛のところに38両(608j万円)、その上この夏(5月)、秋(9月)の切り米札まで抵当に入れていた。

(またも、〔伊勢屋次郎兵衛の奥印金(おくいんきん)にひっかかったな。長野佐左(さざ)のところの分は証文を書き換えたと聴いておるが、われの組の3家は頬かむりするつもりらしい。これは懲らしめないと---)

提出された27通の身上書のうちで、〔伊勢屋〕次郎兵衛の札旦那で、金を借りている家が、飯野六平太のほかに2人いた。
22両(352万円)と18両(288万円)、3家あわせると78両(1,248万円)になった。
(こいつは、荒療治になるな)

もちろん、ほかの蔵宿にわかれて10家ばかりが前借りをしていたが、夏の給米で清算できるほどの少額で、きまりどおりの利率(年利1割5分)で借りているらしかった。


下城の時、松造(よしぞう 33歳)を新大橋の西詰で解放し、家へたどりつく前にちょっと足をのばし、諏訪町の蔵宿〔東金(とうがね)清兵衛(せえべえ 40歳前)のところへ言伝(ことづて)させた。
松造の住いは、蔵前通りから西へ入った榧(かや)寺(正覚寺)裏であった。

翌くる朝の出仕のおり、〔東金屋清兵衛の返事がきけた。
「お待ち申しております」

平蔵が〔東金屋〕へ持ちかけた相談ごとは2つあった。
西丸・徒の3の組30家の蔵宿を一手に引きうけてくれないか。
そのときには、夏の給米を担保の形で前借している10人の借金を肩代わりしてもらいたい。

難儀なのは、〔伊勢屋〕次郎兵衛から借りている3人の78両(1,248万円)だが、次郎兵衛に、もういちど、奥印金をはずし、お上がきめた利率に証文を書きなおすように忠告してもらいたい。
「もし、拒んだら、次の手で懲らしめるが---」

参照】2011年9月21日~[札差・東金屋清兵衛] () () () (

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2011.09.29

西丸・徒(かち)3の組

その日。

「これだけか---?」
五ッ(午前8時)をまわって、平蔵(へいぞう 40歳)がつぶやいた。

西丸・徒(かち)3の組は、30人全員が内堀の南西端に立つ伏見二重櫓下の広間に集まることになっていたのであった。

ところが定刻になっても6人が顔を見せなかった。
2人の与(くみ)頭のうち、齢かさのほうの黒石六右衛門(49歳)が、いいにくそうに、
「組内に悪い風邪がはやっておりまして---」

にやりと笑みをこぼした平蔵が、
「おおかた、蔵前(くらまえ)あたりで感染(うつ)された風邪であろうよ」
しかし、徒士衆は笑わなかった。

徒士衆の俸給は70俵5人扶持---平常時であれば、廩米1俵(3斗5升入り)は知行地の1石に相当するといわれ、1石は1両(16万円)に見積もって、70俵=(16万円×70=1,120万円)。

5人扶持の1人扶持は、1日あたり玄米5合だから、5合×5人×365日=9.125合

9石1斗2升5合。
これを3斗5升で除すると、26俵。

舂(つ)き減りを15%とみると、ざっと22俵=22両(352万円)
合わせて1,472万円。
御徒町の家は官舎だが、修繕費だけ持てばいい。

5人家族で下男下女を3人雇っていたとして、年1,472万円でやっていけないはずはないとおもうのは現代人の計算であろう。

幕府直轄領内が不作であれば、その減収に応じて支給が減らされることもあったろう。
豊年であれば米価も下がり、1俵16万円より下まわる。

隠居した両親も共棲だから、病人がでれば薬代もばかにならない。
一家3代共棲ですめばいいが、次男3男に養子口がかからなければ居候である。
女の子の嫁入りには持参金をつけなければならない。

なにやかやで、つい、蔵宿から前借りをする。
借金は雪達磨づくりといっしょで、ころがれば太る。

一家で傘張り、提張り、下駄の鼻緒縫い、金魚の飼育や朝顔の栽培の内職は、御徒町の名物であった。

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(徒士衆の内職 傘張り 『風俗画報』 塗り絵師:ちゅうすけ)


「集まってもらったのは、ほかでもない。頭(かしら)として組の徒士衆の実情をつかんでおくのもご奉公のうちである」

扶持をうけた年月日、家族の頭数と年齢と病人の有無、蔵前の札差の店名と借金の金額、やっている内職の種類とおろし元などを提出してくれと頼んだ。

「もちろん、借金の額がわかっても、われが肩代わりすることはできぬが、お上に棒引きの陳情はしてみる。もっともあてにならぬことぐらいは、おのおの方も存じておろう」
この時には、組の徒士衆も力なく笑った。

しかし、平蔵が消えてから、
「なかなかに話がわかっておる、親分だぜ」
「なんだか、あてにできそうだ」

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2011.09.28

駿馬・月魄(つきしろ)(4)

「そういえば、先代さまはこんなこともおっしゃいました」
酒がはいると、梅次(うめじ 36歳)は宣雄(のぶお 享年55歳)の言葉をつぎつぎにおもいだした。

長谷川邸から1丁(100m余)もない菊川橋西詰の酒亭〔ひさご〕である。
奉公人の手前、馬丁の幸吉(こうきち 20歳)やかつて若党だった梅次を客間へあげて呑ますわけにはいかなかった。

{ほう---?」
「馬の命は脚であるが、もっとも傷めやすいのも脚である」
「なるほど---」
「だから、日に3度でも5度でも、脚を診よ。で、いささかでも熱っぽければ、休養させてやれ」
さらに、足首に当て布をまいておいてやると、自分の足で自分の足首をけって傷(いた)めることも防いでやれる。

また、半円に曲がった馬場の馬道を速駆(はやが)けで廻らないこと。
馬の脚の骨は真っすぐの道を走るようにできている、それを速駆けで曲がらせられると、脚の寿命をけずることになる。

「しかし、江戸の馬場はみんな円くj曲がっておる。帰ったら、辰蔵にいいつけておこう」

常足(なみあし)で2丁歩くいたら、つぎの2丁は駆足(かけあし)、常足-駆足-常足-駆足のくりかえしを半刻(はんとき 1時間)近くやらせたら休ませ、水を5口ほど飲ませてやる。山の手では井戸水がよい。

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(高田の馬場 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「父上は、どこでそのような調練法を会得されたのであろう?」
「なんでも、長崎のオランダ人が江戸へきた時に、医師たちにまじってお聴きになったとか、うかがいましたが---」
「そうか、オランダ流か」


月魄は、冬毛から夏毛に着替えたころには、たくましい駿馬になっていた。

非番の日に葛西の牧場へ連れていって放牧した時には、群れのなかでもすぐに一群の主将格におさまっていた。
馬同士、月魄の賢さに一目置いた感じで、平蔵はわがことのように誇らしく、安心して7日間預けた。

戻ってきた月魄に乗った月輪尼(がちりんに 24歳)が、
月魄はん、変わらはりましたね」
「どう、変わりましたか?」
「乗ってて、伝わってきよりますん。あんじょう自信をつけはったいうたらええのやろか、仏道でいうたら、悟らはった、いうのんですやろなあ、澄みきりはりました」
「いまの尼どののお言葉、聞かせてやったら、よろこぶでしょう」
「乗ってて、うちまでうれしゅうなってきよりますん」
(この尼どのの感性は柔らかい。辰蔵が満足させられればいいが---)

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2011.09.27

駿馬・月魄(つきしろ)(3)

桑島。火盗改メに就かれた父上の口とりをしていた若党---なんと申したかな?」
平蔵(へいぞう 40歳)が用人の桑島友之助(とものすけ 53歳)に問いかけた。
「いま、どこで勤めているか、わかるか?」

亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が火盗改メ・助役(すけやく)に指名されたのは、いまから14年前の明和8年(1771)10月17日であった。
その年の麻布十番の馬市で宣雄(41歳=当時)は若駒を求めた。

長谷川家にはじめてきたその牝(めす)馬は、宣雄の亡母の牟祢(むね)からとって小牟祢(こむね)と名づけられた。

宣雄小牟祢にまたがってはじめての夜の見廻りにでかけた時、26歳で出仕前の銕三郎(てつさぶろう)も供をした。

参照】2009年6月19日[宣雄、火盗改メ拝命] (6

「父上のことだ、厩舎のくさぐさについて梅次に指示されていたとおもう。それを幸吉(こうきち 20歳 )へ口授してもらえれば上乗とおもってな」
「さっそくに、梅次の裏書き(保証)をした口入屋をあたってみます」

宣雄が京都西町奉行に栄転したとき、留守宅の三ノ橋通りの厩舎は閉鎖され、宣雄を乗せて東海道をのぼった小牟祢は京都で手放なささるをえなかった。
奉行所に公用の馬が飼われていたからである。

なにごとにも手堅かった宣雄は、控えの馬具を厩舎にのこしていた。
鞍は、月魄(つきしろ)の脊とのあいだに毛氈をおくと間にあった。
幸吉には、
「鞍ずれに気をつけよ。ちらっとでも見つけたら、鞍のほうを調整にだせ。鞍ずれは馬に不快感をあたえ、ひいては飼い主を信頼しなくなる」

平蔵があらたにしたことは、月魄用の綿入れで刺し子の大上布づくりを命じたことくらいであった。


2日後には、梅次(36歳)が顔を見せた。
「ご無沙汰ばかりで申しわけございません」
「無音はお互いさまだ。見たところ、きちんと勤めておるようで祝着至極---」

辰蔵たつぞう 15歳)を伴い、厩舎で幸吉をはさみ、亡父・宣雄の飼育法を話させた。

「先代さまのお教えで、いっち大事なのは、自分が楽しむのではない。小牟祢が楽しむようにしてやれ---でございました」
「そうか。辰蔵、月魄が楽しんでおるかどうかを、つねに気にかけよ。それには月魄の表情を読みとることである」
「はい」
「今宵から10夜、月輪尼(がちりんに 25歳)の見えぬ日は、月魄とともに寝よ」
「はい」

「先代さまはこうもおっしゃいました。人間ばかり見ていては小牟祢も気づかれしてしまおう。ときどき、牧場へ放し、馬は馬同士で遊ばせてやれ」
「うむ。馬同士、競わすのじゃな」
「生きた牧草も食べられます」

幸吉。そちが寺崎村で馬にしたしんでいたことは充分に承知しておるが、わが家にはわが家の家風といったものがある。月魄は、長谷川家の一員として、家風どおりに育ててくれ」
「へい。承知いたしましたでございます」

「これから、月の5の日には、われが乗って登城し、月魄にお城と侍と江戸の町というものを覚えさせよう」
月魄が惚れ惚れとした馬づらで平蔵を瞶(みつめ)ていた。
牝(めす)馬の小牟祢だったら、平蔵に抱きついてきたかもしれない。

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采女ヶ原の馬場 『江名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


無意識に5の日を選んだが、若かったころ、お(なか 33歳=当時)との合褥の夜が5の日であった。

参照】[〔橘屋〕のお仲] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

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2011.09.26

駿馬・月魄(つきしろ)(2)

「月魄(つきしろ)はまだ育ちざかりの若駒であることを、忘れるでないぞ。知識欲はさかんだが、4肢の骨がまた大人になりきっていない。無理をさせてはならぬ」
調教に、本所・亀沢町の馬場へ連れ出すのを日課にしている辰蔵(たつぞう 15歳)に、口をすっぱくして与える平蔵(へいぞう 40歳)の助言であった。

