« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月の記事

2011.10.31

ちゅうすけのひとりごと(78)

「こんな本が出ました」
安池欣一さんからカバーを取り去った赤い表紙の本を預かった。

当ブログに親しんでいらっしゃる鬼平ファンの方は、安池さんのお名前と研究発表を幾度もお目になさっているはずである。

そう、SBS学園の静岡駅ビル・パルシェの[鬼平クラス]でともに長谷川平蔵まわりの史実を学んでいる方である。

書名は『【緊急提案】徳川家治の政治に学べ --近代的手法を駆使し成功させた--景気浮揚・地方分権・財政健全化・税制改革』(㈱テーミス 2011.05.31刊)と、副題もふくめた入念で長いもの。

著者の後藤晃一さんは、静岡銀行の調査役を経て退職、静岡銀行協会事務局長。
後藤さんのご父君は、同じ静銀の要職にありながら、県下の相良藩主で老中までのぼりつめた田沼意次の事跡を研究なさった故・一朗さんである。

その研究の成果の一端である『田沼意次◎その虚実』(清水新書)は、たびたび引用・紹介してきた。

参照】2007年11T月24日~[田沼意次その虚実] () () () () (
2007年11月28日[一橋治済] (2

その嫡子である晃一さんは、亡父・一朗さんの遺志と史料を引き継ぐととも、田沼意次とそのグルーブに才能を発揮させた10代将軍・家治に照明をあてた。
亡父より1ランク上の地位にいた家治に目をつけたあたり、みごとであるとともに、直(じか)の史料が乏しいくて苦労されたろうとおもう。

じつは、ぼくも将軍としての家治の人柄を、当ブログで書いたことがあった。
直(じ)かの史料によるというより、西丸で帝王教育をうけている竹千代(のちの家治)の伽衆の一人として主君を見ていた(にえ) 安芸守正寿(まさとし 享年55歳)の口をとおし、帝王学を語らせた。

参照】2010年12月4日~[先手・弓の2番手組頭・贄(にえ)安芸守正寿] () () () () () () () () 

直(じ)かに将軍の言動に光りを当てることには困難がある。
将軍は、幾重ものヴェールというか、作為に包まれているからである。

それと、史料にのこっている政策が将軍の直(じ)かの発案・指令になるものか、下からの提案を承認したものかを見分けるのはきわめて困難であるし、その見分けは苦労ばかり多くて、学問的な価値はそれほど大きくはない。

あえて挑戦した著者の意欲と成果には、驚嘆するばかりである。
著者をそれに駆り立て経緯は、同著の前書きに記されているので、長くなるが引用する。


はじめに 政治改革のヒント

昨今、政治家を悩ませている難題が数多くあります。
本書の副題に挙げた「景気浮揚」、「地方分権」、「財政健全化」、「税制改革」などがその最たるものではないでしょうか。
江戸時代、こうした難題と真正面から取り組み、見事に解決した政治家がいました。

それが本書の主人公、十代将軍徳川家治であります。
その政治手法は非常に斬新で、興味深いものであります。詳しくは本文で記しますが、ここでその、さわりの部分だけお示しいたします。
「景気浮揚」 家治以外にも江戸時代に景気を良くした人は何人もいます。その人たちの手法は、金をぱらまくという、ごく単純なものでありました。
その後をみると、決まって財政赤字、あるいは手持ちの金を激減させています。

それにひきかえ家治の手法は、手持ちの金を増やしながら景気を良くする、というものです。
金をぱらまくどころか、大倹約をしているのです。
しかも景気の良さは半端でなく、どの歴史書にも「百花瞭乱の世」と記されている程でした。(中略)


「景気浮揚」、「地方分権」、「財政健全化」、「税制改革」の簡単なサムアップにつづいて自負が述べられる。


家治は将軍になるや、このような政策を次々に打っていったのです。
ところで皆様方はここまでの記述をご覧になって、歴史家でもない私の記事を、素直に信じていただけたでしょうか。
たぶん半信半疑でおられることと思います。
なぜなら従来の歴史の本に、このような記述がないからです。

では私が何を根拠に書いたか、また上記疑問点などが今までの歴史の本になぜ記されてこなかったかを、私の推理を交えここで述べておくことにいたします。
 
本書の原典は、主として「徳川実紀」「寛政重修諸家譜」や当時来日したツンベルグの記述、および当時の長崎商館長チチングの著(この二人は当時の日本を調査し、客観的に記述している)です。
私は今までの歴史家の言を鵜呑みにせず、極力こうした原資料を基にして記しました。

なぜ従来の歴史家の書を避けたかといえば、その人達の多くが武士出身または現役武士であり、武士側に立って物事を見つめ、書いていたからです。
そのため国民にとって良い政治であっても、武士にとって都合の悪い政治であれば悪い政治とされ、中には埋もれてしまったものもあります。
結論から言うと、当時の歴史家による歴史書で、庶民側から見て書かれたものはなかったということです。
本書は、当時を庶民側に立って俯瞰し、記したのです。

それまで悪い政治と定説化されていることや、消されとしまった記述であっても原点に返って調べ、必要と思われるものは丹念に拾い出しました。
いわゆる視点を変えて見たわけです。

すると国のため国民ために、先頭に立って采配を振る将軍家治が見えてきました。
「乱れた世」それは武士側からみた表現で、庶民側からみた場合「自由と平等の世」となるです。(後略)


読後感をいえば、時代は記述によるところが多いとして、家治の時代だからといいきっていいかな、との疑問ものこる、といったところであろうか。


| | コメント (2)

2011.10.30

石浜神明宮の神職・鈴木氏

「このたびは、危(あや)ういとこころをお救いいただきまして---」
石浜神明宮の神職・鈴木知庸(ともつね 50代なかば)と名乗り、低頭して礼を述べた。

「おなおりください。賊を召し捕られたのは、横田組のお歴々です」
平蔵(へいぞう 40歳)も、つねになく恐縮していた。
薦樽が昨日とどけられていたから、〔四方津(しほづ)〕の勘八(かんぱち 33歳)一味の押しこみの前にふせいだ礼であることはわかっていた。

しかし、宮司自身が参上してくるとはおもってもいなかった。
出役の采配をした次席与力・高遠正大夫(しょうたゆう 49歳)が同道していた。
この与力の先代とは親しかった。

参照】2008年4月24日[〔笹や〕のお熊] (

〔五鉄〕へ誘った。

酒がはいり、与力の先代の弥太夫の回顧談になったとき、神職が、
「それがしの母親は、久太夫という者のむすめでして---」
太夫かかわりで何気なくもらした。

平蔵が触発された。
「もしや、姓を三木と---?」
「はい。松平大学頭(頼亮 よりあきら)さまの家臣で、三木久太夫忠位(ただたか)と申しました」
「奇遇です。手前の亡妹は、三木忠太夫忠任(ただとう)という人のむすめでした」
「縁者に、そのようなご仁がおられたと耳にしたことがあります」

参照】2007年10月28日~[多可が来た] () () () () () () (
2008年1月5日~[与詩(よし)を迎えに] (16) (17) (18) 

平蔵は、ちらりとしか会ったことない三木忠太夫忠任のことをもっと聴きたかったが、知庸の帰りの足をおもんぱかり、五ッ(午後8時)前に切りあげ、再会を約した。

帰館してみると、久栄(ひさえ 33歳)、辰蔵(たつぞう 16歳)、月輪尼(がちりんに 24歳)が真剣に話しこんでいるところであった

「どうした?」
(がち)さまにご本山からお召しがまいりました」
「なに---?」
津紀(つき 2歳)のことが発覚(ば)れたようです」
津紀のことやのうて、姦淫の破戒のお咎めらしおす」
月輪尼が凛(りん)とした口調で告げた。

| | コメント (2)

2011.10.29

長(おとな)・千田聡兵衛からの封翰(5)

若君・豊千代家斉(いえなり 13歳)公の、深川東端・亀戸村での初鷹狩への扈従(こじゅう)などにとりまぎれ、平蔵(へいぞう 40歳)は、お(そめ 26歳)と卯作(ぼうさく 6歳)のことはほとんど頭になかった。

松造(よしぞう 34歳)と顔をあわせるたびに、10歳齢上女房のお(くめ)がどう許したかを訊いてみたくなるが、家長として家士の閨(ねや)ごとなどに興味を示してはならぬ。

松造も、なにごともなかったごとくに勤めている。
それでよいのだ。
(あれは、われの身代わりをつとめてくれた忠勤ぶりであったのだ)

しかし、観察者のちゅうすけとしては、落川(おちかわ)村の長(おとな)・千田聡兵衛(そうべえ 60がらみ)が自然薯をどっさり若いのにかつがせて長谷川邸へやってきたことを報じないわけにはいかない。

長谷川さまの元気をいただきこうとおもいたったら、もう、村にじっとしておられなくなりましてな」
「どこか、不具合でも---?」
「50すぎまで山仕事で鍛えております、弱っているのは目と歯と---なに、だけですよ」
「順当に---」
「さよう、世間並みに---ふ、ふふふ」

聡兵衛老を〔五鉄〕へ案内した。
酒の肴にでた甘醤油煮の肝をよろこんでつまんだ。
弱っている歯でも噛め、それなりに口あたりがいい。

身をのりだし、お(そめ 26歳)を嫁(めと)った堀の内の(真宗)永照寺だが、たいそうな人助けであったと話しはじめた。

住職は3年前に2つ齢上の大黒を病死させていた。
大黒は、50歳をすぎたあたりから痛がって拒んだので、住職のほうもそれきり欲望を消してしまっていた。

を引きあわされ、恐るおそる同衾してみると、導きの手ぎわもよかったのであろう、その気が再生、悟りきった仮面がたちまち溶解した。

若僧時代に檀家の中年後家にしこまれた秘技にもほこりをはらった。

庫裏(くり)におさまったおは、檀家衆から、
「若大黒さま。若内室さま---」
たてまつられるので、生まれて初めて安住できるところを得たよろこびが、いっそう住職をふるいたたせた。

卯作(ぼうさく 6歳)も、
「じじ、じじ---」
住職になつき、勤行のときには並んでお経をあげるようになった。
10歳になったら、ほかの寺へ修行にだすことになっていた。

(おに縄をかけなかったのは正しかった。人は、環境がととのえば悪には走らない)


ちゅうすけ秘】20年前に物故した仲間のF氏はR角散という製薬会社の世継社長であった。
永照寺の前妻のような不調をあちこちから訴えられて研究、深く浅くの動きをなめらかにする薬剤をURASHIMA と名づけて製品化した。この話を転用させてもらった。


| | コメント (2)

2011.10.28

長(おとな)・千田聡兵衛からの封翰(4)

夜明けも、四ッ半(午前5時)前には雨戸のむこうが白ずんでくる時候であったが、2人は浜にうちあげられた魚のように眠りこけていた。

(そめ 26歳)が求めてやまなかったのである。
「ひと月近く水をかぶってばっかり---やったもん」

もちろん、松造(よしぞう 34歳)もむさぼったが、
(お(くめ 44歳)。お前とは、安んじて楽しめとるということが、ようわかった--)
相手の内心など忖度せずに昂(たか)まるおは、、
「男はんは30代が一番。かゆいところを間違えんと掻いてくれはる。それに、新しとこも---」

出立は五ッ半(9時)だったから、朝餉(あさげ)を運んだ中年の女中はふくれ面であった。
がこころづけをつかませ、汁椀を熱(あたた)めなおすようにいいつけた。


落川(おちかわ)村の長(おとな)・千田聡兵衛(そうべえ 60がらみ)の屋敷に顔を出せたのは昼前であった。

卯作(ぼうさく 6歳)は怖いものでも見ているように立ち尽くしていたが、母親が呼びかけると、むしゃぶりついて泣いた。

庭に面した部屋へ松造を通してから眼鏡をかけ、平蔵(へいぞう 40歳)の書簡を読みおえた聡兵衛が、折りなおし、
松造さん。長谷川さまは洞察してござる---」
「は---」
「あのおなごの誘惑にのるだろうが、お前さまはお上(かみ)さんに惚れなおすと、お見とおしでござった」
「そんなことが---」
「いや。そうはあからさまにお書きになってはおらぬ。半日遅れるであろうがご心配なく---とだけ述べておいでじゃ。おのために、真宗の寺をさがしてやってくれとお頼みでのう」

口のなかで、松蓮寺の古手(ふるて)のおなごを堀の内の永照寺の住持が大黒にすえるかのう、とつぶやいたあと、
「いや、わしとどっこいどっこいの齢の坊主どので、おが我慢できるかと問うが先かもな」

平蔵への返便を認(したた)めるために聡兵衛が奥へ引っこむのをうかがっていたおが庭へあらわれ、
はん。今夜はどこで泊りはる? うち、見送りにいこか---?」


松造が宿をとったのは布田五ヶ宿であったが、宿帳におの名は記されていなかった。

それよりも江戸へ帰った夜、おが動きをとめ、あけた目でじっと瞶(みつめ)られた時、全身に鳥肌がたった。
「お前さん、どうかした?」
「からす山で、ついでにお袋の墓に詣でたら、彼岸にはおといっしょにこい、といわれたような気がしてな」
「いこ。いこ------いく」

そのころ。
平蔵奈々(なな 18歳)の家をでて三ッ目通りの屋敷へ帰りながら、聡兵衛の返書にあった、
「お申しこしのとおり、松造さんには釘をさしておきました」
おもいだすと独り笑いをもらし、つぶやいた。
よ。われもずいぶん勝手な男だが、おぬしもおも、われには大事な者だからこそ、やったことだ」

つぶやきを吹きとばした夜風は、春の終わりを告げるようななま暖かさだった。


| | コメント (0)

2011.10.27

長(おとな)・千田聡兵衛からの封翰(3)

松造(よしぞう 34歳)。ご苦労だが、この手紙をとどけがてら、お(そめ 26歳)を連れ、日野宿の先の落川(おちかわ)村の長(おとな)・千田聡兵衛(そうべえ 60がらみ)どののところへ行ってくれないか?」
iにやりとほころばしかけた表情をひきしめ、
「殿。お(くめ 44歳)の勘気はお見とおしの上でございますか?」

