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2011.09.12

老中・田沼主殿頭意次の憂慮(3)

3日後に、本城の徒(かち)の1の組頭・石谷(いしがや)市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)からの書状を同朋(どうぼう 茶坊主)がとどけてきた。

今宵、13の組の組頭・神保(じんぼう)四郎左衛門長孝(ながたか)どのといっしょに会いたい。場所はどこにても---としたためられていた。

同朋を本城へ遣いにだし、神保(37歳 1100石)の屋敷の所在を訊かせた。
石谷清茂の住いは、先宵、田沼老中の木挽町(こびきちょう)の中屋敷での別れぎわに、元飯田町と聴いてあった。

小川町一橋通りと返ってきた。

すぐに松造(よしぞう 34歳)を呼んでもらい、〔季四〕と〔黒舟〕へ行かせた。

馬場先門東詰で落ちあい、鍛冶橋下で待っていた屋根舟で深川の冬木町寺裏舟着きまでのあいだに、これから行く茶寮〔季四〕は、田沼侯の息がかかっている店だと吹きこみ、小川町一橋通りの南端にあった茶寮〔貴志〕が元の店というと、神保長孝が、
「覚えていますが、いわくがありそうな店構えでしたから、あがったことはありませなんだ。10年ほど昔の謎が解けるのが楽しみです」
さすがに6000石の大身の従弟をもっている家柄らしく、諸事に通じているところをさりげなくみたせたが嫌味はなかった。

ついでに記しておくと、従弟の左京茂常(しげひさ 21歳)は、去年、父の茂済(しげずみ 39歳)が療養を理由に致仕したのをうけて家督したばかり、無役であった。

出迎えた若々しい奈々(なな 18歳)が、眉をおとし鉄漿(おはぐろ)なのに、神保長孝が、
「---?」
妙な顔をしたので、
「おばだった〔貴志〕の女将が去年亡くなったのです」
それきりで、説明をひかえた。

「先宵の相良侯の---」
いいかけた石谷清茂に首をふると、
「いや、耳打ちしたのは、神保どのだけです。組頭15人の年齢を調べるとなると、独りでは無理で。さいわい、神保どのは安永5年(1776)から今の職に就(つ)かれてい、たいていのことはご承知なのです」

石谷組頭としては、田沼老中が先手組頭の横田源太郎松房(よしふさ 42歳 1000石)に命じてつくらせた組頭の平均年齢を割りだす脅迫観念にとりつかれていたらしい。

調べた結果によると、本城の徒組頭15人中の最長老は59歳、最若年は32歳、平均は48歳。30代は3人、40代3人、50代が9人と、
「若こうござる」
わかりきった結論であったが、
「ご苦労でした。ちなみに、西丸の3人の平均は52歳、最長老は61歳、最若年はわれの40歳、あとの一人が50代でござる」
暗記(そらん)じてみせたが、皮肉は通じなかった。

「ご老中にはこの結果を呈上いたしたから、西丸・若年寄の井伊兵部少輔直明 なおあきら 39歳 与板藩主)侯へは、長谷川どのからいまの西丸分を副えて、おとどけくだされ」
「承知つかまつった」

宴がおわり、黒舟でお茶の水道橋下と牛込門下まで送るというと、
「今宵の諸掛りは、3等分し、2口は手前のところへ---」
「承知つかまつった」


神保長孝は、
「若女将は、誰の持ちものですかね?」
「さぁて---じかにお訊きになったら---」
「もし、ご老中に知れたら、左遷ものでしょうな」
「たぶん---」


1_360
2_360
3_360
(神保四郎右衛門長孝の個人譜)

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