奈々(なな)と月魄(つきしろ) (3)
天明5年(1785)1月29日の『徳川実紀』に、こんな記述がある。
---宿老 松平周防守康福。田沼主殿頭意次におのおの一万石を増封ありて、康福は六万四百石となり、意次は五万七千石となる。老中格水野出羽守加判の列に加えられ、昵近故のごとく国用のこと奉るべしと命ぜられ、五千石加えられて三万石となり、御側稲葉越前守正明に三千石加恩たまひ、一万三千石となる。
加増の理由は明らかにされていない。
(松井)松平康福(やすよし 67歳 岩見・浜田領主)の次女は故・田沼山城守意知(おきとも 享年36歳)の正室だが、婚して10数年、子をなしていなかった。
意知は遺児に4男2女がいたが、腹はすべて某氏(武家の子女以外)であった。
康福の『寛政譜』は、この時の加増を、
多年の勤労を賞せられ、石見国鹿足(しかのあし)、美濃、那賀(なか)、邑地(おほち)、三河国幡豆(はづ)、伊豆国加茂(かも)、君沢(くんたく)七郡kの内におひて一万石を加増せらる。
多年の勤労---と記しているが、老職就任は明和元年(1764)5月1日だから足かけ22年の在職ということだ。
田沼意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)の『寛政譜』は理由なしで、
河内国河内(かわち)、若江(わかえ)、三河国宝飯、遠江国榛原、城東五郡のうちにおいて一万石の加増あり。
水野出羽守忠友(ただとも 55歳 沼津藩主)]の『寛政譜』は、田沼意次の四男(忠徳 ただのり)を養子に迎えてむすめを室に配したが、意次の失脚後に離縁している。
理由はつまびらかにしていない。
老職に補せられ、なを国用の出納を掌り、且奥の務をかね、五千石を加えられ、駿河国駿東、富士、三河国碧海、幡豆、伊豆国加茂(かも)、君沢、田方(たがた)七郡のうちにをいてすべて三万石を領し、沼津に住す。
稲葉正明(まさあきら 63歳)の『寛政譜』は、
安房国長狭、平、朝夷(あさい)、安房、上総国長柄五郡にをいて三千石を加封せらる。
(六年八月ニ十七日御旨にたがふ事あるにより務をゆるされ所領の地三千石)を刪られ---)
読むかぎり、このときの加増は、意次のお手盛りの感がつよい。
妬みと反感を買ったろう。
しかし、そのことと、賀辞とはかかわりない。
平蔵(へいぞう 40歳)は非番の日の八ッ(午後2時)、松造(よしぞう 34)を供に、月魄(つきしろ) にまたがって屋敷をでた。
横川ぞいに南へ向かい、小名木(おなぎ)川に架かる新高橋(しんたかばし)をわたったころには、水の匂いで察したか、記憶力がすぐれている月魄は早くも行く先を明察し、喉声を鳴らして悦びはじめた。
前に奈々(なな 18歳)を乗せるために往復したのは夜だったのに、一度でちゃんと覚えこんでいたのである。
亀久橋をわたるころには、常足(なみあし)運びがもどかしげであった。
〔季四〕は初めててあったのに、表に奈々が野袴姿で立っていると、自分から速足(はやあし)に変え、奈々の腕に鼻を押しつけた。
奈々がその鼻面(はなづら)をなぜてやると、喉声の嘶(いなな)きはまるで恋人に甘えているようであった。
奈々は、田沼意次の小間使・於佳慈(かじ 34歳)あての、深川・佐賀町の銘菓子舗〔船橋屋織江〕の羊羹を包んだ風呂敷を松造に手渡した。
乗り手が代った。
奈々が手綱をとった。
口をとろうとする松造の手を、首を大きくふって拒んだ。
「松造、2人にまかせておけ」
それみろ、といわんばかりに月魄が嘶き、
「奈々。仙台堀ぞいに海辺橋、上(かみ)ノ橋の南詰で待っておれ」
「月魄、聞いた? こないだの橋のとこ」
奈々にうなずき、勝手に歩きはじめた。
(すごい記憶力!)
奈々が感心しているのが通じたらしく、足並みは自信満々であった。
行きかう人たちが、馬上の主がおんなとわかり、珍しげに注目すると、月魄はなおさら得意然とした足取りになり、しかも、いたずら男がいたら蹴飛ばすぞ、といった気風もみせた。
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