逆に、平蔵(へいぞう 40歳)が笑い、
「一夜をともにしてやれとは頼んではおらぬ。江戸を早発(はやだ)ちすれば、このごろのことだ、日の暮れ前に着こう。もっとも、おのことゆえ、府中の手前あたりで足を痛めるやもしれぬがな」
「その夜、別々の部屋をとったことを証(あか)ししてくれる者がおりません」
「同部屋であっても、同衾をするとはかぎるまい?」
「ご無体をおっしゃられます」
「じつは、おは大金を持っておる。道中師を見抜けるのは、おぬししかおらぬ」
「そのこと、殿からおに、とくといいきかせてくだされませ」

主従のやりとりがあった末の、松造とおの甲州道中であった。

は、上方で10代の末に宇治の黄檗(おうばく)宗の本山・万福寺の大和尚・竺川(ちくせん 35歳=当時)の子を宿した。
そのことが本山に露見し、竺川は多摩の百草(もぐさ)村の伽藍・松蓮(しょうれん)寺へ飛ばされた。
真相がもみ消されたのは、出自がかなりの地位の公卿の5男だったからである。
も男児を伴って落水村へくだり住み、竺川の密訪を待ちながら暮らした。

秘事はいつしか寺社奉行のしるところとなり、縁切り話がもちあがり、おは躰の求めをこらえきれず、盗人・〔染屋(そめや)〕の利七(りしち 34歳)ともつるんだ。
もともと出事(でごと 交合)が嫌いな質(たち)ではなかったし、竺川にみっちりと耕やされてもいた。


〔箱根屋〕の権七(ごんしち 53歳)の家へ泊まっていたおを六ッ半(午前7時)に迎えにいった松造は、新宿で馬を雇った。
「足が痛い」
訴えられるのをふせぐためであった。

下高井戸で昼飯にし、馬を替えた。

八ッ半(午後3時)に布田五ヶ宿で馬を替えようとすると、
「下腹が痛む」
しゃがみこんだ。
「府中まで1里半(6m)ほどの辛抱だから」
なだめ、やっと馬に乗せた。

府中では、もう辛抱できないと、旅籠の前でへたりこんだ。
さっさと女中に風呂をいいつけ、胸元をおおきく開いた浴衣のままあがってきた。
見ないふりをしていると、
「松はん、うちなあ、乳の下に愛嬌ぼくろがあんの。ほら、ここ---男はん、みんな、吸ってくれはる」
臍(へそ)の下まで開き、口の前へつきつけ、ゆっくりと腰紐をほどいた。

「湯をあびてくる」
立ちかけた松造の頭をかかえ、顔を茂みに押しつけた。
「なにをするッ」
その声をふさぐと、倒れた。

手で松造の硬直したものをまさぐり、
「ほら、欲しがっとる。こらえたら、体に毒や---」

松造が口を吸おうとすると、
〔湯ゥにいっき。ほこり臭い」

松造のものは風呂場でも萎(な)えず、張りきったままであった。

部屋には、酒つきのお膳がきてい、そのむこうに布団がのべられていた。


松造が初めて抱いたときのおは35歳の大年増であった。
2人の子どもにふくませた太った乳首、たっぷりした肉置(ししお)きの臀部(でんぶ)、太い二の腕---10年來なじんできた。

参照】2010627~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂
] () () () (

いま抱いたばかりおんなは、まるで違う。
体は細いのに、骨がないみたいに柔らかで、脇の下の汗の匂いまで芳(かぐ)しい。
家の米飯と料理屋の大釜で炊いたしゃきっとしているのになんともいえないあまみのある米飯との違いのようだ。

(いま、このおんながかかえている180l両を奪って逃げれば、しばらくはあまみのある飯が毎日でも口にできる。が、その途端に、長谷川さまの信頼を永遠に失うことになる。とんでもねえことだ)

の指が、松造のものをねだりにきた。
松造のものはそれに応えていた。
(おれは、まだ、若えってことだ)

_360
(北斎「ついの雛形」部分 イメージ)

の気持ちは違っていた。
(この男、不思議。淡々としてて、うちのつぼをこころえ、応えてる。くせになりそう)


 

| | コメント (2)

2011.10.26

長(おとな)・千田聡兵衛からの封翰(2)

「お久しゅう---」
火盗改メ・横田組の役宅で、与力jの門田紋三郎(もんざぶろう 55歳)が迎えた。
20年ぶりの再会であった。
知りあった時の組頭は、平蔵(へいぞう 40歳)の本家・太郎兵衛正直(まさなお 55歳=当時)であった。

参照】2008331~[初鹿野(はじかの)〕の音松] () () () () () () () () (

互いに久闊を叙しあい、すぐに本題へはいった。

「お(そめ 26歳)と申すおんなをご存じでしょうか?」
笑顔をたやさないで訊いてはいるが、目は笑っていなかった。
どんな表情の嘘も見逃さない吟味与力の目であった。

「1人だけ---おがどうかしましたかな?」
逆に問いかけた。
多摩郡(たまごおり)落水(おちみず)村の長(おさ)・(千田聡兵衛 そうべえ 60がらみ)からの書簡をもらっていなかったら、こうは切りかえせなかったであろう。

門田与力はくだけ、行く方(かた)知れずになったわが子のことを、祇園さんに祈ったところ、江戸で橋場というところの石浜の明神さんで21日間水ごりをすればお告げがあろうといわれ、江戸へくだり、21日間の宿泊・食事代として石浜明神へ5両(万円)さしだしたと説明した。

たしかに、朝と夕方、薄い白襦袢と湯文字姿で水をかぶっているのだが、濡れそぼるせいで躰のすべて、乳首や股の黒みまで透けてみえるのを見せつけるように歩きまわるので、目ざわりであるばかりか若い禰宜(ねぎ)や主典(さかん)あたりが劣情をそそられるらしい。

ということで、訊問をしてみたところ、京都西町奉行の長谷川さまのご嫡男と10年ほど前に知りあっているから確かめてほしいと申しでたので、
「ご対面をお願いしたしだい」

(ははん、梅若丸の故事を竺川(ちくせん)大和尚に聞かされたな)

奥州の子さらいにかどわかされた梅若丸をたずねてきた母親・妙亀尼の痛恨の昔噺は、浅茅ヶ原に伝わっていた。
梅若丸は隅田川の対岸・木母寺あたりで病いで果てたことになっていた。

622_360
(梅若丸故事 『江戸名所図会』 塗り絵師;ちゅうすけ)


仮牢の格子ごしに会い、
「おどの、しばらくであった」
平蔵がいいはなった。
「祇園のお(とよ 25歳=当時)さんの茶店では世話になりっぱなしで---」

祇園の脇の茶店〔千歳(ちとせ)〕のおんな主(あるじ)の名が口をついて出たのは、おの;齢かっこうが似ていたからもあるが、おは盗賊に囲われていたおんなであり、おもいまは〔四方津(しほづ)〕の勘八(かんぱち 33歳)の妾(めかけ)としらされていたせいもあった。

参照】2009年7月21日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () () () () () () () (10) (11

もしたたかで、祇園とか茶店などの断片をつなぎあわせ、
「うち、おはんのお世話で祝言あけたんどすが、死別してもうて---6つになる児(こ)を見つけるために江戸へきましたん---そしたら、なんやしらん、疑い、かけられてもうて---」

「21日間の願かけを終えるまで、石浜明神に預かってもらえるように、こちらのお頭に頼んでみよう」
「おおきに。頼りにしてます」

釈放されたおと連れだち、明石橋のたもとで舟を雇って大川を遡りながら、
「21日目までの水ごりをきちんとすますことだ。こんど引っ張られたら救いようがない」
ささやくと、おは船頭の目を盗みつつ平蔵の太腿(もも)をもみながら、
「先(せん)の時のお礼がのこっててや。今夜は---?」
艶(えん)な流し目で誘った。

「満願の夜は、いつだ?」
「11日先---」
「その日の夕方に、な」
「待ちどおしおす」

の満願の深夜、石浜明神の一帯は、火盗改メ・横田組がひそかに固めており、〔四方津〕の勘八一味は、難なく捕縛された。

そのころ、お平蔵権七(ごんしち 53歳)に両側から看視されながら、一味が盗人宿にしていた源森川べり中ノ郷瓦町の一軒家へ黒舟でむかっていた。
勘八が天井裏へ隠していた180両(2880万円)を取りもどすためであった。

長谷川のお頭はん。金は戻ってきィよりましたけど、うちの火ィのついた躰の芯は鎮まってェしまへんえ。どないかしてェ---」
さん」
「お(つや 35歳)とお(きん 41歳)の2人さえもてあましております」
2人とも、船宿〔黒舟〕の根宿と枝宿の女将で、権七のおんなであった。

「色の道は、相手変われば--というぞ」
「こっちの齢をお考えください」

「お卯作(ぼうさく 6歳)を大事に育てよ。母親は子種をくれる男を選べるが、子は親を選べない」
が不承ぶしょう、こっくりした。

参照】2010年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () () (10) (11) (12

さん。真宗のお寺さん、深川にあったかな?」
真宗は黄檗宗とちがい、妻帯が許されていた。


 

| | コメント (2)

2011.10.25

長(おとな)・千田聡兵衛からの封翰

武蔵国多摩郡(たまこおり)落川(おちかわ)村の長(おとな)・千田(せんだ)聡兵衛(そうべえ 60がらみ)から平蔵(へいぞう 40歳)あてに封翰がとどいた。
人柄と勝手向きを示すような上等の紙質の書箋に達筆で記されていた。

聡兵衛とは、つい先だっての盗賊〔染屋(そめや)の利七(りしち 35歳)の事件で知りあった。
聡兵衛は、村のおんながからんでいたので、老体にもかかわらず意欲十分、捕縛にひと役買ってでた。

参照】2010年10月9日~[日野宿への旅] () () () (10) (11) (12

開披した書面は、ことが見事に落着したことを慶辞したあと、被害者でもあり共謀者でもあった落川村の住人・お(そめ 26歳)が児・卯作(ぼうさく 6歳)をのこし、慰謝料の200両(3200万円)とともに姿を消したことを報じ、子守りのお(すず 11歳)が見たり小耳にはさんだところによると、そそのかしたのは、〔染屋〕の利七の弟分の〔四方津(しほつ)の勘八(かんぱち  33歳)らしい。

利七が処刑されてから、ほとんど泊まりこみ、夜は卯作をおの家へ連れていくように強制していたと。

四方津は、甲州道中の野田尻宿から小1里(4km)ほども巳(み 東南東)へくだった桂川ぞいの小郷であるが、勘八は村をでて国分寺で表向きは炭窯をやりながら、裏では悪事に手をそめていたらしい。

307_360
(国分寺村炭窯 『江戸名所図会』 塗り絵師::ちゅうすけ


先般、顔つなぎができた千人同心頭(せんにんがしら)の窪田(平左衛門 へえざえもん 51歳)に訴えてあらためてもらったが、すでに窯を売りはらい、姿を消していた。
窯の買い主の話では、江戸の薪炭(しんたん)問屋の株を手にいれたからとのこと。

卯作千田家で預かっておるが、おを探しだし、引きとるように町奉行所なり火盗改メの手が借りられれば幸甚である---とのおもむきであった。

黙読し、平蔵は首をかしげた。
江戸の家々で毎日のように灰にされる薪炭はたいそうな量である。
しかも、薪や木炭には天気ぐあいによる豊・不作はなく、仕入れは安定しておる。
その問屋の株が200両ぽっちで売買されるであろうか。「

薪炭問屋は霊巌島の亀島川ぞいのこんにゃく河岸、神田川べりの佐久間町、横川東岸の猿江町河岸、芝湊町にあつまっていた。

とりあえず、神田川東から上野広小路一帯をシマにしている香具師(やし)の元締・〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 38歳)と、おなじく芝一円が縄張りの〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 55歳)元締に、問屋株の内偵を町飛脚で頼んでおいた。


千田聡右衛門への返書には、内偵のことには触れず、日野宿での厚意の礼Iにくわえ、〔四方津〕の勘八の体形や見かけの特徴、手下の数とその動きがわかれば教えてほしいと送った。

窪田平左衛門には、寺社奉行から旗奉行を通し、勘八の家へ踏みこんだときのありようを問い合わせた。


翌日。

火盗改メ・横田組の同心の沖津四郎(しろう 25歳)が西丸へ訪ねてきた。

「役宅へお運びいただけとの、筆頭与力のいいつけで参りました」
筆頭与力は門田紋三郎(もんざぶろう 55歳 1000石)、役宅は西本願寺裏門前であった。

| | コメント (2)

2011.10.24

奈々の凄み(4)

お大名衆との宴の翌日、ご用の間からと、同朋(どうぼう 茶坊主)が金包みを届けてきた。

若年寄・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 与板藩主 2万石から昨夜の礼辞と3藩分の席料2分1朱(9万円))と、別に板場と女中たちへのこころづけとして3朱(3万円)が添えられていた。
船頭への支払いも昨夜すませたとあった。

下城の途中、新大橋西詰で供の者たちを返し、久しぶりに、剣の弟子・菅沼新八郎定前(さだとき 22歳 7000石)を見舞った。
というのは、初見をすませた翌年から体調をくずして床に就きがちであった。

それなのに、去年、室を迎えていた。
板倉周防守勝澄(かつずみ 享年54歳 備中松山藩主5万石)の12男9女の末から2番目の姫(18歳=去年)であった。

新八郎の母・津弥(つや 享年41歳)が愛玩していた腰元・お(きく 20歳=当時)と新八郎ができてしまい、津弥を仏門戸へ入れるさわぎに、平蔵(へいぞう 40歳)がまきこまれた。

参照】2010年11月24日~[藤次郎の難事] () (

病間には、25歳になっているはずのおが付きそっていた。
「奥が産み月で実家へ帰っており、恩師には至らぬことで、申しわけありませぬ」

頬は肉がおち、病人の特有の、饐(す)えた匂いを発していそうな青白い顔色であった。
剣の道を教え、待つこと、抑える意思を体得させたはずだが---手近な悦楽におぼれてしまうのは、父母ゆずりの血筋なのかもしれない。

新八郎もだが、おの肌もさえなかった。
励ましの言葉をつづけながら、接しあったその年齢の相手たちの肌を走馬灯のように思う出してみた。

14歳だった銕三郎(てつさぶろう)をはじめて女躰の奥へみちびいてくれた若後家だったお芙沙(ふさ 25歳)。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] 