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(赤○=本所・亀沢町の馬場 近江屋板)


「尼どのの送迎には、坂の多い道を選べ。坂の登りで若駒は心の臓が強くなる。坂一つの登りは平馬場の5周よりききめがある」

「平馬場の調練は、月魄のためではない。騎射の時のおぬしの躰のぶれを小さくするためと心得よ。いつも、弓手(ゆんで)に弓をたずさえておくことを忘れるな。月魄に騎射のこころがけを覚えさせるのだ」

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(馬喰町馬場 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


「尼どのの送迎には、なるたけ甘い会話にはげめ。聴いている月魄のこころがなごむし、雌馬を乞うことも早くなろう。なにしろ、おぬしは14歳で身ごもらせた仁じゃ」

「寝わらの代わりにオガクズを敷いてやれ。寝わらを食(は)む悪癖がつかない。オガクズは3日ごとに新しいものに取りかえよ」
これは、馬丁の幸吉(こうきち 20歳)への命令であった。
生家の馬小屋でおぼえたことを一つずつ訂(ただ)した。

「飼料を与えすぎて太らすでないぞ。牧草のほかに燕(えん)麦もあたえよ。燕麦は馬喰町の飼料屋で訊け。水は餌の4倍はのませてやれ。かならず新しい水道の水だぞ」

築地(埋立地)が多い本所・深川あたりの井戸水は、臭みがあり澄んでもいなかった。
川向こうの右岸から水道が引かれたが、水売りの水も買っていた。

「どんなことがあっても、月魄をぶってはならぬ。もし、ぶったことがわかったら、その方を百叩きして追放する。言葉でおしえれば、月魄はすぐにのみこむ」
馬は、記憶力が高い生き物なのである。

ただし、月魄に58両1朱(929万円)支払ったことは一度も口にしなかった。

厩舎で顔をあわせるたびに首すじをぽんぽんと軽く叩いてやりながら、
「お前は賢い子だ。もっと賢くなれる」
いい聞かせた。

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2011.09.25

駿馬・月魄(つきしろ)

敬尼(ゆきあま 24歳)は月魄(つきしろ)にまたがる時には、下帯をつけるのですって---」
平蔵(へいぞう 40歳)のものをまさぐりながら、久栄(ひさえ 33歳)が笑いながら告げた。

「なぜに、そんなことをしっておるのだ?」
辰蔵(たつぞう 15歳)が新しいのを3枚欲しいというから、問いつめたら、白状したのです」
平蔵久栄の秘部をなぶりながら、月輪尼(がちlりんに)が法衣の下に男ものの白い下帯をつけている姿を想像して膨張させながら、
「まあ、鞍にじかに接するわけにもいかぬであろうよ。それより、桜色の下帯でもつくってやったらどうだ」
「ご冗談はおおきなさいませ」

去年(天明4年 1784)12月8日に、平蔵が西丸・徒(かち)の頭(かしら)に任じられたことは、すでに報じてある。

内密には、その年の正月に前任の与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 享年64歳 800俵)から耳うちされていたから、毎年師走の中ごろに浅草・藪の内で開かれる南部の3歳駒のせり市の試し乗りの札を、あらかじめ手あてしておいた。

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馬市 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

発令は、ぎりぎで馬市に間にあった。

馬市には、辰蔵(たつぞう 15歳)を伴い、いいきかせた。
〔3歳馬というのは、少年から青年へになりかかり---たとえたら声変わりのころといっていい。だから、形容を見るな。賢さをみよ」
亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の教訓の口うつしであった。

宣雄は、こうも教えてくれたが、付言をひかえた。
学ばせたほうがいいと判断したからだった。
「人は馬の躰形は忘れても、気質や性格、賢愚は覚えているものだ。人についても同じ--」

_160集められた馬のあいだを縫い、品さだめをした。
と、眉間の白徴がすこしくずれて三日月に見えないこともない鹿毛(かげ)が、平蔵親子に視線を注いではなさなかった。

ちゅうすけ注】鹿毛とは、コーヒー色の体毛なのに、たてがみと尾、4肢が黒っぽい容姿の馬をいう。

博労の親方に、その馬の番号と親馬を訊いた。
親方は、目が高いと褒め、
「あの子の親は、賢いことで評判をとっていただ」

58両1朱(929万円)で落とした。
最後の1朱(1万円)のひと声がものをいった。
そのとき、馬は声の主をたしかめ、平蔵であることをしると、頭を伸ばして小さく嘶(いなな)いた。

「賢い馬だ」
平蔵がつぶやいた。
胸のうちでは、
(20年働いてくれれば、年3両(48万円)にもならない)

馬丁には、知行地の寺崎村で耕作馬を飼っている吾平のところの三男・幸吉(こうきち 19歳)が呼ばれた。

賢馬に、月魄(つきしろ)と名づけた。
月の精(せい)、月霊(がつれい)の意である。

「父上。ありがとうございます」
辰蔵のこころの底からの礼辞であった。
月輪尼と、わがむすめ・津紀(つき 2歳)をことほぐ命名であることを悟り、父の慈愛の深さを実感した。

隔日ごとの夕刻前、辰蔵が乗馬して大塚の富士見坂下、蓮華院の手前の横丁で月輪尼を待った。
比丘尼がまたがると、辰蔵が口をとって三ノ橋通りの屋敷へ導き、夜を津紀と3人ですごし、翌早暁、送り返した。

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2011.09.24

札差・〔東金屋}清兵衛(4)

3日後にまた、〔東金(とうがね)清兵衛(40歳まえj)が、平蔵(へいぞう 40歳)の下城の時刻(ころあい)をみはからってやってきた。

用心棒の相談であった。
平蔵の忠告にしたがい、組の店々に奥印金(おくいんきん 高利の貸し金)をやめるようにさせたら、暮らしの金に困った旗本衆が、浪人を蔵宿師(くらやどし)として雇い、店頭でわめかせるのだという。

蔵宿師をうわまわる腕利きの浪人を数名、高給を覚悟のうえで、組で抱えたいと、今戸の元締・〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 38歳)に相談をもちかけたところ、
「なんと、長谷川さまのお名がでまして、世間の狭さと申しますか、縁の深さに驚いた次第いでございます」 

「{銀波楼〕の今助どんからふられるまでもなく、長谷川家の勝手方(かってかた 財政)師範ともいえる〔東金屋〕さんがお困りとあれば、なにはさておいても---」
平蔵はある人物をこころに描いていた。

その人物とは---浅田剛二郎(ごうじろう 47歳)であった。

15年ほども前に知りあったのも、今助をとおしてであった。 

参照】2009年3月30日~[〔風速(かざはや)〕の権七の口入れ稼業] () () () (
2009年4月3日~[用心棒・浅田剛二郎] () () () (
2009年4月7日[先手・弓の2番手] () () () () (
200余年4月17日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)] () () () () (

元締となった今助の手くばりにより、浅草の禅宗妙心寺派の名刹・大雄山海禅寺の裏に小さな道場をかまえ、その道場開きに岸井左馬之助(さまのすけ 27歳=当時)と招かれた。

(いま、どうしておられるか?)

清兵衛どの。遣いだてしてすまぬが、店のだれかに、今助どんに質(たず)ねに行かしてくれまいか。浅田剛二郎どのはどうしておられるかと」
「わかりましてございます」

「ゆすり屋の浪人どもの対談方(たいだんかた)にはもったいないほどの人品なれど、〔東金屋〕に組の蔵宿衆の守り神として、ぜひとも腰をあげていただきたいのだ」
長谷川さまがそれほどにおっいゃるお方なれば、組合としても、それだけのものは用意させていただきます」

浅田道場はさほどにはやってはいなかったらくしく、稽古は高弟にまかせ、浅田剛二郎はしばらく、〔東金屋〕へつめることになった。

2、3人の蔵宿師を苦もなくつまみだしたことで、蔵前通りをぶらぶらと往来するだけで、店先でわめいていた浪人たちは、しばらく姿を消したのだが、後日談はいずれ---。

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2011.09.23

札差・〔東金屋〕清兵衛(3)

蔵元衆の定行事(じようぎょうじ)の一人---〔東金(とうがね)清兵衛の初代・清助が上総(かずさ)の武射郡(むしゃこおり)求名(ぐみょう)村の出であることは、銕三郎(てつさぶろう のち平蔵)が少年だったころに下僕をしていた太作(たさく)から聴いた記憶があった。

太作は、
「同じ武射郡の小百姓の倅(せがれ)でも、蔵前・諏訪町の〔東金屋〕初代・清助のように商才で蔵宿にまでなった者もおります。清助は近くの求名村の出身でした」
ぐみょうという里名が耳なれしなかったから、どう書くのかたしかめた。

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(青○=求名村 緑○=東金宿 赤○=寺崎村、片貝村 明治20年製作)


西丸・徒頭(かちのかしら)に足高(たしだか)として給される600俵の換金について平蔵(へいぞう 40歳)は、〔東金屋清兵衛にまかすことを内々に決めていたから、求名村に興味がわき、勘定見習の山田銀四郎善行(よしゆき 42歳 150俵)に采地主を訊き、江原家の1700石のうちの200石が求名村にあることを教えられた。

1700石の江原家は1家しかない。
幕臣のあれこれをしらべるときには、書物奉行・野尻助四郎高保(たかやす 68歳 役料200俵)と密約を交わしていた。

参照】2011年1月31日[平蔵の土竜(もぐら)叩き] (

当主の孫三郎親章(ちかあき 17歳)がまだ出仕していないことのほかに、4代前の甚右衛門全村(たけむら)がかわいがっていた采地から奉公にあがっていたおんなが、嫁にいって産んだ男の子・清助が遠縁の蔵宿〔江原屋〕へ小僧として雇われるのに口をきいたことまで高保が報じた。

そういう平蔵の奥の手をしらない〔東金屋〕清兵衛が、一挙に平蔵に心服したことはいうまでもない。
要するに、平蔵の情報づかいの勝利であった。

清兵衛は、組内10軒の札差屋の集まりで、町奉行所が近々に奥印金(おくいんきん)の吟味をはじめるらしいから、もし、やっているなら、これまでの高利を幕府がきめた年1割5分(15%)に戻しておくように忠告した。

蔵前片町の札差屋〔伊勢屋次郎兵衛(48歳)が平蔵の盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 40歳)のところへかけつけ、元利合計50両(800万円)という奥印金の証書とひきかえに、4年分の利息ともで9両3分2朱(157万円)の証書をおいて帰った。

佐左(さざ)はきつねにつままれたようなおもいでその証書の表裏を長く眺めていたが、ついに真相をしることはなかった。

一方、平蔵邸には〔東金屋清兵衛が、日本橋瀬戸物町の〔伊勢屋伊兵衛〕の[かねにんべん]のかつお節3本入りの祝い箱を持参で訪れ、応接した久栄(ひさえ 33歳)に、
「お蔭さまで組内から縄つきをださないですみました。向後とも、ご指導のほどを---」

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(〔かねにんべん〕伊勢屋伊兵衛 『江戸買物独案内』)

3本は、背筋2本に腹筋1本という正式な組みあわせであった。
さすがに贅沢になれている札差、心得ている。

平蔵が〔東金屋〕の札旦那---すなわち、蔵米受けとりの依頼主となったことはいうまでもないが、それ以上に、米相場の勘どころについて清兵衛から懇切な講義をうけたことのほうが大きな利得であった。


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(荏原家・全玄・親章3代の家譜)

