平蔵、親ばか(5)
「なるほど。立射の上手だけでは目立たないと申されるか?」
本丸・徒(かち)5の組の頭(かしら)の牧野監物成知(しげとも 32歳 家禄2200石 役高1000石)が、内心の不快感をこらえ、かすかに微笑みながら問うた。
平蔵(へいぞう 40歳)も、
「豚児は、布施十兵衛(良知 よしのり 41歳 300俵)どのから日置(へき)流のご師範をうけておるのですが---」
口にしてしまってから、
(しまった、急ぎすぎた)
後悔したがあとの祭りであった。
ここが里貴(りき 逝年40歳)であれば、ぴんと察し、
「お話がむつかしゅうなりましたが、とりあえず、盃をおあけくださいませ」
とか、
「お酒(ささ)が冷えました。暖かいのを持ってまいります」
座をごまかしてくれたろうが、若い奈々(なな 18歳)にそれを期待するのは無理であった。
が、今夕の席を提案してくれた桑山内匠政要(まさとし 63歳 1000石)は、さすがに老練で、銚子を奈々の手からとり、監物へすめながら、
「長谷川どのは、徒の頭の仲間入りをなさったのを機に、駿馬をお求めになっての。それで、息子どのにも騎射をとお望みになったのであろうよ」
徒頭としては長老の内匠政要になだめられては、監物成知も引きさがらざるをえない。
笑顔で言ったものの、声がとがっていたことは、自分でもわかっていた。
桑山老は紀州藩閥の中でも重きをなしている存在であった。
しかも、ここへの口がかかったとき、茶寮〔季四〕は、老中・田沼意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)が背後についている店とささやかれた。
父・大隈守茂賢(しげかた 72歳)は、大目付時代の去年の3月、田沼意知(おきとも 享年36歳)が刃傷をうけたとき、そばにいながら犯人を取りおさえなかったと叱声を得ていた。
「駿馬をお求めとはうらやましい」
「亡父が先手の頭になる寸前に、もと病馬の馬場であった馬糞くさい敷地に入手しまして---」
「それはそれは---で、広さは---?」
「分には過ぎた1238坪です」
「では、厩舎もお屋敷の内に---?」
「のこしてあったものに手を入れて---」
「では、ご子息も乗馬におはげみになれますな」
「なるほど。馬の乗りこなしが先でしたな」
牧野成知の屋敷は愛宕下佐久間小路であった。
送りの黒船は、土橋で牧野を降ろしてから神田川まで戻り、先日のように市ヶ谷門下で桑山内匠を陸(おか)へあげた。
ことの結着を記すと、牧野成知がこの年の8月に目付に転じたので、家士とねんごろな縁者になることは遠慮したいということで、辰蔵(たつぞう 15歳)の兄代わりの話は断られた。
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コメント
合戦がない時代でも、弓の上手は、幕臣には名誉だったのですか。
投稿: kayo | 2011.09.18 05:43