21歳で婚家に縁切りを申し渡した阿記(あき)---銕三郎は18歳であった。

参照】2008年1月2日[与詩(よし)を迎えに] (13

京都で出会い、還俗(げんぞく)をすすめることにまでなった貞妙尼(じょみょうに 24歳)

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] () (

島田宿の本陣の出戻り若女将・お三津(みつ 22歳)。

参照】2011年5月8日~[本陣・〔中尾〕の若女将お三津] () (

いずれも、湯舟からでると湯滴が肌からすべりおちるほど張りがあった。

これから会う18歳の奈々(なな)とくらべることまではしなかった。

辞去ぎわに、目でおを誘い、玄関脇で、
「あのほうはつつしんでおろうな」
が首すじまで紅色にしてうつむいた。
「いかぬな。ご先代もそれで寿命を縮められた。くれぐれもおひかえあれ」
「殿がきつくお求めになりますので、つい---」
どのが楽に満たされる形ですまされよ」
「はい」
(おも肌はかわききっていても、あのほうはおんなざかりだ。いっても詮ないのがこの道でもある)


〔季四〕で、預かっていた席料とこころづけを奈々へ手渡し、
「われの分を---」
紙入れをとりだすと、その手をおさえ、
「もう、もろてます」
「え---?」
「きのう、3藩の殿はん方へお告げした勘定に、(くら)はんの分、上乗せしといたん」
「悪いやつ---」
「せいだい(な.るたけ)早よ帰えりますよって、家で待っといて---」


腰丈の桜色の閨衣(ねやい)にさっと着替えた奈々が、いつものように右膝を立てて内股の奥を向かいの平蔵の視線にさらし、
「うちの姓---? 1000年ほども前からのいいつたえやけど、高(コ)やったん---せやけど貴志村では田づくり畑づくりで、高田か高畠がええとこ---」
「高---か。里貴(りき 逝年40歳)の家もそうかな?」
里貴おばさんちは、東隣りの郷(さと)なんやけど、たしか、伯(ペク)姓で、文を書く家柄やったって聴いたような気ィがする---昔のことがなして気になるん?」

志貴村は百済からの渡来人が、周囲の帰化人たちから孤立し、故郷のしきたりをまもりつづけ、結婚もほとんど村内同士でおこなってきた特殊な集団と見られてきていた。

「いや。奈々のものに動じない胆のすわりぐあい、応変の器用の才、月魄(つきしろ)のなつきぐあいからいって、将軍の末裔かもとおもうてな」
「うちは、大将は大将でも、おんなだてらにガキ大将やってん---でも、月魄と相性はご先祖さまにかかわりがあるかもしれへん。高氏は馬韓(マハン)部族の一つやよって、月魄が親類やおもうたんちゃう?」

奈々によると、周囲から孤立していた貴志の村は、200戸あまり800人が食っていくだけの富力を保っていくがやっとであった。
男の子もむすめも、第3児以下は村をでていかなければならない。
村の外で生きていくには、靭(つよ)くなければやっていけない---おとこの児なんかに負けてられなかった。

木登り駆けっこも、あるときまで、いちばんであった。

それが、14歳の春、木登りしてい、上の枝をつかんで力んだ瞬間、下腹に異様な感覚がはしった。
本能的に性Iにかかわるものだとわかった。
もう、男の児に勝とうとはおもわなくなった。

「ここでさんに会(お)うた途端に、下腹がおんなしになってん」
「ほう---」
「この人に抱かれ、うちはおんなにしてもらえる---わかったん」


ちゅうすけ注】これまで、貴志村を貴志川流域---いまの和歌山県紀の川市西部に想定してきていた。平凡社版『日本歴史地名体系 和歌山県』で、いまの和歌山市北西部の栄谷(さかえだに)、中(なか)。梅原(うめはら)がそれに比定できるとあったので、以後はこれにしたがって連想をひろげていく。


A_360
(赤印=紀州・貴志村 左から梅原・中・栄谷の郷 明治21年参謀本部制作)


1_360
2_360
(菅沼定前に嫁いだ板倉勝澄の八女=赤○)


ちゅうすけ注】板倉勝澄は、29歳のときに鳥羽から備中・松山へ移封している。
三河以来の家柄だから、ふつうなら奏者番に任じられていてもよさそうなものだが、役を得ていないところをみると病身であったか、どこかに欠陥があったか。それにしては12男9姫と子福・艶福。
備中・松山藩といえば、水谷(みずのや)家が領知していたが絶藩、浪人となった藩士の一人のむすめが長谷川宣雄を生んでいる。

ただし、平蔵宣以が19歳のときに勝澄は卒しているし、水谷家時代の家臣たちも、土着した者のほかはのこっていなかったろう。


参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母

| | コメント (0)

2011.10.23

奈々の凄み(3)

こちら向きに眠りにはいっている奈々(なな 18歳)の裸の腰に上布をかけてやりながら、^平蔵(へいぞう 40歳)は、こうなった経緯(ゆくたて)をおもい返していた。

奈々の前の里貴(りき 逝年40歳)は縛られることが嫌いなおんなであった。
躰を締める着物の紐類も、帰るとすぺてかなぐり捨て、白い全裸で家のなかを歩きまわるのが好きだといっていた。

参照】2010年1月19日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (1) (2

世間の掟にも縛られたくないといい、妻の座にそれほどの執着を見せなかった。
もっとも、朝まで倶(とも)にできる機会(とき)は、ことのほか悦んだ。

23歳も若い奈々は、こだわらない性格---というか、自分をさらけだしてみせて好意を呼ぶ質(たち)といえた。

腰丈の閨衣(ねやい)の里貴との背比べの判定では、なんと、秘部に手の甲を当てさせ、股下の高さを測らせた。

参照】2011年7月12日~[奈々という乙女] (4) (5

父娘ほども齢が離れているのに、ふとした事故から、離れられない2人になってしまった。
背比べでいうと、あれから2年たらずのあいだに3寸(9cm)ものび、しかもそれがほとんど脚丈らしいことは、躰を接するたびに実感した。
太めになってきている平蔵の胴を、細まった足首をらくらくと交差させて締めるようになってきていた。
余分な脂身がついていない躰はよく撓(しな)った。

参照】2011年8月30日[新しい命、消えた命] (

いや、離れられないのではなく、目を離せないほど幼いとおもいこんでいた。

それが、今宵の若年寄と2寺社奉行の接待ぶりに、とてつもない才能を秘めていることを見せつけられた。
人を楽しませる天性を授かっていたのであった。

日野宿への旅に、大物たちの宴の献立ことで、
「どうであろう、紀州の貴志村に伝わっている百済風の家庭料理は---?」
きっかけは暗示しておいた。

参照】2010109[日野宿への旅] (

それを、府中宿での2泊から帰ってから2,3日のうちに、板場手伝いの百介(ももすけ 21歳)や貴志村育ちの座敷女中のむすめたちの意見をまとめて今宵の成功へもちこんだ手腕は、並みたいていのもではない。

生まれついての統率力というのか、創意の才というのか、とにかく18歳の鄙育ちとはおもえない。

(そういえば、月魄(つきしろ)のなつきようもただごとではなかった)

参照】2011年10月4日~[奈々と月魄(つきしろ)] () () () (

(これまで訊いたことがなかったが、奈々の家系のこと、こんど、たしかめてみようかな)

| | コメント (0)

2011.10.22

奈々の凄み(2)

「九折板(クルジョパン)はわかったが、どうしてもわからなかったのが、松の実(み)粥(かゆ)とマッコリだ。紀州から取り寄せる暇はなかったはずだ」

亀久町の家で待っていた平蔵(へいぞう 40歳)が、あとを追うように帰ってきた奈々(なな 18歳)に問いかけた。
「待って。着替えて落ち着かせて---」
閨(ねや)にしている次の間で、腰丈の桜色の閨衣(ねやい)をはおり、独酌している平蔵の冷や酒の小椀をひったくるようにして一気にあけ、
「ああ、おいしい。ずっと張りつめていたん。しんどかったわぁ---」

「ご苦労であった。あれほどみごとにやってくれようとは、じつは、おもっていなかった」
「お大名はんたち、満足そうやったね」
「満足どころか、大満悦であった」
「よかった。これでも、(くら)はんのためにと、必死やったんよ」
「礼をいう」

「礼は、里貴(りき 逝年40歳)おばはんにゆうてあげて---」
里貴も、いつかは〔季四〕で朝鮮料理をだすことを考えていたらしい。
庭の物置に朝鮮白磁などの食器や銀の箸、円卓をしまっていたのを、奈々が見つけておいた。
その中に、貴志村からとり寄せておいたけっこうな量の松の実があったという。

その松の実を前に、平蔵が日野宿へ旅している日々、板場の百介(ももすけ 21歳)と女中頭のお(なつ 20歳)、寮長並(なみ)のお(あき 19歳)、それに躋寿館(せいじゅかん のちに医学館)の医師・多紀安長元簡(もとやす 31歳)の妻で貴志村育ちの奈保(なほ 22歳)らが鳩首、献立をねった。

里貴が躊躇していた理由(わけ)も解けた。
朝鮮と異なり、この国では鶏や鳥類と野うさぎのほかの獣の肉を食することが禁忌されていたから、献立の幅が狭かった。

松の実も、紀州・貴志産だけでは、店用がまかなえそうもなかった。
「今宵の話では、高崎侯松平右京亮輝和(てるやす 36歳 8万2000石))が栽培に乗り気のようであったが---」
はん。松樹が一人前に育ち、実ィが採れるようになんの、20年も先」
「むすめが15歳でややを産むのとはわけが違う---」

「うちは、もう、18歳や。いつ、孕んだかて、おかしゆうない---」
「おいおい、できたものは仕方がないが、お手やわらかに頼むよ」

そうはいいながら平蔵は、奈々というむすめの着想の非凡さに凄みを感じていた。
脈絡がないようでいて、突拍子もないところへ着地している---。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.10.21

奈々の凄み

「21日のご帰館は、向柳原か、それとも数寄屋橋内のご役宅でしょうか?」
用部屋の手前の控えの間で、平蔵(へいぞう 40歳)が西丸の少老(若年寄)・井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 与板藩主)へ伺った。

2月21日の宵、かねてから申しわたされていた茶寮〔季四〕での会食の日取りが決まった。
参会するのは、井伊侯がとりわけ親しくしている 高崎藩主・松平右京亮輝和(てるやす 36歳 8万2000石)と佐倉藩主・堀田相模守正順(まさなり 41歳 11万石)の両寺社奉行であった。

武州・百草(もぐさ)村の松蓮寺の大和尚の縁者の児(こ 6歳)の行く方(かた)しれずの事件が片づいたら---という約束になっていた。

事件は意外な捕り物となったが、盗賊たちのほかには罪人をださずにすませた。

若年寄が帰宅先を訊いた真意を質(ただ)した。
佐倉侯高崎侯も、[季四〕へのお越しはお駕篭でしょうが、お帰りは屋根船を手配するつもりでおります。
佐倉侯の藩邸は大川べり浜町、高崎侯は鍛冶橋か数奇屋橋ですが---」
「分かった。向柳原なら神田川、役宅なら京橋川と申すのじゃな?」
「御意」
「京橋川にいたす」


奈々は、その夜のために、円卓を用意していた、
床の間の前に屏風を立て、上座、下座がないようにもこころをくばった。
3侯もこだわらなかった。

座が決まったところで、冷えた松の実の粥がでた。
「ご酒の前に、胃の腑(ふ)を松の清い脂でお護りいただきます」
「ほう---」
若い大名たちは珍しがった。
「初めて口にする---」
「香ばしい薫味は松の実かの?」

A_360
(松の実粥 4人前 ちゅうすけ夫人調理)


「あい。朝鮮松の実でございます」
「この、重湯の上に浮いている黄色い実がそうかの?」
「あい。朝鮮松の実は細長く、唐土のものは丸みが強うございます。粥にも50粒ほどをすりつぶしていれております」
「どこで手に入るのかな、対馬あたり---?」
「いえ。紀州の貴志村で育てた朝鮮松から採りました」

「紀州でも育つとなれば、高崎でも育ちそうだな?」
相良のお殿さまにお訊きくださいませ」
「なるほど、珍味だ」
「ありがとうございます」

次に 折った松葉を数本浮かせたマッコリが大鉢で、チヂミとともに供された。
小さな柄杓がついており、
「お殿さま方は、普段は自らお盛りなることはございませんでしょうが、今宵はしもじもへおくだりになったおつもりで、ご自分でお召しになる量だけお汲みなさいませ」
「濁り酒か」
「米と小麦粉を麦麹で醗酵させました」

_300
(マッコリ 1人前 韓国家庭料理〔松の実〕提供)


「女将が、か?」
「いいえ。紀州の貴志村から参っております板場の者の手づくりでございます。ただし、ふだんは造りませぬ、今宵かぎりでございます」
「かまわぬ。密造を呑んだわれらも同罪じゃ」
「は、はははは」
侯たちは、子どもにかえったようにはしゃいでいた。

九節板(クジョルバン)という野菜と錦糸卵の具材を、中央に重ねてある薄い衣にとり自らの手でくるんで口へはこぶ料理も喜ばれた。
手なぐさみがたのしくてしょうがないふうであった。

_360
(クレープ包み クジョルパン(九節板)〔松の実〕製)


長谷川うじ。こんどは室をつれてまいりたいが---」
「すこし早めにお申しつけください。ここは、普段は茶寮で、このような朝鮮料理は手前も初めてでした」

「女将どの。今宵の1人あたりの席料はいかほどかな。藩の勘定方がうるそうてのう」
「別室で同じものを召しあがっていらっしゃいますお供の方の分もふくめまして、ご一藩、3朱(3万円)ほどかと。お帰りのお船は別勘定でございます」
「ほう、それでやってくれるのか---」

長谷川さまのお仲間ということで---特別奉仕でございますゆえ、ほかさまへはご内密に---」
「これ、女将。お仲間などと、とんでもないことを---」
「よいよい---は、ははは」


ちゅうすけ注】
韓国家庭料理の店〔松の実〕 新宿区神楽坂4-2 電話3267-1519

| | コメント (4)