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2011.09.22

札差・〔東金屋〕清兵衛(2)

「100店からある札差宿は、10人の定行事(じょうぎょうじ)を頭(かしら)にいただいて組をつくっておりやすが、〔東金(とうがね)〕はその定行事のひとりでやすから、仲間内での信用もなかなかのもんで」
御厩河岸の〔三文(さんもん)茶房」の真ん中の大飯台の片隅で、平蔵(へいぞう 40歳)にささやくように声をひそめて告げているのは、〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)であった。

ここから8丁(900m)ばかり南へ行った両国広小路・米沢町裏のしもた家でかわら板を刊行してい、平蔵とは古いつきあいで、〔化粧(けわい)読みうり〕にもかかわっていた。

「海千山千の蔵宿衆から定行事に推されたということは、まとめ役としての器量が大きいとみていいのだな?」
「齢はまだ40歳そこそこで、〔伊勢屋〕〔大口屋〕〔笠倉屋〕〔板倉屋〕といったのれん分けの店が多いなかで、〔東金屋〕は清兵衛のとこ1軒きりというのからいっても、人柄が買われていようってもんで---」

紋次によると、札差屋の主人の中には金まわりがいいことを見せつけようと、新吉原で大尽遊びをするものもいるが、〔東金屋〕清兵衛は出入せず、組合の集まりも近所の料理屋で芸者も呼ばずにすませているらしかった。

「店はすぐそこ、諏訪明神さんの真向かいの3軒手前でやす。殿さまがじかに面体をおあらためになったほうが間違いございやせん」

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諏訪明神・三島明神 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


紋次のすすめに平蔵は、一瞬、乗りかけたが、
「いや、まだ早い。使いだててすまぬが、御蔵前の蔵宿の〔伊勢屋次郎兵衛の店の評判もあたってくれまいか?」
「〔伊勢屋次郎兵衛---たしか、東金組だったようにおもいやすが---」

平蔵は、〔東金屋〕清兵衛に会うことに決めた。

東金屋〕の店構えはほかの蔵宿と変わらず、間口3間(5.2m)ほどだが、奥行きは深そうであった。
紋次の顔をみさだめて用件を察した番頭が、奥へ主人を呼びに小走りに去った。

主人の清兵衛は、40まえ、ちょっと窪み目だが柔和に見えるようにこころしている男であった。

「西丸・お徒(かち)のお頭(かしら)の長谷川のお殿さまだ」
紋次が紹介した。
「ご栄進、およろこばしゅうございます。蔵前では、早ばやのご栄進をことおいでおりました」
清兵衛が卒なくあいさつを述べると、平蔵が笑いながら、
「いや。蔵宿衆は早耳よ。もう2軒から手まわしがあった」

「当店もごあつさつをとおもっておりましたが、ご知行米(ちぎょうまい)を佐原の伊能さまのお店を通しておさばきのようなので、ご遠慮しておりました」
「(伊能)三郎右衛門(のちの忠敬 ただたか 41歳)は蔵宿の株は持ってはいないはずだが---」
「恐れいりましてございます」

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2011.09.21

札差・〔東金屋〕清兵衛

「蔵前片町の〔伊勢屋〕が、国許の名産と申し、この寒中塩引鮭を置いていきました」
久栄(ひさえ 33歳)が、みごとな鮭を披露した。

「うまそうじゃな。しかし、いいおいたとおり、受けとる筋合いはない」
ぶっきらぼうな平蔵(へいぞう 40歳)に、
「はい。そのように伝えましたが---」

「そなたの実家・大橋家は、先々代から猿屋町の〔大口屋〕を使っているといってやったのか?」
「はい。したが、長野さまのお口ききといわれまして---」

蔵前片町の〔伊勢屋〕次郎兵衛も猿屋町の〔大口屋〕清八も、蔵前の札差を商売としていた。
〔伊勢屋〕が長野さまといったのは、西丸の書院番3の組の番士で平蔵の盟友の佐左衛門孝祖(たかのり 40歳 600俵)であった。

久栄の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 72歳 300俵 新番組頭)は、足高(たしだか)700石もふくめ、春(2月)、夏(5月)、秋(9月 いずれも旧暦)の年3回の廩米の受けとりを蔵前の札差に代行させていた。

長谷川家は、知行地が上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村に220石と新田開発分100石近く、さらに山辺郡(やまべこおり)片貝村に180石と自家開発分を、米屋をやっていた伊能三郎右衛門(のちの忠敬 ただたか 41歳)が鎌倉河岸にだしている江戸店(えどだな)をとおして有利に換金してきていた。

札差屋がねらっているのは、こんど平蔵が西丸・徒頭(かちのかしら)として給される足高の600石(じつは600俵)の扱いであった。

参照】2011年9月20日[ちゅうすけのひとり言] (77) 

平蔵はひそかに、その扱いを、諏訪町の〔東金屋清兵衛にまかせることに決めていた。

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(上総国の知行地 赤○=寺崎と片貝村 緑○=東金 明治20,年製作)


伊能家とのあいだがぎくしゃくしてきたら、知行地に近い東金町の出身の清兵衛に相談しなければなるまいとの観点から、〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)に〔東金屋〕の評判をさぐらせていた。

(それにしても、商売人の風聞入手のすばしこさは見習うべきだなあ。武家が誇りと買職にかまけているかぎり、没落はまちがいない)

「明日、戻してしまえ」
「それでは角がたちましょう。長野さまにいちおうお断りになってからでも、塩鮭は変わりませぬ」


翌日、柳営で長野佐左衛門に、〔伊勢屋〕次郎兵衛があいさつにきたが、あそこに扱わせる気はないと告げると、
「いや、うるさくせがまれての。いささか前借もしていて---」
「いくら借りているのだ?」

あたりをみまわしてから、佐左(さざ)は、
「50両(800万円)ばかり---」
「なにに使ったのだ?」
「4年前に借りたのは5両(80万円)だったのが、利に利が積もってな」

小料理〔蓮の葉〕のお(はす 31歳=当時)との情事は9年前に終っていたはずだが、4年前にも情をかけた新しい相手ができたかとおもったが、訊いては借金の肩がわりをしてやらねばならなくなるし、城内での話題ではなかった。

定収入のある男が金に窮したといったら、おんなか賭けごととみていい。

参照】2010年7月31日~[浅野大学長貞(ながさだ)の異見] () () () 

しかし、それにしても5両が4年で10倍の50両とは、あまりにも高利すぎた。
幕府が札差商にみとめている金利は年1割5分(15%)で、1割8分までは黙認していた。

(奥印金(おくいんきん)だな)

「奥印金」とは、借金を申しこまれると、手元に貸し金がないが、貸し主のこころあたりはあるが、利息がいささか高いと告げ、それでもいいと返事すると、借用書のうらに保証人として署名捺印する、いわゆる偽装金融であった。

「難儀だな」
「〔伊勢屋〕のことは、適当にな」
「わかった」

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2011.09.20

ちゅうすけのひとり言(77)

1年ほど前から疑問におもっていたことが、ひょんなことから、知恵の輪がぱらりとはずれたように、解けた。

その瞬間は、
「ワァーッ---」
齢甲斐もなく、声をあげたい気分であった。

疑問とは、幕府がある時期から職席に附した格高である。

それぞれの職席に格をきめた。
格は、石(こく)であらわした。

長谷川平蔵(へいぞう 40歳)に即していうと、去年の暮れ---天明4年(1784)12月8日(旧暦)、平蔵は足かけ12年間つとめていた西丸書院番4の組の番士から、西丸の徒(かち)の頭(かしら)に引きあげられた。

書院番士は300石格だが、徒頭は1000石格であった。

長谷川家は家禄400石の知行地を拝領していた。

知行地400石ということは、大ざっぱにいって4公6民という率にしたがえば240石分が長谷川家の取り分であった。
その取り分の米の多くの部分を市中で売り、生活費と家士たちの俸給にあてた。

一方、知行400石ならば年400両の収入とみなす。
1両を16万円に換算すると、年6400万円---幕府の役人は中央官庁勤めとおもっておこう。

1000石格の徒頭に栄進した平蔵は、格高1000石マイナス400石(家禄)=600石(足(たし)高)を別途に受けとることになる。

たいへんな増収であることは間違いない。

が、足高600石はそのままもらえるのか、これも4公6民なのか---疑念が生じた。

それが、きれいに氷解したのであった。


_140滝川政次郎さん『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫 1994)


平蔵は、この年(天明4年 1784)、布衣の侍となってその地位を向上せしめたのみならず、西城の徒士の頭となって六百石の足高(たしだか)を頂戴し、その家計を豊かならしめた。西城徒士頭も本丸の徒士頭と同じく、千石高の役であるから、世禄四百石の長谷川平蔵がそれになれば、その差額六百石の廩米六百俵を足高として支給せられることとなるからである。


そうか、浅草蔵前で受けとる役高の実質は廩米600俵か。

この廩米の1俵は3斗5升入りであったから35升。
1升の市価を100文(4000円)として、3500文---1両(4000文 16万円)に500文(2万円)欠ける。

1両16万円換算で、この廩米1俵は14万円となる。
このほか、札差(ふださし 蔵前商人)の市販手数料やら運賃などを引くと、手取りは1俵10万円あたりとみておこう。

平蔵の場合、600俵の足高で年6000万円増の収入。

これでいくと、1年半後に昇進した先手・弓の組頭は1500石高だから、足高1100石で、廩米1100俵。
1俵10万円と少なめにみても年1億円の増収。 

ある程度は、金をばらまけたわけだ。

_170いや、実は、滝川政次郎さん『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)は、これまでに幾度も読み返してきていた。
そればかりか、文庫になる前の朝日選書『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(1982)も、綴じ糸がきれているほど開いていた。

しかし、引用の文章を読みとばしていた。
格高の石数に疑問をいだいたのはこの1年ほどで、こんど、何気なくまた手にとったら、件のページが目に刺さった。
誇張でなく、刺さった。

問題意識をもって読まなければ、本は身につかないということをあらためて実感した。

長谷川平蔵についての疑問は、まだまだある。
それらをこんど書き出し、再度、こころにとめておこう。

アクセスしてくださっているあなたも、遠慮しないで疑問をコメント欄へ書きつけてほしい。

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2011.09.19

平蔵、親ばか(6)

桑山さまが、今宵の食事代と諸掛りは、こちらにまわすようにって---」
奈々(なな 18歳)が四つ折にした紙片を示した。

平蔵(へいぞう 40歳)がひらくと、

---三番丁 桑山内匠

桑山老、味なことをなさる」
つぶやくと、
「おまわししても、ええのかな?」
「まわせといっているんだから、まわさないでは気分を害するであろうよ。奈々が自分で持っていけ。その日の朝市で請求金額に見あう生魚を求め、板場の若いのを伴い、おろさせてこい」

桑山内規政要(まさとし 63歳 1000石)が、平蔵の意図を汲んでもよおした酒席であった。

「いつごろ---?」
「そうさな、早すぎてもおかしいし、遅くては間が抜けている---7日あとくらいか」
「あい」
「魚代は、われが払う」

亀久町の家まで、仙台堀の南土手を並んで帰った。
それがうれしいらしく、奈々平蔵の袴の脇の平紐に指をいれ、ころげるような足運びであった。

牧野さま、意地悪---」

招かれた客の牧野監物茂知(しげとも 32歳 役高1000石)は、本丸の徒の5の組頭であった。

「どうして、そう決めこむ---?」
(くら)さんの頼みをはぐらかした」
「いや、あれは、われの頼み方がよくなかった」

奈々がすりよった。
「違います。断るんやったら、今宵の席に来てはあかんかった」

奈々。〔季四〕の女将は客の月旦(げったん しなさだめ)をしてはならない」
「あい」
平蔵は苦笑をもらした。
自分も同じ印象を受けていたから、口にだして、おのれをいましめたつもりであった。