2011.10.20

日野宿への旅(12)

近寄ってきた千人頭(がしら)・窪田平左衛門(へいざえもん 51歳)と原六右衛門(ろくえもん 40歳)へねぎらいの言葉をかけ、
うじの組は、深夜で申しわけないが、多摩川に用意した荷舟を使ってお引あげください。窪田うじの組も1班をのこしてお返しください」
両頭は、そのことを両馬場と富士の森の同心たちへ伝えさせ、自らは、明朝の捕縛まで立ちあいたいと申し出た。

「尾行した舟の衆が盗人宿をつきとめ次第、夜明けを待たずに捕縛に向かいます」
とりあえず、本町の本陣へ引きあげて尾行組の成功を待つことにした。

本陣・{中屋〕方では、松造(よしぞう 34歳)をはじめ、若松三平(さんぺい 22歳)、聡兵衛(そうべえ 60がらみ)老が待っていた。
主(あるじ)が気をきかせて熱燗を手配したが、平蔵(へいぞう 40歳)が手をつけないので、聡兵衛老だけが独酌した。

その聡兵衛老を廊下へ連れだし、
「ご老体を使いだてして恐縮だが、あの児(こ)を、別室で、どの村の児か、訊き出していただけまいか。役人が訊いたのでは、怖がって応えないでしょうから---」

重い役をあられた聡兵衛老は深くうなずき、子どもといっしょに別室へ消えた。
が、すぐに戻ってきた。
「あの子は、耳がきかないのですよ」
「ははぁ、賊も考えましたな」

平蔵は、筆と紙を用意させ、松樹の絵を描いた。
次に、小舟、馬を描いた。
子が興味を示しはじめたところで、鳥居を描くと目を輝かせて指さした。

平蔵が本陣の主に訊いた。
「このあたりの農村で神社といったら---?」
「15丁(1.6km)ほど東の八幡宿の八幡さまか、西だと谷保(やぼう)村の天神さまでしょう」

317_360
(谷保天神社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


この児とお(すず 11歳)に寝所をあてがい、尾行組を待った。

四ッ半(午後11時)すぎに、尾行組の1人が報告をもたらした。
八幡社の近くの茶店へ入ったと。

309_360
(府中八はた八幡社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
(府中-八幡社 『甲州道中分間延絵図』 道中奉行制作)


主が、不審がった。
「旧甲州路を行けば、六所宮から10丁(1.1m)そこそこなのに、どうして多摩川などをくだったのでしょう? 左岸の是政(これまさ)の渡しからでも田んぼ道を8丁(850m)はあるというのに---」
「姿を見られたくなかったんだろうよ」

_360


平蔵は、窪田の両千人頭と班頭・新倉(あらくら)新八(しんぱち 35歳)を集め、
「奴らは三ッ半(午前1時)には酒盛りを切りあげて眠るであろう。われらは八ッ半(午前3時)前に討ちいる。なるべく物音をたてないで、10人は手早く奴らの頭を殴るなり胸の急所を棒で突くなりして気を失わせる。5人は別の5人に守られながら男の児を探す。両頭と松造若松うじは明かり持ち」
「手前も明かり持ちをいたしたい」
聡兵衛老が申し出、平蔵が莞爾と合点した。

ことは筋書きどおりにすすみ、〔染屋(そめや)〕の利七(りしち 35歳)一味ぱ7人全員が逮捕され、誘拐(かどわか)しの罪で死罪となったが、なんと、芝居仕立てをかんがえたは、お(そめ 26歳)であったと自白した。

松蓮寺の親寺の江戸・白金台(しろかねだい)町の瑞聖寺からおとのことで叱責を受けた竺川(ちくせん 40歳)が別れ話をもちだした。

は手切れ金200両(3200万円)と卯作(ぼうさく 6歳)の養育費を年5両(60万円)を要求した。
寺の金を持ちだすための、卯作の勾引(かどわか)しを竺川に耳打ちし、一方で六所宮の闇祭りで出会い、の字つながりで躰もつながった〔染屋〕の利七に実行方をまかせのであった。

八幡村の茶店にあった100両(1600万円)は平蔵が、おに渡した。
卯作を大事に育ててやるのだぞ」

「今夜、お礼、させとくれやす」
艶っぽい目でもちかけた。

平蔵は、その日の昼前に府中を発っていた。

染屋〕の利七一味は、つづいてもう300両(4800万円)を卯作と引きかえに恐喝するつもりでいた。
もし、応じなければ松蓮寺に放火するつもりであったと。

もっとも、松蓮寺は明治の廃仏毀釈で堂宇も寺宝も消滅したが---。
跡地は百草苑となっている。


平蔵は、経緯(ゆくたて)のすべてを胸にしまいこみ、寺社奉行・松平右京亮輝和(てるやす 36歳 高崎藩主)には卯作は無事に見つかったとのみ、伝えた。

卯作が母ごなしになるのが忍びなかったからだと、奈々(なな 18歳)には洩らした。

そうそう、もう一つ、記してかおなければ。
日野宿の本陣・〔佐藤〕のにぎり飯100人分の1朱(1万円)は、落川村の長(おとな)・聡兵衛老が払った。
「おもしろい劇の見料とすれば安いものだ。千両役者を目の前にしたのだから---」

参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () () (10) (11) 


| | コメント (0)

2011.10.19

日野宿への旅(11)

四ッ(午後10時)が近くなった。

提灯一つを手にした平蔵(へいぞう 40歳)は、子守りのお(すず 11歳)を伴い、六所明神宮のニノ鳥居の陰にいた。

「お。怖いことは一つもない。目を凝らして卯作(ぼうさく 6歳)かどうかしっかり見さだめよ。卯作だったら---」
卯作さまの右の手を引いて帰る」
「男の児が卯作でなくても、そしらぬふりで、左手を引く---」
「はい」

千人頭(がしら)の窪田平左衛門(へいざえもん 51歳)原六右衛門(ろくえもん 40歳)は、それぞれの1班ずつが潜(ひそ)んでいる東の馬場(細馬(せんば))と西の馬場(駆馬(かけば))へ、明かりもつけずに別れていった。

あと3班は、多摩川べりの富士の森と、中洲をはさんだ向う岸辺に舫(もや)った2艘の小舟に隠れていた。


安養寺の鐘楼であろうか、意外に近くで四ッを告げる鐘が鳴り、おが身ぶるいをした。
「落ちつくんだ」
ささやきで平蔵が励まし、細い肩に掌をのせた。

20歩先で付け木から提灯に灯をうつす気配があり、3人と子どもが浮かびあがった、

平蔵とおが鳥居の蔭からでた。

「おっ、母ご独りでこいと書えたぜ」
子供を抑えていた男がわめいた。

「お(そめ 26歳)は気が動転していて歩けぬ。代わりに子守りのおが受けとりの役目を果たす。われは、寺社奉行・松平右京亮(すけ)どのの代理の、長谷川平蔵というも者だ。そちらが、要求書を松蓮寺へとどけたから、寺社奉行が出張ることになったのだ。
さて、こちらが名乗ったからには、そちらにも名乗りをあげてもらいたいが、頼んでも無理であろう。では、おに金袋を持たし、双方の中央に置き3歩引く。そうしたら男の児を歩かせ、金袋のところをすぎたら、1人だけ前に出て金袋の中身をたしかめよ。要求どおりのものであったら、双方、別れよう」

前へでた男の児の左手をしっかりとにぎったおは、そのまま動かないで賊が金袋の中身をあらためるのをまばたはもしないで瞶(みつめ)ていた。
身ぶるいもしていなかった。
(少女時代のおまさのように肝がすわっておるむすめだ)

脇で、かなたに去る気配がした。
窪田組の同心が富士の森へ走ったのであろう。
おそらく、闇の中でも目がきく修行をしていた男であったろう。

金包みを持った男が仲間の位置へ戻ると、提灯が消され、あたりは闇に溶けた。
平蔵は隠していた火縄から提灯を点した。
が、にぎっていた男の児の手をはらった。

「お。よくやった」
「この児(こ)、卯作さまではない」
「わかっておる。もうすぐ、卯作は助ける」

次の手は、明朝だ。

参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () (
) () () () () () () () (10) (12


| | コメント (2)

2011.10.18

日野宿への旅(10)

百草(もぐさ)村の黄檗(おうばく)宗の大和尚・竺川(ちくせん 40歳)がでっぷり肥えた躰にわざわざ緋の法衣を召し、赤ら顔をほてらせてはいってきた。

長谷川たらいう、お寺社の使いはどれや---?」
(そめ 26歳)があわてて袖を引き、視線で平蔵(へいぞう 40歳)を指した。

「われが長谷川でござる。寺社お奉行・松平右京亮(うきょうのすけ 36歳 高崎藩主)侯の代理でまいったことは、すでに京都所司代と貴僧の総本山へ速飛脚をたてておられるゆえ、いずれ、沙汰が届きましょうぞ」

平蔵の厳然とした態度に、竺川大和尚は黙し、持参した金袋らしいもをおへ惜しそうに手わたした。

「大和尚どのにお伺いいたす。貴僧のごとき高僧を強請(ゆす)るのに、ただの100両(1600万円)とはけちったとおおもいにならぬかの?」
竺川は返答に窮し、赤ら顔をさらに紅潮させるばかりであった。

「これには、企みがあると考えるが至当でござろう」

落水(おちみず)村の聡兵衛老がうなずいたのを目にいれた竺川は、不安げにおを見返した。

「されば、犯人どもの企みを見究(みきわ)めるために、その100両は、とりあえず、今宵は相手にわたすとご観念おきくだされ」

大和尚がうらめしそうに睨んだとき、本陣の主(あるじ)が平蔵に耳打ちした。
うなずいて、聡兵衛をうながして別室へ消えた。

竺川が子守りのお(すず 11歳)に小言をぶちまけているのを耳にした平蔵が、本陣の主人におを連れてくるように頼んだ。


奥まった別室で、(八王子)千人(同心)頭(がしら)の窪田平左衛門(へいざえもん 51歳)がもう一人の同輩・原六右衛門(ろくえもん 40歳)を平蔵に引きあわせ、さらに5名の班頭(はんがしら)たちをまとめて紹介した。
「ご承知とおもうが、1組100名は、20名ずつの班に分かれております。今宵は、書状にありましたとおり、うちの組から3班、どのの組から2班を動かします」
「かたじけない。槍お奉行へは、問屋場から速飛脚をたてておきました」

八王子千人同心は、槍奉行に直属していた。
「当方からも、お奉行へ陣触れのこと、報告してあります。おこころおきなく采配をおとりくだされ」

千人頭は200俵であったから、400石でしかも1000石高の徒頭(かちのかしら)の平蔵の地位ははるかに上であった。

平蔵は、おを引きあわせ、
「お卯作(ぼうさく 6歳)の受けとるのと金袋のわたし役を勤めます。おが男の児の右手を引いて帰ってきたら本物の卯作だから、多摩川の岸辺で賊たちを取り押さえていただく。おが左手を引いていたら男の児は偽者だから、こっそり賊の舟を尾行し、ねぐらをつきとめるだけにし、次の救出策をとります」

窪田千人頭が聞いた。
「賊は何人ほどと、長谷川どのは見ておられましょうや?」
「さよう、100両という身代金をどう読むか、ですな。勾引(かどわか)しは死罪ときまっておる。100両の身代金をどうわけるか。首領(かしら)が半分はとろう。のこりを何人でわけるか---10両(160万円)の盗みで死罪であるから多くて5人、船頭役や見張り役をいれて5人の手下とみておけばよろしかろう」

班頭たちは、100人分のにぎり飯をもって配置についた。

副官格の窪田平蔵が、ここは現場に遠すぎるから、基点を府中宿の本陣へ移そうといい、松造、若松、お聡兵衛老を3組に分け、裏手から闇の中へでた。

大和尚・竺川とおは待つように説き伏せられた。

参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () (
) () () () () () () () (11) (12

| | コメント (0)

2011.10.17

日野宿への旅(9)

「今宵、四ッ(午後10時)、子どもの母親が独りで府中の六所明神社のニノ鳥居へ、百両(1600万円)と引きかえに子どもをわたす」

でたらめな字で、こう記されてしいた。

読むなり、平蔵(へいぞう 40歳)は、松造(よしぞう 34歳)に先刻の落水(おちみず)村へ急ぎ、お(そめ 26歳)と子守りのお(すず 11歳)、長(おとな)の聡兵衛(そうべえ 60がらみ)どのを連れてこい。おがまっさきだぞ。尾行に気をつけろ」
事情を察した松造は、すばやく刀を帯び、瀬戸口から出ていった。

若松うじ。本陣(ここ)の主人・佐藤うじに硯と筆をもってきてもらってくれ」
うろたえる代官所の手代・三平(さんぺえ)に、
「強請(ゆす)られておるのはおぬしではない。落ちつけ---」

平蔵は、本陣の主(あるじ)にざっと事情を話し、問屋場の役人をこっそり呼ぶように---出入りは裏口からとつけたした。

さらさらと書状を2通認(したた)め、
「八王子の千人同心頭(がしら)で存じよりの仁は---?」
窪田兵左衛門どの---」
くぼたは大久保のくぼか、窪みのくぼか、兵左衛門のへいは兵糧(ひょうろう)のへえか、平地のへえかと問い、
宛名を記すと、こちらは千人頭、こちらは八王子陣屋へすぐに届けよと命じた。
わたす時に示すようにと、月番の寺社奉行・松平右京亮輝和(てるやす 36歳)の念書をそえ、
「これは大切に持ち帰れよ」
念をいれた。

八王子千人同心頭は10人いた。
その1人が窪田兵左衛門であった。
配下はそれぞれ100人ずつで、20名ごとに班をつくっていた。

本陣の番頭には、百草(もぐさ)村の松蓮(しょうれん)寺の大和尚・竺川(ちくせん 40歳)に、寺社奉行の代理の長谷川が本陣で待っておるから、持つべきものをもっくるようにと伝えるように、いいつけた。

問屋場の頭取には、今宵、暗くなってから渡し舟と荷船を何艘手配できるか訊き、寺社奉行の命令であると指令した。

さらに本陣の主人に、握り飯と沢庵を100人分ほど用意しておくようにいいつけた。

すべての手くばりが終わったのは七ッ半(午後5時)であった。

六ッ(午後6時)前に、聡兵衛とおたちが到着した。
「先刻は、なにかとご教示、かたじけなく---」
「こんなに早く再会できるとは、おもいもかけませんでした」
総兵衛は事件にかかわれ、ご機嫌であった。

に脅迫状を見せ、内容を解説し、まもなく、大和尚も100両を持参してあらわれようほどに卯作(ぼうさく 6歳)は戻ってくるというと、さして安堵したふうでもなく、平蔵を好色な眼(まな)ざしいで仰いだが無視、おにやさしく問いかけていた。
卯作が、程久保(ほどくぼ)川から、遊び場所を浅川べりへ移したのは、いつからかな?」
「7日前に見知らぬ男の人が大きな熊笹の葉をみせ、これでつくった舟は浅川で流せると教えてくれただよ」
「やっぱりな---」

「殿。そいつが一味ですか?」
松造が訊いた。
「多分な。程久保川では、水かさが少ないから舟の自由がきかない」

「そやったら、卯作は舟で連れていかれたん?」
「そのとおり。今夜も、舟でくるであろうよ」

「お。その熊笹の男は、卯作の前でかがまなかったか?」
「しゃがんだだよ。笹舟をわたしそこねて落とし、拾おうとして---」
「鼻緒に切れ目をいれたのだ」
「あいつめ! 畜生!」
「まさに、畜生だよ」

参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () (10) (11) (12

| | コメント (0)

2011.10.16

日野宿への旅(8)

(尼といえば、深川の浄泉尼庵の日信尼(にっしんに)も、仏門にはいって3年にもなるというのに、40歳(=当時)の女ざかりの情欲をもてあましておった)
剃髪している頭を浴槽に沈めてきたのには、さすがの平蔵(36歳=当時)もたまげた。

参照】2011年1月21日[日信尼の煩悩] 

いささか淫らな回想にふけりながら、見るともなく庭の松の大樹に視線をただよわせていた平蔵(へいぞう 40歳)に聡兵衛(そうぺえ 60がらみ)が遠慮がちに、
長谷川さま。花を落としてしまいましたが、梅の花どきには目白が蜜を求めてやってきます」
「ほう。梅に鶯(うぐいす)とはよくいうが、梅に目白とは---」
「花はおんな、小鳥は男---咲いた花は鳥を選びません」

「花は小鳥に蜜を与えて、鳥から何を得ますかな?」
「実(み)---子のために、種を---」
「それと、法悦ですかな---?」
「さらに、生計(たつき)のもとで。ふ、ふふふ」
「いつか、また立ち寄り、摂理を拝聴いたしたい」
「いつにても---」

聡兵衛の家を離れると、松造(よしぞう 34歳)が、
「申しあげるのもなにですが、里貴(りき 逝年40歳)さまのお父ごのような方でした」
「姓も千田といい、800年前からの家柄だそうだから、高麗一族とかかわりをもった村役だろう」

たぶん、お(りょう)がなにかのときに高麗国に、1000人の兵を預かった千なんとやらいうの名の智将がいたことを話してくれたことがあった。

大和尚・竺川(ちくせん 40歳)が囲っているお(そめ 26歳)の住いは、浅川から3丁(300m余)ほど南を流れて多摩川に合流している程久保(ほどくぼ)川ぞいにあった。

大農家に雇われた差配人あたりの住いででもあったらしい、2部屋と土間とくらいの平屋一戸建がそれであった。

「寄りますか?」
゛いや。明日でよい」
その平蔵の言葉を聞きとったかのように、おらしいおんなが戸をあけて顔を見せた。
このあたりではあまり見かけることのない、陽にやけていない白い肌に薄化粧をほどこして髪もきちんと結い、目もとに媚びをたたえて平蔵を瞶(みつ)め返した。

「お寺社はんからお出張りのお役人はんですやろ。お湯(ぶぅ)でもおあがりませ」
「いや。卯作(ぼうさく 6歳)坊が落ちたとかいう川を検分しておる」
「それやったら、ここの川やおへん。もっと北の浅川のほうどす」
「さようか。では、明日、松蓮寺で、再会いたそう」


本陣{佐藤〕茂右衛門方では、先に戻っていた代官所・手代の若松三平(さんぺえ 22歳)が、平蔵の帰りを待ちわびていた。

顔を見るなり、
「強請(ゆす)り文が、松蓮寺へ、届いておりました」

参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () (10) (11) (12

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011.10.15

日野宿への旅(7)

明朝の出発は六ッ半(午前7時)と約し、高幡(たかはた)不動堂の山門から路を南へとり、慈活山松連寺(しょうれんじ)へ託(ことづけ)に行く若松三平(さんぺえ 22歳)と別かれた。

松造(よしぞう 33歳)。われらは、浅川あたりを下見しておこう」

不動堂への上り坂の手前でわたったのが、浅川にかかる高幡橋であった。
橋の南詰で、通りかかった中年の農婦に、落川(おちかわ)村を訊いた。
「この川にそって東へおいでるだ」

A_360
(太い赤路=甲州道中 細い赤路=川崎路 太い水色=多摩川 細い水色=浅川
明治19年参謀本部作製)


「ついでだが、お(そめ 26歳)と申す者の子どもが行方しれずになったのは、ここから何丁ほど下流か、存じおるかの?」
途端に、目がけわしくなった。
「旦那方は、お役人さまだかね?」
「それに近いことは近い者ではあるが---」
「だら、村の役人衆に訊くだ。この8丁さきの塀のあるお屋敷が、聡兵衛(そうべえ)さまん家(ち)だで」

農婦は、お辞儀だけをし、あともふりかえらずに去っていった。

聡兵衛の家はすぐにわかった。
松の巨樹が塀越しに岸辺へ枝をのばしていた。

身分を告げて訪(おとな)いを入れると、すぐに庭に面した部屋へ通された。
あらわれた村役の聡兵衛は、ちょこんのっている髷が真っ白で、はっとするほど里貴(りき 逝年40歳)をしのばせる面高(おもだか)の60年配の仁であった。

松造も同じおもいだったらしく、ちらりと平蔵(へいぞう 40歳)に視線をはしらせた。

長谷川さま。お寺社からのご出役(しゅつやく)とのことでございますが、ご身分のあかしになるものを、お示しいただけましょうか?」
おだやかに訊いたが、目は微笑んではいなかった。

さし出した月番の寺社奉行・松平右京亮輝和(てるやす 36歳 上野・高崎藩主)の花押(かおう)入りの念書をたしかめると、あらためて微笑し、
「落水村のおさんの息・卯作(ぼうさく 6歳)の件でございますが---」
卯作(うさく)とばかりおもっていたが、(ぼうさく)と読みますのか」
「たぶん、卯月(うづき 陰暦4月)に生まれたのでしょう。届け名は(ぼうさく)となっております」

「父親は---?」
「父(てて)なし児との届けが、和州・宇治の郷役(さとやく)から---」

「松蓮寺へくだってきておる大和尚・竺川(ちくせん 40歳)が父親とは記されておらぬと---」
「めっそうもない。真宗とちがって黄檗(おうばく)宗の比丘(びく 僧)が子を生ませて安穏ですむ道理はありませぬ」

(それがあるのだなあ。わが長谷川家には、比丘尼に子を産ませた者がおる)

参照】2011年08月20日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] ( ) () () () () () () () (

(いや、ここで辰蔵(たつぞう 16歳)をひきあいにするのは卑怯だ。男とおんな---なにかのきっかけがあり、世間の目から隠すことができさえすれば、抱きあうのに手間はかからないのだから、きれいな口をたたけたものではない)

銕三郎(てつさぶろう)が京都で法衣の貞妙尼(じょみょうに 25歳)に還俗(げんぞく)を示唆したのは27歳のときであった。

参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく)] () () 

(おんなの躰には、いたるところに情火の火打ち石が埋まってい、男の指や唇が触れると火花を散らしてしまう)

男もおんなも、一度発火してしまうと燃えつきるまで、仏の訓戒も効くものではない。

宇治の万福寺にいた竺川も、なにかのはずみでおという若いおなごの火打ち石を磨(す)ってしまったのであろう。

参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () (10) (11) (12

| | コメント (2)

2011.10.14

日野宿への旅(6)

翌朝。

「こないに腰がだるいの、初めて---」
野袴の尻をおしあげている平蔵(へうぞう 40歳)の耳もとに、奈々(なな 18歳)がささやいた。
「蔵(くら)さんのんが、まだ、中で動いとる感じ---」
平蔵が尻をぽんとぶつために掌を引いたりので、奈々は月魄(つきしろ)にとっつけず、やりなおした。

月魄が鼻先を開いて笑った。

奈々は、上衣は府中宿の古手屋で求めた地味な色合いの男ものの袷(あわせ)に、深めの編み笠だし、口とりの幸吉(こうきち 20歳)も武家の馬丁ふうをやめ、駅馬の馬子のよそおいにさせたのは、平蔵の勘ばたらきによった。
(まあ、昼間の道中だから、大事ないとはおもうが---)

香具師(やし)の元締、新宿・〔花園(はなぞの〕の肥田飛(ひだとび 45歳)と〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 57歳)には、昨日の夕刻前に問屋場で速飛脚を立て、きょうの奈々の江府帰りのおおよその時刻を報らせ、それとない警護を依頼しておいた。

江戸の元締衆とは〔化粧(けわい)指南読みうり〕のお披露目(広告)枠のあつかいと、火盗改メからの夜廻りの手札の下賜のことでこの10年間、持ちもたれつの関係がつづいている。

参照】2010年6月3日[火盗改メ・菅沼藤十郎貞亨(さだゆき)] (

幸吉には、100文(4000円)ずつひねった紙包みを10ヶもたせ、あいさつしてきた〔花園〕と〔音羽〕の若い衆に、
長谷川の殿が元締によろしくとのこと---」
いいながらにぎらせろ、と指導し、別に1分(ぶ  4万円)を、
「帰ったら、黒船橋たもとの櫓下(やぐらした)ででも遊んでこい。屋敷の者たちにはいうでないぞ」
じつは、昨夜も府中の岡場所へいかせたのだが---。

奈々には、昼飯代と秣(まぐさ)代といい、2分(8万円)わたして見送った。
(旅籠や古手屋などに〆て3両がとこ消えたな。あと5日がうちにしとげないと---。だが、奈々にはいい体験になったろう。これからも〔季四〕の女将としての貫禄をつけてやらねば---)


_360
(府中宿=赤○から甲州路(赤線)を多摩川(水色)の渡しへ。
日野津(舟着き)から本陣=赤○。あと高幡不動(緑○)と百草村(赤○)


多摩川の渡しでは、武家は平蔵主従だけであったから、舟客たちが席をゆずってくれた。
川幅は季節によって伸縮するが春先は20間(36m)ほどてあったから、あっというまに日野側に着いた。

326nc_300
日野津 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


舟を降り、日野の宿場へ入り、中宿(なかしゅく)の道ぞいに門構えをしている本陣{佐藤〕茂右衛門方へ入った。
府中宿から日野宿へは、3里(12km)であった。

江戸からのに追いうちをかけるように、昨日も府中宿の問屋場を通し、一日遅れることを報らせておいたから、江川太郎左衛門英征(ひでゆき 46歳 150俵)代官のところの手代の若松三平(さんぺい 22歳)が待っていた。

鼻下に髭ををたくわえているのは、まるい童顔にいくらかでも威厳をつけるためであろうが、在(ざい)の者たちは陰で「猫よがり」と呼んでいた。
猫の毛並みを梳(す)く刷毛のことである。
当人が酔ったときに、
「おんながよがる」
と自慢したらしい。
猫とは、いかがわしいところのおんなの意でもある。

ちょうど昼餉(ひるげ)どきでもあったし、相伴させがてら、話を聴いた。
男児の行方がしれなくなってからいく日か経つが、いまだに手がかりは見つかっていない。
浅川が合流している多摩川も下流の調布のほうまで舟をだして調べたが、遺骸はあがらなかった。

「浅川に落ちたという証拠でもあるのかね?」
「それはありませんが、万が一ということで---」
「ひとつ、訊かせてもらう---」
「はい---」
「その男の子は、草履の鼻緒を切らしたから、子守りが新しいのを取りに雇い主の家へ戻ったということであったな?」
「さようございます」
「鼻緒の切れた草履は、男の子が独りで待っていた場にあったのかな?」
「あっ---いえ、そのことは、調べておりません」

「子守りの名前、年齢、家の生計(たつき)むきと家の者のことも書いてない」
「は、申しわけありません。お寺社(奉行)へまわされるとは気がつかなかったもので---名はお鈴(すず)、齢はたしか、11---」

男の子の母親のことを訊くと、口をにごした。
「われは寺社奉行どのの名代(みょうだい)として出向いてきておる。松蓮寺の大和尚のこれ---と聴きおよんでおるが---」
小指をたてた。

竺山(ちくさん)大和尚(40歳)がこちらへくだってみえたときに隠してお連れになり、落川(おちかわ)村にお囲いになったお(そめ 26歳)の子です」


大和尚・竺山とお染めには明日、逢うことにし、午後は金剛寺・高幡不動へ詣でたり、あたりの地形を観てまわりたいというと、不動尊は松連寺への道筋の途中だから、案内がてら、いっしょを申し出た。

中宿(なかしゅく)の本陣から百草(もぐさ)村へはほぼ1里(4km)---高幡不動尊はちょうどその真ん中あたりの丘の中腹にあった。

327_360
高幡不動堂 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


不動尊は、山岳神を仏教がとりいれたとされている。
身から火焔をだして:穢れや障りを焼きはらい、右手に利剣、左手に羂索(:けんじゃく)を持した憤怒の形相で魔敵に対している。

ここの、高さ1丈(180cm)の不動明王の坐像は、450年前の修復時に、高幡高麗一族の助力があったとしり、
「昨日、ちょっと足をのばして奈々にも見せてやるんだった」
悔やんだのに供の松造(よしぞう 33歳)が、
「初夏の鮎料理の時にお連れになればよいではありませんか」
慰めた。
「そのときは、お(くめ 43歳)もお(つう 18歳)もいっしょにな」
「殿.。おやおは、奥方さま(33歳)や於(はつ 13歳)さま、於(きよ 10歳)さまとごいっしょのときに---」
の齢では、不動尊のありがたみはまだ理解できまい)