手ばやく着替えた奈々が、酒の用意をととのえた。
「馬を買ったん?」
「徒(かち)の頭(かしら)は、騎上で徒士を指揮するのがきまりなんだが、屋敷が狭くて飼えない頭もいることはいる。われのところは、幸い、庭が広い」
「そうなん------」
「なにを思案している? 小椀が空だぞ」

「馬のこと、考えとった」
「馬のなにを---?」
「村にいたとき、見たん。牡馬がうしろから---胸どきどきで、息がとまった」

奈々は腰丈の閨衣(ねやい)さえ脱ぎ捨て、いまにも四つん這いになりそうな鼻息であった。
(大(だい)が、われのことを親ばか---と笑ったが、ばかという字は、馬と鹿とも書くなあ)

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2011.09.18

平蔵、親ばか(5)

「なるほど。立射の上手だけでは目立たないと申されるか?」
本丸・徒(かち)5の組の頭(かしら)の牧野監物成知(しげとも 32歳 家禄2200石 役高1000石)が、内心の不快感をこらえ、かすかに微笑みながら問うた。

平蔵(へいぞう 40歳)も、
「豚児は、布施十兵衛(良知 よしのり 41歳 300俵)どのから日置(へき)流のご師範をうけておるのですが---」
口にしてしまってから、
(しまった、急ぎすぎた)
後悔したがあとの祭りであった。

ここが里貴(りき 逝年40歳)であれば、ぴんと察し、
「お話がむつかしゅうなりましたが、とりあえず、盃をおあけくださいませ」
とか、
「お酒(ささ)が冷えました。暖かいのを持ってまいります」
座をごまかしてくれたろうが、若い奈々(なな 18歳)にそれを期待するのは無理であった。

が、今夕の席を提案してくれた桑山内匠政要(まさとし 63歳 1000石)は、さすがに老練で、銚子を奈々の手からとり、監物へすめながら、
長谷川どのは、徒の頭の仲間入りをなさったのを機に、駿馬をお求めになっての。それで、息子どのにも騎射をとお望みになったのであろうよ」

徒頭としては長老の内匠政要になだめられては、監物成知も引きさがらざるをえない。
笑顔で言ったものの、声がとがっていたことは、自分でもわかっていた。

桑山老は紀州藩閥の中でも重きをなしている存在であった。
しかも、ここへの口がかかったとき、茶寮〔季四〕は、老中・田沼意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)が背後についている店とささやかれた。

父・大隈守茂賢(しげかた 72歳)は、大目付時代の去年の3月、田沼意知(おきとも 享年36歳)が刃傷をうけたとき、そばにいながら犯人を取りおさえなかったと叱声を得ていた。

「駿馬をお求めとはうらやましい」
「亡父が先手の頭になる寸前に、もと病馬の馬場であった馬糞くさい敷地に入手しまして---」
「それはそれは---で、広さは---?」
「分には過ぎた1238坪です」
「では、厩舎もお屋敷の内に---?」
「のこしてあったものに手を入れて---」

「では、ご子息も乗馬におはげみになれますな」
「なるほど。馬の乗りこなしが先でしたな」


牧野成知の屋敷は愛宕下佐久間小路であった。
送りの黒船は、土橋で牧野を降ろしてから神田川まで戻り、先日のように市ヶ谷門下で桑山内匠を陸(おか)へあげた。


ことの結着を記すと、牧野成知がこの年の8月に目付に転じたので、家士とねんごろな縁者になることは遠慮したいということで、辰蔵(たつぞう 15歳)の兄代わりの話は断られた。

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2011.09.17

平蔵、親ばか(4)

桑山どのは、谷口どのをご存じでしょうか?」
西丸・伏見櫓のところで、徒(かち)の5の組の頭(かしら)・内匠(たくみ)政要(まさのり 61歳 1000石)に、平蔵(へいぞう 40歳)が問いかけた。

「組の者たちの勤めぶりを見廻ってくる」
先刻、詰めの間から立った政要に、
「われも---」
平蔵が連れ立った。

徒士たちは、西丸の主(ぬし)である養君・家斉(いえなり 13歳)の外出がないときは、城内の巡回警備にあたっていた。

谷口どのとは、いまは自適しておる、内蔵助正熙(まさひろ 59歳 500石)がことかな?」
「さようです」
「かの仁は、一橋の祖・:刑部卿宗尹 むねただ 享年44歳=明和元年 1764)のご生母・深心院殿さまの実家筋ということなっておるが、正熙どのは牧野越前守成熙(しげてる 3000石)どのの七男で、母者は公家の綾小路の媛(ひめ)じゃから、谷口の血筋はじかにはひいておらぬ。したがって、紀州衆の集まりに出席しても、誰ともほとんど言葉を交わすことはない」

「ははぁ---」
「いや。わしは、いくたびか口をきいてはおるが、正熙どのに何用かの?」
谷口どのにではなく、ご次男で、牧野一族、南町ご奉行の大隈守成賢(しげかた 2200石)どのの養子となられた、監物成知(しげのり 32歳)どのにお引きあわせくださる伝手(つで)を探しております」

「そんなことなら、わけもない。かの仁が、5年前に本丸の徒組の頭に就いたときに、西丸へもあいさつに参じられて以来の顔見知りじゃ。しかし、何用で---?」
「お笑いくださるな、じつは愚息に騎射のご指導をと---」
「ふむ---」

桑山)政要は、内心ではあきれていたろうが顔にはださず、
「わしが、ご両所を〔季四〕へ招いたという形をとってよろしいかな?」
「お手数をわずらわせます」


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2011.09.16

平蔵、親ばか(3)

「ところで、監物一橋(ひとつばし)につながっていることは、しっておるな?」
大学浅野長貞 ながさだ 39歳 500石)が顔をよせてささやいた。

一橋つながり---どういうことだ?」
つられて、平蔵(へいぞう 40歳)も声をひそめた。

監物とは、本丸・徒(かち)の5の組の頭・牧野茂知(しげとも 32歳)である。
その父親・大隈守茂賢(しげかた 73歳 2200石)は、昨年まであしかけ18年間も南町奉行の席にいた。

監物は養子なのだよ---谷口家の次男---」
谷口---一橋---あっ!」

参照】2010315~[一橋家] () () () (

43歳で書院番士として召され、5年たらずで辞した谷口内蔵助正熙(まさひろ 500石)のことを、西丸に出仕してすぐに耳にしたことがあった。

将監茂知は内蔵助正熙の次男で、21歳で牧野家の長女の婿養子としてはいった。
舅の大隈守茂賢は61歳であったから、ずいぶん遅いめの手あてといえようか。

〔宇治橋〕名物lの志そめしが配膳された。
いっしょに漬けられ梅の酸味がほどよく滲みこんだ紫蘇(しそ)の葉と実を炊きこんだ、桜色をした飯であった。

「で、監物の人品(じんぴん)はどうなのだ?」
「偉ぶったところはなく、おもて向き、養父は養父、自分は自分とわりきっておった」


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(谷口家の全家譜 とくに牧野家とのつながりの)


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2011.09.15

平蔵、親ばか(2)

「元飯田町中坂下のいつもの〔美濃屋〕でもいいが、きょうは佐左(さざ)に声をかけていないのでな---」
「うむ---?」
「〔美濃屋〕から3軒あがったところに、志そめし屋が上方からきている。そこで手軽にすませたい」
和田倉門で落ちあった浅野大学長貞(ながさだ 39歳 500石)に平蔵(へいぞう 40歳)が意を告げた。

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({志そめし〕 『江戸買物独案内』)

佐左とは、初見以来りの盟友である長野佐左衛門孝祖(たかのり 40歳 600俵)で、西丸の書院番3の組にいる。

一橋北詰の茶寮〔貴志]があった跡を過ぎる時、里貴(りき 逝年40歳)を失った平蔵の心中を察したか、大学はなにも口にしなかった。

参照】2010年5月17日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] () () (

志そめしの[宇治橋]は中坂をちょっとあがった、田安稲荷社の境内にいかにも上方ふうな瀟洒(しょうしゃ)な構えの店であった。

〔美濃屋〕の主人・源右衛門の口ききと伝えると、奥の小座敷へ通された。
水差しに活けたねこやなぎの風情もしゃれていた。

酒は伏見の銘酒〔天ヶ瀬〕を冷やで頼んだ。
肴が京風の千枚漬の細切りというのもしゃれていた。

とりあえず、平蔵の徒頭栄進の祝杯をかわした。

久次郎坊は幾つに育った?」
「明けて10歳だが、早く主題にはいれ---」
大学がせかした。

「本城の徒の5の組のお頭の牧野監物茂知(しげとも 32歳)うじは、大学の組ではなかったか?」
「そうだったが---?」

平蔵大学佐左衛門の初見は、17年前の明和5年(1768)12月5日であった。
2年のちにまず佐左が西丸の書院番士として出仕した。

平蔵は、佐左に6年おくれ、やはり西丸の書院番士として召された。

大学は、平蔵たちを心配させたが、それでも平蔵の1年あと---安永4年2月24日から本丸の書院番士として勤務した。
番頭は中奥小姓番頭から転じてきた小堀河内守政弘(まさひろ 29歳 3000石)で、牧野監物小堀組へ出仕してきたのは、安永5年12月、その4年後には中奥小姓に転じ、さらに2年後には28歳という異例の若さで徒頭に抜擢されたのは、父親が南町奉行として26年目にはいっていたせいとねたまれた(最終的には30年間在職)。

「家柄がいいこと、ご当人の管理の才がすくれておることはわかる。そのほかには---?」
「狙いはなんだ---?」
「豚児・辰蔵(たつぞう 16歳)の兄者をお願いしようとおもっておる」
「むすめごを側室にさしだすのかッ?」
「とんでもない。師範としての兄者だ。われの佐野豊前守どののごとき立場だ」

しばらく平蔵を瞶(みつめ)ていた大学が、ひざをうち、
辰蔵くんは射術にはげんでいたな」

平蔵が苦笑ながらにうなずくと、
「わしの弓術の腕もかなりなものだが、騎射は監物にはかなわない」
「かたじけない」
平蔵も、けっこう、親ばかよのう」


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2011.09.14

平蔵、親ばか

舞う蝶に似て、気まぐれのように話題を飛躍させる奈々(なな 18歳)についていく平蔵(へいぞう 40歳)は、想念と想念がぶつかりあい、飛んだ火花が点火させたのか、思いもつかなかった創意をえた。

辰蔵(たつぞう 15歳)への仮りそめの兄者が、それであった。

13歳で女躰(にょたい)の甘い蜜(みつ)を味わい、ややを産ませた辰蔵には手おくれかもしれないが、これまでわけしりの父親としてふるまってきたつもりがあり、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の、入念な手くばりを、つい、忘れていた。

参照】2007年6月4日[佐野与八郎政信
2007年6月5日~[佐野与八郎政親] () (
2007年6月5日[佐野大学為成
2008年11月7日~[西丸目付・佐野与八郎政親] () () (
2009年1月1日~[明和6年(1769)の銕三郎] () () 
2009年9月11日[佐野与八郎政親
010年9月8日~[佐野与八郎の内室] () () () () () 