奈々は、百済からの帰化の人たちの後裔で高麗族ではないが、同じ半島の渡来人が開いた土地としれば、誇りにおもったであろう。


参考】日野市観光協会 高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊


参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () (10) (11) (12


| | コメント (2)

2011.10.13

日野宿への旅(5)

「ご亭主。もう一泊、お願いできようかな---?」
平蔵(へいぞう 40歳)のその声に、奈々(なな 18歳)は頬を染めて悦んだ。
朝までの同衾が、おんなにとってあれほど安堵・昂揚してできるのだということを、初めて体験したからであった。

さらに、早暁にも満たされ、一刻(2時間)ほども愉悦のままでまどろんだ。


武蔵国総社と称するだけあり、府中の旧駅路の左にひろがる六社明神社(現・大国魂神社)の境内は広大であった。

【strong>ちゅうすけ注】火盗改を拝命してからの平蔵は、聖典・文庫巻8[あきらめきれずに]で岸井左馬之助とともに参詣している。境内の様相は、聖典にゆずる。

311
六所明神社境内 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


大鳥居をくぐったとたんに興奮したのは、月魄(つきしろ)であった。
呼びかけるように幾声も嘶(いなな)いた。

奈々。馬上のまま拝殿まですすむことを許されておるのはお上だけだ。降りなさい」

幸吉(こうきち 20歳)へ命じた。
「ニノ鳥居をくぐったら、東の森の先で月魄に草を食(は)まさせよ。そこはかつて細馬(ほそば)といい、馬市がたっていた馬場だ。月魄は鼻が鋭いから、たくさんの仲間が残していった匂いに気づいたのだ。その馬市は開府とともに浅草・藪の内と麻布十番へ移った」

「細馬て、痩せた馬ばかりやったん?」
「そうではなく、細い馬場であったための呼び名だ。西の森の馬場が欠馬(かけば)といわれていたのは、じつは駆馬に当て字したのだ」

奈々がうっとりと平蔵を瞶(みつめ)ていた。
(ゆうべと朝と3度も頂上へのぼらせてくれはった同じ人とはおもわれへんほど、ようしってはる。どないな頭、してはるん?」


府中宿から甲州道中にしたがって北行して多摩川ぺりに出た。

323_360
多磨川 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


西の空に富士が大きくそびえていた。
「江戸のんと違うて、仰ぎ見るよう---」
馬上で奈々が感嘆を発した。
月魄も賢い頭へたたきこむかのように大きな目で凝視していた。

名所図会』の富士は新暦の5月末あたりの姿だ。
1月末(旧暦)の富士は、八合目あたりまで雪を被っていた。
(あの時にはまだ会ったこともなかった〔中畑(なかばたけ)のお(りょう)を捜しに甲州路をくだった17年前に、ここで見た富士は五合目まで雪がのこっていたな。いや、富士というと、おれにはおんながかかわってくる)

参照】2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (23) (25) (29) (33) (38


平蔵は苦笑しながら、
奈々。次に2人してここで富士を仰ぐときには、鮎料理を食べていよう」
「きっと、ね」

325_360
玉川鮎漁 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


多摩川から近い柴崎村の普済(ふさい)禅寺では、六面塔の石幢を拝んだ。

320_360
普済寺  『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


321_360
(同寺の六面碑 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


「400年も前に建立・奉納されたものだ」
奈々の齢の22ヶ---信じられへん」

高さ160cmほどの石碑に、口を開いている金剛力士と口を閉じている密迹執(みっしゃくしふ)金剛のニ王、それに四天王を彫り、六面に組み立てたものである。
「金剛さんて、恐いお顔してやけど、ありがたそう」
「そうだ、あのお顔で悪魔を脅しつけておられる」

「うちは、(くら)さんに躰もこころも守られとる」
「守られているうちに、賢うならぬとな」
「あい」


参考】府中市観光協会 大国魂神社

普済寺


参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () (10) (11) (12

| | コメント (2)

2011.10.12

日野宿への旅(4)

たずさえてきていた腰丈の桜色の閨衣(,ねやぎ)に着替える前に、
「月魄(つきしろ)に、お寝(やす)み、ゆうてこよ」
奈々(なな 18歳)はしばらく戻ってこなかった。

薄桃色に顔を上気させて部屋へ入ってきた。
「月魄に、乳でもしゃぶらせていたのか?」
「ううん。顔をすりつけて放してくれへんかってん。明日もいっしょやて、なんべんもゆうてきかせ、やっと戻ってこれたん」

閨衣の胸を大きくひらき、右膝を立ててすわり、
(くら)さんと、朝までいっしょがほんまになって、夢みたいや」

「乳のふくらみが大きくなったようだな」
さんのもみもみがうまいよって---大きゅうなってん、うちにも、わかるん。掌におさまりきらへんもん」
腰を移し、もたれかかると、平蔵(へいぞう 40歳)が肩を抱き、掌を乳房にかぶせ、指のあいだに乳頭をはさみ、微妙にうごかす。

「きょう、月魄の上でずっと膝をしめてたん。奈保(なお 22歳)はんもすすめくれてたし---」
奈保どのに話したのか?」

奈保は同じ紀州の貴志村の出身で、いまは医師の多紀安紀元簡(もとやす 31歳)の内室におさまり、子を育てている。

「うん。(やす)先生も、ええかも、ゆうてくれはったと---」
「おいおい、閨(ねや)ごとを外に洩らしてはならぬ」
「おんな同士やと、おっぴろげぇ」
(や)っさんは男だ。顔があわせられなくなる」
2人きりのときは、紀州弁になったが、それを可愛ゆくおもうようにもなってきている平蔵であった。

「膝じめの効きめ、試す---?」
奈々のは、使いはじめたばかりだから---試すまでもなく---」
「使いすぎると、ゆるむん?」
「いや、おんなは感度があがる」
「あげてぇ---」


満足しきって熟睡している奈々が、下腹へあてている手をそっとはずし、行灯の灯元へ座った平蔵が、寺社奉行から渡された留め書きを読みかえしはじめた。

府中から3里半(14kkm)ほど北西の百草(もぐさ)村にある慈岳山(じがくさん)松蓮(しょうれん)禅寺の高僧の縁女の男児(6歳)が、近くの淺川のほとりで姿を消した。
草履の鼻緒を切らした男児に、子守りが新しい草履を家へとりに戻ったあいだことであった。
村中をさがしたが見つからず、怪しい人影を見かけた者も名乗りでていない。
(かかわりあいを避けているのだ)

川さがしもしたが、淺川にはそれらしい遺体はなかった。
多摩川べりの村々へは探索状をくばった。

(ところで、松蓮禅寺の高僧というのが、この宿の亭主のいったいた、和州・宇治にある黄檗(おうばく)宗の総本山・万福寺からきた大和尚だとすると、なぜ、飛ばされたのか?)


参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () (10) (11) (12

| | コメント (4)

2011.10.11

日野宿への旅(3)

奈々(なな 18歳)に会った月魄(つきしろ)の悦びようといったらなかった。
鼻づらをすりよせ、ぐいぐい押し、奈々が押し返したほどであった。

街中は、なるべく商舗の多い通りをえらんだが、それでも登城中の武士に会いそうであったから、平蔵(へいぞう 40歳)が20歩ほど先を歩いた。
奈々も口とりの幸吉(こうきち 20歳)も月魄(つきしろ)も、江戸の地理にまだ不案内であったから、先行させられなかった。

320
(内藤新宿 広重『江戸名所百景)

内藤新宿でお茶にした時、奈々が打ちあけた。
「月魄はごつう、もてとる。向うから馬できぃはるお侍はんのんが牝やったら、行きすぎてからも月魄をふりかえってはりましたえ」
奈々をふりかえっておったのとちがうか?」
「あほらし。なして、牝馬が編笠のうちをふりかえりますん」

290_360
内藤新宿 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

内藤新宿をすぎると、人目を気にすることなく並んであゆんだ。

からす7山をすぎる時、平蔵は何気ないふりで供の松造(よしぞう 34歳)の表情をうかがったが、変化はなかった。
(家士ぶりがすっかり板についたな)

参照】2008年9月19日[大橋家の息女・久栄(ひさえ) (

深大寺(じんだいじ)へ参詣し、蕎麦を馳走になり、「深大寺元三大師道」とある石標の甲州路へ戻ると、月魄が立ちどまり、じっと石標に見入った。
記憶にとどめているのであろう。
(賢い馬だ)
あらためて、感じいった。

江戸から7里(28m)の府中の旅籠〔中屋〕平兵衛方へ入ったのは明かるいうちだったが、六所明神社の参詣は明日ということにし、そのまま湯をあびることにした。

310
府中 称名寺ほか 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


宿は気をきかせて湯つきの離れを用意してくれていたが、平蔵奈々の齢が離れすぎていたので父娘と勘違いし、
「お部屋をお替えしたほうがよろしいでしょうか?」
「かめへん」
奈々がすばやくひねりをにぎらせた。

苦笑した平蔵が、
「食事どきに、ご亭主に顔を見せてほしいと伝えてくれ」

湯は2人で浸かった。
「底が抜けると、おもろいのに---」

そっと抱きあったせいもあったかしても、奈々のおもわくどおりにはならなかった。

女中のおもい違いを陳謝する態(てい)で顔をだした亭主に、
「百草(もぐさ)村の松蓮寺の世評を聴かれせてほしい」

1年前に和州・宇治の総本山・万福寺からくだってみえた大和尚どのは、黄檗宗ではたいした位のお坊さまで、
松連寺などにはもったいないらしい、としか話せなかった。

「それより次は、5月5日の六所明神さんの夜祭りにお揃いでいらしてくださるなら、いまからお手づけおきくださいませ」
商いをわすれなかった。

312
(六所明神・夜祭の右 『名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

312_2
(同上の左 『江戸名所図会』)


参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () (href="post-2c07.html">2) () () () () () () (10) (11) (12


| | コメント (2)

2011.10.10

日野宿への旅(2)

奈々は、おととしの初夏に紀州からきたきり、どこも見ないで働きづめであった。われが甲州路の府中宿・芝崎村の普済寺の六面塔に招待する」
「わあ。深大寺のお蕎麦も食べる?」

304
深大寺蕎麦 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


参照】2008年9月8日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] (

平蔵(へいぞう 40歳)は、妻・久栄(ひさえ 33歳)との出会いが深大寺であったことを思いだし、ちくりと心がとがめたが、ここは奈々(なな 18歳)に報いておくべきだと考えなおし、
「食べよう。そのあと、府中に一泊する」
「夜じゅう、いっしょに眠るの?」
「そうだ」

里貴(りき 逝年40歳)も、中山道・蕨宿での2泊をことのほか満喫した。

参照】2011年3月9日~[与板への旅] (4) ) (18

(いや、お(りょう 享年33歳)さえも、掛川から相良への泊まりがけの山あいの旅を一生の思い出になると喜んだ。おんなはひと晩の同衾でこころが寛(くつろ)ぐものらしい)

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

「裸馬を乗りこなすのはまだ早いから、往還は馬丁の幸吉(こうきち 20歳)に口をとらす」
「野袴は?」
「もちろん着用。それと、帰りの道中の安全のために、男物の小袖があるといいのだが---」
「男ごしらえ、すんの?」
「剃り眉、鉄漿(おはぐろ)の青年剣士など、聞いたこともない---」
「そやね---」

そんな話をしながら帳場で待っていると、南割下水永倉町の代官・江川太郎左衛門の江戸詰所へ一件書類の写しをとりにいっていた松造(よしぞう 34歳)が戻ってきたので、
「明朝六ッ半(午前7時)に迎えくるから、今夜はたっぷりと眠っておくように---」
「うん。そやけど、蔵(くら)さんからの眠りぐすり1ヶ、欲しいとこやなあ」
「ばか。が笑っておるではないか」

明かるくなるのが早くなってきていたから、ほんとうは六ッ(午前6時)といいたかったが、おんなは外出(そとで)となると化粧(けわい)に刻(とき)をかけるから、六ッ半にゆずった。

府中の旅籠〔中屋〕平兵衛方へ、2部屋---うち1つは離れ部屋を押さえる速飛脚を、蔵前の飛脚屋から届けさせるように松造に手くばりさせ、屋敷への帰り道、ふと気づいた。

これは、単純な迷い子捜しではないのではなかろうか?


参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () () () () () () () () (10) (11) (12

| | コメント (2)

2011.10.09

日野宿への旅

「寺社(奉行)の右京亮(うきょうのすけ)侯も、いたくおすすめでな」
江戸城・西丸の少老(若年寄)の用部屋の間で、話しかけているのは井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 39歳 矢板藩主)であった。

右京亮とは、上野(こうづけ)国・高崎藩主の(大河内松平輝和(てるやす 36歳 8万2000石)である。
この時---天明5年(1785)2月初旬(旧暦)には、寺社奉行は5人いたが、偶然であろう、30代と40代前半の俊英な若手大名がそろっていた。

堀田相模守正順(まさなり 41歳 11万石 下総・佐倉藩主)
阿部備中守正倫(まさとも 40歳 10万石 備後・福山藩主)
井上河内守岑有(みねやす 32歳 6万石 遠江・浜松藩主)
(本庄)松平伯耆守資承(すけつぐ  37歳 7万石 丹後・宮津藩主)

用件は、武蔵・多摩郡(たまごおり)、甲州路の日野宿に近い百草(もぐさ)村にある松蓮寺という黄檗(おうばく)宗の大和尚の縁者の子どもが行く方(かた)しれずになったと、村役人を介して代官・江川太郎左衛門英征(ひでゆき 46歳 150俵)に届けがあった。

百草(もぐさ)村の300余石は代官所の支配地であったからである。

江川代官の府中詰め手代は伊豆・韮山の駐在している江川代官と八王子陣屋へ報じ、両者が直属の勘定奉行所へまわして指示をあおいだ。

勘定奉行所の公事(くじ)方は、訴訟ごとではないということで、寺社奉行へまわした。
役人とすれば、子ども一人のことにかかずらわってられるか、ということであったろう。

うけた寺社奉行は、黄檗宗の松蓮寺が、宇治の総本山・万福寺とつながっていることをしっているだけに、後難をおもんぱかった。
とりわけ、大和尚はさる公家の5男が仏門へはいった者とわかっていた。

月番の寺社奉行であった松平右京亮輝和が、補佐役の藩士の意見を求めたところ、
「先君・右京大夫輝高(てるたか 享年57歳)さまのおり、ご城下でおきた絹市商人宿ねらいの盗賊をみごとに追いはらった、西丸の書院番士・長谷川某へ依頼なされては---」
9年前の事件の詳細を語って聞かせた。

参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () () (

その模様を執務部屋で傍聴していた堀田相模守正順侯が、
「それは、いま、西丸で徒組の頭をしておる長谷川平蔵宣以(のぶため 40歳)という男でしてな。じつは、わが城下でも先年---」
猿使いによる犯罪を解決した一件を説明し、強くすすめた。

参照】2011年6月29日~[おまさのお産] () () () () () () () () () (10

右京亮輝和から、親しい井伊兵部少輔直明へつながったという次第。

「さいわい、ご幼君のご遊覧の予定も3月の初放鷹までないから、5日や6日、おことが留守をしても大事あるまい」
若年寄・直朗侯の言葉は、
「やってやれ。勤めのほうは、予が責任をもつ」
請けおったに等しい。

寺社奉行所が包んできた金包みは1日1両(16万円)の計算で7両(112万円)であった。
さらに5両(80万円)が、西丸・若年寄の志(こころざし)ということで別に渡された。

退出ぎわに、
長谷川うじ。日野宿から帰ってきたら、高崎侯佐倉侯とともに、深川の〔季四〕とやらで一献、やろうじゃないか」
与板侯にいわれたと奈々(なな 18歳)に告げると、
「口がおごっておいでてはる殿はんらに、おほめいただくお膳をつくらんと---」

「それは考えちがいだとおもうぞ。口がおごっているから、かえって素朴な料理がめずらしがられよう。どうだろう、紀州の貴志村に伝わっている百済風の家庭料理は---?」
多紀先生のところの奈保(なお 22)さんの知恵をかりよっと。貴志村からきてる包丁人見習いの百介(ももすけ 21歳)の出番やわぁ」

参照】2010130~[貴志氏] () () (

里貴(りき 逝年40歳)や奈々奈保が貴志村は、百済から集団移住してきた人たちが、故郷の生活やしきたりをかたくなに伝えていた不思議な村落であった。
里貴は、貴志村から3,年前に頼まれて百介を板場へ入れていた。

奈々。先だってえらんでおくようにいっておいた、座敷女中の頭(かしら)と頭並(なみ)は決まったか?」
「うん---あい。貴志村からきたお(なつ 20歳)を頭、信州むすめのお(ふゆ 21歳)を並にしたん」

参照】2011,年8月15日[蓮華院の月輪尼(がちりんに)] (

「みんな、納得したんだな?」
「あい。でも、なんでぇ?」

「明日から、2日間、奈々は月魄(つきしろ)と旅にでる」
「え? ほんと? (くら)さんもいっしょよね?」


_360
2_360
(月番寺社奉行 松平右京亮輝和(てるやす)の個人譜)


参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] () ) () () () () () () () (10) (11) (12


| | コメント (0)

2011.10.08

柄(つか)巻き師・飯野吾平

「殿。飯野と申す老爺(ろうや)が、先刻より門番部屋でお帰りをお待ちしておりますが---」
松浦用人が自分の齢は棚にあげて、客を老爺呼ばわりした。
門番部屋で待せたということはそれだけ見すぼらしい容姿(なり)だが、つねづね平蔵(へいぞう 40歳)から、服装で人を判別してはならぬといわれていたからであった。

飯野---? こころあたりがないが---」
「息が徒(かち)組の隊士とか、申しております」
「おお、飯野六平太(32歳)の父ごであろう」

徒士・飯野六平太のことは、

参照】2011年9月30日~[西丸・徒(かち)3の組 ] () () (

恐縮する吾平(ごへえ 57歳)を、菊川橋たもとの酒亭〔ひさご〕へ連れだした。

なにかいいたそうなのを、
「ま、一杯呑(や)ってから相談ごとを聴こうじゃないか。われも、窮屈な柳営での鬱積を酒でながしたい」
酌をしてやり、
「あとは、自分勝手に、な」

2,3杯すすってから、吾平が懐からとりだしたのは、太刀の柄(つか)であった。

「ご存じでしょうが、これは、竹の節(ふし)巻きと申す、いささか変わった柄巻きでございます」
「いや、初めて拝ましてもらった」
「糸師の中村家が、絹糸を何10本も松脂で固め、ひと節ずつ餅糊(もちのり)で貼りつけております」

「そういえば、ご子息の書き上げ状に、父ごどのは柄巻きの熟練と書かれてあったな」
「この柄巻きの長所は、掌が汗ばんでも、滑らないところです」
「ふむ。斬りあいが長引いても、遅れをとることがないというわけだ」

A_360
(柄巻き師 『風俗画報』 塗り絵師:ちゅうすけ)


吾平によると、太刀の柄の糸巻きは、装飾でもあるが、じつは汗による滑りどめという実用もかねておる。
だから、柄巻きの良否を見分けるには、むかしは濡れ手拭いを巻き、型くずれするか否かで試したものだと。

泰平の世がつづき、太刀で斬りあうことがほとんどなくなったため、柄巻き技量もあまり話題にならなくなり、それにつれて仕事も減ったので、老妻の薬料の支払いにもこと欠きがちで、つい、借財がふくれてしまった。

「このたびの長谷川さまのお蔭で、わが家にも笑いが戻りました。この柄を感謝の一端としてお収めいただければありがとうございます」
深ぶかと頭をさげられた。

「いや、今夕は、はからずもよい話を聴かせてもらい、勉強になった。お礼をいわねばならぬのは、われのほう。このような貴重なものをいただく筋あいはないから、お収めあれ」

押しあいのすえ、けっきょく、受け取ることとなった。

いつ、柄巻きの修行をしたかと訊くと、なんと、若い時分に3年ほど京都の二条城の衛士として駐在した時、職務のあいまをみて佐伯流の師についたといわれ、
「われは京師では、おんな修行ばかりであった。恥ずかしい---」


| | コメント (2)

2011.10.07

奈々(なな)と月魄(つきしろ) (4)

仙台堀が大川へつながるところに架かっている上(かみ)ノ橋から大川ぞいに永代橋東詰までは、佐賀町を4丁(430m)ほどだが、あたりの子どもたちが10人も月魄(つきしろ) の後ろをつけ、がやがや騒いだから、月魄はよけいに気張った。

奈々も武家の妻女のように背筋を伸ばして気負ってはいたが、裸の月魄に乗るための練習のつもりで膝頭でしめつづけていたので、内股が熱くなりかけていた。

050_360
永代橋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


先夜もそうであったが、膝をしめると局部の筋肉もつられて締まる感じをうけた。
いつだったか、躋寿館(せいじゅかん)の多紀安長元簡(もとやす 31歳)若先生の妻で、鉄漿親(おはぐろおや)の奈保(なほ 22歳)が、若先生仕込みの〔好女(こうじょ)〕---いわゆる床上手(とこじょうず)なおんなに変わるには締まりをよくすることもその一つ---とすすめてくれた秘法とはちがうが、
(うちは、月魄仕込みでいけそう)

参照】2010年12月22日~[医師・多紀(たき)元簡(もとやす)] () (
2011年9月5日~[平蔵、西丸徒頭に昇進] (4) (5)

しかし、いますぐ、(くら)さんに抱かれたくなったのには困った。
奈々の思いが月魄に伝わったらしく、永代橋の手前であゆみを止め、考えこんでしまった。
(この馬(こ)は、勘がよすぎぃ)

「あんたの裸の脊にまたがって、肌と肌をじかに触れあわせたいん」
口にだして首をたたいてやると、わかったらしくて一声嘶(いなな)いた。
が、奈々の野袴の裾からもれてくる性器の匂いに首をかしげてもいた。
(この馬(こ)は、騙(だま)せへん)

平蔵たちが追いついた。
奈々。永代橋西詰すぐの左手、豊海(とよみ)橋をわたった、新川ぞいの〔池田屋〕だ」
「あい」

屋号からも察しがつくとおり、南新堀2丁目の〔池田屋〕利右衛門方は、上方・伊丹の下り酒問屋で、茶寮{季四〕の仕入れ先であった。

霊厳島を堀割った新川の両岸には下り酒問屋が軒をつらねた、堀まで酒の匂いを立ちのほらせている。

賑わう店頭で平蔵奈々をみとめた手代から、用意の伊丹村の銘酒〔富貴嵐〕の角樽(つのだる)を受け取り、松造へ手渡す。

048
新川酒問屋 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)


「女将さんがお乗りで---?」
門口まで見送りにでた手代のお愛想は、まわりの客たちへの見得もあったろう。

「この馬(こ)に、乗せてもらっとるん」
月魄は前足で土をかいて喜びを表現した。

多くの目があるので、奈々の尻を押しあげるわけにはいかない。
奈々に片足を鐙(あぶみ)にかけさせ、のこりの足を掌で押しあげた。


[奈々と月魄(つきしろ)] () () (


| | コメント (0)

2011.10.06

奈々(なな)と月魄(つきしろ) (3)

天明5年(1785)1月29日の『徳川実紀』に、こんな記述がある。

---宿老 松平周防守康福。田沼主殿頭意次におのおの一万石を増封ありて、康福は六万四百石となり、意次は五万七千石となる。老中格水野出羽守加判の列に加えられ、昵近故のごとく国用のこと奉るべしと命ぜられ、五千石加えられて三万石となり、御側稲葉越前守正明に三千石加恩たまひ、一万三千石となる。

加増の理由は明らかにされていない。

松井松平康福(やすよし 67歳 岩見・浜田領主)の次女は故・田沼山城守意知(おきとも 享年36歳)の正室だが、婚して10数年、子をなしていなかった。
意知は遺児に4男2女がいたが、腹はすべて某氏(武家の子女以外)であった。

康福の『寛政譜』は、この時の加増を、

多年の勤労を賞せられ、石見国鹿足(しかのあし)、美濃、那賀(なか)、邑地(おほち)、三河国幡豆(はづ)、伊豆国加茂(かも)、君沢(くんたく)七郡kの内におひて一万石を加増せらる。

多年の勤労---と記しているが、老職就任は明和元年(1764)5月1日だから足かけ22年の在職ということだ。

田沼意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)の『寛政譜』は理由なしで、

河内国河内(かわち)、若江(わかえ)、三河国宝飯、遠江国榛原、城東五郡のうちにおいて一万石の加増あり。

水野出羽守忠友(ただとも 55歳 沼津藩主)]の『寛政譜』は、田沼意次の四男(忠徳 ただのり)を養子に迎えてむすめを室に配したが、意次の失脚後に離縁している。
理由はつまびらかにしていない。

老職に補せられ、なを国用の出納を掌り、且奥の務をかね、五千石を加えられ、駿河国駿東、富士、三河国碧海、幡豆、伊豆国加茂(かも)、君沢、田方(たがた)七郡のうちにをいてすべて三万石を領し、沼津に住す。

稲葉正明(まさあきら 63歳)の『寛政譜』は、

安房国長狭、平、朝夷(あさい)、安房、上総国長柄五郡にをいて三千石を加封せらる。
(六年八月ニ十七日御旨にたがふ事あるにより務をゆるされ所領の地三千石)を刪られ---)

読むかぎり、このときの加増は、意次のお手盛りの感がつよい。
妬みと反感を買ったろう。


しかし、そのことと、賀辞とはかかわりない。

平蔵(へいぞう 40歳)は非番の日の八ッ(午後2時)、松造(よしぞう 34)を供に、月魄(つきしろ) にまたがって屋敷をでた。

横川ぞいに南へ向かい、小名木(おなぎ)川に架かる新高橋(しんたかばし)をわたったころには、水の匂いで察したか、記憶力がすぐれている月魄は早くも行く先を明察し、喉声を鳴らして悦びはじめた。

前に奈々(なな 18歳)を乗せるために往復したのは夜だったのに、一度でちゃんと覚えこんでいたのである。

亀久橋をわたるころには、常足(なみあし)運びがもどかしげであった。

〔季四〕は初めててあったのに、表に奈々が野袴姿で立っていると、自分から速足(はやあし)に変え、奈々の腕に鼻を押しつけた。
奈々がその鼻面(はなづら)をなぜてやると、喉声の嘶(いなな)きはまるで恋人に甘えているようであった。

奈々は、田沼意次の小間使・於佳慈(かじ 34歳)あての、深川・佐賀町の銘菓子舗〔船橋屋織江〕の羊羹を包んだ風呂敷を松造に手渡した。

乗り手が代った。
奈々が手綱をとった。
口をとろうとする松造の手を、首を大きくふって拒んだ。
松造、2人にまかせておけ」

それみろ、といわんばかりに月魄が嘶き、
奈々。仙台堀ぞいに海辺橋、上(かみ)ノ橋の南詰で待っておれ」
「月魄、聞いた? こないだの橋のとこ」
奈々にうなずき、勝手に歩きはじめた。
(すごい記憶力!)
奈々が感心しているのが通じたらしく、足並みは自信満々であった。

行きかう人たちが、馬上の主がおんなとわかり、珍しげに注目すると、月魄はなおさら得意然とした足取りになり、しかも、いたずら男がいたら蹴飛ばすぞ、といった気風もみせた。


[奈々と月魄(つきしろ)] () () (


| | コメント (0)

2011.10.05

奈々(なな)と月魄(つきしろ) (2)

奈々(なな 18歳)。鞍なしの裸の月魄(つきしろ)を乗りこなすには、済ましておかねばならぬことが、2つある」
「あい」
2人はことを終え、満ちたり、仰臥し、憩(やす)んでいる。

「裸馬を乗りこなすのは、男を乗りこなすより難しい」
両足をささえる鐙(あぶみ)がないからである。
そのためには、両膝で月魄の腹を、長時間しめつける練習をする必要がある。

奈々平蔵(へいぞう 40歳の腹にまたがり、膝をしめつけた。
脇腹と奈々の膝とのあいだに肘をはさみ、押し返した。
奈々はしめつけようとするが、平蔵の腕の力が強かった。