与八郎政親は、実の兄もおよばないほど親身に銕三郎の相談にのり、しかも一定の距離をとって冷静な助言をしてくれた。

仮りそめの兄者であった佐野政親をおもいだしたのは、本丸の徒頭・石谷(いしがや)市右衛門清茂(きよしげ  48歳 700石)の、
「本城の徒組頭15人中の最長老は59歳、最若年は32歳、平均は48歳。30代は3人、40代3人、50代が9人---」
この台詞であった。

それも、奈々のおどけた、
「ただいまのところ、この部屋には10代が1人、40代が1人、全部の平均年齢は29歳---」
口真似によった。

(最若年では32歳---たしか、5の組頭の牧野監物成知(しげひで)が家督前の役高勤めで、5年前から齢上がほとんどの徒士たちを心服させている器量と聴いておる)


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2011.09.13

老中・田沼主殿頭意次の憂慮(4)

「ただいまのところ、この部屋には10代が1人、40代が1人、全部の平均年齢は29歳、若いです」
桜色の腰丈の閨衣(ねやい)の右膝を立てた奈々(なな 18歳)が、石谷(いしがや)市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)の声色を真似た。

「客を神さまとおもえば、そのようなもの真似は慎んだほうがいい」
笑いながらたしなめ、片口から酌した。

田沼意次 おきつぐ 67歳)さまって、そんなにこわいお人なん? 於佳慈(かじ 34歳)さまはおやさしい」
手みやげをとどける奈々への応対はそうであろう。

「もしかすると、こわいのは、田沼侯ではなく、於佳慈どののほうかもしれない。田沼侯は理と情(じょう)をきちんとわけてお使いになる。於佳慈どのは、まま、情が先ばしる」
平蔵(へいぞう 40歳)は、3年前の正月の夜のことをおもいだしたが、里貴(lりき 38歳=当時)がらみの事件であったから、奈々には話さなない。

参照】2011年4月13日~[中屋敷の於佳慈] () () (

「利ィやったら、誰かて、こだわります」
「------?」
「儲けですやろ?」
「その利ではない。道理の理だ」
「理屈の理ィ---うちの、にが手や」
突然、奈々が話題を変えた。

くせである。
おもいついたら、忘れないうちに口にしてしまうのだと、けろりという。

「今日、おいでになった神保さま---お偉いお家の方みたい---」
「ほう。お客としてみえたことがあったか」
「ううん」
「では、偉いとか偉くないとか、何をもって判断したのだ」

奈々は、小川町に表神保(おもてじんぼう)小路という通りがある。都には姉小路(あねがこうじ)とか万里小路(までがこうじ)とかいうお公家の屋敷がある。
小路に家の名前がつくほどならえらいにきまっているはずだといいはった。

「たしかに神保小路は、今宵きた神保家から数代前に分家した神保なにがしのひろい屋敷があの道に面してあったのでそう呼ぶようになったと聴くておるが、だからといって、別に偉いわけではないと説明したが、奈々は納得しなかった。

本郷の壱岐殿坂(いきとのさか)は唐津の殿さまから、小石川の安藤坂は安藤飛騨守さまの名からとっているといいはった。

「そういわれてみると、〔季四〕にも招いたことがある建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳=当時)どののご一族の本郷のお屋敷の前は建部坂と呼ばれているの」

参照】2011年6月14日~[建部甚右衛門と里貴] () () (

(そうだ、思い出した、建部坂には、12年前に遺跡を相続して小普請入りした時、9の組支配の長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)のお屋敷に伺った。建部家のはす向いが長田家であった)

参照】20091212~[小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)] () () (

あの翌年、平蔵は西丸の書院番士として出仕し、長田支配に礼の言上に訪れたのが最後の面談となり、翌々年に不帰の人となった。

建部坂上からちょっとのところに屋敷のある盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 40歳 600俵)とも呑んでいない。

(浅野大学長貞(ながさだ 39歳 500石)を誘って不景気ばらいをするか。それにしても、
奈々の脈絡のない思いつきにつられで、あれこれおもいだす)


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2011.09.12

老中・田沼主殿頭意次の憂慮(3)

3日後に、本城の徒(かち)の1の組頭・石谷(いしがや)市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)からの書状を同朋(どうぼう 茶坊主)がとどけてきた。

今宵、13の組の組頭・神保(じんぼう)四郎左衛門長孝(ながたか)どのといっしょに会いたい。場所はどこにても---としたためられていた。

同朋を本城へ遣いにだし、神保(37歳 1100石)の屋敷の所在を訊かせた。
石谷清茂の住いは、先宵、田沼老中の木挽町(こびきちょう)の中屋敷での別れぎわに、元飯田町と聴いてあった。

小川町一橋通りと返ってきた。

すぐに松造(よしぞう 34歳)を呼んでもらい、〔季四〕と〔黒舟〕へ行かせた。

馬場先門東詰で落ちあい、鍛冶橋下で待っていた屋根舟で深川の冬木町寺裏舟着きまでのあいだに、これから行く茶寮〔季四〕は、田沼侯の息がかかっている店だと吹きこみ、小川町一橋通りの南端にあった茶寮〔貴志〕が元の店というと、神保長孝が、
「覚えていますが、いわくがありそうな店構えでしたから、あがったことはありませなんだ。10年ほど昔の謎が解けるのが楽しみです」
さすがに6000石の大身の従弟をもっている家柄らしく、諸事に通じているところをさりげなくみたせたが嫌味はなかった。

ついでに記しておくと、従弟の左京茂常(しげひさ 21歳)は、去年、父の茂済(しげずみ 39歳)が療養を理由に致仕したのをうけて家督したばかり、無役であった。

出迎えた若々しい奈々(なな 18歳)が、眉をおとし鉄漿(おはぐろ)なのに、神保長孝が、
「---?」
妙な顔をしたので、
「おばだった〔貴志〕の女将が去年亡くなったのです」
それきりで、説明をひかえた。

「先宵の相良侯の---」
いいかけた石谷清茂に首をふると、
「いや、耳打ちしたのは、神保どのだけです。組頭15人の年齢を調べるとなると、独りでは無理で。さいわい、神保どのは安永5年(1776)から今の職に就(つ)かれてい、たいていのことはご承知なのです」

石谷組頭としては、田沼老中が先手組頭の横田源太郎松房(よしふさ 42歳 1000石)に命じてつくらせた組頭の平均年齢を割りだす脅迫観念にとりつかれていたらしい。

調べた結果によると、本城の徒組頭15人中の最長老は59歳、最若年は32歳、平均は48歳。30代は3人、40代3人、50代が9人と、
「若こうござる」
わかりきった結論であったが、
「ご苦労でした。ちなみに、西丸の3人の平均は52歳、最長老は61歳、最若年はわれの40歳、あとの一人が50代でござる」
暗記(そらん)じてみせたが、皮肉は通じなかった。

「ご老中にはこの結果を呈上いたしたから、西丸・若年寄の井伊兵部少輔直明 なおあきら 39歳 与板藩主)侯へは、長谷川どのからいまの西丸分を副えて、おとどけくだされ」
「承知つかまつった」

宴がおわり、黒舟でお茶の水道橋下と牛込門下まで送るというと、
「今宵の諸掛りは、3等分し、2口は手前のところへ---」
「承知つかまつった」


神保長孝は、
「若女将は、誰の持ちものですかね?」
「さぁて---じかにお訊きになったら---」
「もし、ご老中に知れたら、左遷ものでしょうな」
「たぶん---」


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(神保四郎右衛門長孝の個人譜)

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2011.09.11

老中・田沼主殿頭意次の憂慮(2)

「不作というより、北の国々では飢饉というほうがあたっている」
老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)が、端麗な顔ににあわず、吐いて捨てるようにうめいた。

それぞれの藩がふだんから備蓄米をたくわえておけば、農民の飢餓はいくらかは避けられたはずといいたかったのであろう。

領内の仕置は、それぞれの藩にまかせてきているのである。
幕府は、各藩から税をとりたててはこなかった。

それなのに人というのは勝手なもので、悪いことはお上のせいにしてしまう。

「先手組は、ご府内で騒動がおきた時の備えに、江戸から外へ出すわけにはいかない。代官支配地から鎮撫の要請がきたら、20組ある徒組に出役(しゅつやく)してもらうやもしれない」

意次のこの言葉に、平蔵(へいぞう 40歳)は、
「あっ」
合点がいった。

出役となったとき、合戦ではないのだから鎧兜(よろいかぶと)で出かけるわけではない。
しかし、暴徒は竹槍や棒ぐらいはもっていよう。
こちらも鎖帷子(くさりかたびら)や鎖袴(くさりばかま)着用で防護しなければ、:怪我がふせげまい。

いまの組子で、そんな戦時用の着衣まで手持ちしている者はほとんどいまい。

徒士の70俵5扶持という俸禄には、そういうときの備えの代金も入っていよう。

ちゅうすけ注】70俵を平時の物価に換算すると年70両(1120万円)。
5人扶持は1日に米2升5合---1升100文(もん 4000円として1万円、年365万円)。もちろん、出陣となれば5人の荷物もちを従えろが表向きの扶持であった。

(本丸の徒(かち)1の組の頭・石谷市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)どのと西丸の徒頭で最も若手のわれが呼ばれたのは、出役に備えておけ、ということか)

そうはいっても、いまの西丸は徒組は3組しかのこされていず、平蔵の第4の組のほかは、前にも記したとおり、

第3の組頭 
 沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 55歳 800石)

第5の組頭
 桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)

地方への出役となると、平蔵の組が指名されるのは分かりきっていた。

しかし、わずか3組のために、西丸の若年寄・井伊兵部少輔直明(なおあきら 39歳 与板藩主)を同席させるであろうか?

ちゅうすけの推理は、それから1年後に的を射たが、それはその時までお預けとしておこう。

組へ戻り、30人の徒士たちに、半年のあいだに鎖帷子と鎖袴を手あてしておくようにいいつけ、武具屋へも帷子の下へ縫いつける金網づくりの職人を探すように命じた。

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2011.09.10

老中・田沼主殿頭意次の憂慮

長谷川さま。奈々さまはいかが?」
座敷へ案内しがてら、於佳慈(かじ 34歳)が問うた。

奈々(なな 18歳)が月に一度は、季節の水菓子(果実)や〔船橋屋〕の名代の羊羹などをたずさえてご機嫌をうかがうたびに、
「うちの平蔵旦那が---」
それとなく匂わせていたのであった。

「はあ。まあ---」
里貴(りき 逝年40歳)さまから一気に若返り、教えこむのが骨なのでは---?」
齢はあらそえずく、嫣然とすると目尻に小鳥の足跡がうっすらとうかんだ。

「覚えが速いもので---」
「おっしゃいました」
いたずらっぽく腕をつねられた。

座敷には、すでに先客が座っていた。
「本丸・徒(かち)1の組の石谷(いしがや)です。お見知りおきを---」
向うからあいさつされ、恐縮の体(てい)で、
「遅れをとりましたが、西丸・徒の3の組の長谷川です。今後ともにお導きくだいますよう---」
佳慈が笑い、
「本邸と妾宅でもなかろうに、初顔合わせとは---」
咄嗟のいいまわしの絶妙さに、謹直げな石谷市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)もほころばせた。

「小川町(おがわまち)の淡路守さまのご役宅にはお伺いしたことがあります」

参照】2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸 ] () (
2007年7月29日~[石谷備後守清昌] () () (

淡路守清昌(きよまさ 享年68=天明2年 2500石)は、勘定奉行兼長崎奉行などを歴任し、その起案力を田沼意次に篤く信頼されていた。
紀州出同士で縁戚のあいだからでもあった。

もっとも、市右衛門清茂家は本家でもあり、今川方から徳川に仕え、江戸でつづいた。

佳慈がつぎに案内してきたのは、火盗改メの組頭・横田源太郎松房(としふさ 42歳 1000石)であった。
去年7月、堺奉行に栄転した(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)から先手・弓の2の組と火盗改メを引き継いだ時、引きあわされていたから目礼ですませた。

もっとも、弓の2組は、組頭が5年ほども火盗改メという激務についていたので、組下も疲れきっていようと、3ヶ月もしないで、火盗改メの職とともに横田松房は弓の7の組と組替えとなっていた。

だが、敏腕家といわれている横田松房とおっとりした石谷清茂、そして若輩のわれというのは、いったい、どういう人選びなのか、さらに混乱した。

もっと思惑が乱れたのは、意次が、西丸の若年寄・井伊兵部少輔(しょうゆう)直明(なおあきら 39歳 与板藩主 2万石)と連れ立った入室した時であった。

井伊直明は、このあと30年以上も西丸の要として若年寄を務めつづけた、欲のない大名であった。
この藩主の依頼で、平蔵は越後の与板まで出向き、盗賊〔馬越まごし)〕の仁兵衛(にへえ 30すぎ)を追っぱらったことがあった。

参照】2011年3月5日~[与板への旅] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19

意次は、与板侯横田火盗改メと石谷徒頭へ引きあわせ、平蔵には笑顔で、
長谷川徒頭どのはも充分に存じよりのはずゆえ---」
これまでの「長谷川うじ」が「徒頭どの」に昇格してい、「さすが、人づかいりの名人」といつものように感服させられた。

膳が配られ、酒がひとわたりすすんだところで、意次は横田松房に、頼んでおいたことを披露するように懇(こん)じた。

34組ある先手組の組頭の平均年齢をしらべるようにいいつけておいたらしい。
「誤解を招きかねない探索ゆえ、横田組頭どのにひそかに頼んでおいての。したがって、この部屋を一歩でたら忘れてもらいたい」

横田組頭の結果は、天明5,年(1784)現在---
先手・弓の組頭10人の平均年齢は58歳と3ヶ月。

横田どのを除いた9名の平均は---?」
「60歳にあがります」

先手・鉄砲(つつ)の組頭20人の平均年齢は59歳とちょっと。
西丸の先手の組頭の平均年齢は65歳と6ヶ月。

「先手34組の組頭で50代以下は何人かな?」
「それがしを入れて10名でした」

「70代は---?」
「81歳をかしらに、12名」

「な、与板侯。ことほどに先手の組頭は、番方(ばんかた 武官系)の爺ィの捨てどころと化しておる」
「先手組といえば、戦いのときには先陣をつとめなければならない先頭部隊です」

「徒組も、な」

平蔵は、今宵の招集の人選がやっとのみこめた。


Photo
2
(石谷市右衛門清茂の個人譜)


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2011.09.09

ちゅうすけのひとり言(76)

2011年7月20日[ちゅうすけのひとりごと(75)]に、長谷川平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の次男・銕五郎正以(まさため 18歳)が養子にはいった長谷川一族の支家4070石の采地が上州甘楽・碓氷2郡から、遠州城東、山名の2郡へ移されたことを記した。

長谷川久三郎を[旧高旧領取調帳データベース
の検索にかけてみた結果は、

遠江国山名郡 太馬郎新田     62石391 
    豊田郡 船明(ふなぎら)村 378石545

3000石ほどが行方不明のままで終った---とも。

参照】〔船明(ふなぎら)〕の鳥平

Photo3月11日の地震で書斎の本棚が倒壊したままで行方不明だった『旧高旧領取調帳 中部編』(近藤出版社 1977)が無事にみつかったので、遠州城東、山名の2郡を検(あらた)めてみた。

[旧高旧領取調帳データベース]での検索どおり、

山名郡 
 太馬郎新田 長谷川久三郎分     62石391

豊田郡
 船明村    長谷川久三郎分    378石545

は確かに記載されていた。

別に、城東、山名、豊田郡に長谷川源一郎名義の知行地が見つかった。

城東郡
 西芳村    長谷川源一郎分    110石085999
 予隣村    長谷川源一郎分    238石810
 新野村    長谷川源一郎分    151石0424
 今村北組   長谷川源一郎分    82石084
 下土方村中組森組
         長谷川源一郎分    582石499023
 下土方村下組
         長谷川源一郎分    431石220001

山名郡
 西貝塚村   長谷川源一郎分    953石828
 東脇村    長谷川源一郎分    114石456
 彦島村    長谷川源一郎分    107石682
 
豊田郡
 下万能村   長谷川源一郎分    431石220
 立野村    長谷川源一郎分    369石303

この長谷川源一郎なる人物の遠江国における采地を合算してみる。
3170石前後。

Photo_2寛政譜』には、長谷川源一郎なる幕臣はいない。
寛政以後に加増されて3000石台になったのであろうとも考え、小川恭一さん編『江戸幕府旗本人名事典 三』(原書店 1989)から、長谷川氏姓で3000石以上の人物を探した。

長谷川久三郎(4071石)と長谷川利十郎(3115余石)で、源一郎はいない。

そこで、『旧高旧領取調帳 中部編』を求めてから初めて、この資料の成り立ちに目を通してみた。

明治政府ができ、地方の役場から書き上げを求めたものとわかった。
とすると、明治になる直前のデータということになる。
寛政から70年ほどあとのものだから、つなごうとするほうがおかしいともいえる。

とりあえず、あきらめることにした。

平蔵の次男が相続した長谷川一族の、これから以後も探索がつづくといいデータの一つとして、書き留めておく。

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2011.09.08

ちゅうすけのひとり言(75)

15歳の辰蔵(たつぞう)が、24歳の月輪尼(がちりんに 24歳)にややを産ます?
もちろん、常識はずれである。

しかし、浅間山が大噴火した天明3年(1783)、大飢饉であった天明4(1784)という年に、史実の長谷川家の年齢をあてはめてみると、平蔵39歳、久栄32歳、59歳、 辰蔵15歳、銕五郎3歳になってしまう。

寛政重修l諸家譜』の[●宣義(のぶのり)]の弟妹の項を見ると、嫁いだ妹2人(於(はつ)と於)(きよ)の下に銕五郎正以(まさため)が記され、さらにその下にもう一人、女子が記されている。

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銕五郎正以が長谷川支家で大身の栄三郎正満(まさみつ)の養子にはいったことはこれまでもしばしば触れた。
それが、平蔵が逝去する寛政7年(1795)、15歳の時であったらしいことも試算しておいたような気がする。

参照】2011年3月26日[長谷川銕五郎の誕生] (3
2006年5月22日[平蔵の次男・正以の養子先]
2006年3月26日[長谷川正以の養父

寛政譜』の家譜の提出の期限は寛政10年(1987)であった。

その時点で、次男・銕五郎正以の妹は嫁していない。
正以よりも3歳下と考えると、天明4年の誕生となり、寛政10年には15歳である。
池波さんに代わって、仮りに名前を於津紀(つき)とつけておこう。

すでに記したように、於津紀が誕生した時、久栄は32歳。
将軍の側女たちが30歳すぎると「お褥(しとね)すべり」を実際にしたかどうかはともかく、「恥かきっ子」という俚諺はあった。

30歳すぎて懐妊した妻女への蔑称である。
「まだ、そんなに激しくせがんでいるのか」
男の側の悲鳴であったかもしれない。

で、ちゅうすけは想像した。

[●宣以(のぶため)]の項の末妹で、大久保平左衛門忠居(ただおき 750石)に嫁したのが、『鬼平犯科帳』には登場しないでいる。

当初、これを、於嘉根とふみ、銕三郎(てつさぶろう 18歳=当時)と阿記(あき 21歳=当時)のあいだの子---お嘉根(おかね)と想定しかけたが、の気質、阿記の性格から、踏みきれなかった。

で、アイデアを、年齢差か9歳の辰蔵月輪尼にふった。
年齢差が大きいカップルのほうが、落差がくっきりあらわれよう。

夏だというのに、腹に小ぶんとを巻いて懐妊をよそおい、辰蔵月輪尼の窮地を救った久栄はえらかった。


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(長谷川一族の系図)

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2011.09.07

西丸徒頭・沼間(ぬま)家のおんなたち

(くら)はん---」
躰が合わさってのち、奈々(なな 18歳)は呼びかけを、「長谷川のおじさま」から「(くら)はん」に変えていた。

故人の里貴(りき 逝年40歳)が「(てつ)さま」と幼名で呼んでいたのを避けた奈々が、 「(へい)はん」を提案した。

参照】2010年1月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (

即座に、平蔵(へいぞう 40歳)が断った。
平蔵は、亡夫・宣雄(のぶお 享年55歳)によって創始された長谷川家の継承名であるから、閨(ねや)などで気安く使ってはいけない、ともっともらしく述べたが、ありようは、嶋田宿の本陣・〔中尾(置塩)〕の若女将・お三津(みつ 22歳=当時)が寝間で甘えて呼んでいたからであった。

「下が結ばれたんやし、平蔵おじさまの下のをとって、〔くらはん〕はどない? ほかの人に聞かれたかて、おじさまとわからへんしぃ---」
「『忠臣蔵』、大石内蔵助どのにあやかるか」
「『忠臣蔵』のんは、大星由良之助はんやしぃ」
すっかり、芝居通に育っていた。

はん。お武家はんの世界ってむつかしいね」
「あらたまって、なにごとかな?」

今宵の客の沼間(ぬま)頼母隆峯 (たかみね 55歳 800石)が、長女に迎えた養婿のことであった。

「亡父の家訓として、他家の内情にかかわってはならないことになっておる」
「かかわるんやのうて、お客はんの実情をこころえておくだけ」
「その長女といわれる女性(にょしょう)は、たしか、2度目のご内室がおもうけになったはず---」
「ご存じやないん---?」
「3年ほど前に、徒頭におつきになる前は書院番士が永かったから、うわさはしぜんと耳にはいってきた」

先室が後継を生むことなく卒したので、その妹を迎えて長女ができ、次の男児は夭折した。

長女に迎えた養子とのあいだに子ができなかったので、実家へ帰す話がすすんでいた。
婿の実家は、1500石の大身なので話がこじれていると。

沼間はんが桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)はんに、どなたはんか仲裁しいはる人はあらへんやろかと問いかけはったら、そないな私事を、長谷川はんの祝いの席でしたらあかんやゆうてたしなめはりました」

平蔵が手水(ちょうず)にことよせて座をはずしたときのことだと。

ある筋から次女として養女を迎えたものの、養父とおりあいがつかず、これも実家がひきとっていた。

「なにかとままならないのが、武家の家よ」
「でも、はんとこは、辰蔵はんの隠し子もちゃんと入れはったし---」
「うちは、お婆どのが在方(ざいかた)の生まれなので、さばけており助かる」

「うちも、多紀家のお嫁になった奈保(なお)はんみたいに、どこかのお旗本の養女にしてもろて、次にはんの養女になろかな」
「おいおい---」
「冗談にゆうてみただけ---」

それでなくても、久栄(ひさえ 33歳)がひそかに角をはやしておるというのに---。

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(沼間頼母隆峯の個人譜とおんなたち)


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2011.09.06

平蔵、西丸徒頭に昇進(5)

「鉄漿(おはぐろ)親、当ててみるぅ---?」
松造(よしぞう 34歳)の姉さん女房のお(くめ 44歳)か、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)の連れあいのお須賀(すが 47歳)あたりしかおもいつかなかったが、奈々(なな 18歳)がわざわざ謎をかけるほどだから、きっと意外な人物にちがいなかろう、返事をひかえた。

鉄漿(おはぐろ)親とは、嫁入りとか成人したとかで初めて歯を染めるとき、手引きしてくれる先輩をそう呼んで敬した。

すでに桜色の短い閨着(ねやぎ)をまとった奈々は、片ひざ立てで股奥をのぞかせていた。
ふっくらと盛りあがっている秘部には、絹糸のような薄い陰毛が細い溝から離れ、数えられるほどしかついていない。

里貴(りき 逝年40歳)のそれになじんでしまっていた平蔵は、黒々とした密毛にはひるみ気味でさえあった。

平蔵がのってこないのにじれた奈々が、
奈保(なほ 22歳)はんや」
「なほ? ああ、っさんのご内室の---」
っさん〕とは、里貴を診とってくれた医師の多紀安長元簡(もとやす 31歳)で、奈保はその若妻であった。

元簡奈保の仲は、里貴がとりもった。
女躰に通じている〔(やっ)〕さんは、里貴をひと目で〔好女(こうじょ)〕と認定した。
〔好女(こうじょ)〕とは、美人のことではなく、卑俗にいう「床(とこ)上手」のおんなの別称であった。

参照】20121225[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)]  () () () (

里貴おばはんの見舞いに、たびたび来ていたん」
気をゆるすと、紀州弁がでる。
それも愛嬌のひとつとして、平蔵は聞きながしている。

奈保はん、17だったん---」
「なにが---」
先生を受けいれたん---」
「挙式の前に、〔好女〕かどうか、手ばやく診たてたんだな」

「だもんで、奈保はん、17歳でお歯黒---。うちも、17だったもん」
平蔵との最初の夜のことをいっていた。

参照】2011年9月30日[新しい命、消えた命] (

「うちは、おじさんのもんや、と自分にいいきかすため、歯を染め眉をおとしたん」
「可愛いことをいってくれる---」
里貴おばはんができへんかったこと、したいん」

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2011.09.05

平蔵、西丸徒頭に昇進(4)

天明5年(1785)が明けた。

平蔵(へいぞう)  40歳
久栄(ひさえ)    33歳
辰蔵(たつぞう)  16歳
津紀(つき)     2歳  
(はつ)      13歳
(きよ)      10歳
銕五郎(てつごろう) 5歳
(たえ)      62歳

月輪尼(がちりんに)25歳
奈々(なな)     18歳 


老中・田沼殿頭意次(おきつぐ 67歳)からの中屋敷への招きは1月14日の夕刻との案内がくるまで、のびのびにしていた先任の西丸・徒組の頭2人---

第3の頭 
 沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 53歳 800石)
 天明2年(1782)4月1日 西丸書院番ヨリ

第5の頭
 桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)
 安永2年(1773)8月8日 11番組徒頭(49歳)
 天明元年(1781)5月26日 西丸・5の組頭(57歳)

披露の招待宴をその前日の13日に行うことを決めた。
もちろん2人には、翌夕に田沼の中屋敷に呼ばれていることは伏せた。

会席は、紀州藩内貴志村育ちの若女将がやっている茶寮〔季四〕と告げると、2人とも先手組頭に栄転した万年市左衛門頼意(よりもと 67歳 1000石)から老中・相良侯が肩入れしている店と吹きこまれていたらしく、否やはなかった。

鍛冶橋下の供の者たちも同乗できた屋根舟には、さすがに驚いたようであった。

帰りは、桑山が三番町、沼間は新道一番町と、両者とも番町だから市ヶ谷門下まで同じ舟で送ると告げると、
「こころ遣い、助かる」

片や、招待主の平蔵が驚いたのは、眉をおとし、鉄漿(はぐろ)の奈々が出迎えたことであった。
齢以上に艶ぽっぽい演出であった。
初めて会う2人は気づいた気配がなかったが。

新任披露のあいさつが型どおりに終わると、さっそくに桑山内匠政要が、酌をした奈々へ話しかけた。
「紀州の生まれだそうじゃの?」
「あい。紀伊・那賀郡(すかこおり)貴志の荘でございます」
「おお、音韻の抑揚が、父母のそれと似ておる。久しぶりに聴いた」

奈々に酌をかえし、
「わしは、江戸でうまれ、紀州の地をふんだことがない。美しい山河と聴かされておる」
「去年は木綿が不作で、村々は困っているそうでございます」
「そのことよ。あちこちの国で不穏の動きを報せてきておるそうな」

桑山家は祖父が、吉宗(よしむね)の江戸城入りに従うように選ばれた紀州藩士の中でも最上位から4番目にあたるほどの名門で、その嫡男も小姓組番士として仕えていた。
それが政要の父であった。
したがって、目線はどうしても幕府寄りになった。

杯をおいた沼間頼母隆峯が話を引き継いだ。
「諸侯の中には、参勤の所要金がでなく、お上に延滞を願っているところも少なくないらしい」

沼間家も家柄は古くはあるが、信長、秀吉を経ての家康づかえだから主流とはいえず、どこか醒めていた。、

「不穏な動きに備え、ご重職の方々は、警備の手当てを構じておられるとか」
「米の買占め、売り惜しみがつづけば、当然、起きましょうな」
「その時、西丸のわれら徒組にも鎮圧出動の布告がきましょうや?」
「備えだけはしておかぬとな」

客人2人の会話に、平蔵は与(くみ)せず、黙って聴いていた。
それというのも、9年前の将軍家の日光山参詣のおり、警備のことで思いついた、麦畑の畝を道に対して丁字形にと提案し、沿道の村人たちに大きな労役を強いることになった経験から、村方の負担を増す話にはのれなくなっていた。

参照】2011年4月20日[火盗改メ増役・建部甚右衛門広殷] (

それと、も一つ。
仮に出動したとして、鎮圧する相手は武器刀剣をもった敵方の将兵ではなく、暴徒といっても無宿人やあぶれ人であろう、赤子の手をひねるようなものだ。

酒が終わって料理になったところで、平蔵が手水(ちょうず)を使うふりで立つと、ぬかりなく奈々が、
「こちらでございます」
みちびいた。

声が聞こえないところで、
「〔鈴木越後〕の菓子折りはととのったか?」
「はい。三ッ目ノ橋通りのお屋敷の分も---」
ちろりと舌を見せた。

当時、役職就任披露宴の手みやげに持たす、本町の菓子補〔鈴木越後〕の折詰は1両(16万円)近くしたとの記録がのこっている。

「鉄漿(おはぐろ)親は誰だ」
「あとで、家(うち)で---」
平蔵の胸をぽんと叩いて座敷へ戻っていった。

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(桑山内匠政要の個人譜)

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2011.09.04

平蔵、西丸徒頭に昇進(3)

「たしかに、七代さまが役付きにおなりになったのは、そなたさまより1年遅かったかもしれません。でも、七代さまのほかには、両番のこの家筋から、それまで、役付きにおなりになったご先祖はお一人もありませんでした」
久栄(ひさえ 32歳)が、なにかというと七代(舅・宣雄 のぶお 享年55歳)の肩を持つのは、:嫁にきて間もなくから、夫・銕三郎(とつさぶろう)の外のおなごの艶聞で苦労いているのを、なぐさめるようにいとおしんでくれたからであった。

さいわい、親類が顔をみせた昇進の祝儀の席では発言をひかえるだけの節度はもっていたが---。

(妻という生きものは、独占したがるこころ根が強すぎる)

「七代さまは、小十人組のお頭を8年で、お先手組のお頭に出世なさしました」
(徒組の頭になったばかりというのに、もう、つぎの役職を目の前に吊すとは---)

はっ、と納得がいった。
「七代(ななだい)さま、なな代さま---」
このところ、
しきりに持ちだしているのは、奈々(なな 17歳)のことをあてつけているらしと。

田沼主殿頭意次(おきつぐ 66歳)の木挽町(こびきちょう)の中屋敷へ歳暮をとどけた奈々が、佳慈(かじ 33歳)からの言葉を伝えた。
「年明けの行事が片付いたら、呼び出しをかけるから、応じるように---」「

「どなたとどなたをお招き、とのお仰せであったかな?」
平蔵(へいぞう 39歳)の問いかけに、桜色の腰丈の寝衣で片立てにしていた膝頭に小椀の手をのせ、
「いわはらなか---おっしゃらなかった」
「そうか、おっしゃいませんでしたか」
「あい。おっしゃいませんでした」
2人して、声をあげて笑った。

平蔵は、20年も前、駿府の府中で、父の養女・与詩(よし 6歳=s当時)をもらいうけた帰り、その言葉づかいをいちいち直したことをおもいだした。

参照】200818~[与詩(よし)を迎えに] (20) (21) (22) (23) (24

ひととおりの礼法は、勘定見習·山田銀四郎善行(よしゆき 41歳 150俵)の実母・於(よし 62歳)に習い、江戸ことばも、ともに学んでいたお(しま 19歳)とお(つう 17歳)らからの口うつしで馴れてきていたが、里貴(りき 享年40歳)が倒れてからは、いつしか遠まになっていた。

笑いをおさめた平蔵が、
「女将にとっての財産の一つは、言葉づかいかもしれないな。於師に、も一度、頼んでみよう。今度は、裏の寮にいる女中衆もいっしょに、この家でお教わるといい」

寮の女中たちは、紀州の貴志村と信州・佐久郡沓掛村で育ったむすめたちであった。
寮では、故里ことばで話しあっているにちがいなかった。

奈々には折りをみ、藤間流あたりの踊りも躾けたかった。

天明4年(1784)が終ろうという大晦日近く、奈々が金包みをだし、
「今年のあがりです。お納めください。里貴おばさまからいいつかってました」
平蔵は一礼してから押し返し、
「志は受け取った。これは、奈々の衣装料である。女将にとり、着物は仕事着であろう。われからの志として受けてくれ」
「ありがたく、頂戴します」

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2011.09.03

平蔵、西丸徒頭に昇進(2)

「西丸だけでも、徒頭(かちがしら)を若がえらせておかねば---」
はからずも重職たちが評議の話題にしたのは、徒頭の役高料(1000石)よりも家禄が上の者---いわゆる持ち高勤めが多く、より高い次の職席を待って長居する悪習がひろがっていたからでもあった。

役高料1000石は職席についていた。

平蔵(へいぞう 39歳)の長谷川家の家禄は400石だから、徒頭になると1000石に満たす600石が足高(たしだか)として幕府から給された。

(この足高600石がまるまる給されたのか、知行地の4公6民といわれていたように、実給4割であったのか、浅学にして寡聞である)

ま、どちらにしても、平蔵家にとっては実質増収であった。

徒頭の高齢化だが、「番方(武官系)の爺ィの棄てどころ」と侮蔑された先手組頭ほどではないにしても、その傾向は認められた。

参照】2007年4月15日[寛政重修諸家譜] (11

とりあえず平蔵の前10名を西丸・徒の第4の組頭の着任時の年齢と次の職席を『柳営補任 三』(東京大学出版会 1963)から引いて掲げる。


万年市左衛門頼意 1000石
 安永2年(1773) 西丸小姓組ヨリ(55歳)
 天明4年(1784) 西丸先手組頭(66歳)

長谷川藤右衛門長庸 1000石
 明和2年(1765) 書院番ヨリ(40歳)
 安永2年(1773) 辞(48歳)

浅井小右衛門元武 540石
 宝暦元年(1750) 小姓組ヨリ(41歳)
 明和2年(1765) 先手組頭(56歳)

石谷十助清寅 2500石
 享保19,年(734) 書院番ヨリ
 宝暦元年(1750)
*『寛政譜』に該当者見当たらず。
  『柳営補任』は官製ではないので、まま不正確。

玉虫八左衛門茂雅 1100石
 享保15年(1730) 書院番ヨリ(44歳)
 享保19,年(1734) 卒(48歳)

曾我権之丞孝助 800石
 享保4年(1719) 寄合ヨリ(『寛政譜』に年齢記載なし)
 享保19年(1734) 西丸目付(同上) 

中山主水勝豊 1300石
 正徳2年(1712) 寄合ヨリ(34歳)
 享保13,年(1728) 卒(50歳)

土岐内記定武 600俵500石 
 元禄16年(1693) 書院番ヨリ(『寛政譜』に年齢記載なし)
 正徳2年(1712) 辞

中根宇右衛門正包 2000石
 元禄12年(1699) 書院番ヨリ(41歳)
 正徳4年(1714) 書院番与頭(56歳)

水野多宮信房 ?
 元禄9年(1696) 書院番ヨリ(33歳)
 元禄12年(1699) 目付(36歳)
 *『寛政譜』は守美。
 *目付で火盗改メをやった珍しい人。

結果、探索不能1、辞2、卒1、年齢記載なし2---と、次の職場が分かったのは10人中4人だけにすぎなかった。
うち、職位というか、格があがったのは先手組頭(1500石格)の2人だけ。
(万年市左衛門頼意の家禄は1000石、浅井小右衛門元武は540石)

ということから徒組の頭は、出世を願っている者の待機職席・通過職位ともいうようか。

出世とは、家禄以上の格の職席につき、足高を給されること。
商人の、小僧から手代、つづいて番頭になるのは出世ではなく決まっている経年昇進。、

平蔵が徒頭の地位についた39歳ぎりぎりの年齢は、早かったとは決していえない。

亡父・宣雄(のぶお)が西丸・書院番士から本城の小十人組の頭(1000石高)に引きあげられたのは26年前の宝暦8年(1758)の秋、40歳の時であった。
 
 


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2011.09.02

平蔵、西丸徒頭に昇進

---天明四年(1784)十二月八日、西城御徒(おかち)の頭(かしら)に転じ、十六日布衣(ほい)を着する事をゆるさろ---

寛政重修諸家譜』の平蔵宣以(のぶため 39歳)の師走の記載である。

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(長谷川平蔵宣以 西丸・徒頭へ昇進の家譜)

12年間、大過なく勤めあげた結果の栄進であった---というか、西城徒組の4番手の番頭・万年市左衛門頼意(よりもと 66歳 1000石)が番方(武官)のあがりともいえる西丸・先手頭へ転出したあとがまであった。

いや、あとがまという意味では、、西丸・書院番の4の組---すなわち、平蔵が組下である水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 62歳西城御徒 3500石)の組から西城御徒頭の席をえた萩原求五郎秀興(ひでおき 享年53歳)2年前に病死したことのほうが強いかもしれない。
つまり、その職席の一つは水谷組のものと考えられていたようである。

そのころ、徒組(かちぐみ)は本丸に15組、西丸に5組あるのがきまりであった。
文字どおり、戦時は歩兵部隊であるから、泰平がつづいている今は、火急の組でない。
徒士は各組とも30士で70俵5人扶持。
うち、2人が下士官格の与(くみ 組)頭。

とはいえ、安永8年(1779)2月に家基(いえもと 享年18歳)が急死したあと、西丸の5組のうちの12の、2つの組が本丸へ打ち込み(移動)させられていた。

三卿の一つ、一橋から豊千代(のちの家斉)が養君として西丸入りしていることはすでに伝えた。

参照】2011年2月9日~[田沼意次の世子選び] () (
2011年2月15日~[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (1) () () () () () () () () (10) (11) (12

2年前に加冠の儀をすませた家斉は12歳、年があければ13歳である。
諸事の体制も正規に戻すべきだと西丸の重職も考えていたかもしれない。
まず、残っている徒の3組の頭を若がえらせておくことだ、と開陳した重役もいたろう。

第3の徒組の番頭
 沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 52歳 800石)
第5の徒組の番頭
 桑山内匠頭政要(まさよし 61歳 1000石)

徒組の第4の番頭に平蔵があてられた。
西丸・若年寄の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 38歳 2万石)の強い推しもあったろう。

参照】2011年3月5日~[与板への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

内示をうけるとすぐに、前任・万年市左衛門頼意(よりもと)の詰め部屋へ、同朋(どうぼう 茶坊主)に書状を持たせた。
「このたび、第4の組をお預かりすることになりました。諸事お教えいただきたく、両3ヶ日がうちのご都合のよろしき日をご指定くだされば幸い---」

迎えは、いつものとおり、鍛冶橋下で黒舟と老練な船頭・辰五郎(たつごろう 54歳)が待っていた。

その前夜、亀久町の家で、奈々(なな 17歳)に、明宵、招くのはわれの将来にとって大切なご仁ゆえ、われらのことはくれぐれも他人ごとを演じきるように---と、真面目な顔でいいわたし、閨(ねや)では奈々が悲鳴に近い声を発するほど念入りに練りこんでおいた。

奈々が紀州の貴志村の生まれとしった万年は、
「いつまで、紀州にいたのかの?」
「16の春まで育ちました」

長谷川うじ。第5の組の頭、桑山うじは紀州組だ。いっしょすればよかったな、そうだ、新任の披露の宴は、ここでなされよ」
3組のうちでは桑山が最年長・最古参であるから、その意を汲むぺきだといい添えた。

「見かけたところ、20歳前とおもうが、その若さでこのような店の女将とは---」
「おばが、相良侯の庇護で---」
「なるほど--」

これに類した問答は、この一年、ほとんどの初見の客とかわしてきた。
つぎに来た時には、連れの客に、さも心得たふうに、
「女将が17歳なのは、いまは躰をこわして休んでいる先(せん)の女将の縁者でな、おばにあたる先の女将は、老中・田沼侯ゆかりの女人(にょにん)で---」
さも、自分が田沼老中と親しくしているとおもわせるような引き合わせ方をしたり、奈々の後見の者であるかのような、なめらかな口ぶりで話した。
奈々も、それをを肯(がえん)ずるようにうなずいてきた。
客がつづくわけである。

平蔵が話題を転じ、
「いつごろ、正規の組が先(せん)に戻りましょうや?」
長谷川うじも、先般の上君の羅漢寺あたりへのご遊行に供をしておわかりのように、これからあのようなお出かけも重なろう。いそぎ復さねばなるまいが、宿老がたのお考え次第での---」

万年先手組頭の拝領屋敷は水道橋土手内であったから、黒舟が橋下まで送った。


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(万年市左衛門頼意の個人譜)


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2011.09.01

火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転

天明4年(1784)という年は、長谷川平蔵宣以(のぶため 39歳)にとって、吉凶があざなえる縄のようにつながっていたといえた。

年の初めに、西丸・書院番4の組番士として出仕した平蔵を上から横から見まもり、里貴(りき 逝年40歳)とのあいだもほほえましいと許容してくれていた与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 享年64歳)が逝った。
麹町の心法寺での葬儀は派手ではなかったが、勝孟の人柄をしのばせ、弔問の列が長かった。

全盛の田沼主殿頭意次(おきつぐ 66歳)の力をさえぎるように、嫡男・山城守意知(おきとも 享年36歳)が、遠祖をたどると同根といわれている佐野善左衛門政言(まさこと 30代?)に斬られた傷がもとで無念死し、駒込の勝林寺へ葬られた。

夏に里貴も生命(いのち)が尽き、跡継ぎの奈々(なな 17歳)が平蔵との念願をはたした。

長谷川の家族へ横から割りこむように、辰蔵(たつぞう 15歳)の子を月輪尼(がちりんに 24歳)が産んだ。


生死とはかかわりがないことだが、火盗改メの頭(かしら)して異例の5年間も敏腕をふるった(にえ) 壱岐守正寿(まさとし 45歳)が、堺奉行として7月25日に発令された。

徳川実紀』がしばしば諭告を書きとめているように、不作の予見からか年初より米の出まわりがよくないことを叱っていた。

もっとも、茶寮〔季四〕は米に不足きたすことも、高値を払うこともなかった。
前まえから、長谷川家の知行地(上総国武射郡寺崎村、同山辺郡片貝村)でとれた村方分の換金は、小関(こぜき)村(現・千葉県九十九里町小関)生まれで、香取郡(かとりこおり)佐原村の蔵元・伊能家へ入り婿した三治郎(のちの忠敬(ただたか))が江戸・鎌倉河岸(千代田区内神田1丁目)に出していた米問屋と契約していたからであった。

伊能忠敬が商売上手であったことは、18歳で齢上の子持ちの後家・達(みち 22歳)に入り婿したときの伊能家の資産を、50歳で引退したときには23倍の30万両に増やしていたと、資料が裏書きしている。

このブログでは、このところ1両を16万円に換算している。
30万両は、480億円。

天明3年(1783)の浅間山焼けよった田畑の被害、翌年の飢饉のお助け米などの放出も計算にいれた上での資産増である。
事実、佐原村からは1人の餓死者もだしていなかった。

忠敬の金銭才覚もさることながら、この時の名主としての善行を賞した采知主・津田内匠頭信之(のぶゆき 44歳=天明4年 6000石)が苗字帯刀を許した。

伊能忠敬と長谷川平蔵のつながりは、絵空ごとではない。
下にリンクしたコンテンツをお読みいただきたい。

伊能忠敬は延享2年(1745)の生まれだから、平蔵より1歳年長であった。

参照】2006年4月24日[平蔵のすばやい裁決

伊能忠敬をもちだしたのは、ほかでもない。

飢饉というむつかしい時期に、堺奉行に栄転する贄 壱岐守正寿へ祝賀の品をととどけた平蔵の祝辞を理解してほしいからである。

「非常時のご奉行、ご手練のほど、見習わせていただきます」
長谷川うじがこと、後任の横田源三郎松房(としふさ 41歳 1000石)どのへ、しかと申しおくっておいたゆえ、近く、あいさつなさっておかれよ」
「変わらぬご配慮、かたじけのうございます。しかし、足でまといのあつかいもうけず、おもしろうございました。

贄 壱岐守正寿の在任中に平蔵が関与した事件などは、

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] (
) () () () () () () 
2010年12月12日~[医学館・多紀(たき)家] () () () () () (
2010年12月18日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () () () () () () () (
2011年1月25日~[平蔵の土竜(もぐら)叩き] () () () () () () () () ()  (10) (11) (12) (13
2011年4月30日~[おまさの影] () () () (
2011年5月4日~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () () () () () () (

「堺で奉行所の手にあまる事件がありましたら、お声をおかけくだされば、かけつけます」
平蔵の幕臣の分を超えた言葉に、 越前守は微笑しただけであった。

堺へかけつけたいのは、ちゅうすけである。
の善政を地元の研究家の方々に教えていただきたい。

堺奉行の発令とともに、爵称は越前守に変わっていた。

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