しばらく膝と肘でもみあっているうちに、奈々
「あゝ------」
力をぬいてうつぶせてきた。

「どうした? 案外、疲れるものだろう?」
「ううん。そうじゃなく、よくなってきちゃったん」
「なに---?」
手をあてると、濡れていた。

「これじゃあ、月魄を昂(たかぶ)らせてしまうな」
月魄ではなく、平蔵のほうが興奮してきていた。
奈々が腰をうかせ、そっと下へ移し、導いた。


「裸の月魄を乗りこなす時には、やはり、月輪(がちりん 25歳)の尼どののように、下帯をつけるんだな」
「そやけど真ん中に寄って紙縒(こより)になってもうて、あてとる意味がのうなりそうやん。男はんとちがうて、うちらには包んどくもんがあらへんよって」

たしかに。縒(よれ)たら、こまるでろう。
しかし、平蔵は別の幸せ感にひたっていた。
月魄を浅草の三歳馬市で目にしたときから、自分にというか、自分なわりにいいものをもたらしてくれそうな予感がしていたが、奈々に親密---というか、 こころを許しあった友たちになってくれそうなことがその一つであった。
奈々は紀州の貴志村からき、里貴(りき 逝年40歳)が逝ってから独りでやってきた。

奈々。裸の月魄に乗るために済ましておくことの2つ目---」
「あい---」
2度目の満ち潮に酔っている奈々がうっすらと応えた。

「4人いる座敷女中のむすめたちの中から、奈々の代理がつとまる女中頭(がしら)をえらぶこと。もし、紀州からきているむすめからえらんだら、女中頭の助(すけ)は信州・佐久のむすめから決める。そして、のこった2人を寮長、寮長助にすえること」
「いそぎますのん?」
奈々が、昼間に月魄で遠出をしてもいいようにするためだ」
「あ、それなら、明日にでも---」


[奈々と月魄(つきしろ)] () () (

| | コメント (2)

2011.10.04

奈々(なな)と月魄(つきしろ)

月魄(つきしろ) のこと、気にいったらしいな」

月魄を三ノ橋通りの屋敷の厩舎へ戻し、出ようすると、月魄(つきしろ)が落ち着かなくなった。
首をたたいてやりながら、
奈々には、また会わせてやる。奈々もおぬしのこと、好きらしい」
家の者たちの耳に入らないように、ゆっくりした低い口調で2度、3度ささやくと、落ち着いた。

そうしてから、奈々(なな 18歳)の家へ引き返してきたのであった。

腰丈の桜色の閨衣(ねやい)で、独り酒をしていた。
「うちが月魄のおちんちんを舐めたよって、怒ってしまったとおもったん」
月魄を,寝舎へ入れてきた。奈々の傍(そば)へきたがっていたが、また今度と---ようやく納得させた」
「お利口さんの月魄奈々も負けんと賢くならんと、(くら)さんに棄てられる」
里貴(りき 逝年40歳)が(てつ)さま、ときに(へい)さまと呼んでいたのをはばかり、さんにしていた。

立てていた右膝をおろし、太腿をひらいた。
閨(ねや)へ移ろうという合図であった。


月輪尼(がちりんに)が法衣の下に男ものの下帯をつけて乗っていると話すと、
「鞍をつけへん裸の月魄の脊に、野袴も下帯もなしでまたがってみたい」
奈々がとんでもないことをいいだした。

参照】2011年9月25日[駿馬・月魄(つきしろ)] (1)

内股に触れ、
「ここから月魄を感じ、肌と肌で会話を交わすのはいいとして、駆足になると、風で裾がめれてここもお尻も人目にさらすことになるぞ」

「そこは考えてる。膝丈の上着に、どでかい風呂敷のような布で腰から下を覆うの」
「その布の臍の下にあたるあたりを、下方から半分ほど割(さ)いておかないと風でめくりかえる」
「後ろは布の重ね目が開くよって、月魄の脊なりに割れ、お尻丸見えにはならへん」

他愛もない会話をつづけているうちに、奈々が足を股ぐらへさしこんできた。

(どうも、本気でそうしたがっているようだ。尼どのも月魄の賢さをほめてはいるが、奈々のは、情をかよわせあう仲だ)

さんの茂み、月魄の背中の毛並みみたい」
絹糸がかすかにしか生えていない柔らかな丘部をすりつけてきた。
(われを馬並みにおもっている!)
その無邪気ぶりが、年甲斐もなく可愛いかった


[奈々と月魄(つきしろ)] () () (

| | コメント (0)

2011.10.03

西丸・徒(かち)3の組(5)

「お奉行になにを頼むのかな」
平蔵(へいぞう 40歳)には、〔東金(とうがね)屋〕清兵衛(せえべえ 40歳前)の心中は察しがついていたが、当人の口からいわせたかった。

「〔伊勢屋〕さんにもう一度、念を入れてみて、効きめがなかったら、お奉行所の手で証文をお調べいただきたいのです」
「あいわかった。その節は、遠慮なく声をかけてほしい」

けっきょく、山村信濃守良旺(たかあきら 46歳 500石 役高3000石)と面談するまでもなく、一件は落着した。
〔東金屋〕が山村信濃守の名前をちらつかせたのだ。

奉行所に根こそぎしらべられたら、〔伊勢屋〕次郎兵衛(じろべえ 48歳)の店はつぶされていたろう。

平蔵が頭(かしら)をしている西丸・徒(かち)の3の組の3人の〔伊勢屋〕への借金78両(1,248万円)は、12両(192万円)ほどに縮まった。

平蔵は黙っていたが、組のだれかが聴きつけたらしい、平蔵の株と志気はかつてないほどにあがり、全員、傍店を経由し〔東金屋〕へ蔵宿を移した。

参照】2011年9月30日~[西丸・徒(かち)3の組] () () () (

平蔵は、そのことより、もう一つのことのほうが嬉しかった。
馬の月魄(つきしろ)が、奈々(なな 18歳)に惚れてしまったらしいのである。

月魄を購(あがな)ったことを話題にした先宵、奈々は牝(めす)馬の躰位を真似た。

参照】2011年9月19日[平蔵、親ばか] (

そのあと、奈々に乗馬用の紫の野袴をつくってやった。
上の着物は、里貴(りき 逝年40歳)の地味な普段着の1枚を膝丈に仕立てなおさせた。

ある宵、平蔵が口とりを、仙台堀の北土手で、身支度をととのえた奈々に逢わせた。
「お初(はつ)さんやけど、あんじょうたのんますえ」
間のびしたような奈々の紀州弁に、なんと、月魄が鼻をすり寄せ、喉のおくから悦びの静かな喉音をもらしたのであった。
そのような歓喜ぶりを、月輪尼(がちりんに 25歳)に発露したことはなかった。
もっとも、比丘尼の京ことばには首をふって聞きいっているが---。

月輪尼も成熟した美しいおんなだが、仏に仕える身ゆえに剃髪し、白粉も紅もつけていない。
ひきかえ奈々は、仕事でもあり、頭髪油をつけ化粧もし、香ばしい匂いが躰から流れている。
馬は匂いに敏感だから、ひと嗅ぎで嬉しくなったのかもしれない。
あるいは、人間の表情を読むことに長(た)けているから、平蔵の情女(いろめ)と察し、おもねったのかも。

提灯を手にした奈々の尻を押しあげ、乗せた。
奈々が手綱をもった瞬間、月魄がとことこ駆けだした。

近所の手前、平蔵は声をあげて制止するわけにもいかず、提灯の灯を目あてにあとをつけたが見失った。
それほど月魄の脚は勇んでいた。

亀久橋の北詰で、無事を念じなら待つしかなかった。
三の橋通りの屋敷にだけは帰ってくれるなと祈ってもいた。
月魄に乗った奈々を見たら、久栄(ひさえ 33歳)が逆上しかねない。
醜態を予想し、覚悟をきめた時、灯と脚音が聞こえてきた。

月魄から降りた奈々が頬ずりし、長い首をたたくと、月魄は何度も前足を足ぶみして興奮を伝えた。
平蔵にはこれまで見せたことのない月魄のしぐさであった。

「どこまで行ってきた?」
「大川への水門のところで、この子が引き返してくれたん」

と、奈々が身をかかがめて月魄の腹の下へ入り、伸びかけている太い男根を舌で嘗(な)めた。
それは、ますます伸びた。

腹の下からでてきた奈々が月魄に話しかけた。
「受けてあげたいけど、うちには無理や。いいお嬢さんを見つけてもらい」
月魄の目の涙に月光がゆれた。

| | コメント (0)

2011.10.02

西丸・徒(かち)3の組(4)

「もう一つの、〔伊勢屋〕さんの件ですが---」
東金(とうがね)屋〕清兵衛(せえべえ 40歳前)の顔は冴えなかった。

「おう、そのこと、そのこと」
長谷川さまは、次の手で懲らしめる---とおっしゃいました」

参照】2011年9月21日~[札差・東金屋清兵衛] () () () (
2011年9月30日[西丸・徒(かち)3の組] (

「言葉のあやだがな。しかし、お上へも届けずみの組合定行事(じょうぎょうじ)・〔東金屋〕どのの申しあわせを聞いたふりをするために、われが例にあげた同輩の長野佐左衛門孝祖(たかのり 40歳 600俵)とほかの何人かの証文を書き替えただけで口をぬぐっておるのは不届き千万---」
「そう仰せですが、金利は金貸し人にとっては命の次に大事なものでして---」

「そういう〔東金屋〕どのは、利よりも大義を大事にしておられる---」
「とんでもございません。手前も商い人(あきないびと)でございます。利と信用を命の次においておりますです」

「それはそれとして、〔伊勢屋〕次郎兵衛(じろべえ 48歳)が最も大切にしているものが命であることはわかった」
長谷川さま、まさか---?」
「大事ない、案ずるな。〔伊勢屋〕が恐れているものは---?」
「それは申すまでもなく、お上---町奉行所。商人の生死をにぎっていらっしゃいます」

「お上の次には---?」
「お上、雷、火事、病い--と申します。つづきますのが、出水、旱魃、盗賊」
「盗賊---なあ」

平蔵は、久しぶりにかかわりあった5人のおんな賊---お(しず 18歳=当時)、お(りょう 29歳=当時)、お(とよ 25歳=当時)、 お(かつ 31歳=当時)、お(のぶ 36歳=当時)をおもいだしていた。
(よく、まあ、お城勤めができていることよ)

参照】【参照】 [お静という女](1) (2) (3) (4)  (5)
2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2009年7月17日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () () (10) (11
2009年8月4日~[お勝、潜入] () () () (
2009年9月3日~[〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)] () (

もし、〔伊勢屋次郎太郎の店へ忍びこみ、証文を盗んでくるとすると、策を立てるのはおとして、引きこみ役は、お? お

長谷川さま---」
清兵衛の呼びかけに平蔵はわれに返った。
「なにか---?」
「町奉行所にお知りあいはありませんか?」
「お町がどうかしたか? 火盗改メならしらぬわけ---そうだ、大物をしっておる」
「どなたでございますか?」

「南のお奉行の山村信濃守良旺(たかあきら 57歳 500石)どの---」
「すごい方とお知り合いなのですね」
「京都西町奉行だった父が病没した時、その後任として赴任してこられ、世話になった」

参照】2006年7月26日[「今大岡」とはやされたが
2006る年9月16日[町奉行・山村信濃守良旺(たかあきら)]
2009年9月24日[『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

_360
N_360
(山村信濃守良旺の個人譜)

| | コメント (2)

2011.10.01

西丸・徒(かち)3の組(3)

「最初の、長谷川さまの組の徒士衆を〔東金(とうがね)〕へおまとめいただく案ですが、在来の蔵宿が札旦那(ふだだんな)にご迷惑をかけたというような場合には許されますが、長年、さしたる手落ちもなくあつかわせていただいてきて、突然、蔵宿替えということになりますと波風が立ちましょう」
東金屋〕清兵衛(せえべえ 40歳前)が首をかしげた。

清兵衛のいい分ももっともであった。
平蔵(へいぞう 40歳)が頭(かしら)となった西丸の徒(かち)3の組衆30人の給米を全部というと、70俵×30人=2,100俵だ。
蔵米受けとりと換金するための売側(うりがわ 蔵宿)の代行手数料は100俵につき3分(12万円)と定められていた。

徒士の年俸は70俵5人扶持であることはすでに記した。
そして、5人扶持は年になおすと26俵にあたることも。

参照】2011年9月30日[西丸・徒(かち)3の組] (

廩米70俵に扶持米26俵を足すと、ほとんど100俵に近い。
徒士衆は本来なら、蔵宿に3分に少々欠ける代行手数料をはらえば、あとの売り上げ金は、自家の生活費にまわせる道理である。

しかし、道理どおりにいかないのが世の中でもある。
第一、蔵宿は正規の扱い手数料だけでやっていけない、というのは、100俵につき3分(12万円)のほとんどは蔵元の下請けをしている雑用掛りや荷運び船頭、力仕事など背負(せおい)と呼ばれる衆へ支払われるからである。

蔵元のうまみは貸し金の利息と、米の売買による差益によっていた。
それを産んでくれるのが札旦那である。
いってみると、札旦那---切米(きりまい)取りの幕臣は、金の卵を産みつづける雌鶏(めんどり)であった。

蔵宿を替えられるということは、雌鶏が逃げていくにひとしい。

「なるほど。蔵宿の妙味が失われるというわけか。ところで〔東金屋〕どのは、この家業が4代つづいてい、裏の裏にまで通じておられよう。そこで、妙手をお考えいただきたい」
心服している平蔵におだてられ、清兵衛ものった。

「こういう手があります」

蔵米の受けとり・売りさばきを組合にはいっている蔵宿がすべてをやっているわけではない。
たいした量ではないが、蔵前通りからはずれている米屋とか質屋が、落穂をついばむ鶏のように商っていた。

「そうした店を密かに何軒か手にいれております。組の徒士衆に、別かれてそれらの店へ札差し仕事を移していただきます。そのあと、時期をずらしながら〔東金屋〕へ集めます」
「さすがだ、〔東金屋〕どの!」
「手前は、新吉原で散財するかわりに、そういう店々へ金と人をばらまいてきました」


参照】2011年9月21日~[札差・東金屋清兵衛] () () () (

| | コメント (2)

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »